『ウイークエンド』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

こわされる快感!


新鮮なニュースはインターネットで届くけど、斬新なメッセージは不意に過去からやってくる。
1967年の映画が、2002年の現実にくさびを打ち込む驚き!
ポップでキッチュでおしゃれで笑えるポリティカル・ロードムービー。それが「WEEK-END」だ。

悪夢のような週末は、こんなシーンから動き出す。遺産目当てにオープンカー(ファセル・ベガ)で妻の実家へ向かう夫婦。彼らはアパートの駐車場を出発する際、バックした勢いで後ろのクルマ(ルノー・ドーフィン)にぶつけてしまう。子供が騒ぎ出したため、夫は金を渡してなだめるが、彼は再び騒ぎ出す。かくしてルノーの持ち主である子供の両親が登場し、各自がペンキ、テニスラケットとボール、弓矢、猟銃といった武器を駆使しての乱闘となる。「成り上がり!」「ケチ!」「コミュニスト!」となじりあう2家族。徹底的にふざけたシーンだが、こんな些細なケンカこそが、あらゆる争いの原点なのだ。

延々と続く渋滞。おびただしい死体と事故車。非現実的なシーンの連続は、嘘っぽいけれど嘘じゃない。週末って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

さまざまな困難が夫婦を襲い、実家への道のりは遠い。親を殺すという目標があるから、夫婦は力を合わせて生き延びる。が、本当はそれぞれに愛人がいて、遺産を手にした後は互いに死ねばいいと思っているのだ。クルマが事故った時、妻が絶叫する理由は、大切なエルメスのバッグが燃えてしまったから。このシーン、コメディなんかじゃない。人間って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

妻が男の死体からジーンズを脱がして履こうとすると、夫は「それを脱いで道路に寝転んで足を開け」と言う。ヒッチハイクのためだ。妻が通りすがりの男に乱暴されたときも夫は平然としているのだが、最終的にこの夫婦、どっちが勝つか?ラストシーンは、一見残酷なように見えて、ちっとも残酷じゃない。 弱肉強食って本来こういうことなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

屋外で、ピアニストが下手なモーツァルトを弾きながら「深刻な現代音楽」を批判するシーンも印象的。これって、NYの個人映画作家たちへの当てつけだろうか? その代表的存在であるジョナス・メカスは1968年、「メカスの映画日記」の中で、「(ゴダールは)いまだに自由になるための最後のきずなを断ち切っていない」「いまだに、資本主義の映画、親父の映画、悪質な映画と通じ合っている」と断じている(by ミルクマン斉藤氏)。

たしかに「WEEK-END」は「深刻な現代音楽」(個人映画)ではないし「モーツァルト」(ハリウッド映画)でもない。商業映画へのアンチテーゼを同じ土俵で提示した「下手なモーツァルト」であり、モーツァルトの和音に基いた「POPな現代音楽」なのだと思う。

世の中のキレイ事やガチガチの文法を鮮やかに解体するこの映画は、感動や趣味や思想を一方的に押し付けたりしない。ただひたすら、こわすのみ。だから、見終わった後、とても軽くなれる。こんな映画がGWに上映されるなんて面白すぎ。渋滞の中をクルマで出掛けるか?この映画を観るか? 夢のような選択だ。

個人的には、登場人物の一人ジャン=ピエール・レオーのごとく、ホンダS800でエゴイスティックに逃げ切る旅が楽しいと思う。だけど、この映画を観てからお気に入りのクルマを選んでも遅くはない。人生100倍楽しくなることは確実!

*1967年 仏=伊合作 仏映画
*渋谷ユーロスペースで上映中
2002-05-03

『ルネッサンス - 再生への挑戦』 カルロス・ゴーン(著)中川治子(訳) / ダイヤモンド社

ビジネスに、希望はあるか?


