『愛のコリーダ2000』 大島渚(監督) /

他人をまきこむ、猥褻な美意識。


日本初のハードコア作品のノーカット版(日本での上映ではボカシあり)。1976年のカンヌ映画祭を皮切りに、世界に反響を巻き起こした。

阿部定事件の映画化なのだから、実話を超える説得力ある描写を期待した。だが、2001年に私が見た「愛のコリーダ2000」には、そこまでのパワーが感じられなかった。愛する男を殺して大切な部分を切り取ってしまうという狂気に至る凄まじさが「実話以下」といった感じなのだ。当時、ハードコア撮影を敢行したのは、確かに大変なことだったと思うが、それは「1976年におけるラディカルな形式」に過ぎない。パゾリーニは1975年に「ソドムの市」を撮った後、スキャンダラスな死をとげたが、あの映画のもつ本質的なラディカルさと比べると、「愛のコリーダ2000」は、時代を超える生彩を欠いているような気がする。

女は男によって狂い、欲望をエスカレートさせる怖い存在....この映画における定は、そんな古典的観念の枠内にとどまっている。定を演じた松田英子のセリフまわしや演技からは、物語を逸脱する魅力の広がりが感じられないのだ。一方、吉蔵(藤竜也)の演技には現代に通じる普遍性があり、彼の魅力なくしてはこの映画は語れない。女のわがままのすべてを受け入れる包容力、生き血を吸われながら痩せていく愚かさと紙一重の美学.....優しさと鈍感さを併せ持つ申し分のない「罪な男」だからこそ、女の欲望は歯止めがきかなくなったのだなと納得できる。

面白いのは、第三者が二人のセックスを見ているシーンが多いこと。襖を開けた芸者と二人がのんきに会話をかわしたり、「変態」と女中にいわれた定が全裸のまま彼女につかみかかったりもする。実際、撮影現場にはスタッフがいるわけで、二人は密室でセックスしているわけではないのだが、その辺のリアリティがうまく処理されていると思う。定と吉蔵は、目の前に人がいても平然とセックスできる「オープンな変態」なのである! 第三者の視点やセリフが、密室的な表現の嘘っぽさと気恥ずかしさを救い、大らかな笑いを生み出す。私たちは、二人の行為を安心してのぞくことができるのである。

印象的なシーンがある。二人が絡んでいる部屋を訪れる六十代の人の良さそうな芸者が「旦那、お盛んですね」などと言うのだが、吉蔵は定にけしかけられ、母親のようなその芸者とセックスする。何が何だかわかんないけど「やるしかない」っていう状況。そこにはセックスの意味なんてない。神聖とすらいえる。失禁して動かなくなった芸者を観察する二人.....こんな猥褻なシーンを奇跡的な美意識でばっちり撮っちゃうとこが、大島渚のすごさだと思う。

*1976年フランス映画
2001-03-10