『良いセックス 悪いセックス』 斎藤綾子 / 幻冬舎

女は、センスで魔法にかかる。


「私は恋愛小説にかこつけて、セックスを書くのを生業にしています」。
20代の中頃までは恋愛を生業にし、手当たり次第に出会った男とセックスしまくっていた彼女は、アラーキーの本を読み「表現するってのは自分自身をさらけ出すんだってこと」を熟知したという。

ただし、さらけ出せばいいというものではない。何をどこまでどんなふうにさらけ出すかが重要であって、そこに個性があるから「生業」になるのである。豊富な経験を生かし、引用するのがはばかられるような大胆な言葉を使えば、誰でも斎藤綾子になれるというわけではない。

彼女の特質はキャパシティの広さだ。「付き合った相手から、いただけるものはすべていただく」という彼女は、男を選ばない。男を選ばない? うっそー! しかし、彼女の過去は真実味にあふれている。そんなタダれた生活を送っていても、心身がタダれなかった(ように見える)なんて、只者ではない体力だ。彼女は要するに、健康で強い女なんだろうなと思う。

不健康で弱い部分を自覚する大多数の女は、男を慎重に選ばざるを得ない。ちょっとでも危険な目にあったり傷ついたりしたら、苦しんだり病気になったり死んでしまったりするからだ。相手は、健康で強くて優しくてお金がある男でなければならない。

彼女の場合「私は金離れのいい男としか付き合わない女であった」と随所で強調しながらも、記憶に残っているのは成金おやじとのバブリーなデートや高価なプレゼントでは決してないことに着目したい。百戦錬磨の女の身体には、一体何が刻印されるのか? このことを発見するために本書はある!彼女に恋の魔法をかけてしまった男とは、どんな男なのか?

(例1)
行きずりみたいな出会いでアパート1階の狭くて暗い男の部屋に連れて行かれた彼女は、和室に敷かれた煎餅布団で、すごく気持ちいいハードなセックスをする(でも、それだけだったら、きっと彼のことなど忘れちゃってる、と彼女はいう)。タバコを買いに出て行った彼は、帰ってくるなり彼女の体にポケットいっぱいに摘んできた沈丁花の花びらを振り撒く。一瞬にして気が狂いそうなほどいい香りに包まれた彼女。「それが媚薬になったのか、夜露に濡れた冷たい花びらを股間にくっつけたまま、夜が明けたのも気づかずにセックスし続けちゃったんです」

(例2)
ある男の部屋に初めて遊びに行った夜、彼が突然、自分のお気に入りの服を引っ張り出し、彼女に着替えろと言う。それまで男物の服を着る機会なんてなかった彼女は大はしゃぎ。彼に手を加えてもらい、マニッシュな感じに仕上がったところで二人は夜の街に繰り出す。「結局、私が服を返してもらえたのは三日後。泊まらずにすぐ帰るつもりで遊びに行ったのに、涙が出るほど楽しくて、仕事も休んで二人で死ぬほどセックスしちゃいました」

幸せな話だ。お金がなくても、こういうことができる男は、女にとって忘れられない存在になる。大切なのはレストランの下調べではなく、オリジナルな発想で女を飾ってあげること。きれいだよと囁くのは初級。服やアクセサリーをプレゼントするのは中級。上級者は、こんな遊び心で女を魔法にかけちゃうのである。

彼女は、小道具やムードを上手く利用する男には心底グッとくるそうで「どんなに悪い男だろうが、別れた後、切ない思い出になって残る」という。だけど、こんなふうに言い切ることができるのは、やっぱり健康で強い女だけ。不健康で弱い部分を自覚する大多数の女にとって、悪い男は致命的。切ない思い出を食べて生きていくことなどできないのだから、体力のない女は、もう少し現実的である。
2002-06-07

『ブルー』 デレク・ジャーマン(監督) /

終わらない夢。


青が好きだ。水色でも紺色でも藍色でも青緑でもいい。気が付くと、ブルー系統の色に引き寄せられている。
なぜ好きなのかと考えてみたら、空の色だからという結論が出た。子供のころから、空ばかり見ていたような気がする。

カメラを使用せず、延々とブルー1色の画面を75分間映すというこの映画には、期待するものがあった。ブルーを見ていて飽きるなんてこと、私には考えられなかったから。

デレク・ジャーマンの遺作だ。音声と語りによって、エイズウイルスに冒されていく自身の日常が淡々と描かれる。カフェの音、病院の音、街の音、波の音・・・だけど画面はブルーのまま。