「トヨタの人は自動車が好きだ。しかし本田の人は自動車を愛している。(中略)トヨタが愛しているのは自動車ではなく、むしろ製造システムなのではないか」(「インターネットは儲からない!」橘川幸夫著・日経BP社)

では、カルロス・ゴーン率いる日産が愛しているのは何か? 本書を読むと、答えは「製造の現場」かなと思える。ミシュランの工場勤務からキャリアをスタートした彼は、現場に緊張感をつくりだし、社員のモチベーションを高めることの重要性を身体で理解しているからだ。日産の「ルネッサンス」によって最も変わったのは、たぶん、現場の雰囲気なのだろう。

「近代ビジネスにおいて権力とは現場から遠いところにあるものだ。(中略)しかし、これからの時代は、現場が権力を取り戻す時代だと思う。現場に権力がある企業だけが生き延びる方法論を見つけるであろう」(同上)

カルロス・ゴーンは、グローバリゼーションを絵に描いたような人だ。ブラジルで生まれ、6歳からレバノンへ移り、大学時代をパリで過ごし、ミシュラン入社後はブラジル、アメリカと転勤し、ルノーに移ると同時にパリへ戻り、現在は妻と4人の子と共に東京で暮らしている。彼は言う。「『わが家だと感じるのはどこか』と訊かれれば、『家族がいるところ』と答えるだろう」

ミシュラン時代、コマツとの仕事で初めて日本に来た彼は、コマツの全従業員が同じユニフォームを着ていたこと、管理職がほとんどしゃべらなかったこと、工場のオペレーションが非常にシンプルであったことに驚く。感銘を受けて帰国した彼は、日本のマネジメント・スタイルが欧米のものとは異なり、先入観を持っていては通用しないことを理解する。

衝突するのでなく、相手のやり方に敬意を表すること。なぜ違うのかを時間をかけて考え、そこから学ぶこと。そうすれば、文化の相違は必ずイノベーションをもたらすだろうという彼の確信は、すがすがしいほど。複数の国で多様な文化環境を体験してきた彼にとって、「違い」とは「希望」そのものなのだ。

そんな彼が唯一、苦悩する場面がある。ルノーに引き抜かれ、ミシュランを去った時のこと。全面的に彼を信頼し、責任ある地位に起用し、バックアップしてくれた社長フランソワ・ミシュランにどう話そうかと悩み、何週間も心の中で準備する。

「会いに来た目的を話すと、彼は呆然として言葉をのんだ。私は理由を説明し、辞職によって生じるプラス面を強調しようとした。私の転職先はライバル会社ではなく自動車メーカーであること、この業界を去るわけでもなければ、会社が私の力を必要としている時期に去るわけでもないこと。しかし、どんな理由をつけようと、どんなふうに説明しようと、十八年間培ってきた関係を絶つという事実を言い繕うことはできなかった。話し終えたあと、フランソワ・ミシュランと私とのあいだの何かが壊れたことを感じた」

信頼関係を築くのはものすごく大変だけど、壊すのはとても簡単。だが、私たちは、それをやらなければならない時がある。自分が捨てたもの、壊したもの、傷つけてしまったかもしれないものについて意識的であること、その痛みを忘れないでいることは、生きていく上でいちばん大切なことかもしれないなと思う。

カルロス・ゴーンは、権力志向のビジネスマンではない。現場を尊重し、異質の相手を尊重し、自分のルーツや家族を尊重する。この3つがあるから、彼の前向きさは嘘っぽくない。信じてみようかな、という気持ちになれる。
2002-04-22

『恋ごころ』 ジャック・リヴェット(監督) /

勉強の似合う女子大生。


3月23日付けの朝日新聞に、「活字文化を知らない若者たち-思考柔軟な時期こそ読書を」という一文があった。
さる大学で「活字メディア論」を受けもつ稲垣喜代志氏(風媒社代表)は、授業の中で学生たちに短い作文を書いてもらったところ、中身の空疎さと幼稚さに驚いたという。

「『いま自分にとってもっとも大切なものは?』という問いに対して、『金』と答えた人が圧倒的に多かった。あ然としてしまった。そして、『家族』『恋人』とつづく。恋人のことも開けっぴろげだ。ウソでもいい。自分たちの未来のことや現在の自分を内省的に考えた文章などを書いてほしかったが、それは望むべくもなかった。(中略)"読まない""考えない"若者たちをどうするか。出口なしの状況をどう打開するか、一大危機である」

「ウソでもいい」っていうくだりが切実だ。実際、ウソの中にこそ面白さはあるのだろう。読書は、大切な「金」や「家族」や「恋人」に、まわりくどい肉付けをし、深みや広がりを与えてくれる。うすっぺらい現実をいくらオープンに語ったところで状況は閉塞していくばかりなのだから、知識や思考の蓄積を少しは参照しようぜってことなのだ。

