『路地へ 中上健次の残したフィルム』 青山真治(監督) /

言葉より前に、風景がある。


ユーロスペースの狭いロビーの隅に、エキゾチックな雰囲気の女性が佇んでいる。中上健次の長女で、作家の中上紀だとすぐに気づいた。「路地へ」の上映後、彼女と堀江敏幸のトークショーがおこなわれるという。ラッキー。

地味な印象の男(紀州出身の映像作家、井土紀州)が運転する地味な印象の国産車。その後部座席から撮った映像が延々と続き、ただひたすらクルマが走るだけで、十分に面白い映画ができるんだなってことがわかる。ダム工事だけを撮ったゴダールの「コンクリート作戦」もそうだけど、まさに映画の原点。「路地へ」の場合、あとから音楽をつけていたのがちょっと残念。エンジン音のみのほうが気分が盛り上がったのに。

ほぼ同様のルートを走ったことがあるので、映像による追体験はとても楽しかった。中上紀によると、父親の生前、毎年家族で帰省していたのと全く同じルートだという。

クルマを降りた井土紀州は、中上健次の小説の断片をさまざまな場所で朗読する(中上紀は、紀州弁の朗読を素晴らしいと誉めた)。 そして、ときおり挿入される色の濃い映像が「中上健次の残したフィルム」だ。かつての路地の輪郭は、井土紀州が立つ現代の白っぽく抜けのある風景とは対照的で、被差別部落と呼ばれた場所が本当に失われてしまったのだということが伝わってくる。

中上健次は、空をほとんど撮らず、路地の隅々を記録している。そこに宿っているもの、たまっているものを捉えようとする強烈な意志。人間は、自分がいま生きていることを実感したい時には空を見るが、確かに自分がそこにいたのだという事実を記憶にとどめたい時には地面の隅っこを凝視するのではないか ― そんなことを考えた。駄菓子屋、トラック、蓋をされた井戸、おしゃべりなおばあさん、自転車に乗る子供、カラフルな傘をさす人、干してある布団・・・そこに映る汚れや淀みのようなものまでが美しく見える。

「そのアホな人から始まった路地が、道の鬱血のようなところだったと思った。鬱血した道であろうと、太い流れのよい動脈であろうと、道である事に変りはない。道の果てはどうなっているのだろうかと考えた」(「日輪の翼」より)

ラストシーンの海を見て、「海へ」という初期の短編を読み直してみようと思った。吐き気に耐えながら海辺の城下町のバスにゆられ、途中で降り、海へと歩き、海と一体化する話。意味よりも映像がくっきりと浮かんだ。映画を観たせいだろう。

「言葉(それは禁句だった)が口唇の先で映像に還元される」 (「海へ」より)

トークショーでは、岐阜が故郷だという堀江敏幸がチャーミングな感想を述べ、それに呼応する形で、中上紀が、トンネルや橋にさしかかる時には必ず皆が興奮して大騒ぎになったという家族のエピソードなどを披露してくれた。彼女は、そこを通るたびに自分がゼロになって生まれ変わるような気がしたそうで、映画にはその辺がちゃんと表現されているという。ある作家をテーマにした作品の細部が、彼の娘によって、ひとつひとつ承認されていく。まるで映画に生命が吹き込まれるみたいに。

父のおもかげを残しながらも、まったく別の時代の、別の空間を、別の感覚で生きているように見える彼女が、「自分の中に既にある幼いころの記憶の意味がわかってきた」というようなことを言い、やわらかく微笑んだ。これは、一人の女性に認められた幸福な映画だ。

*東京・渋谷 ユーロスペースでレイトショー上映中(64分)
2001-08-30

『映画突破伝』 江戸木純/叶井俊太郎 / 洋泉社

愛は、タブーをつきぬける。


ギャガ・コミュニケーションズを経てエデンを設立した映画評論家の江戸木純と、アルバトロス・フィルムのプロデューサーである叶井俊太郎。本書は共に1960年代生まれ(つまり働き盛り)の2人のトークだ。深夜にお茶かお酒を飲みながら、だらだらずーっと聞いていたいような掛け合いだが、明け方ソファに寝転んで頁をめくりはじめたら異様におかしくて、ゲラゲラ笑いながらあっという間に読んでしまった。

叶井にとっては、会社を首になるほどやばい話であるが、 映画好きの甘い幻想を打ち砕くバクチ的な業界事情は、目からウロコのアナザー・ビュー。実話とギャグの境界線上に、捨て身の格闘ロマンがたちのぼる。

江戸木はギャガ時代、ビデオ作品の邦題を決めてコピーを書き、チラシ裏の解説を書き、ビジュアルの指示をする作業を月に15本もやっていた。しかも「映画史にまったく残らないようなものばかり」で「わざわざそんな映画を観なきゃいけないんだから、だんだん頭がおかしくなってきてね」と。時には何も観ないでドキドキしながらストーリーを書いたそう。