最初は字幕がじゃまだと思った。ブルーの部分が減ってしまうからだ。
それから次第に、目が疲れてきた。そう、このブルーは、まぶしすぎる。

ブルーの画面が最もリアリティを獲得したのは、目が見えなくなりつつあることの恐怖が語られたとき。変化のないのっぺりとした明るさが、生殺しの悪夢を彷彿とさせた。影もなく、光もなく、漠然とまぶしいだけの世界。永遠に日が沈まず、安らかな眠りの訪れない世界。

中途半端なまぶしさに耐えられなくなり、私は目を閉じる。 この映画のブルーを凝視し続けることは拷問に近い。こんな狂気に近いブルー、癒されないブルー、うるさくて落ち着かないブルーは初めてだ。まるで熱にうなされているかのよう。

ここまでシンプルな映画が「うるさい」なんて、考えてみれば、すごい。いくら削ぎ落としても、落としきれないほどの思いがあふれているということだ。デレク・ジャーマンのパワーは、マイノリティとして社会から受けた悔しさが原動力になっていると思われるが、そのことによって彼が失ったものと、生み出したものと、どちらが大きかったのだろう?

ただひとつ、思う。悔しさに由来した表現というのは、決して終わることがないのだと。
表現者は、恨みを晴らすことができぬまま死んでゆくが、その後の人々は、彼のおかげで楽に生きることができる。

私のパソコンのディスプレイも、ブルー1色。微妙にグリーンがかったブルーだ。自分で設定した色なのだから、かなり気に入っているけれど、やっぱりまぶしい。毎日、この色を長時間ながめながら仕事している。

私の仕事は、何に由来しているのだろう? 明日、空を見ようと思った。

*1993年 イギリス=日本映画
*渋谷・シアター イメージフォーラムにて 5月21日、23日、25日、28日、30日に上映
2002-05-20

『愛の世紀』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

好きだから、挑発する。


ゴダールが40代の時に撮った映画「ウイークエンド」には、こんなやりとりがある。
「オレの日本車(ホンダS800)にさわるな」
「ギア・ボックスはポルシェだろ?」
この突っ込みには、ほとんど意味がない。

一方、70代で撮られた「愛の世紀」には、こんなやりとりがある。
「ロータスだね。父がチャップマンと知り合いだった。このクルマを発明した人」
「あら、そう?」
「歴史は嫌いかい?」
この突っ込みには、ものすごく意味がある。ロータスエリーゼに乗っているのが米国の黒人女性だからだ。他のシーンでも「ハリウッドには物語も歴史もない」「アメリカ人に過去はない」「記憶がないから他人のを買う」というような辛辣な言葉がくりかえされる。

ゴダールの小舅化(!)はかくも著しく、「愛の世紀」では、映画への愛としかいいようのない皮肉やうっぷんを具体的なストーリーにのせている。ただし、作品の完成度が高いわけではなく、何かがわかりやすく結晶しているわけでもない。相変わらず破壊的で挑発的な映画だ。たとえば喋っている人間が画面に映らなかったりするから、その場に誰と誰がいるのか全然わからないし、モノクロの「現在」に対し、鮮やかなデジタルカラーで「過去」が表現されるというあまのじゃくぶり。主役の女性はいつのまにか死んでおり、船、ヘリコプター、列車などの移動アイテムが時間的、物理的な距離を物語る。

インタビューの中でゴダールは言っている。
「私は原則的にいつも他の人たちがしていないことを選んでやっている」
「議論がしたい。哲学的な意味で。しかし、もう誰もそんなことはしたがらない。(中略)彼らはこう言うだけなのだ、『見事です、感動しました、何も言うことができないなんて、ひどいですよね?』と」
「昔は仲間も多かったし、完璧な信頼関係があった。今では映画作家たちの関係は崩れつつある。だが、まだ絶望することはない。(中略)技術は自分のものであり、特権だ」

ゴダールと同世代の、青山の鮨屋の店主は言う。「銀座にも青山にも仲間がいなくなってしまった。今や築地にも軽口たたき合える相手はいない」と。齢をとるとは、気心の知れた人間が周囲にいなくなるということなんだなと私は理解した。生涯現役を貫く職人は、若い世代から距離を置かれ、こんな無謀な映画を撮っても「巨匠」とあがめられてしまうのである。
最近、鮨屋の目の前に、流行りの巨大なスシバーができた。なるべくなら、私は鮨屋に行きたいと思う。説教されちゃうけど、美味しいんだもん。技術を純粋に楽しむのだ。

