『戦場のピアニスト』 ロマン・ポランスキー(監督) /

感動を強要しない描写。


ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した1939年。ワルシャワのユダヤ人はゲットーと呼ばれる居住区に移され、ドイツ兵とユダヤ警察による虐殺行為に脅える日々を過ごした―

「戦場のピアニスト」は、シュピルマンという一人のピアニストが、こんな時代をどう生きのびたのかを、彼自身の回想録をもとに淡々と描写する。

「ザ・ピアニスト」という原題が示す通り、これは職業についての個人的な映画だ。「ザ・ジャーナリスト」でも「ザ・コック」でも「ザ・タクシードライバー」でもいい。戦場において自分の職業はどうなるのか? ピアノのないピアニストは、ペンのないジャーナリストは、食材のない料理人は、クルマのない運転手は、戦場で何をすべきなのか? 考えてみる価値がある。

シュピルマンは、ユダヤ系ポーランド人である前に、マッチョなオトコである前に、ピアニストだった。ユダヤ人かと訊かれれば言葉を濁すしかないし、肉体労働も満足にできないが、仕事はと訊かれれば極限状況においてもピアニストと答えることができた。彼を2000年(88歳)まで生かしたのは、そんなピュアな職業意識だと思う。有名なピアニストであることなど戦場では何の役にもたたず、ただ逃げ隠れするだけのひ弱なシュピルマンだが、それこそが彼の個性であり生き方だった。家族全員を失っても、死の淵をさまよっても、再び演奏することへの希望を捨てなかったから生きのびることができたし、運命は彼にそれを許したのだろう。

隠れ家に潜伏し、音を立てることすら叶わぬ状況の中、シュピルマンは空想の中でピアノを弾く。誰にも犯すことのできない聖域としての想像力は美しく、あらゆる職業への強い肯定感を与えてくれる。彼がドイツ軍将校に命じられるまま、廃墟と化した町の空き家で2年ぶりにショパンを弾くシーンも忘れがたい。シュピルマン役を見事に演じ切ったエイドリアン・ブロディもまた、どんな非常事態においても俳優として生き続ける力を得たにちがいない。

シュピルマンは、戦争が終わったら再びラジオで生演奏の仕事をするとドイツ軍将校に伝え、将校は、必ずラジオを聴くよと言う。だが、こんなふうにシュピルマンを助けたフレンドリーな将校でさえ、聖人として描かれるわけではなく、ドイツ軍の敗北により捕らわれの身になれば、かつて助けたシュピルマンに恩返しを求めるようなリアリティのある人物として描かれるのみだ。感動という言葉が似合わない抑制のきいた描写は、この映画の最大の美点だと思う。

シュピルマンは、そんな彼を救うべく、ポーランドの権力者に直談判したが要求は果たされず、将校はソ連軍の戦犯収容所で亡くなったという。

事実には、教訓もオチもない。将校は1952年に死に、ピアニストは2000年まで生きた。二人とも、もういない。私は、ポーランドで同様の体験をしたという監督がすみずみまで共感したのであろうピアニストの個人的な記録を、ひとつの歴史として素直に受けとめることができた。

*2002年 ポーランド、フランス合作
*カンヌ国際映画祭パルムドール受賞
*全国各地で上映中
2003-03-15

『リトル・バイ・リトル』 島本理生 / 講談社

校生作家がまともに描く、まともでない食事。


経新聞夕刊のコラム「旬の一句」(2/22付)で、女子高生の文章が紹介されていた。
著者が勤務する高校では、毎年オーストラリアに交換留学生を出しており、ホームステイ後にレポートを提出させているのだ。

「さてさて始まりました16歳の旅。入国検査はマジでめっちゃ大変!英語でペラペ~ラと言われて目がハテナになった…(☆○☆)(いっちゃん大ぴ~んち!)ほいでもなんとか通過して、やっと入国できたぁ~と思い、胸を弾ませ外へ出ると私のホストが!!!いなかった…(負けるな!)着いてバスから降りるとホストがいた。(おせ~んだよ!)(冗談♪ちょい本気)おっと、ここでマイホストを紹介しておこう◎彼女の名前はNyta、彼氏は募集中。(紹介終わり)ラリア(オーストラリア)のナマリは思った以上に意味プーだった…(×○×)ほぇ~。しかし、わけも分からず、Yes,Yesと言って乗り切った。ってかラリアは想像以上に寒かった…」

