『日輪の翼』 中上健次 / 小学館文庫

小説が現実より面白くなったら、ヤバイ。


高速道路をひたすら走る旅がいいと思う。できれば風を思い切り巻き込むオープンカーがいい。高速が途切れれば一般道を走り、峠を越え、夜になって宿泊先へ向かう以外は、サービスエリアか道の駅しか寄らない。寒くなれば1枚ずつ羽織り、暑くなれば1枚ずつ脱ぐ。雨が降ればクルマの屋根を閉め、上がれば開ける。1日に何度もそんなことを繰り返す。何日も何日も同じことを繰り返す。道が変わり、気候が変わり、季節が変わっていく。

ものすごく大雑把にいえば、この小説もそんな感じの旅。ただし、クルマは大型の冷凍トレーラーで、7人の老婆を運ぶ荷台には小さな窓がひとつしかない。運転手は22歳のツヨシほか1名。路地に育てられ、老婆たちに育てられたともいえるツヨシは、盗んで改造した冷凍トレーラーの荷台に彼女たちをのせ、別の若者2人をのせたワゴン車とともに、再開発された路地をあとにするのだ。

路地からほとんど出たことのない老婆たちが、驚くべき想像力と信仰心のみを携えて、熊野から伊勢、一宮、諏訪、天の道、瀬田、出羽、恐山、東京へと旅をする。お伊勢参りにときめき、雪の恐山で震え上がり、皇居に辿り着くまでの間、足が悪くなる者があり、万引きする者があり、失踪する者がある。サービスエリアの食べ物が口にあわない老婆たちは、トイレの水道を使い、広い駐車場の隅っこで煮焚きする。

「昼夜兼用、夏冬兼用という黒ずんだ上っぱりやコートやくるぶしまでのスカートをはいているので、遠目には浮浪者の集団のようにみえる」

ツヨシたちは、そんな老婆たちをサポートするが、女遊びにも余念がない。冷凍トレーラーに連れ込んだ女を雄琴に売ってしまったりもする。この小説は、美談なのか、ヨゴレなのか、何なのか? 強いていうなら、ありのままか。ローマの下町の不良たちを描いたパゾリーニの映画「アッカトーネ」(1961)にも通じる屈託のないエネルギーがあふれ出る。

東京に着いたとき、ツヨシは思う。「他の土地で見えなかった老婆らの特質が、二日と同じ所に居続ける事が不可能な東京ではっきり分かる気がした」。そして、私もこの瞬間、初めて外部の目で東京を見た気がした。路地の言葉とともに疾走する冷凍トレーラーの旅に慣れてしまった私は、東京の言葉にも、空気にも、ツヨシたちの微妙な態度の変化にもショックを受け、価値観を揺さぶられた。

ネオンが点滅するクリスマスの新宿で、老婆の一人は「東京の人間は信心深く無学の者にでも分かるように、神様の名前を書いたり、賛美歌を流しているのだ」と思い、辛うじてカタカナの読める別の老婆に文字を読んでくれと頼む。「ゲーム」・・・2人はその意味がわからない。

ツヨシは、繁華街にトレーラーをとめるのにも苦労するが、老婆たちは「少い時間でいつの間にか、そこで虫が仲間をかぎわけるように神仏の話をしたり病気の話をしている」。 まるで子供のような適応力だが、こんなふうに老婆を理解し許容し守ろうとするツヨシが女にモテるのは当然だろう。唯一のママに可愛がられすぎた男はマザコンになっちゃうけど、複数の女にワイルドに育てられた男は、必ずいい男になるのではないだろうか。現代の東京では、男がこんなふうに育つ可能性はない。

老婆たちと別れたツヨシはこう考える。「東京はどこでも生きられる。いや、東京が、日がな一日、信心の事を考えている老婆らを必要とする」。

東京では、誰が何をどう考えていてもいいってことだ。妙なことを考えていても、それが虚業になるってこと。いささか集団適応力に欠ける自分も、ただその1点だけで、生かされているのだということを痛感する。
2001-10-30

『別れの夏(離婚独占手記)』 室井佑月 / 婦人公論No.1093(10/7号)

恋愛と戦争。


「4年周期説」で恋愛を分析したのは、ヘレン・E・フィッシャーだ。(「愛はなぜ終わるのか」草思社)

室井佑月と高橋源一郎の場合、同棲・結婚生活は3年で終わった。この手記を読む限りでは、室井は「大変だったのね」と共感されるだろうし、高橋は「そのくらい破綻してなきゃね」と納得されるだろう。事の顛末はこんな感じ。
・息子の病気で出張先に連絡しようとしたら、領収書や女のスリーサイズが書かれた紙が出てきた。
・某ホテルにいた彼は「よかった、バレて」といった。
・複数の女がいて、英国旅行をしたり高級温泉旅館で豪遊していた。
・月に三百万円ほど稼ぐ彼は、月末ごとに百万円近くを彼女に無心し、息子の定期預金まで解約した。
・息子の緊急入院の件で連絡したら「自分もピンチなのに、人のことかまってられるか」と電話を切った。
・離婚調停で「息子と会えなくてもいい」と言った。

一時は彼に殺意を抱くものの「あたしの人生のテーマは『永遠の愛探し』」というオチ。彼女はまた同じことを繰り返すのか?