叶井は社運をかけた「アシュラ」を渋谷で公開中、劇場に客が一人もこない回というのを経験する。観客動員数のファックスに「ゼロ」とあったのが信じられなかった彼は「ゼロって何?渋谷には人がたくさんいるのに!」と叫ぶ。 劇場では、遅れてくる人のために1時間だけフィルムを回すそうなのだが・・・。

逆に、宣伝費をかけないのにヒットした例もある。「肉屋」という映画がそれで、タイトルに妙に反応したスポーツ紙や週刊誌が勝手に取り上げてくれ、「お願い、肉屋さん。私の熟肉(おにく)を荒々しくさばいて…」のコピーに反応したシニア層が殺到したという。「郵便屋」も同様にヒット中のようだが、アルバトロスの最新配給作品は来年公開予定の「アメリ」。これは本国フランスで大ヒットした正統派で、社員によると「この会社にいて初めて良かったと思えた」とのこと。いい話だ。

「賞が取れなくても、映画はヒットしたほうが偉いんだよ」と江戸木はいう。「観客がいちばん偉いという考え方が、日本では欠落している」とも。たしかに映画を作ることのほうが上で、配給や宣伝は下という考えはおかしいかも。「映画って、そんなに格調高いものじゃないよ。ウソだと思うなら、アルバトロスの作品を観てくれって(笑)」という叶井は、トロント映画祭で、ある日本映画を観た際に「最悪ですね。寝ちゃいましたよ」と正直に配給の人に言ったところ、プロデューサーが隣にいて会場を追い出されたという。

江戸木「ふつう、つまんなきゃ寝るよね。それって、バスがタラタラ走る映画じゃない?」
叶井 「当たり(笑)。いやぁ、恐かったよね。マジでビビったよ」

これって、どう考えても青山真治の「ユリイカ」じゃん! 自社配給の映画は嘘をついてまで宣伝するが、好みではない他社の映画には一切コビを売らない姿勢が、すがすがしい。

江戸木「僕は、上映後にお客さんが出てくる時の雰囲気がとても好きだな。『ムトゥ 踊るマハラジャ』は、みんながニコニコして出てきてくれて、それは非常に忘れがたい思い出になったよね」
叶井 「それは、この仕事をしていて、いちばん幸せな瞬間だから」

どんな業界にも暴露話はある。「会社に関わる人間はひたすら真面目に仕事をしている」なんて信じてるウブなお客様は今どき皆無だろう。 私たちは、不真面目で愛おしいオシゴトの中で一体何ができるのか? 何のためにオシゴトをするのか? あらゆる考察や革命は、本音で語ることから始まると思う。
2001-08-27

『すべての女は美しい(天才アラーキーの「いいオンナ」論)』 荒木経惟 / 大和書房

アラーキーには、撮られたくない。


「私の裸を撮って!」という女が列をなしているそうだ。彼は、全国から送られてくるそんな手紙を毎日読み、体調がよくない日もあって大変ではあるけれど「できるだけ期待に応えたい」という。

ノンフィクションライターの与那原恵は、「モデルの時間―荒木経惟と過ごした冬の日の午後」<「物語の海、揺れる島」(小学館)に収録> で、荒木との濃密な時間を写真とともに記録している。彼を駅まで迎えにいき、ワインを買い、部屋へ向かい、2人の関係ができ、脱ぎ、吹き出てくるような「女」を止められなくなリ、涙まで流すという・・・。だけど、彼女の場合、やはりどことなく「取材」の色が濃い。表現の主導権は彼女にあるのだ。

写真を撮ること自体が「相手におイタをすること」だと荒木はいう。だから、触ったり話したりセックスしたりしながら撮る。 「人に頼まれてヘアヌード撮ってもしょうがないんだよ。自分がほれ込んだ女のヘアや女陰を撮らないとダメ。写真家と相手との私的関係なんだよ」。

だが、「私を撮って!」と頼んできた女を短時間で撮影する日々というのは、一体どうなんだ? ときには白い目で見られながら、拝み倒して好みの女を撮っていた若いころと比べると、まるで慈善事業のようではないか。アラーキーは、今や、女たちにとって、列をなすほど安心のブランドになってしまったのだ。

荒木に撮られたい女は、彼の写真が好きという以上に、アラーキーという商品に興味があるのだろう。「噂のテクニックでその気にさせてほしい」もしくは「記念に抱いてください」っていうノリ。サイン会でキスをせがむファンに彼がディープキスをサービスしたところ、それ以降のファンは次々にキスをせがんだそうである。 アラーキーとは動物園のパンダみたいな存在なのか? みんながよく知っていて、61歳の可愛いおじさんで、檻の中にいるから安全で、でも、もともとは野生動物なんだよ、というような。