これを読んだ国際理解教育部長なる人物は激怒したそうだ。著者はこうコメントする。
「若者たちは、寸暇を惜しむように、メールのやり取りに没頭している。このレポートには、その影響があきらかだ。この生徒は、ふざけているのではない。これが、今の女子中高生たちの日常的な言語感覚なのだろう」

なぜ、この文章が激怒の対象になるのだろう。十分に面白いし、臨場感が伝わってくるではないか。私も携帯メールでは同じような文を書いており、公開しないという点のみが唯一の違いだ…などと考えていた矢先、高校生作家の芥川賞候補小説「リトル・バイ・リトル」のあとがきを読んで驚いた。

「明るい小説にしようと、最初から最後までそれだけを考えていた。淡々と流れていく日々を照らす光を書きたかった。この小説の中で主人公をとりまく状況は少し困難なものかもしれない。けれど、そういう状況に対抗できる唯一の手段は明るさではないかと思う。大変なときに笑っていられるだろうかと思われるかもしれないが、大変なときにこそ笑っているべきだと、笑うこと以上に人間を裕福にできるものはないと、私は信じている」

何てまともな文章だろう。まともすぎて面白みがない。しかし、私はそのことに驚いたのではなく、彼女が意図したような「明るさ」や「笑い」をこの小説から受け取ることができなかったことに驚いたのだ。つまり、このあとがきは、実は相当面白いのかもしれない―

「リトル・バイ・リトル」には食べ物がたくさん登場するが、いまひとつ美味しそうではない。

「ポケットに手を入れると、中から裸のサンドウィッチを取り出した」「1週間前のフランスパン」「少し焼きすぎた豚肉のショウガ焼き」「カキフライの三倍は量がある山盛りのキャベツを前にウサギになったような気がしながら重い胃にごはんを少しずつ入れた」

食べたばかりなのにまた食べなければならない、というシーンが多いのも異常。「周といるときは、いつも食が充実している気がする」などと「私」は言うし、「私」の不器用な料理に対し「この一ヶ月の食事の中で、きょうの夕食が一番おいしいです」などと周は言うが、私がこの小説から受け取ったのは、食にまつわる痛々しい空気に他ならない。何でもありの現代において、食生活をどうするかというのは大問題。「幸せな食事」を日々実現するのは、ものすごく難しいことなのだ。

携帯メールの文章が、限定的なコミュニケーションのための厳密なルールに基いているのに対し、小説の文章には、そのようなルールがない。まともな文章とは、より自由な広がりをもつ文章でもあるのだと、当たり前のことを私は思った。
2003-03-04

『アレックス』 ギャスパー・ノエ(監督) /

最低な男たちの、リアル。


壮絶な暴力シーン。
リアルなレイプシーン。
逆行する時間。

この映画の特長とされる3つの点については、特に印象的ではなかった。暴力シーンは壮絶じゃないし、レイプシーンはリアルじゃない。時間を逆行させる意味もないんじゃないかと思う。もう少し普通に撮ればいいのに。狙いすぎだし、加工しすぎだし、お金をかけすぎだ。

冒頭、2人の男がゲイクラブの上のホテルの部屋で交わす会話は、とてもいい。
娘と寝た罪で刑務所に入り、すべてを失った男は言う。
「時はすべてを破壊する」
もう一人は言う。
「悪行なんてない。ただ行為があるだけだ」

前作の「カノン」とまったく同じ考え方だ。すばらしい。同じエンターテインメントなら、「カノン」のようにシンプルなほうがいい。話題性を獲得し、収益を増やすためには、人気俳優をカップルで起用したり、画面をもたせるための編集や加工をすることが必要なのだろうか。そのことが作品をつまらなくする要因となっているのだとしたら、残念なこと。

