『騎士団長殺し』村上春樹




山と絵とクルマと女の子。




神保町の三省堂書店本店のカフェで、毎月書かせてもらっている雑誌の書評コーナーの打合せをしている。この街に来ると「紙の本が売れなくなった」なんて到底信じられない。新しい本は生鮮食品のようにたっぷり盛られているし、新しくない本だってずいぶん美味しそうだ。神保町駅から半蔵門線に乗り、しばらくしてふと向かいのシートを見ると、スマホを見ている人なんて誰もいなくて、横並びの一列全員が紙の本を読んでいたこともある。

『騎士団長殺し』の発行部数は、2巻合わせて130万部だそうで、発売日の三省堂書店では、黒川紀章が設計した中銀カプセルタワービルみたいな迫力で積まれていた。この書店名物の「タワー積み」で、2巻あるからツインタワー。東日本大震災前の2000年代を回想したレトロファンタジーなこの小説に、ふさわしいディスプレイだったかもしれない。

電子機器の気配を周到に消した小説だ。広尾のマンションで妻に別れを告げられた30代の「私」は、赤いプジョー250ハッチバックで北へ向かった後、「適当な川」に携帯電話を投げ捨ててしまうわけだし、小田原郊外の山頂の家に落ち着いてからもメールはやらないし、ネットもほぼ使わない。妻と別れてから関係を持った二人目の人妻のガールフレンドは電話番号を教えてくれないから、会いたくても彼女からの連絡を待つほかないし、その後出会う13歳の美少女も、携帯電話が好きじゃないことになっている。

肖像画家の「私」は、写真以前の時代に回帰するかのように、時間と手間をかけて依頼者の肖像を描く。効率とは真逆のリゾート空間に、どっぷり浸れる趣向なのだ。ただ一人、谷間を隔てた豪邸に住み「積もりたての処女雪のように純白な髪」を持った「免色さん」という50代男性のみが、最新のテクノロジーを駆使する富裕層であり、不穏な空気を運んでくる。

白いジャガーのスポーツ・クーペを運転する免色さんは、「望んだものはだいたいすべて手に入れてきました」なんて自分で言うような浮世離れした人。完璧なオムレツをつくることができる反面、意外な弱みも持っている。時として「彼は燃えさかるビルの十六階の窓から、コースターくらいにしか見えない救助マットめがけて飛び降りろと言われている人のように、怯えて困惑した目をしていた」と表現されるくらいには小心者なのだ。

この小説では、免色さんのジャガーをはじめ、クルマの車種や年式が所有者のキャラクターを象徴していて面白い。
「重く野太いエンジン音がしばらくあたりに響き渡った。大きな動物が洞窟の奧で満足げに喉を鳴らしているような音だ」
「背後に銀色のジャガーが見えた。その隣にはブルーのトヨタ・プリウスが駐まっていた。その二台が隣り合って並ぶと、歯並びの悪い人が口を開けて笑っているみたいに見えた」
「駐車場にはミニヴァンの数が目立った。ミニヴァンはどれもこれも同じように見える。あまりおいしくないビスケットの入った缶みたいだ」

小説全体のトーンは明るい。重い史実があり、ネガティブな事件は起こり続けるけれど、それは人が前へ進むためのチャンスなのだから、傷んでいる部分を修復し、つなぎ直して再起動すればいい。そういう特別なメンテナンス期間を与えてくれた運命のおもむくまま、目の前のできごとに勇気と誠意をもって対処していけば、無力な一人の人間も、ご褒美のような場所に必ずたどり着けるのであると。

2017-3-30