私たちは、現実世界で孤独になったとしても、無理に話し相手を見つける必要はないし、莫大な携帯電話料金を払うためにバイトをする必要もない。古今東西の本の世界に足を踏み入れれば、誰もが孤独ではないことに気付くだろう。話の合う人を見つけるのは難しいけれど、本を見つけることならできるはず。本は、出会い系サイトなんかよりも、はるかにわかりやすく整理されている。

「恋ごころ」のテーマは、金であり家族であり恋人だ。ということもできるけれど、大切なのはそれだけじゃない。「古書との格闘」や「ハイデカーの引用」や「演劇のような日常」が、困難な状況を軽々と解決していく。迷宮のような劇場や書庫を舞台に6人の男女が繰り広げる、大人の恋愛コメディだ。

犯罪も不倫も嫉妬も、チャーミング。だって、それはコメディなのだから。たとえば舞台女優(ジャンヌ・バリバール)が元愛人(ジャック・ボナフェ)に監禁される顛末にも深刻さはない。彼女が天窓から逃げ出す印象的なシーンは、知性とユーモアこそが閉塞した現実を回避し、軽やかに抜け出す方法なのだと高らかにアピールしているかのよう。登場人物は皆、相手と本気でコミュニケーションしながらも、肝心なところですっと力を抜くのだ。

成熟って、たぶんこういうことなんだろうな。深刻に突き詰めるだけが能じゃないってこと。この映画、「恋ごころ」というタイトルではあるけれど、実は、世の中には恋愛よりも奥の深いものがあるんだってことを、さりげなく描いている。とりわけ図書館や書庫で調べものをする女子大生(エレーヌ・ド・フージュロル)のキュートさは新鮮で、勉強っていいなと改めて思う。

後半、劇場は笑いで包まれた。登場人物たちがどんどん魅力的になリ、テンポがよくなっていく。2時間35分という長さに意味がある映画だ。仏語の原題は「ヴァ・サヴォワール」で、ロベール仏和大辞典(小学館)によると「全然確かなことは分からない、なんとも言えない」という意味の話し言葉。なんか、かっこいいじゃん。鳥肌立った。

いま自分にとってもっとも大切なものは何だろう?
金でも家族でも恋人でもなく「ヴァ・サヴォワール」と私は言いたい。ウソじゃない。

*2001年 仏伊独合作 フランス映画
*3/29まで東京で上映中
*3/30より北海道、4/6より宮城で上映
2002-03-25

『家路』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

ある日、視線は逆転する。


1908年ポルトガル生まれ。10代の頃から陸上選手やレーシングカー・ドライバーとして活躍するかたわら映画に取り組むが、資金不足や興業の失敗で何度も映画界を離れる。80代で撮った「アブラハム渓谷」(1993)が世界的に絶賛され、現在も2台のポルシェを猛スピードで操りながら、毎年、新作を撮り続ける恐るべき90代。

監督のこんな経歴を知ってしまうと、予告編では「老いというテーマを扱ったほのぼの映画」と感じられなくもなかったこの作品に関しても「そんなはずはないだろう!」と勘ぐってしまう。

視線がものをいう映画だ。カメラの設置ポイントに、いちいちこだわりがある。主役の老俳優ヴァランス(ミシェル・ピコリ)の心情を表現するのは、彼自身の顔や声だけではない。彼の履いている「靴」や、彼が見ている「街」や、彼を見ている「相手の表情」や、ウインドウ越しの「聞こえない会話」など、どこか一部分が削ぎ落とされた映像が圧倒的な効果をあげる。

ヴァランスは、妻と娘夫婦を事故で失うが、彼も、彼の孫も、周囲の人々も悲しんだりしない。というか、この映画は、誰かが大袈裟に悲しがるようなシーンを映したりしないのだ。回想シーンもないし、ヴァランスが毎朝眺めている(ように見える)家族の写真すら画面には映らない。本当の悲しみは表面に見えるものではないという当たり前のことが描写されるのみ。洗練されている。

テーマは「老い」でもなく「家族」でもなく「家路」だ。仕事と家の間にある家路は「街」と言い換えてもいい。俳優とは、いつまでも若々しくいられる仕事であり、そのことは、光り輝くパリの街を散歩するヴァランスの日常から推察できる。通俗的なテレビ映画への出演は断るなど仕事にポリシーをもっているからこそ、プライベートでは役を離れて自分らしく過ごせるのだ。 街でお洒落な靴を選び、ファンにサインを求められ、孫と一緒に遊び、若い共演女優に惚れられる。強盗に身ぐるみ剥がされた時ですら、惨めなのはどちらかというと強盗のほう。このとき、視線の主体はあくまでもヴァランスにあり、強盗は弱者なのだ。