この映画は「幸せに愛し合っていたアレックスとマルキュスなのに、レイプ事件によりすべてが破壊されてしまった」という悲劇のストーリーのように一見みえるが、そうではない。アレックスの恋人マルキュスも、元恋人ピエールも、レイプ男テニアも、全員が同じくらい最低なのであり、「強姦」と「愛の行為」は同質なのだ。このことを発見すると、この映画は少し面白くなってくる。「悪行なんてない」という冒頭のセリフが生きてくる。

アレックスがレイプされたのは、彼女と一緒にパーティに来たマルキュスとピエールが、先に帰ってしまった彼女を送っていかなかったからだ。あんな挑発的なパーティファッションの恋人を一人で帰らせてはいけないというのは常識。少なくともタクシーを拾ってあげることくらいはするべきだ。ほかのシーンで彼らの魅力が描かれていればまだ救いがあるが、マルキュスは、彼女をほったらかしてクスリをやったり、ほかの女にちょっかいを出すなどのダメ男ぶりだし、彼女に未練たっぷりのピエールも、マルキュスを恨むわけでもなく、代役を果たすわけでもなく、中途半端にでれでれしているのみ。レイプ事件の後の2人のキレ方も、明らかに筋違いだ。いいとこ全くなし。

3人でパーティに出かける地下鉄のシーンは面白い。彼らは通路を挟んで不規則に腰掛け、公共の場でセックスについてあけすけに語り合う。ピエールは、自分がかつてアレックスを満足させることができなかった理由を知りたがり、アレックスとマルキュスをしつこく問い詰める。2人の男の間で幸せそうなアレックスだが、それらの議論は本質ではなく、2人とも結局は何の役にも立たないダメダメな男たちだったのだという事実が空しく際立つばかりだ。

監督は、暴力シーンの舞台にゲイクラブを選んだ理由をこう語っている。
「映画の大部分を男だけにしたかった。地獄のヴィジョンがゲイクラブなのではなく、男しかいないのが地獄のヴィジョンなのだ」

まさに、女にとって最低な男ばかりが登場する、地獄の映画。

*2002年フランス
*全国各地で上映中
2003-02-19

『インフォアーツ論―ネットワーク的知性とはなにか?』 野村一夫 / 洋泉社

インターネットに、欠落しているもの。


「品性のある技術エリート集団」がつくりあげた市民主義的なオープンでフリーなインターネット文化。その力が一気に失われ、「ダークサイド」が露出し、「暗澹たるテキスト」が氾濫する要因となったのは、「匿名性」「統制主体の不在」「大量性」の3つだと著者はいう。

「ネットが市民を育てる力を失っているとしたら、それはあえて『教育』しなければならないだろう。それゆえ私は『情報教育』にこそカギがあると考えている。ところが話はそうかんたんではない」

著者は、日々の学生とのつきあいの中で、彼らが「クチコミ依存的で保守的」であることを感じている。メールもコミュニケーションもショッピングも携帯でそこそこ間に合わせ、レポートを書くときも、図書館で文献にあたるのではなく、ウェブ上のテキストデータをカット・アンド・ペーストしてつくってしまう。知的土台がない上に、談合的集団行動によって教育的配慮を台無しにするという二重の意味を込めて、著者は彼らを「台無し世代」と呼ぶ。

「こちらとしては、剽窃にならないように出典を明記し、引用と地の文を明確に区別するという作法を強調しているのに、台無し世代はその正反対にはまってしまう。これでは、可能なかぎりオリジナルなソースにあたるという学問の基本からますます遠ざかることになる」

そんな学生たちの態度と呼応するように、「なぜ専門家はネットに出てこないか」が考察される。

「ネット上での関連テーマに関する言説には専門家以外の多くの人びとがかかわるので、言説が無数に存在することになる。専門家の流儀にしたがって、これらをチェックした上で、リンク集を作るなり、反論するなり、情報提供するなりのことをするには、あまりにも手間ひまがかかることになる。しろうととしてであればかんたんに発言できても、こと専門家としてとなると、無防備にはいかない」

インターネットの限界は明らかだ。ネット上には「じつはもっとも市場価値のあるコンテンツ(市販書籍のコンテンツ)が見事に欠落している」のだから。

ネット上のさまざまなテキストを読むことに、私たちは多くの時間をとられるようになった。本や新聞を読む時間は必然的に減ってしまう。本を読まなくなると文章を書かなくなるかいうとそんなことはなく、多くの人が、大量の携帯メールを毎日打っている。

