『贅沢は敵か』 甘糟りり子 / 新潮社

限りなく創作に近いスノビズム。


甘糟りり子のエッセイが目的で「NAVI」を読んでいたことがある。本書は1998年から2001年にかけて「NAVI」「FRaU」「BRUTUS」等に掲載されたファッションやクルマや恋愛のかけひきに関するエッセイ集。

東京のブランニューなカルチャーの中で、イケテル人とイケテナイ人の違いをクールに語らせたら、彼女の右に出る者はないだろう。ライブなファッション感覚は、中途半端な取材を通じて描けるものではない。その世界を愛し、どっぷり浸かっていなければ理解できない微妙な体感温度だと思う。大衆的な流行とは明らかに異なる特権的モードに精通する彼女は、ブランドに象徴される都会的スノビズムのめくるめく快楽と強迫観念と虚しさを均等に言葉に焼きつける。肯定も否定もない。そこには、熱にうなされるような疾走感と少しばかりの違和感があるだけ。そう、それこそが贅沢のいちばん美味しい部分なのだ。

スノビズムを辞書でひき、「流行を追う俗物根性、上品ぶったり教養のあるふりをする軽薄な生活態度」という記述に「まさに私のことじゃないか」と思う彼女。横浜で生まれ、鎌倉で育ち、「西麻布を中心にしか物事を把握できない」彼女。パーティ好きを自称し、クルマで男を選ぶと言い切り、フェラーリ 360モデナを乗り回す機会を得たときには自分の見え方をきっちり意識する彼女。その鑑識眼は、冷静で鋭くて品を失っていない。言葉の選び方が洗練されており、プライドもコンプレックスも剥き出しになっていない。スノッブについて語った文章自体がスノッブなのだから、説得力がある。

「私の商売道具は言葉と視点だ。言い換えればこれは『偏見』であり、私は『偏見』を売って金をもらっている」という一文から、彼女のエッセイは美しい偏見なのだと理解した。美しい偏見は、フィクション(創作)に近い。もちろん彼女は嘘を書いているわけではないが、彼女が感じるパークハイアット東京と私が感じるパークハイアット東京は違うし、彼女が感じるポルシェ 911と私が感じるポルシェ 911は別物だ。彼女の現実は、私にとってはフィクションなのだ。 自分がよく知っている街や風俗やさまざまな事象から、別の風景がたちのぼる面白さ。

私は、村上龍の文章を思い出した。先日のローマ対ユベントス戦で、後半14分にトッティに代わって途中出場した中田英寿が1ゴール1アシストを決めたが、村上龍は、この試合を自身のメールマガジンで思い入れたっぷりに速報していた。イタリアの歴史や食文化にまで言及したこのリポートは、実際の試合以上にドラマチックで、まさに創作と呼びたいもの。笑っちゃうほど大袈裟な記述に、内心ブラボーと叫びながら、小説家はこうでなくちゃ、と私は深くうなずいた。あの試合をテレビで見たり新聞記事を読んだりするのも楽しかったけれど、村上龍の文章には、それ以上のお得感があった。このお得感こそが、プロのフィクション(創作)の力だろう。

東京が故郷である私は、東京でしか暮らせないような気がするが、そんなある種の希薄さはコンプレックスでもある。東京で暮らしながら別の場所に故郷があり、地に足のついたストーリーをもっている人を心底うらやましいと思う。自分には東京しかないのだから、東京をいろんな視点で創作していくしかないんだろうな。この本を読んで、希薄さを疾走感でごまかしているような毎日が、愛しく思えた。
2001-05-19

『彼女たちは小説を書く』 後藤繁雄 / メタローグ

複数の女性とつきあう男。


8人の女性作家(柳美里、吉本ばなな、赤坂真理、川上弘美、山田詠美、中上紀、江國香織、松浦理英子)へのインタビュー集。彼女たちの共通点は、たぶん「恋愛体質の女」であること。純文学とエンターテインメントの垣根をあっさり越え、「僕の独断と偶然」により、好きな小説の書き手をセレクトしたというハッピーな本である。「好きな小説の書き手」というのは、「好きな人」にとても近いように思える。