彼の視線は、アメリカの監督(ジョン・マルコヴィッチ)の依頼による不本意な代役を引き受けてしまうことから、次第に輝きを失っていく。英語の作品である上に十分な稽古の時間がとれないため、彼はセリフを覚えられず、スランプに陥るのだ。与えられたのは年齢よりも若い役だが、メイクやカツラで若づくりをするほどに老け込んでいく鏡の前のシーンは凄まじい。それは、この役が彼に向いていないことの赤裸々な証しなのだ。

この映画のメッセージは、好きな仕事をやれってこと。 縁のない仕事、相性の悪い仕事はやらないほうがいい。そうすれば、いつまでも楽しく生きていけるだろう。だが、ちょっと油断すると、そうはいかなくなる。若者でも老人でも同じことだ。

ヴァランスは家へ帰る。彼には周囲を見る余裕がなくなり、彼をとりまく周囲の視線が主体となる。つまり視点が逆転するのだ。 彼が日々、温かい視線を注いできたパリの街や、一緒に街歩きを楽しんできた観客の私たちが、元気のなくなった彼を不安げに見守ってしまう。

視線というのは、それだけであたたかい。そう思えることがある。最後の最後に、この映画の主役は、本当にすりかわる。自分がつらいとき、誰かがこんなふうに心配しながらも頼もしい視線で包んでくれたらいいな。そんな視線に素直に甘えることができたら、幸せだと思う。

*2001年ポルトガル=フランス合作
*北海道、東京で上映中。大阪で近日上映。
2002-03-19

『匂いのエロティシズム』 鈴木隆 / 集英社新書

文学は、におう。


フランスのパティシエ「ピエール・エルメ」のケーキを初めて食べた感動は忘れられない。美味しい洋菓子の味と言ってしまえばそれまでだが、眠っている脳細胞をくすぐり、遠い記憶を呼び覚ますような「深い味」がした。

私はまだ、衝撃を受けるほど「深い匂い」には出会っていない。パフューマ-(調香師)である著者の「異性のにおい」体験を読んでそう思った。男子校に通っていた17歳の彼は、友人の家に遊びに行った時、友人の姉、弥生さんの部屋をのぞいてしまう。「若い女のにおいと言ってしまえばそれまでだが」と前置きしながら、彼はその部屋の匂いを描写する。

「シーツの上に投げだされたしなやかな肢体のような掛け布団の姿と肌触りのよさそうなパジャマから漂う肌のようなにおいと、シャンプーの香りなのか化粧品なのか、髪の毛のにおいのようでもあるなんとも女っぽい香りがまざりあった、心地よい、からだから力の抜けていきそうなにおいであった」

彼はその日から弥生さんに恋をするが、面識のない彼女への思いは胸にしまい込むよりほかなかったという。実際に会えたのはずっと後、友人の結婚式に呼ばれた時のこと。初対面の美しい人妻に彼は何を感じたか? これはもう短編小説の世界である。

以前ブームとなった「ブルセラ」についても、匂いのプロによる考察は深い。下着を売る女子高生とそれを買う男たちの間に横たわる「エロスと匂いをめぐる意識のズレ」が暴かれ、身体やセクシュアリティにおける匂いの位置づけの曖昧さが指摘される。匂いそのものが抑圧されてきた近代社会では「『芳香』を例外的にポジティブなものと設定しつつ、それ以外のあらゆるにおいを『悪臭』と一括して排除することで、思考の対象から外してきた」のだ。香料の起源は媚薬であり、媚薬の原型は体臭であるにもかかわらず、体臭を消すことに躍起になり、再び香料を振りかける矛盾に本書は切り込んでいく。

「色即是臭、臭即是色、すなわち、エロスは匂いであり、匂いはエロスである」という当たり前の事実に気づかせてくれるのが「匂いフェチ」「下着フェチ」「ラバリスト」たち。彼らの行為はフェティッシュと匂いが不可分の関係にあることを証明する。

匂いと香りの違いは大きいと私は思う。ワインやアロマテラピーでは、悪臭を含む「匂い」という言葉よりも、芳香のみを意味する「香り」という言葉が好まれる。匂いに執着するのは変態だが、香りに執着するのはお洒落なのだ!あからさまに匂いを嗅ぐことがマナー違反とされる社会において、心ゆくまで香りを堪能できる趣味が隆盛である事実は興味深い。赤ワインの「動物臭」や「なめし皮の香り」に凝り出したら、もはやフェチ以外の何者でもないと思うのだけど。

