『かぐや姫の物語』 高畑勲(監督)

美女と醜女の人生は、どれだけ違うのか。




「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーにつられて見に行った。え、竹取物語ってそういう話だっけ?と思った。まんまと引っかかったというわけだ。日本最古の物語も、コピー次第で時代にコミットする。

溝口か黒沢かっていう大胆にして繊細な絵づくりを、最前線のジブリアニメが実現してしまった。四季折々の自然をはじめ、日本古来のファッションやカルチャーが、スーパー・カルチャーであるアニメによって世界に発信されるのだと思うと興奮する。制作費50億というのが気になるが、この映画が、かぐや姫を財宝でくどく男たちみたいにならないことを願う。

竹取物語をベースに、かぐや姫の心情を強調したリアルファンタジーに仕立てあげた。あこがれだったはずの地上は理不尽なことに満ちており、傷つくことも悩むこともない天の暮らしのようにはいかない。幼い頃は楽しいけれど、成長するにつれ美貌目当ての面倒な男たちが現れ、自由に行動することもままならなくなる。

これ、人間もだいたい同じだ。悩みのない子供時代に戻りたいと、多くの大人が言っている。
月に戻ったかぐや姫は、幸か不幸か地上の記憶をなくし、でも、なぜかあの「わらべ唄」だけは覚えていて、口ずさむたびに意味もわからないまま涙を流すのだろうというところまでが想像できる。

よく似た映画を見た。越谷オサムの恋愛ファンタジーを『ソラニン』『僕等がいた』で知られる三木孝浩監督が映画化した『陽だまりの彼女』。ヒロインの真緒(上野樹里)は、異なる世界からやってきたかぐや姫といっていい。わらべ唄のかわりに、ビーチボーイズの『素敵じゃないか』が繰り返し流れ、真緒が姿を消したあと、その曲を聴いた浩介(松本潤)は、真緒の記憶をなくしたというのに美しい涙を流すのである。

『かぐや姫の物語』のコピーは「姫の犯した罪と罰」。
『陽だまりの彼女』のコピーは「最初で最後の恋(うそ)だった」。
どちらも、地上で欲望をかなえようとする罪深い女の話なのである。別の世界に帰ることが前提で、別れることがわかっていながら恋をし、地上で生きたいと願う。だけどだんだん、いろんなことを経験し、疲弊し、タイムリミットが迫ってくるというお話。それは子供時代や青春の終わりということで、しとやかな化粧を強要され、エネルギーを奪われていく。

あらゆる出会いにつきまとう別れの運命。それは誰のせいでもなく、世の中はそういうふうにできている。だからせめて、美しい女は、タイムリミットをできるだけ先延ばしにして、罪も罰も恋(うそ)もまるごと引き受けて、できるだけ輝いて、勇敢かつ奔放につまらない男たちを翻弄し、あさっての方向を夢見てほほえむお姫さまであればいい。2つの映画のヒロインのように。

条件は、身軽であることだ。どちらの映画のお姫さまも、かけまわることが許されない地上で、ぎりぎりまでかけまわっていた。ジャングルジムに一瞬でかけのぼる真緒。桜の樹の下でぐるぐるまわるかぐや姫、窓からジャンプして子供を助ける真緒。十二単を脱ぎ捨てて野山をかけぬけるかぐや姫。まさにザ・ファンタジーだった。

鬱陶しい現実から逃避するために、身軽さは必要なのだ。今だって、多くの女がダイエットし、身体を鍛えている。いつでも、どこからでも逃げられるように備えているのだ。
美しくないお姫さまにおいては、どれほどスペシャルな能力をもっていればいいのかと考えさせられる映画でもある。実写(陽だまりの彼女)であれば演じる生身の人間に多様な解釈が成り立つが、アニメ(かぐや姫の物語)は残酷だ。美女は美女に、そうでないものはそうでないものに描かれていることがわかってしまう。つくり手の美意識や好みがわかりやすく現れすぎてしまうことが、エンタテインメントとしてのアニメの限界だ。

『陽だまりの彼女』で唯一、真緒に再会する元同級生役の女だけが、ステレオタイプな悪役の演技をしていた。彼女が真緒に罵声を浴びせるシーンは明らかに浮いていたが、この映画が現実離れしたファンタジーであることをアニメ的な直球で表現したのだろう。ただし、この女を演じたのは、実際には可愛らしい女優(森桃子)である。「ファンタジックな醜女を演じても現実の世界では可愛い」というあたりが、実写の深い力なのだと思った。

2013-12-09