ラブレター(インタビューノート)からも、デート(実際のインタビュー)からも、後藤繁雄の個人的な思い入れが伝わってくる。彼女たちへの言葉は、一人ひとり書き分けられ、会話のトーンや距離感も微妙に異なる。尊敬する彼女、興味津々の彼女、思わず見とれてしまう彼女、タメグチモードの彼女・・・・・読み進むうちに、常時複数の愛人をもつ(ことを喜びとしている)友人を思い出した。作家であるその友人は、彼女たちに同じセリフを言わない(同じ誉め方をしない、同じ口説き方をしない)ことを自分に課している。確かにそれは、相手に対する最低限の誠実さであり、表現者としての美意識が支える控えめなプライドといえるだろう。

個々のインタビューは中途半端に長くゆるい印象で、短ければ当然省かれるような無意味でぎこちないやりとりや、どうでもいいような「その場の気分」が流れ出している。だが、この本においては、そういった部分こそが本質かもしれない。 「後藤繁雄はたくさんインタビューしてるくせに、ちっともインタビューがうまくならない。から、心配になってたくさん話してしまう」という坂本龍一のコメントを赤坂真理が紹介しているが、言い得て妙。本書を読む限りでは、彼は、まるで不器用な少年のような印象なのだ。「だって、ずっとどもりで20歳ぐらいまで人と喋れなくて、その後の人生おまけみたいなもんなんだもん」というようなインタビュアーらしからぬ受け答えを読んでいると、彼女たちの小説の書かれ方うんぬんよりも、彼自身の人生のほうに、つい興味をそそられてしまうのである。

私も、仕事でインタビューをする機会がしばしばあるが、思い入れを強く抱いている相手ほど、うまくいかないことが多い。あるいは「満足できない」。だいたい、本気で相手を知ろうとしたら、1度のインタビューなんかで完結するはずがないわけで。そして、この本には、そういったもやもやした思いがあふれている。後藤繁雄は本当に、自分の好きな人にだけインタビューしているのかもしれないなと思う。おまけみたいな人生を、永遠の少年のように楽しんでいるのだろうか。40代半ばの男性で、これほどフレキシブルな感受性をもっている人って珍しい。

彼は、この本のイントロを「これからも一生、僕はあなたたちの愛読者であることを誓います」と結んでいる。別に誓う必要なんてないのに! つまんないと思ったら、いつでも読むのをやめるというのが本当の愛じゃないの?「あなたたち」という十把一からげな言い方も失礼である・・・・・でも、そんな不器用さが好印象につながっているのも事実。8人の女性と完璧に、失礼のないようにつきあい分けている男がいたとしたら、それって、ちっとも可愛くないだろうしね。

後藤繁雄は、実のところ誰がいちばん好きなのか? いくら同じ言葉を使っていないからといったって、やっぱり、何人も並行して口説いている男を見ていると、私はどうにも落ち着かない。
2001-05-12

『I.K.U.』 シューリー・チェン(監督) /

いやらしくない? R-18のサイバーポルノ。


オーガズム・データの収集という使命を受け、手当たり次第に人間と交わるレプリカントのレイコは、ネット時代のSEXを象徴しているのだろうか。 現実に、ネットナンパの成功率は驚くほど高いときく。お見合いが結婚を目的とするシステムであるように、出会い系サイトの多くはSEXを目的とするシステムといえなくもないわけだから、条件さえ一致すれば、交渉はたやすく成立するのだろう。

