『おしえてあげる-えっち作家になりたいアナタへ』 内藤みか / パラダイム

女は、飢えを満たすために、仕事する。


「昭和46年生まれ。性別、女。大学在学中に『愛液研究室』でデビュー。以来、一貫して官能小説を書き続けている。現在までに著書が十七冊。新聞、小説雑誌にも多数作品を発表中。インターネット絡みのエッチや、母乳の出るヒロインを描いた作品が得意…」これが著者の自己紹介だ。

子供が保育園に行っている間にエロイ小説を1日20枚から30枚も書き連ね、時たま深夜にホストクラブに遊びに行くこと以外は普通の主婦。周囲に官能作家とバレてしまうと、奥様達との語り合い(貴重な取材)ができなくなるため、メディアには極力顔を出さない。

彼女が量産しているのは、男性向けの官能小説。かなりマニアックな分野だが「父からの"虐待"が、私がこういう職業に就いた遠因ではないかと思っている」とクールに語る。彼女の体験談を読むと「性的虐待を受けた子は、自分がされたことは間違っていなかったのだと思いたいがために、自ら性的な世界に足を踏み入れやすい」との説が真実味を帯びてくる。

「文章を書く仕事は、たとえそれが官能小説を書くことであっても、マイナスの体験を役立てることができる仕事なのだ」と彼女は言い切る。幼い頃から「いやらしい」「醜い」という形容詞を繰り返し父に浴びせられた結果、顔を出さずに済むセックス絡みのバイトをするようになった彼女は、大失恋をきっかけに書いた官能小説が認められてお金になったとき「いいしれない安堵感」を得たという。「"いやらしく"て"醜い"女の生きる道として、これほど格好な仕事はなかったはず」と。

幸せな恋をしている時はネタが浮かばなくて苦労した彼女も、現在は離婚した夫と腐れ縁で再同居しており「精神的に渇望状態にある。そのおかげでいい作品は書けてはいるが、私生活と小説とが同時に満たされるのはムリなのかもしれないな、と最近はあきらめ気味」だそう。「一生、この冷淡な彼と暮らしていき、その不満を小説にぶつけていくのかもしれないな」だって。 主婦の毎日は、苦行にも似たところがあるそうで「私はなるべくその辛さを身体や心に刻むようにしている。どうしてイヤなのか、どうしてこんなに子育てでキレそうになるのか…。自問自答しながら、毎日を過ごしている。それこそが、最高の人生修行でもあり、作家修行のような気がするから」という。

自分や友人を冷静に眺めることで「壊れずに済んでいる」のは、彼女の資質だと思う。だが、冷淡な元夫と再同居し、ネタ元であるとはいえ苦行を淡々と受け入れるスタンスには、どこかマゾ的な匂いを感じる。自らを積極的な渇望状態に置く生き方は、おそらく彼女の幼少時代に由来するのだろう。幼い頃に刻印された記憶を、生涯にわたって引きずるのが人間だ。解決できない悩みは、その人の生き方そのものになる。私は、それを不幸なことだとは思わない。むしろ一生の財産として受け止めたい、とこの本を読んで思った。

ただし、ぼんやりとした日常の飢えだけではプロにはなれない。彼女が抱えているのは、切実な飢えなのだ。離婚したり、主婦業をやめてみたところで解決するものではないと、彼女自身わかっているのだと思う。そう。切実に飢えていないのであれば、現実を何とかすればいい。小説を書く必要なんてない。

デビューのしかた、ペンネームのつけかた、男受けする官能小説のコツ、どのくらい儲かりどんなセクハラを受けるのか、女流官能作家の未来はどうかなど、内容は具体的。えっち作家になりたい人はもちろん、すべての女性にとって、天職に出会うとはどういうことかがわかり、仕事選びの参考になる。

*著者からメッセージをいただきました。Thank you!
2002-02-23

『猛スピードで母は』 長嶋有 / 文芸春秋2002年3月号

かっこいい母の息子はマザコンか?


現在bk1ランキング1位の「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)の中に、こんな記述がある。

「もしもあなたが いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに 信仰や信条、良心に従って なにかをし、ものが言えるなら そうではない48人より恵まれています」

誰かが、ほかの誰かよりも恵まれているなんて、第三者にどうやって決めることができるのだろう?
大雑把なたとえ話を断定形で語るのは、私たちに安っぽい優越感を与えてくれるため?
それとも、読み手にこれ以上考えることを止めさせるため?