もともと、彼の結婚が4度めで、子供も2人いることを承知の上での結婚だ。永遠の愛を手に入れるには、永遠の愛を志向する男を好きになるべきだと思うが、彼が「浮気」をやめられないように、彼女が「浮気系の男を好きになること」をやめるのも難しいだろう。

「永遠の愛がほしい」「浮気系の男が好き」、この矛盾するふたつの概念を揚棄(アウフヘーベン)するためには、浮気系の男の中にも必ずある「永遠の要素」について、ほかの誰よりも理解し、愛していればいいのではないか。そうすれば、永遠の愛という概念を捨象する必要もない。

一方、「60年周期説」で今回の戦争を予言したのは、柄谷行人だ。

「これは予言ではない」(web critique 9/16)という一文で「私は世界経済・政治の構造論的反復性について語ったにすぎない」と断った上で、柄谷行人はこう続ける。

「イスラム原理主義は、資本と国家を『否定』する革命運動であって、現在の世界資本主義の中から、そして、それに対抗する運動の無能さ・愚劣さから生まれてきたものだ。それは、第三世界の『絶望』の産物である。このような運動によって、資本と国家を揚棄することはできないことは自明である。しかし、いかに空しいものであれ、これを滅ぼすことはできない。これを生み出す現実を『揚棄』しない限りは。アメリカは最も恐るべき相手と『戦争』- 戦争は国家と国家の間において存在するのだから、これは戦争ではない - を始めるのだ。当然、この『戦争』に勝者はない。国家と資本は自ら墓穴を掘るだけである」

湾岸戦争後、柄谷行人は「戦前の思考」(文芸春秋社1994)の中で、ものを考えるためには極端なケースから出発しなければならないと述べている。実際に戦争があろうとあるまいと、自分を「戦前」において考えること。経済学を恐慌から考え、心理学を精神病から考え、法や国家を戦争から考えることで、ノーマルな状態の曖昧さや脆弱さがわかるのだ。どんな解決も欺瞞でしかありえないことを示した彼は「私は悲観論者ではない、ただ、認識すること以外にオプティミズムはありえないと考えている」という。

「戦前の思考」は、まさに今読まれるにふさわしい本だが、既に当人は1999年より「戦後の思想」について考えている。われわれは、第二次大戦の、あの愚劣な「戦後」をこそ反復してはならないのであると。国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめ、「戦後」に向けて、着々と準備をすることを、彼は私たちに勧めたいという。
2001-09-27

『悪い人も積もればお金となる -刑務所の民営化-』 大川興業 第26回本公演 /

テロリストの記憶。


ベタなタイトルは、いかにも大川興業って感じだけど、内容は、ドキドキするほどアグレッシブ。
私は、大川興業のキレイでホンキなところが好きなのだ。と、この際、言い切ってしまいたい。

その刑務所では、携帯電話の使用が許され、演劇や音楽活動が許されている。服役囚たちが陪審員となり、おちゃらけた裁判をおこなうシーンでは、一人ひとりが「エリートサラリーマン」「偏差値の低い学生」「親の金でアパート経営」といった卑近なキャラを演じ、「ホモレイプ」や「食い逃げ」など、彼らの誰かが実際に犯した罪について話し合う。

別の役を演じることの意味は、現実を別の視点からあぶりだすことだろう。プライベートと仕事を行き来する私たちの日常も、かなり演劇的な日々といえるのかもしれないな。本来は、ただひとつの役割に専心し、素の自分で居続けることこそが誠実な生き方とも思えるが、多くの人が、 他人との出会いや、別の自分に変身するチャンスを切望している。仕事も不倫もインターネットも、別の役割を演じることを許された聖域のよう。

「素」で生きるには、つらすぎる時代なのだろうか。 刑務所の中ですら演技しなくちゃいけない状況は、一見自由で楽しいが、実は相当に病んでいる。自分をはぐらかし、本質をはぐらかしながら生きていく人生は、一体どんな回り道をするのだろう。この作品は、よく似たシーンを繰り返したり、スポットライトを手動で運動させたりすることで、演じることの病的な側面と快楽的な側面を、両方アピールしているのが面白い。