「撮ってほしいってくる女との関係性ってのも、ストレートにはいかなくなってきたね。ただ単に、オレにヌードを撮ってほしいっていうのじゃなくって、自分を女として認めてほしいとか、なんだか屈折したものがあったりすることが多くなってきた」と彼はいう。

女にしてみれば、「みんなと同じように撮ってほしい」では決してなく、「私を特別に撮ってほしい」なんだろうな。その場で擬似恋愛に陥って、言葉で自信をつけてもらって、写真という証明書までもらって・・・ほとんどセラピーの領域である。

電通のカメラマン時代、いつも変な格好をしていたため正面玄関から入ることさえ許されず、おそらく眉をしかめられながらスタジオで生身の女を撮り、下町のいきいきとした子供を撮り、妻の死写真を撮り、と次々に新しいことをやり続けてきた彼の過激さは、失われてしまったのか?

写真というのは、未練だと彼はいう。女々しい作業なんだという。妻が死んだ哀しみは、ずっと長持ちさせたいっていう。その気持ち、かなりわかる。未解決の問題をだらだらひきずっていたり、傷ついたときのヒリヒリするような痛みを自分の中にキープしておくことの甘美な罪悪感。それがなくなると、生きてる意味ないっていうか。

でも、そういう泣きの部分はあんまり表に出さずに、むしろ、皆が眉をひそめるようなことを、がんがんやってほしいです。アラーキーに撮られて非常に不快な思いをしたぜっていうルポが読みたいな。 ほんとうは自分が書きたいところだけど、やっぱ、列に並ぶのは趣味じゃない。 彼にもうひと花咲かせたかったら、女たちよ、気軽に絶賛したり、並んだりしちゃだめだ。
2001-08-21

『レクイエム・フォー・ドリーム』 ダーレン・アロノフスキー(監督) /

恋愛は、クスリより輝けるか?


いい映画は、体に刻まれた記憶のようだ。
まるで自分の体験みたいに、懐かしく思い返すことができる。

「レクイエム・フォー・ドリーム」を見終わった後、頭が痛くなった。ヒップホップ・モンタージュと名づけられた神経症的な薬物使用シーンが何度も繰り返されるせいか、自分までヤク中にさせられちゃったような気分になるのだ。

主人公のハリー(ジャレッド・レト)と、彼の恋人マリオン(ジェニファー・コネリ)、彼の母親サラ(エレン・バースティン)、彼の友人タイロン(マーロン・ウェイアンズ)の4人が際限なく墜ちていく様子が描かれる。クスリに依存すれば、ここまで悲惨なことになるのだということを徹底して追及した作品。彼らが依存しているのは表面上はクスリだが、実は愛情だったりするものだから、その根は深い。

図らずも、数日後に私が思い返したのは、美しいシーンばかりだった。ストーリーの枠組みを超える俳優たちの存在は大きい。彼らは苦しみ、狂気に陥り、本当にやつれたりするが、それでもなお魅力的だ。最もインパクトのあるのは後半の母親で、最も身につまされるのは、ごく普通の恋人どうしである前半のハリーとマリオン。恋愛は退屈な日常をドラスチックに変え、しらふの2人を昂揚させる。一緒にいれば何とかなるんじゃないかという甘い期待に依存しあう無力な2人。恋愛の初期スパートは、それだけで薬物と同様の効果をもつのだ。

それでは、恋愛の純粋な昂揚感は、一体いつ失われるのだろう。相手を知り、慣れ親しむことがなぜ、エゴをむきだしにしたり嘘をついたり倦怠を感じたりすることにつながるのだろう。どこで何が狂うのか。

そんな不安を先延ばしにしてくれるのがクスリだ。永遠に続くかと思われる昂揚感。全能感。幻覚。幻聴。それは、自分の限界を認めることへのささやかな抵抗であり、普通だったらあきらめるような事柄に根拠のない自信を抱くための手段である。しかし、ダメなものはダメで、かような恋愛はいずれ破綻へと向かうはずなのだが、この映画は、恋愛のラスト・スパートとでもいうべき可能性の片鱗を見せてくれる。

ハリーからの最後の長距離電話に「今日、帰ってきて」というマリオン。「きっと帰る」とこたえるハリー。2人とも、無理だとわかっているのに交わすウソの会話。だが、2人の言葉は圧倒的に真実だ。だって、恋愛において重要なのは、今すぐ会う、ということに尽きるのだもの。たとえ会えなくても、そういうシンプルな気持ちを表現すること。それ以外に恋人どうしが伝え合うべきことなんてあるのだろうか?

もちろんハリーは帰れず、2人はさらなる地獄を見ることになるのだけれど、魂を射貫くような電話のシーンのおかげで、彼らはこのままでは終わらない、と信じたくなった。

*2000年アメリカ映画/北海道・東京・愛知・京都・兵庫・広島・福岡で上映中
2001-08-17