とはいえ、そのプロセスは意外と大変そうである。思わせぶりなプロフィールを掲示し、コンタクトを待ち、メールのやりとりをし、会う約束をし、待ち合わせ、落胆したりほくそえんだり傷ついたり被害にあったりマジで恋に落ちちゃったりして。もちろんハッピーに結ばれるケースもあるには違いないけれど、事態はそれほど簡単ではないだろうってこと。ネットナンパというと、どこかバーチャルでイージーな感じがするが、やっていることは街ナンパよりもアナログだと思う。なにしろ文章を綴ったり、想像力をとぎ澄ませたり、必要以上に汗をかいたりしなければならないのだから。

この映画には、そういったコミュニケーションの大変さは全く描かれていない。レプリカントを派遣しているのは、オーガズム・データベースにより肉体的接触なしの快楽を提供することに成功したゲノム社。レプリカント(複数の女優たち)があちこちでSEXする姿は、まさに普通の女の子がデータ収集のバイトをしているかのように見える。

映画というよりはVJに近く、日本語と英語が混じるラフで拙い言語感覚は、私たちの日常を席巻する等身大のおしゃべりといっていい。監督は台湾生まれでアメリカ国籍をもつ女性だが、I.K.U.というタイトルは、意味深かつベタな日本語だ。配給プロデューサーである浅井隆は、この映画を「愛から最も遠いセックスを描き、現代への批判をもくろんだ、ビジュアルで紡ぐ新世代映画」(5月6日付朝日新聞)という。

女性側からのSEXの視点(プッシー ポイント オブ ビュー)がユニーク。外性器にはモザイクがかけられているが、内部で何がおこなわれているのかがCGで描写されるのだ。私はこの映画を試写で見たが、税関・映倫を通した日本の劇場公開バージョンは、さらなる大幅な修正が加わっているという。ただ、CGが多用されるこの映画の場合、モザイクの違和感がなく、むしろ自然に見えるのが救いだろう。

試写会場では「この映画はいやらしくない」という声が多かった。要するに、生々しくないということだと思うけど、その感想は「このケーキは甘さ控えめ」という言い方に似ている。ケーキというのは適度に甘いほうがおいしいのであって、甘さ控えめというのは「ヘルシーで食べやすいけど物足りない」の言い換えに過ぎないのではないだろうか。となると、いやらしくないというのは「ポップで見やすいけど物足りない」ってことなのか。SEXしまくりの映画なのに、そんなことがありうるのだろうか。そんな単純な感想でいいのだろうか。だが、私には、この映画の砂糖(=いやらしさ)の分量が判断できなかった。舌が麻痺してしまったのだろうか、と焦る。いずれにせよ、一概にこうと決め付けることのできない作品は、それだけで新しくて面白い。

ネットナンパにアナログな想像力が求められるように、I.K.U.の「説明的でない映像」は説明以上のイマジネーションをかきたてる。世の中にバーチャルなイメージが氾濫するほど、リアルの魅力は浮上してゆくのだ。

*2000年 日本映画/渋谷シネパレスでレイトショー上映
2001-05-08

『天国への階段(上・下)』 白川道 / 幻冬舎

「俺様な男」は、ロマンチック。


「天国への階段」の新聞広告は、社長自らのこんなコメントが掲載されていたことで話題となった。

<小説は劇画やゲーム、映像より遥かに面白い>
眠ることもできず、食べることもできず、うなされるようにして読み切った。何という興奮。何と言う感動。何という愛おしい人間の生き方よ。買ってくれとは言わない。どんな形でもいい、読んで欲しい。「 小説とはこんなにも面白いものだったのだ」その感動をすべての人たちと分かち合いたいだけだ。
-幻冬舎社長 見城 徹

魅力的なコピーだと思う。商品広告でありながら企業広告としても成立している。白川道のファンでなくとも、見城徹のファンならきっと、この本を手に取ってしまうだろう。彼はインタビューの中でこんなことを言っていた。