70代のゴダールにとって重要なのは歴史だ。モノクロで描写されるパリの街は、ゴダールの原点であるドキュメンタリーになっているし、セーヌ河の小島に立つルノーの廃工場を長回しで撮ったシーンも忘れ難い。この工場が安藤忠雄の手で美術館に生まれ変わるというのも楽しみだが、歴史をフィルムに残そうという思いも美しい。愛ってこういうことなのだ。風景こそが映画であり、登場人物は何を語ったっていい。

女「(彼と)別れてからいろいろ考えだしたら、物事が意味を持ち始めた」
男「おもしろい言い方だ。あることが終わり、あることが始まる。君のでも僕のでもない物語。僕らの物語が始まる。親しくはなくとも。物語=歴史」

この映画、愛し合う2人が登場するわけでもないのに、愛にあふれている。他人の愛に絶望することはあっても、世界に対する愛が自分の中にあれば、それが失われることは決してないのだ。

*2001年フランス=スイス映画
*日比谷シャンテシネで上映中
2002-05-08

『ウイークエンド』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

こわされる快感!


新鮮なニュースはインターネットで届くけど、斬新なメッセージは不意に過去からやってくる。
1967年の映画が、2002年の現実にくさびを打ち込む驚き!
ポップでキッチュでおしゃれで笑えるポリティカル・ロードムービー。それが「WEEK-END」だ。

悪夢のような週末は、こんなシーンから動き出す。遺産目当てにオープンカー(ファセル・ベガ)で妻の実家へ向かう夫婦。彼らはアパートの駐車場を出発する際、バックした勢いで後ろのクルマ(ルノー・ドーフィン)にぶつけてしまう。子供が騒ぎ出したため、夫は金を渡してなだめるが、彼は再び騒ぎ出す。かくしてルノーの持ち主である子供の両親が登場し、各自がペンキ、テニスラケットとボール、弓矢、猟銃といった武器を駆使しての乱闘となる。「成り上がり!」「ケチ!」「コミュニスト!」となじりあう2家族。徹底的にふざけたシーンだが、こんな些細なケンカこそが、あらゆる争いの原点なのだ。

延々と続く渋滞。おびただしい死体と事故車。非現実的なシーンの連続は、嘘っぽいけれど嘘じゃない。週末って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

さまざまな困難が夫婦を襲い、実家への道のりは遠い。親を殺すという目標があるから、夫婦は力を合わせて生き延びる。が、本当はそれぞれに愛人がいて、遺産を手にした後は互いに死ねばいいと思っているのだ。クルマが事故った時、妻が絶叫する理由は、大切なエルメスのバッグが燃えてしまったから。このシーン、コメディなんかじゃない。人間って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

妻が男の死体からジーンズを脱がして履こうとすると、夫は「それを脱いで道路に寝転んで足を開け」と言う。ヒッチハイクのためだ。妻が通りすがりの男に乱暴されたときも夫は平然としているのだが、最終的にこの夫婦、どっちが勝つか?ラストシーンは、一見残酷なように見えて、ちっとも残酷じゃない。 弱肉強食って本来こういうことなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

屋外で、ピアニストが下手なモーツァルトを弾きながら「深刻な現代音楽」を批判するシーンも印象的。これって、NYの個人映画作家たちへの当てつけだろうか? その代表的存在であるジョナス・メカスは1968年、「メカスの映画日記」の中で、「(ゴダールは)いまだに自由になるための最後のきずなを断ち切っていない」「いまだに、資本主義の映画、親父の映画、悪質な映画と通じ合っている」と断じている(by ミルクマン斉藤氏)。

たしかに「WEEK-END」は「深刻な現代音楽」(個人映画)ではないし「モーツァルト」(ハリウッド映画)でもない。商業映画へのアンチテーゼを同じ土俵で提示した「下手なモーツァルト」であり、モーツァルトの和音に基いた「POPな現代音楽」なのだと思う。

世の中のキレイ事やガチガチの文法を鮮やかに解体するこの映画は、感動や趣味や思想を一方的に押し付けたりしない。ただひたすら、こわすのみ。だから、見終わった後、とても軽くなれる。こんな映画がGWに上映されるなんて面白すぎ。渋滞の中をクルマで出掛けるか?この映画を観るか? 夢のような選択だ。

個人的には、登場人物の一人ジャン=ピエール・レオーのごとく、ホンダS800でエゴイスティックに逃げ切る旅が楽しいと思う。だけど、この映画を観てからお気に入りのクルマを選んでも遅くはない。人生100倍楽しくなることは確実!

*1967年 仏=伊合作 仏映画
*渋谷ユーロスペースで上映中
2002-05-03