『別れの夏(離婚独占手記)』 室井佑月 / 婦人公論No.1093(10/7号)

恋愛と戦争。


「4年周期説」で恋愛を分析したのは、ヘレン・E・フィッシャーだ。(「愛はなぜ終わるのか」草思社)

室井佑月と高橋源一郎の場合、同棲・結婚生活は3年で終わった。この手記を読む限りでは、室井は「大変だったのね」と共感されるだろうし、高橋は「そのくらい破綻してなきゃね」と納得されるだろう。事の顛末はこんな感じ。
・息子の病気で出張先に連絡しようとしたら、領収書や女のスリーサイズが書かれた紙が出てきた。
・某ホテルにいた彼は「よかった、バレて」といった。
・複数の女がいて、英国旅行をしたり高級温泉旅館で豪遊していた。
・月に三百万円ほど稼ぐ彼は、月末ごとに百万円近くを彼女に無心し、息子の定期預金まで解約した。
・息子の緊急入院の件で連絡したら「自分もピンチなのに、人のことかまってられるか」と電話を切った。
・離婚調停で「息子と会えなくてもいい」と言った。

一時は彼に殺意を抱くものの「あたしの人生のテーマは『永遠の愛探し』」というオチ。彼女はまた同じことを繰り返すのか?

もともと、彼の結婚が4度めで、子供も2人いることを承知の上での結婚だ。永遠の愛を手に入れるには、永遠の愛を志向する男を好きになるべきだと思うが、彼が「浮気」をやめられないように、彼女が「浮気系の男を好きになること」をやめるのも難しいだろう。

「永遠の愛がほしい」「浮気系の男が好き」、この矛盾するふたつの概念を揚棄(アウフヘーベン)するためには、浮気系の男の中にも必ずある「永遠の要素」について、ほかの誰よりも理解し、愛していればいいのではないか。そうすれば、永遠の愛という概念を捨象する必要もない。

一方、「60年周期説」で今回の戦争を予言したのは、柄谷行人だ。

「これは予言ではない」(web critique 9/16)という一文で「私は世界経済・政治の構造論的反復性について語ったにすぎない」と断った上で、柄谷行人はこう続ける。

「イスラム原理主義は、資本と国家を『否定』する革命運動であって、現在の世界資本主義の中から、そして、それに対抗する運動の無能さ・愚劣さから生まれてきたものだ。それは、第三世界の『絶望』の産物である。このような運動によって、資本と国家を揚棄することはできないことは自明である。しかし、いかに空しいものであれ、これを滅ぼすことはできない。これを生み出す現実を『揚棄』しない限りは。アメリカは最も恐るべき相手と『戦争』- 戦争は国家と国家の間において存在するのだから、これは戦争ではない - を始めるのだ。当然、この『戦争』に勝者はない。国家と資本は自ら墓穴を掘るだけである」

湾岸戦争後、柄谷行人は「戦前の思考」(文芸春秋社1994)の中で、ものを考えるためには極端なケースから出発しなければならないと述べている。実際に戦争があろうとあるまいと、自分を「戦前」において考えること。経済学を恐慌から考え、心理学を精神病から考え、法や国家を戦争から考えることで、ノーマルな状態の曖昧さや脆弱さがわかるのだ。どんな解決も欺瞞でしかありえないことを示した彼は「私は悲観論者ではない、ただ、認識すること以外にオプティミズムはありえないと考えている」という。

「戦前の思考」は、まさに今読まれるにふさわしい本だが、既に当人は1999年より「戦後の思想」について考えている。われわれは、第二次大戦の、あの愚劣な「戦後」をこそ反復してはならないのであると。国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめ、「戦後」に向けて、着々と準備をすることを、彼は私たちに勧めたいという。
2001-09-27