「オレみたいに今、世の中に少し出ている人間っていうのは、どれくらい心が引き裂かれているか。どれだけの人を踏み台にしてきているか。どれだけの人を押しのけて出てきているのか」
「成功者だと言われることは、いかに自分が醜く生きてきたことかってことと同じなんだよ。自分はそう思っている。だから自己嫌悪の塊ですよ」
(文学メルマ!「制度からこぼれ落ちていく固体の悲しみ」より)
 
「天国への階段」の主人公、柏木圭一は、まるで見城徹のようだ。いや「世の中に少し出ている人間」なら、多かれ少なかれ、柏木圭一と共通するような傷や復讐心やロマンを胸に秘めているのだろう。私はこの小説を、男の美学をひもとくミステリーとして読んだ。想像力や筆力の豊かさに引っ張られるというよりは、ビジネスの世界をディープに体験した男にしか書けないリアリティに引っ張られる。

想像力豊かなエンターテインメント作家が、繊細なディティールを積み重ねることで「ごく普通の人間がなぜ犯罪をおかすに至ったのか」を描くのだとすれば、この小説は対照的。登場人物は「犯罪に結びつくタイプの男」「犯罪に結びつかないタイプの男」「無垢な女」の3つに最初から分類できてしまうほどだ。マッチョでステレオタイプな成り上がり復讐劇ともいえるが、こういう男の目には、女や子供はかくも類型的な(ある意味で理想的な)存在として映るのだという説得力があり、面白く読めた。

男の美学は、最終的にどこに行き着くのか?理想郷はあるのか? 読後感は「ロマンチック!」のひとことである。男の愛や執念が何十年たっても変化しないという物語は美しく、癒される。対等な恋愛を望む女は、北川悦吏子のドラマを見るべきだと思うが、「俺様な男」を本当に理解したいと思ったら、こういう小説を読むべきかもしれない。
2001-04-28

『ザ・メキシカン』 ゴア・ヴァービンスキー(監督) /

求む! 正しいB級映画。


伝説の拳銃をめぐり、ロス、ベガス、メキシコを駆け抜けるロードムービー・・・・・・
それだけの予備知識でこの映画を見に行ってしまったのは、同じくメキシコを舞台にしたサム・ペキンパーのB級ロードムービー「ガルシアの首」を思い出したからだった。リスペクトするロードムービーへの連想は、いったん走り出すととまらない。シンプルでシニカルで馬鹿みたいにかっこいいモンテ・ヘルマンの「断絶」をはじめ、ポップなパロディが嘘みたいに新しいJ.L.ゴダールの「勝手にしやがれ」や「はなればなれに」などを今すぐスクリーンで目撃し直したいという狂おしい欲求は、「ザ・メキシカン」を見て2日たった今も、高まるばかり。

早い話がこの映画、かなり物足りなかったのだ。製作者たちは当初、あまり有名でない俳優を起用し、地味な映画をつくるつもりだったらしい。だが、人気絶頂の二人(ブラッド・ピット&ジュリア・ロバーツ)がたまたま脚本を気に入り、出演が決まったことで製作状況は一変したという。

「二大スター夢の初共演」は、この映画にどんな効能をもたらしたのだろう。少なくとも公開初日のレイトショーの客席はがらがらだった。予算をそれほどかけられないのなら、単純軽快なB級映画に徹すればよかったのに、メジャー指向のキャスティングが裏目に出て、中途半端なA級ハリウッド映画になっちゃったのが残念だ。とりわけヒロインは、先の読めない無名の女優のほうがよかったな。恋人の言動にいちいちキレちゃう女の子という役柄をジュリアのようなトウのたったベテラン女優が演じると、なんというか「そのまんま」なのである。夢をかなえるために一人でベガスにいくという無謀さも、30すぎた大女優のジュリアでは、いまひとつリアリティに欠ける・・・。

全体のストーリーにもディティールにも、21世紀的な新しさは感じられなかった。だとすれば少なくとも、伝説のギター職人を探すロバート・フランクの「キャンディ・マウンテン」、あるいはロマン・ポランスキーの「水の中のナイフ」のような男の子の成長物語になっていてほしかったのだけど・・・・・ブラピも今年で38だしなあ。