老人向けの売春宿を舞台にした川端康成の小説「眠れる美女」は、セラーで眠っているワインのように、睡眠薬を飲まされて眠っている若い女を嗅ぎ分ける話だ。本書では、この小説が詳細に読み解かれる。「エロスと匂いについて、ここまで透徹した小説を私は他に知らない」と著者は言うが、エロスと匂いについて、ここまで透徹した分析を私は他に知らない。

著者は、弥生さんの部屋の匂いを今も思い浮かべることができるという。
「そのにおいを嗅ぐことを想像するだけで、なんとも胸のうちがくすぐったくなるような切なさと同時に、今でははっきりとエロティックなものとわかるある種の心地よさを覚える。あのにおいは、そのとき引き起こした私の胸のうちのざわめきの記憶まで含めて、決して消え去ることはないのである」


*著者からメッセージをいただきました。Thank you!
2002-03-13

『フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画』 ジョナス・メカス(著)木下哲夫(訳) / 河出書房新社

800万枚の写真を撮った男。


ジョナス・メカス。リトアニア生まれの詩人。強制収容所、難民収容所を経て1949年ニューヨークに亡命。リトアニア語の詩を読める人がいないため中古の16ミリカメラで日記のような映画を撮り始め、アンディ・ウォーホール、ジョン・レノン、ロバート・フランク、ジョン・カサヴェテスらと交流。本書の対談では「生まれた土地にそのまま生きているだけでは、人はただの植物に過ぎません」なんてことも言っている。

最新作「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」(2000年)を見た。彼自身の過去のフィルムから家族の風景を編集し直した作品で、12章から成る288分という長さからしてハリウッド的な商業映画の規範を逸脱している。コマ刻みで短く何度もシャッターを押す撮影手法のせいで、彼の映画は写真の印象に近い。ぶれ、ピンぼけ、ハレーション、多重露光、フィルムの損傷などが叙情的な効果として楽しめる。

本人と妻、2人の子供、猫たちが織り成す生活の断片が次々と現れるが、時間軸はばらばら。ニューヨークの四季、赤ん坊が初めて歩く瞬間、出産する妻の美しさなどの幸せな情景に、ピアノ演奏や、生の音や、編集作業の状況を語る本人のナレーションが重なる。彼は今、かつて気まぐれに撮影した「美しい時の数々」を、さらに気まぐれにつなぎ直しているところなのだ。

「幸福は美なり」「人生は続く」「この映画では何も起こらない」「これは政治的な映画である」などの文字が繰り返し登場するこの映画は、無自覚な幸せの垂れ流しではない。撮影当時の彼の心境を、本書の日記から推察することができる。

1971年4月8日
「自己防衛の手だてにわたしは映画を撮っている。わたしの日記は、ある側面を強調し、ある側面を見せずにおくことによって『都市』、『土地』を正す試みと見てもらってもよい。だから身のまわりのささいなことがらに目を向け、それを愛でようとわたしはくりかえすのだ」

1976年9月16日
「三十年も旅をしたあとで難民が、亡命者がなおどんな思いを抱いているかきみたちは知りたいか。ほんとうに知りたいか。それなら教えよう、聞くがいい。きみたちが憎い!きみたち大国が憎い!(中略)獣同然の暮らしにきみたちが追いやった人びとが絶望に駆られきみたちの飛行機を乗っ取り、爆弾できみたちを不具にし、きみたちが犯罪と呼び、無分別と呼ぶ行為を犯したからといって、かれらを責めるな。かれらにそれ以外の道をとることを許さなかったのは、きみたち自身なのだから。大国諸君よ。わたしたちはふるさとに帰りたい」

映画の中で幸せの象徴として描かれるセントラルパークの春の輝きを見るとき、私たちは、そこに映っていない事象について思いを馳せてみるべきなのだろう。「美しい時の数々」を彼がここまで鮮やかに切り取ることのできた理由について。

本書には、コマ撮りを生かした「フローズン・フィルム・フレームズ」(映画の中の連続した2,3コマを印画紙に焼き付けた作品)12点も収録されている。「写真のような映画」が「静止した映画」に行き着いたのは当然のことかもしれない。
ジョナス・メカスは言う。「私が撮った映画の一コマ一コマを写真作品として換算すると、この三十年間に私は八百万枚以上の写真を撮ったことになるのです(笑)」

