『SOMEWHERE』 ソフィア・コッポラ(監督)

予知夢のような映画。

 
米アカデミー賞で特別名誉賞を受賞した黒澤映画「夢」(1990)で、ハイビジョン合成の導入をアドバイスしたのは、フランシス・コッポラだったという。黒澤監督がみた夢をもとにした8話のオムニバス映画だが、後半の3話はつながっているようにみえる。いま思い返すと、まさに予知夢のようだ。

原発が次々と爆発し、灼熱の富士山も真っ赤に溶解。大地と海が荒れ狂う中、着色された放射性物質から逃げ惑う人々を描いた「赤富士」。核汚染後の荒廃した世界で、弱肉強食の共食いを続ける鬼たちの地獄絵図を描いた「鬼哭」。そして、近代技術を拒み、失われた自然と共に生きるユートピアのような村の葬式を描いた「水車のある村」。

黒澤監督をリスペクトするフランシス・コッポラが製作総指揮をつとめ、娘のソフィア・コッポラが監督した「SOMEWHERE」(2010)はどうだろう。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したが、その理由は、審査委員長のタランティーノがソフィア・コッポラの元恋人だったからではない。この映画もまた、監督の過去における予知夢なのだ。

映画スターの父と11歳の娘の物語だが、ひとことでいえば「フェラーリ360モデナ」によるロードムービー。ストーリーよりもひとつひとつのシーンの輝きに目をみはる。父フランシス・コッポラと過ごした監督の少女時代がリアルに、しかも淡々と描かれているからだ。ばかにするのでもなく、うらやむのでもなく、皮肉っぽくもなく、セレブな生活をありのままに描写する説明なしのセンスが上品で心地よい。ファッションや選曲の感覚も抜群だ。

まずは、父の生活の描写から始まる。砂漠のテストコースを周回するモデナ、ホテル暮らし、デリバリーガール、記者会見、パーティ、特殊メイクのための頭の型取り。何も不自由はないが、どこか少しずつずれた感じ。旅程をこなすような孤独で地に足のつかない日々の疲弊は、妻と別居していることが原因かもしれない。しかし、時々会う娘と過ごす時間は夢のようだ。娘を演じたエル・ファニングのスレンダーな少女の魅力には、誰もが釘付けになるだろう。

しばらく家を空けると言い残した母に代わり、娘をキャンプへ送っていく父。道中、彼女はモデナの中で泣く。そりゃそうだ。キャンプが終わったとき、いつ戻るかわからない母の家に戻るか、多忙なスターの父に頼るか、どうすればいいの? だが、父はキャンプに間に合わせるため、ヘリまでチャーターして娘を送り届けるのだから、彼女も泣いている場合じゃない。父に迷惑をかけることなく現実のセレブ生活をありがたく享受しなければ、これから先、生きていけないかもしれないのだから。その後、父は別居中の妻に電話をかけ、泣き言をいうのだが「ボランティアでもしたら?」と言われてしまう。彼は、住んでいるホテルをチェックアウトし、荒野の一本道でモデナをキー付きのまま乗り捨てて歩き始める。

私たちの国も、震災前、リセットを求められていた。3月10日以前の日本は、長く続くデフレの中、バブルみたいな世界もなぜだか残っていて、なんだかよくわからないまま政治も停滞していた。希望的でも絶望的でもなく、ただただ世の中が疲弊していく感触。ゆたかさが行き詰まり、すべてが少しずつ余り、大きな志を持ちにくい中で、大地震と津波と原発の問題が起きた。かつてない悲劇に国中が包まれながらも、一挙にあらゆる需要が生まれたのだ。これを何とかいい方向に持っていくしか道はないのかなと思う。たくさんの信じられない犠牲の中で、私たちはどんな夢を見ればいいのだろう。
2011-04-11