とはいえ、メキシコの信号機はとってもリリカルだし、メキシカンなポンコツ車が狂犬をのせて走るシーンなどは、やっぱり楽しい。昔のロードムービーを見直してみたいという気持ちになれたのも思いがけない効能だ。ラブストーリーとしては、「愛しあっている二人がうまくいかなくなったとき、本当の別れはいつくるか?」という問いの答えがなかなか素敵。単純だけど希望がもてたぜ。

周囲に何人かいたアメリカ人のおかげで、ずいぶん楽しい気分になれた。彼らは、ちょっとした設定やジョークにも激しくウケまくるのである。しかも日本人とは笑いのポイントがちょっと違う。この映画、ビデオで見たとしたら、つまんなかっただろうなー。

*ロードショー上映中 / 2001年アメリカ映画
2001-04-23

『ラブ ゴーゴー』 室井佑月 / 文春ネスコ

可愛い女は、ゲームの途中。


室井佑月。ミスコン荒らしとして知られ、レースクイーン、売れないタレント、銀座ホステス等を経て、現在は小説家。高橋源一郎と不倫の末、彼の4番目の妻になった女。愛嬌のある美人で、胸には200ccくらいの生理食塩水が入っている・・・

作家である前に女であり、文才よりも前にキャラがきわだつノリノリエッセイ集。客を自分のファンにすべく奮闘したホステス時代の話や、陰毛で始まり陰毛に終わったというレースクイーン時代の話、二人目の子づくりのためにどんなふうにセックスしているのかという現在進行形の話まで、まさに、あけっぴろげのネタ人生。不倫からスタートし、「妻」となり「作家」となり「母」となった女の、絵に描いたような一発逆転劇だが、彼女はそれらの肩書きに安住していない。見栄や妥協を指向しない彼女にとって、人生は、いつまでもゲームの途中。女を売りにしているというよりは、天真爛漫な性格がむきだしになっているというニュアンスが強く、何を書いても嫌味がない。

たとえば男の浮気に対して、彼女はたいそう厳しい。「あたしとセックスしてそのことを『浮気』という言葉で片づける男がいたら、あたしはその男を殺す」とタンカを切り、「浮気を悟ったら、やっぱり別れる。女を磨いて出直す方が早いもの」と潔い。腹いせに別の男と遊んだりしてますますドツボにはまってしまうようなナイーブな女たちは、「室井流恋愛指南」を読んで元気を出すべきだろう。彼女は決して二股をかけたりしない。好きな男がいれば、そいつを完璧に振り向かせるために捨て身でがんばり、だめなら次へいく。実にシンプルで正しい。

コンプレックス抜きに、女の舞台裏をあっけらかんと語れる才能は、デフレの世の中に活力と希望をもたらすにちがいない(ほんとか?)。陰鬱な読み物が面白くないという意味では全くないけれど、現実の女として魅力的なのは、やっぱりこういうヤツなんだろうなーって、おやじみたいな感想をつぶやいてしまうわけです。

最後のエッセイ(「婦人公論」掲載)は、かなりマジ入ってる。出産した彼女は、田舎にいる母と行方不明だった父を自宅に呼び寄せ、笑いいっぱいの5人家族となる。赤ん坊のおかげで両親まで幸せになっちゃうのだ。しかし、この幸せは、不倫からはじまり、たくさんの人に迷惑をかけた結果であることを彼女は忘れない。だからこそ、馬鹿みたいに明るい家庭が必要なのだという。何人も子供をつくって、もっと笑いたいという。結婚前は、互いの寂しさを埋めるためのセックスだったのが、今は毎日をもっと楽しくするためのセックスなのだという。