*「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」3月9日まで東京・御茶ノ水(アテネ・フランセ文化センター)で上映中
*「ジョナス・メカス展―版画と写真」3月16日まで東京・青山(ギャラリー・ときの忘れもの)で開催中
2002-03-08

『タフ&クール - Tokyo midnightレストランを創った男』 長谷川耕造(著)鹿島茂(プロデュース) / 日経BP社

「権八」で神戸牛を食べたブッシュ大統領。




「ディナーレストランが売っているのは空気です。それは一番危ない商売です。この中にどれだけ競争力をつけるかというと、同業者が来たときに戦意を喪失させるものがたくさんなければならない。すぐにパクられてしまうようではだめです」
長谷川耕造氏率いる「グローバルダイニング」が運営するのは、モンスーンカフェ、ラ・ボエム、ゼスト、タブローズ、ステラート、権八など30店舗以上。私が知る限りでは、これらの店は簡単にパクれるような代物ではない。西麻布の交差点に昨年オープンした蔵屋敷風の居酒屋「権八」の巨大な外観には驚きがあるし、スタッフの愛想のよさや料理の味を含めたお得感は他店の追随を許さない。先月18日、ここにブッシュ大統領と小泉首相らが来店して大騒ぎになったが、彼らが選んだのは単なる日本の居酒屋ではなく、アメリカナイズされた「グローバルダイニング」という企業なのだと思う。この会社が他社と一線を画すものは何なのか。本書を読むとわかる。

人気ドラマ「恋ノチカラ」は、恵比寿の「ゼスト」(の中にあることになっているデザイン事務所)が舞台だ。この店のインパクトも絶大で、本書によると「小物を含めたインテリアはすべて、テキサス郊外の荒野の真っ只中にある業者から、私が買ってきたものです。本物の一等品です。外装のさびた鉄板も全米中からインターネットで集めたんです」とのこと。やはり、目立ち方のスケールが違うのだ。うちの近所にも「ゼスト」があるが、店の前には明け方まで派手なアメ車が並び、夜型生活の私を妙にほっとさせてくれる。

暴力中学生が、死ぬほど嫌いな受験勉強を経て湘南高校に入り、早稲田大学を中退してヨーロッパを放浪し、起業し、上場企業となり、今も夢の途中という物語。失敗談や下ネタまでざっくばらんに語られるのは、この本をプロデュースした鹿島茂氏が高校時代の親友だから。肉体派の長谷川氏と知性派の鹿島氏の掛け合いは、金城一紀氏の小説「GO」にも似て面白い。熱愛で結ばれた前妻(スウェーデン美人!)、3人の娘と今の妻(アメリカ美人!)、旅仲間たち(ヒッピー!)など、お宝アルバム写真も満載だ。

鹿島氏は、仕事には以下の4つのパターンがあると分析する。
1 やりたいことをやって、お金を儲ける。
2 やりたいことをやるが、お金は儲からない。
3 やりたくないことをやるが、お金は儲かる。
4 やりたくないことをやって、お金も儲からない。
多くの人は1を理想としながら、現実には2か3かの選択を強いられ、結果的にどちらも4に移行しがち。だが、長谷川氏にはもともと1か2の選択肢しかなく、社員にも「会社に魂を売り渡さずに、やりたいことをやって金を儲けろ」と言うのである。反逆児を採用し、大リーグのような組織をつくり、年収2000万円の20代店長や時給3500円のアルバイトを抱える会社、それがグローバルダイニングだ。サービスのツボを心得たウエイターを愛し始めた客が「お代わりはいかがですか」と勧められれば、ノーとは絶対言えなくなる。

でも、と私は思う。優秀な人間が残るためのインセンティブ・システムをつくったところで、収入が増えれば増えるほど独立したくなるのが人情では? 自営業的な視点を獲得するほど「自分の店」を創りたくなるのでは? ただ、長谷川氏のような強烈なキャラには「この野郎!」(最も優秀な役員の肉声)と悪態をつきながらも、ついてくる人間が多いのは確かだろう。

長谷川氏の周りには、こうして次から次へとドラマが起こる。
こういう人間でなければ、夢を売るドラマチックなレストランなんて、創れないのだ。
2002-03-06