だが、こういうことに時間をとられていたら、大学のレポートなんてネット上からのカット・アンド・ペースト以外、ありえない。図書館にいって調べる時間や動機なんて、どこからも生まれない。そして、いちばん大きな問題は、ネット上に図書館がないということだ。

すべての書籍をインターネット上で閲覧できるようになった時、インターネットの真価は発揮されると思う。今のところ、パソコンの前にすわり続けている限り、本当にほしいテキストに行き当たることは難しいし、責任の所在が不明な情報に行き当たることも多い。

ネット上には新しい情報のみが氾濫し、過去の資産に関しては本当に貧しい。携帯メールだけではコミュニケーションの真の喜びが得られないのと同様、ネット上ではオリジナルと出会う喜びが得られない。

早くインターネットで古今東西の書籍が読めるようになればいい。その困難については本書でも言及されているが、「未だヴィジョンにすぎない」という「デジタルライブラリー」が完成したら、その利用の仕方を系統立てて教えてくれる大学に、私も通ってみたい気がする。
2003-02-13

『ボウリング・フォー・コロンバイン』 マイケル・ムーア(監督) /

国家にもメディアにもこの映画にも洗脳されないために。


上映終了後に拍手が沸き起こった。映画祭などを除けば久々の体験だ。

1999年4月20日、コロンバイン高校の2人の生徒が図書室で銃を乱射。学生12人と教員1人の命を奪い、23人に重症を負わせた後、自殺した。2人はマリリン・マンソンに心酔し、事件当日の朝はボウリングをやっていた。

こんなアメリカに誰がした?…暴力的なテレビゲーム?アニメ?ハリウッド映画?…殺戮の歴史?貧困?不況?…家庭崩壊?マリリン・マンソン?ボウリング?

監督は、同級生や街の人々に話を聞き、事件の本質に迫ってゆく。絵にならない事件は報道できないという番組のプロデューサーや、銃社会を過激に擁護する全米ライフル協会の会長のもとに出向き、改善や謝罪を要求する。弾丸を無制限に売るKマートには被害者とともに乗り込み、具体的な成果をあげる。

米国がおこなってきた殺戮の歴史映像のバックに流れるのは、ルイ・アームストロングの「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」。このミスマッチな組合せが、実はちっともミスマッチでないことに唖然とする。殺戮の歴史は、米国にとって悲劇でも怒りでもギャグでもない。マジな日常の積み重ねなのだ。

タランティーノのポップな身軽さと、原一男の執拗さを兼ね備えたパワフルで説得力のある映画。現実に鋭く切り込みながら、プロパガンダ的な押し付けがましさがなく、リベラルな視点をもっている。そして私たちはメディアの責任を実感する。日々、視聴率と時間に追われるTV報道がいかに一面的であるか。もう少し足をのばせば、もう少し調べれば、もう少し人々の声に耳を傾ければ、圧倒的に広い視野が開けるのに。

こういう映画が大ヒットするアメリカには、まだ救いがある。だが、今までどうしてなかったのか、どうして他にないのかとも思う。この映画の視点だって、ある意味で個人的な偏見に過ぎないのだから。これ1本ではダメだ。

事件によりバッシングを受けたのは、ブッシュ大統領ではなくマリリン・マンソンだった。問題は銃そのものではなく、他人に対して感じる恐怖が原因なのだと彼は静かに語る。アメリカの文化は、人々を怖がらせることによって消費をかきたてる。国家とメディアが結託して洗脳の構造をつくっているのだ。

東京も、無関係ではないなと思った。日々の恐怖や孤独とどう闘っていくか?いかにして周囲にまどわされることなく強靭な精神力を保っていくか?

