『チコ』 フェケテ・イボヤ(監督) /

グローバリズムよりオープンな、ローカリズム。


前作の「カフェ・ブタペスト」(1995)以来、この監督の次の作品を待っていた。こんな映画、見たことがなかったから。そして、監督の顔写真が、あまりにかっこよかったから。

「カフェ・ブタペスト」には、社会主義が崩壊し、熱狂するブタペストとそこを訪れる若者や情報屋やマフィアが描かれていた。民族と言語と情報が交差する中、ソ連を脱出して西へ向かうロシアのミュージシャン2人と、西から刺激を求めてやってきたイギリスとアメリカの女の子2人が、ハンガリー女性が経営する安宿で出会う。通じない言葉のかわりに吹かれるサックス。そして、4人の「旅先の恋」のゆくえ―
ある時代のある地域でのみ獲得できる越境的な視点。それは、いわゆるグローバリズムとは一線を画す「開かれたローカリズム」なのだった。

監督は、フェケテ・イボヤというハンガリーの女性。タバコに火をつけようとしている彼女のポートレートは、まるでエレン・フォン・アンワースが撮ったキャサリン・ハムネットの写真みたいだ。

そして、ようやく「チコ」(2001)がやってきた。今度は、女と恋愛の出番が少ない戦場映画。しかも「この映画はフィクションとドキュメンタリーが一緒になったフィクショナルフィルムである」などという人をくったようなクレジットが最初に流れる。

たしかに過去を回想するというフィクションの王道形式なのだが、主役のチコを演じるエドゥアルド・ロージャ・フロレスの生々しい存在感のせいで、彼自身の人生を取材したドキュメンタリー映画としか思えない。それとも、ハンガリーには、こんなすごい俳優がいるのか?

ネット上で見つけた監督のインタビューで、ある程度のことがわかった。彼が「カフェ・ブタペスト」の出演者の一人(ロシア人闇市場のチェチェン・マフィア)であったこと。アマチュアの俳優である彼のキャラクターに着目した監督が、その人生をフィクション化したのが「チコ」であること―
彼はスパニッシュ・ハンガリアンであり、カソリック教徒のユダヤ人であり、共産主義者になるための教育を受け、クロアチア戦争では武器を手にして戦った。この映画は、そんな彼の混沌としたアイデンティティ・クライシスをテーマにした「イデオロギーのアドベンチャー映画」なのだという。

映画の中の彼は、ボリビア人とユダヤ系ハンガリー人の間に生まれ、ボリビアの政変によりチリに移住し、軍事独裁が始まるとハンガリーに亡命し、ゲバラに憧れて青年共産党に入る。軍人を志望し情報部に配属されるが、権威主義にうんざりしてジャーナリストになり、遂には武器をとる―

切実に何かを探し、移動を続け、サバイバルを繰り返す人間が、最後に守るものは何か?多くのものを溜め込んでしまった人や国には、思い出すこともできない感覚だ。カルロス・ゴーンは「家族がいるところが我が家だ」と書いていたが、チコには子供もない。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるチコの姿に、「風が土をさらうだけ」という切ない歌詞が重なって映画は終わる。風と土。ザッツ・オール。すべてが失われた後の風景には、答えなんてない。

監督は、より本質に肉迫するためにフィクションという手法を選んだのだろう。本質への近道。それは、安易に答えを出したり説明したり誘導したりしないことに尽きると思う。

*2001年 ハンガリー
*4月6日ハンガリー映画祭にて上映
2003-04-14