「知識の民主化を装った大規模な思考破壊工作」という言葉を私は思い出す。蓮見重彦が以前「ソフィーの世界」(日本放送出版協会)を評し、そう書いていた。


芥川賞受賞作「猛スピードで母は」の主人公「慎」は、第三者にどう思われようが、恵まれている。そのことが主観的に書かれているからだ。母子家庭、いじめ、母の恋愛、失恋、祖母の死、祖父の看病など、ある意味でハードな経験を重ねる慎だが、男勝りでかっこよくて知的な母のもとに生まれたおかげで、ぜんぜん動じないよっていう話。控えめながら圧倒的な優越感に貫かれている。

状況への決定権や選択権のない不安定な小学生時代がナイーブに表現されるが、約20年前を回想するというスタイルだから、痛みは穏やかだし悪人も出てこない。安全圏から過去を反芻する気持ちのいい小説なのだ。どんなできごとも等質であり、水が流れるように淡々と描かれていく。

「母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。PKの瞬間のゴールキーパーを。PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ」

慎の母親自慢は、こんなふうに、子離れできない現代の母親への批判にもなっている。この親子は考え方が似ており、慎自身も、母と母の恋人によって置き去りにされそうになったとき、状況をきちんと受け入れるのだ。ほどよい距離をクールに保つ母と息子の姿は、教育的で示唆に富んでいる。

この小説を村上龍はこう選評していた。
「状況をサバイバルしようと無自覚に努力する母と子を描いた」
「一人で子どもを産み、一人で子どもを育てている多くの女性が、この作品によって勇気を得るだろう」
「社会に必要とされる小説だ」

一方、石原慎太郎の選評は冷たい。
「こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか」

積極的に人の心をつかんで揺さぶっちゃうような小説ではなく、必要な人がそこから勝手に学んだり考えたりする、道徳の教科書のような作品なのだと思う。

ただ、いくら距離を保っているとはいえ、小学校高学年の息子が、自分の母親をこんなにも容認し、自慢し、かしずくっていうのはどうよ? マザコン度はかえって高いような気がするのだが。
慎は20年後(つまり現在)、母親の運転手にでもなっていそうで、ちょっとこわい。
2002-02-22

『愛の誕生』 フィリップ・ガレル(監督) /

すごい映画は、さえない男に光をあてる。


この映画でいちばんすごいのは、カメラだ。このカメラマンが撮れば、どんな俳優でも、どんなストーリーでもいいんじゃないの? そんなふうに思ってしまうほどみずみずしいモノクロ映画。見えないほど真っ暗な黒と、まぶしいほど明るい白のコントラスト。「勝手にしやがれ」(1959)以来、ゴダールとトリュフォーの作品に欠かせない存在となったラウル・クタールが撮っている。センス全開!

主役のポールは、監督自身のように見える。家族と愛人の間をさまよい、どちらも思い通りにならず、苛立って妻や息子に怒鳴り散らす情けない男。赤ん坊が生まれても、愛人と寝ていても、居場所が定まらず、誰のことも幸せにできない中途半端な悪循環が、疲れた中年男をさらに疲れさせていく。それは、彼が目の前の状況を愛せないことの不幸だ。愛人にふられ、別の若い女の前で「これまでいろんな女と寝た」とか「はじめて(生理の)血がきれいだと思った」などと、妙にロマンチックな世界に入るポール。寒い!

だからといって、現実に充足しきっている中年というのも、たぶん、ものすごくつまらないはずで、男が美しく歳をとるのは大変だと思う。

「フィリップ・ガレルは息をするように映画をつくる」とゴダールは言ったそうだが、悩める自分を主役に託し、脇役の友人と対比させ、一緒にローマへ旅立つという設定はリリカル。友人を演じるのは「大人は判ってくれない」(1959)以来、ヌーヴェルヴァーグのアイドルとなったジャン=ピエール・レオーで、この映画では50歳近い年齢になっている。理屈っぽく自己中心的なせいで妻に逃げられてしまう作家という、ポールと同じくらい情けない役柄だが、妻に男ができたと知り、一途に嫉妬する姿はそれほど悪くない。さすが、いくつになってもジャン=ピエール・レオーはチャーミング!