刑務所内の演劇ごっこはエスカレートし、彼らの生い立ちや想像の世界が次々と演劇化される。中国から密航してきた謎の中国人(江頭2:50)によって日本が客観化され、慰安にくる漫才コンビによって笑いが客観化される。服役囚たちは悪い奴なのか、いい奴なのか。彼らは刑務所にいたいのか、いたくないのか。どこまでが劇中劇なのか。

大川総裁が舞台に現れることで、ここは刑務所の中なんだと思い出す。米国の同時多発テロ事件がネタになることで、現実を思い出す。総裁は、舞台上のできごとを「素」のままで客観視できる唯一の存在なのだ。よって、大川興業はハメをはずし切ることがない。公演中にどんな事件が起きたって、彼らは軽やかに時事問題をサンプリングし、放送禁止用語できっちり笑わせ、観客を安心して帰らせることだろう。

松本キック演じる爆弾テロリストは、総裁に「おまえ、何も考えてないじゃないか」「テロをやりたいだけじゃないのか」と罵倒され、論破されてしまうのだが、このシーンの総裁はホンキだし、爆弾テロリストが記憶を剥奪されるシーンのキレイさにも驚いた。 過去のイメージの断片が三重のスクリーンにぶれながら映し出され、断続的に流れ、消えていく。彼はその後、言葉を失ったテロリストの役を完璧に演じきるのだ。

今日、ネット上で、どこかの国の人のこんな意見を読んだ。
「アフガニスタンに爆弾を落とすのではなく、食べ物や衣服や新聞を入れた包みを落とすべき。アフガニスタンの人々は空腹と貧困と不満に喘いでいます。空腹を満たし、今何が進行しているのか教えたら、彼らは喜んでテロ防止に協力してくれることでしょう」

これもまた美しいイメージだ。大量のアフガン人が国内外へ避難を始めたため、支援物資の輸送手段が確保できず、数週間で約100万人の難民が飢餓の危機に直面しそうだというニュースが、今流れてきた。

*9/24まで 東京/本多劇場
10/3~7 大阪/近鉄小劇場
10/12~14 名古屋/愛知県芸術劇場小ホール
10/20~21 福岡/西鉄ホール
2001-09-23

『JMM(Japan Mail Media)9/18号(No.132 )』 村上龍(編集) /

対岸の火事。


結局のところ、家族や特別な人や自分自身が被害にあわない限り、それは対岸の火事である。
どこかで大震災があっても、歌舞伎町で火災があっても、近所で殺人事件があっても、そういう意味では同じなのだ。なのに、NYのテロ事件だけが、リアル?

非常に多くの人が、他人ごとではないというある種の親近感を込めながら、ハリウッド映画やトム・クランシーの小説や日々の生活に酷似した、あの事件を語っている。NYの友人が言う。「ビル崩壊後の映像には、SF的な美しさもあった。荒れ果てたパレスチナの映像とは何かが根本的に違っていた。単に見る方の感情移入の違いなのか」

悲惨さや理不尽さは、いつの瞬間も世界中にあふれているのに。どこの国の誰が被害者であっても同じはずなのに。今のところアメリカは強く、ハリウッド映画の動員数は膨大なのだ。

岸を隔てた議論は、切実さと決め手に欠ける。だが、事件についていろんなことを言い、好き勝手に考えることは、当事者ではない者のさしあたっての役割だろう。

「JMM」(http://jmm.cogen.co.jp/)の臨時増刊号は、ワシントンを中心とした海外のシンクタンクで働く日本人ネットワークPRANJらによる緊急レポートを掲載していた。

「対岸の火事」という見方は大きな間違いではないかと警告するのは、ESI経済戦略研究所の研究員、村上博美氏。
日本が中立の立場をとるならば、日米安保を解消し、G7から脱退するぐらいの決意をもたなくてはならないし、外交政策として現状維持をとるならば、テロリストのターゲットとなることを覚悟しなくてはならないのだ。日本の経済・社会機能が壊滅的なダメージを受けるであろうテロの例は3つ。
1「首都圏や福井県の密集した原発群への爆弾テロ」
2「化学兵器(サリン等)によるテロ」
3「生物兵器(細菌、ウイルス)によるテロ」
「軍事報復ということになれば、報復合戦の悪循環に陥り第3次世界大戦につき進む可能性があります。仮にテロリストからの再報復で国際条約で禁止されている生物兵器が使われ、生物兵器の報復合戦にでもなれば、第3次世界大戦の終結は人類の滅亡によってもたらされるかもしれません」

