『電車で殴り殺されないために』 花村萬月・大和田伸也・鬼澤慶一 / 「文芸春秋」7月号

戦闘教育が、必要なの?


理不尽な事件が多く、暗澹たる気分の時に「文芸春秋」のこんな見出しが目にとびこんだ。 「電車で殴り殺されないために ― 奴らの『狂気』は体験した者でないとわからない」。 理不尽な暴力の体験者である三人、花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一の対談である。

芸能レポーターの鬼澤氏は、昨年夏、電車の中で若者2人に「お願いをした」ところ壮絶な暴力行為を受け、今も右手中指の機能が失われ、体のあちこちが痛むという。俳優の大和田氏も若者に殴られた経験があり、水戸黄門の印籠を出すこともできずに血を流す。作家の花村氏は「被害者というより実は加害者」だったという話。何に腹がたち、どちらが先に手を出すかといった問題はきわめて微妙で、誰もが被害者にも加害者にもなりうるのだという事実を示唆する興味深い発言だ。 考え方、感じ方の尺度が異なる二人が接触し、火花が散ったなら、どちらに落ち度があるかなんて、もはや誰にも判断できないほど価値観は多様化しているのかもしれない。少なくとも、加害者を一方的に責めるのはナンセンスで、身を守ることが先決という段階に私たちは直面していると思う。

私は、夜道でいきなり男に飛びかかられ、唇を奪われたことがある。叫んだ瞬間に男は逃げたものの、後ろからタッタッタッと足音が次第に早くなり、ふりむきざまに襲われた恐怖は数年たった今も忘れない。 殺される、と思ったのだ。しばらくは、自分の背後を誰かが横切るだけで叫びそうになったし、今も足音が近づけば昼間でも心臓が音をたてる。 私に落ち度はなかったか? 服装は真冬の完全防寒体制だったし、比較的明るい道をわざわざ選んでもいた。 だが、一人で夜道を歩いていたこと自体が落ち度かもしれないし、足音が近づいた時点で即座に逃げるべきだったのかもしれない。 そもそも、そこに住んでいたことが間違いだったのかも。

この対談では、「成功したおやじ」からみた「何ももたない若者」、つまり世代間のギャップに着目しており、花村萬月氏は最後にこう結ぶ。 「これからは自分の身を守るためには、相手が銃を持っていると仮定しちゃった方が早いんじゃないか。いまの日本は共通言語をもたぬ世代間の内戦状態なんですから」。 三人は、ちやほやされているばかりで強制的な枠組みをもたない世代を憂い、彼らを軍隊のような「システム」に強制的に参加させてはどうかなどと提案している。

1968年に制作され、今年1月に日本初公開された「北緯17度」(ヨリス・イヴェンス監督・フランス映画)というドキュメンタリー映画がある。戦時下の北ヴェトナムの生活を記録したフィルムだが、ここに描かれている死と隣あわせの人々の生き生きとした暮らしぶりは驚異的。おそらく、闘うべき相手ややるべきことが明確だからだろう。今の私たちを取り巻く状況とは対照的だ。戦闘教育を受けた幼い子供たちは、小さな体で誰を守り、どこで誰と闘えばいいのかがわかっており、緊急時の祖母の助け方や武器の扱い方を饒舌に語る。 そこには何の迷いもなく甘えもない。 実際は、迷ったり甘えたりする余裕がないだけなのだろうが、そんな子供たちの姿は、痛ましいというよりは頼もしく見えた。

現代の日本において、何の前触れもなく、理不尽な暴力を目のあたりにした子供たちの未来はどうだろう。体験したことのない大人には、彼らの心を理解することなどできるはずがない。彼らは、実に大きなものを「学んでしまった」のだ。ならば、力強い未来を祈りたい。電車で殴り殺されないために、これからどうしたらいいのかは、より危機に直面しつつある子供たちのほうが、はるかによくわかるはずなのだ。
2001-06-12