土曜日はどうするのと息子にきかれ、わからないと答える水曜日のポール。家族の3日後も決められないそんな彼が、ラストシーンでは未来を語る。私を愛している証拠を見せてと若い女に言われ、子供を産んでもいいよと答えるのだ。が、その言葉はあまりにも軽すぎる。生まれたばかりの赤ん坊がいるくせに、なんということを言うんでしょうこの男は。「キスしてほしいだけなのに」ってあっさり言われてしまうポールは、目の前の状況を愛せと彼女に教えられたのだろう。幸せとは、過去でも未来でもないのだと。

とにかく、ひたすらさえない男の話だけれど、ポールが教会の前で友人を待ったり、海岸で見知らぬ女と会話したり、乳母車を押して街を歩いたり、そのほかにも、パジャマ姿の息子がパパと何度も叫ぶアパートの窓や、唐突にあらわれるイタリア国境の風景が、映画を見終わって時間がたてばたつほどに美しくよみがえり、私を痺れさせる。さえない男のさえない人生の、あちこちが光っていたことに気づくのだ。ストーリーも俳優もあっさり飛び越えてしまうなんて。まったく、映画を撮るってこういうことなの?

*1993年 フランス-スイス合作
*銀座テアトルシネマにて2/15までレイトショー上映中
2002-02-15

『肩ごしの恋人』 唯川 恵 / マガジンハウス

嘘っぽさが今っぽい。


るり子の3回目の結婚式に出席する、親友の萌。
るり子の夫となる男は、萌の元カレである。
萌は、結婚式が終わると、るり子の元カレ(既婚・初対面)とホテルに直行する。

萌とるり子は、こんなふうに平気で男を共有したり略奪しあったりするばかりか、互いにこう考えている。
「るり子が寝た男だと思うと、どこか安心するのだった」(萌)
「親友の恋人、というのはそれだけで十分に盛り上がる恋愛の要素を含んでいたし、何より信用できた」(るり子)

また、結婚に関しては、こう。
「今日から彼らは夫婦だ。これからは世間公認のセックスをするようになるわけだ。それはそれですごく恥ずかしいことだ」(萌)
「結婚式を済ますと、何だかみんなに『今日から大っぴらにセックスします』と宣言したような気分になり、急にしゅるしゅると体中から空気が抜けてぼんやりしてしまう」(るり子)

新宿2丁目を歩く時は、こんな感じ。
「男が自分のタイプだったりすると、ちょっと残念に思う。ああ、もったいない、女も悪くないのに」(萌)
「ここにいる男たちは、本当に、女の子よりも男が好きなんだろうか。それを思うと、もったいなくてため息が出てしまいそうだ」(るり子)

「肩ごしの恋人」は、双子のような萌とるり子の視点から交互に描かれる小説だが、驚くべきことに、2人は対照的なキャラということになっている。
「るり子はいつまでたってもわがままで傲慢で自惚れの固まりみたいな女だ」(萌)
「萌はいつだって律儀だ。小さい時からるり子と違って、自分の在り方にちゃんとルールを持とうとしている」(るり子)

しかし、いかに説明されようが、客観的に見れば「似たもの同士やん!」と突っ込みたくなる2人であることは間違いない。2人ともトウがたっていて、説教くさくて、世の中こんなもんだという諦めに似たステレオタイプな考え方をする。ストーリーは軽く、リアリティよりもネタ重視。どこかで聞いたことのあるような予定調和的なエピソードのサンプリングが延々と続く。

以上のようなことを差し引くと、この小説には何が残るのか? 最後まで楽しく読めた理由は、軽さとリアリティのなさが「今っぽい」と思えたから。自分の人生を、希薄なネタとしてドラマのように演じたり語ったりする彼女たちの姿は、どこか身近なものとして感じられる。実際、私自身が「信じられない!」と叫びたくなるようなリアリティのない行動をとる人間は、仲間うちにも、たくさんいるわけで。

そう、「仲間うち」というのがポイントだ。「私」と「リアリティのない人」の差は、決して大きなものではない。だって、それは「仲間うち」の話なのだから。萌とるり子みたいに、同じ穴のムジナであるに決まっている。そんなことを思い知らされるコワイ小説だ。

萌もるり子も、とっかえひっかえ男と寝る自由な女みたいに見えるけれど、ベースには漠然とした被害者意識がある。彼女たちは、相手との関係を深めるのがこわいのだ。男が好きなのに、つきあう目的は自分のプライドを満たすことでしかないから、結局は相手を遠ざけてしまう。まるで憂さ晴らしのような恋愛。

一方、男たちは、優柔不断で流されやすくて屈託がない。汚れないし傷つかないし悩まない。そんな彼らを、彼女たちは距離を置きながら肯定している。近づきながら否定するのでは決してなく、男を深く理解しようなんてヤボなこと、最初から考えないのだ。そんなことを始めたら、傷ついてしまうに決まっているから。

男に関しては手つかずの、少女小説なのだと思う。
2002-04-13