イスラム過激派は多様で、必ずしも「反米」がテロ行為の主目的とはみなされ得ないケースも多いと指摘するのは、CFR外交問題評議会の研究員、古川勝久氏。
パレスチナ過激派ハマスの場合、テロ攻撃の目的は、「反米」「反イスラエル」というよりも、むしろ「反資本主義」や「反グローバライゼーション」に近く、パレスチナ過激派がイスラエル国内で選んだ自爆テロのターゲットも、ショッピング・モール、洋風飲食店、ディスコなどが多く、ユダヤ教あるいはイスラエルのシンボルと見なされる場所が選定されたことは、ほとんどなかった。
「タリバン派の場合、国も文化も宗教も問わず、あらゆる国々に対して極めて広範囲にテロ攻撃を行ってきた。『反米主義』の立場を表明する中国、ロシア、そしてイスラム諸国のサウジアラビア、イラン、パキスタンなどさえもが、過激派によるテロ攻撃に長年悩まされ続けてきたのである」

「対岸の火事ではない」という説得は、岸を隔てた人間を「当事者」という新たな次元に連れていく。それは、大地震がいつ起きるかわからないし、人間なんていつ死ぬかわからないといった漠然とした不安とは明らかに異なる。阻止できる可能性がゼロではない事件の当事者になるという、重責をともなった危機だ。
2001-09-18

『心とは何か - 心的現象論入門』 吉本隆明 / 弓立社

助けてくれ!


アメリカの映画専門ケーブル局は、テロの当日こそニュースを放映していたが、2日目からは揃いも揃って戦争映画ばかり放映しているという。NYで仕事をしている友人は「行く先は不安だらけ」とショックを顕わにしながらも「現実から逃避したい」と言い、最近ビデオで見たらしい「バトル・ロワイアル」や「はなればなれに」の感想を楽しそうに語ってくれた。励まそうなどと不遜なことを考えていた私のほうが元気づけられるありさまだ。

今朝の朝日新聞に「公園で2歳の息子を遊ばせている間に、乳母車のポップコーンをホームレスに漁られた」というような投稿があった。「何十年か前、彼もだれかの大切な赤ちゃんだったのにと思うと、なぜか涙がこぼれた」という彼女は、ポップコーンの残りをホームレスに与えるのだが、その男、彼女の息子に比べて本当に不幸だといえるのか? 感傷に浸っている場合ではない。憂慮すべきは2歳の子供の将来だ!

こんなことを思ったのは、本書に収録された講演録のひとつ「異常の分散―母の物語」を読んだ直後だったから。個人の精神の発達史において、0歳から2歳までの乳児期と、幼児期をすぎて思春期にいたるまでの2つの期間が「不可解」であり、「この時期なしに精神の病はありえない」らしい。精神の病は、母親の物語と深く関わっており、授乳のしかたは乳児にとって決定的な意味をもつ。「本当は子どもを産みたくなかった」「夫が憎い」というような気持ちが深刻な形で続けば、実存的な影響が生涯にわたって及ぶというのである。

吉本隆明は、ジャン=ジャック・ルソー、三島由紀夫、太宰治、分裂病女児ジェーンの4人の生い立ちを例にとり、実存的な解釈を試みる。三島由紀夫は、ひどい育てられ方を意志の力で超えようとし、世界的な作家になったものの「老いにいたる前のところで、やっぱりじぶんで死んじゃうことになった」し、偉大な思想家であるルソーも「じぶんの生涯は不幸だった」と述懐する。彼らの功績は奇跡にすぎず、ほとんどの不幸はそれを超えることができないのだという記述は鋭く、「実存の不幸というものは、そんなことには代えられないほど重要なことのようにぼくにはおもわれます」と著者はいう。

人間は、母親の物語に深刻に追いつめられた場合、回避、常同、作為、妄想、幻覚といった「異常の分散」によって克服しようとするらしい。著者は、自身の語り方の中にある「異常の分散」のパターンについてこう語る。

「ぼくなんかも、今しゃべった話を速記か何かで見ると、なんてくどくどと同じことをいってんだっていうくらいうんざりする常同的振舞いや言葉があります。(中略)本音をいうと、どうやって振舞っていいのかとか、どういう言葉を使ったらいいのか判らないけど、本当は簡単で『助けてくれ』っていってるわけです。助けてくれといいたいんだけど、助けてくれという言葉はいえなくて、常同的な振る舞いとか、常同的な言葉をいっている。しかし、本当は何をいいたいのか。要するに、『助けてくれ』っていいたいんだ。あるいは、『もう地獄だよ』ってことをいいたいんだ。しかし、常同的な言葉や振る舞いでしかいえない。そういうばあいには、たぶん母親の物語の中に枠組みがなかったとはいえないまでも、枠組みがとても不安定だった。それがある期間持続した。そう物語的にいえば対応関係がつくようにぼくにはおもわれます」

助けてくれ、と皆が言っているような気がしてくる。私も毎日、それだけを言い続けているのかもしれない。
人間のあらゆる行為が「異常の分散」に見えてくる。
2001-09-15