ものすごく健全だ。いい話だ。よかったじゃないか。でも、そこまでにしておいて。結論は出さないで。お願い! 彼女には、いつまでも、ラブゴーゴーな可愛い女でいてほしいから。説教くさいおばさんにだけは、なってほしくないと思うから。
2001-04-20

『ゲルハルト・リヒター展「ATLAS」』 川村記念美術館

顔のないポートレート。


オープンカーの屋根を開け、千葉県佐倉の川村記念美術館へ行った。東京から2時間かけて、ドイツの代表的な現代美術に会いにいくなんて、わくわくするようなシチュエーションだ。散策路に続く水辺のレストランではドイツフェアを開催中。クルマとワインは何といってもイタリアだけど、現代美術とビールはドイツかも!

リヒターといえば「ベティ」を思い出す。彼の娘ベティ・リヒターのポートレートだが、後方を振り返る彼女の顔は見えず、おまけにちょっとピンボケ。その上、よく見ると写真ではなく絵画なのだ。まさに何重にも人をくったような作品である。後ろ姿でピンボケの写真絵画が、どんなポートレートにも負けない魅力をたたえているのはなぜだろう。

今回の展示のメインは、655枚のパネル上に構成された4500点もの写真やスケッチの集合体である「ATLAS」。リヒターの創作の原点(モトネタ)であると同時に、これ自体がライフワークというべき膨大な作品群だ。新聞の切り抜き、家族のスナップ、強制収容所の死体、ポルノ、風景、カラーチャート、ロウソクの炎、精密なスケッチ、絵の具のうねり…そのすべてに番号がふられ、几帳面に整理されている。

「ベティ」のもとになったスナップ写真を探すのは簡単なことだった。モトネタと作品はそっくりなのだから。だが、絵画のほうが明らかに普遍的な美しさを獲得している。「後ろ姿のスナップ写真」というだけでも十分に普遍的(没個性)だが、リヒターはそれをもう一度描き直し、さらにピンボケにすることによって、「ベティ」を比類ないポートレートに仕立てたのである。

「ATLAS」の中には、病気のベティを撮った写真などもあり、リヒターには、娘の元気な笑顔を正面からばっちりピンを合わせてとろうなどという凡庸な意志がないことがわかる。いや、「ピンのあった正面笑顔写真」こそが特殊なのだろう。リヒターの作品は、それほどまでに自然で、目立つことや意表をつくことを目的としていない。対象の個性を削ぎ落とし、普遍化させてゆくプロセスは、まるで自らの固定観念や虚栄を脱ぎ捨てる作業のようだ。彼は、人物の顔をちゃんと描かないことで、逆に、その人物の「純粋な印象や気配」を描くことに成功している。

会場には、「ATLAS」をもとにした10点の作品も展示されていた。「48の肖像」は、百科辞典に登場する偉人たちの写真を肖像画に仕立て、もう一度写真に撮ったもの。写真、絵画、写真というプロセスを経た48人分のポートレートは、最初の百科辞典の切り抜きと比べると、権威や時代性が排除され、全員が同じスタジオで均一に撮影されたように見える。

これらをまた絵画にし、写真に撮り…と繰り返していくと、どうなるのだろう。偉人であれ凡人であれ、皆、同じ顔になってしまうのか。最後には顔ですらなくなり、つるつるのグレーのボードになるのかな。「鏡(グレー)」というガラス板にグレーのシートを貼っただけの作品を見て、そう思った。この鏡には、すべてのものがうっすらと、灰色に映り込む。これこそが、リヒターの究極の美のイメージかもしれない。

「ATLAS」の中から、彼に選ばれた幸福な断片のみが、美しい抽象化への道を歩みはじめる。「数えきれないほどの風景を見るが、写真に撮るのは 10万分の1であり、作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。つまり、はっきり特定のものを探しているのである」とリヒターは言っている。「見るものすべての本当の姿は別なのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです」

*川村記念美術館で5月27日まで開催中
2001-04-17