人は、安心のためにさまざまなものを買い、皆がいいというものをさらに買う。高額の保険に入り、セキュリティを強化し、それでもびくびくしながらすごす。やがて武器を所持し、所持しているだけでは安心できなくなる。武器や宝物を所持することで、ますますおびえ、家の鍵を増やさなくてはならない。

銃の所持率が高く失業率も高いカナダで、なぜ殺戮事件が少ないのか。
問題解決のためのヒントが、そこにある。

*2002年 カナダ
*カンヌ国際映画祭55周年記念特別賞受賞
*恵比寿ガーデンシネマ、札幌シアターキノで上映中
2003-02-04

『ボクが教えるほんとのイタリア』 アレッサンドロ・ジェレヴィーニ / 新潮社

KISSのしかた、ビデの使い方。


「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見ようと思って恵比寿ガーデンプレイスに行ったが、終日満席とのこと。
アメリカが好きな人も、アメリカが嫌いな人も、マリリン・マンソンが好きな人も、皆この映画を見に行こうとしているのだから(推測)、当然かもしれない。

というわけで、今日はアメリカのことは忘れ、イタリアのことを考えることにした。

Elio’s Caffeで冷たい飲み物と冷たいデザートを食べた。とても美味しかったが、映画が見れなかったこともあり、その前にちょっとつらいことがあったこともあり、なんだか心も身体も冷たくなってしまった。だからホットワインを追加した。

ドゥマゴのホットワインより、オーバカナルのホットワインより、シチリア島で飲んだホットワインより、美味しい。
あー、来てよかった。何かがダメになってしまった場合、それ以上の体験を得るために、それはダメになったのではないかと信じることも人生の醍醐味のひとつである。たとえ、1杯のホットワインのためだったとしても・・・。

Elio’s Caffeのスタッフは楽しそうだ。イタリア語がとびかっている。こういう店でアルバイトしたら前向きな日々が過ごせそう。日本人ばかりなのにイタリア語で声をかけあう意味不明なリストランテも多いけれど、ここは、スタッフも客もイタリア人率が高い。「今日はワインがよく出たねー」とのこと。

本書には、巻末に「エスプレッソチェック」というのがついていて、スタバやドトールを含む東京の40店舗をカップ5つ満点で採点している。「5つカップ」の店は5店舗だけだが、そのひとつにElio’s Caffeも入っている。

著者は、日本人のOLが「ワインが好きなのでイタリア語の勉強を始めた」と言うのをきいて驚いたという。イタリア人は、酒好きということを人前であまり告白しないらしい。ワインは値段が安かったりすることもあり、お洒落なイメージではないのだ。「酒好きである」ことは人間の一種の弱点なのだと・・・。たしかに、「ワンカップ酒が好きで日本語の勉強を始めた」というイタリア人の女の子がいたら、びっくりするかもしれません。

こういうことが知りたかったんだ、という潜在的な好奇心をくすぐるイタリア文化ガイドだ。
たとえば、今まで誰にもきけなかった「イタリアのホテルに必ずあるビデ」の本当の使い方・使われ方。性別にかかわらず、好きなように使えばいいんだってことがわかり、世界が広がった。自由ってすばらしい。
それから、挨拶としてのKISSはどんな気持ちで、どんなふうにすればいいのかってこと。不快なKISSもあるのだとわかり、溜飲が下がる思いがした。つまり、不快と感じてもいいということなのだ。安心した。自由ってすばらしい。

フィレンツェやサルディーニャが舞台となっているのに悪趣味な好奇心をくすぐるだけの映画「ハンニバル」とは対照的な本である。
2003-01-28

『白夜(ニュープリント修復版)』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

ミステリアスな男は、現実的な男よりカッコいいか?





1年後に戻ると約束した恋人を橋の上で待ち続けるナタリアと、そんな彼女に惹かれるマリオ(マルチェッロ・マストロヤンニ)。ドストエフスキー原作、3日間の物語だ。

運河の街を再現した幻想的なスタジオで繰り広げられるおとぎ話は、すべてが嘘っぽい。ナタリアとマリオの出会いからしてインチキくさいナンパだし。だが、「出会い方なんてどうだっていい」というマリオのセリフから、次第に映画はリアリティを獲得してゆく。セットのうそっぽさ、設定の不自然さ、男女の出会いの安直さに自らつっこみを入れ、乗り越えてしまうのだ。ヴィスコンティは言う。「この映画はリアリズムのある映画であり、しかし同時に、夢の中をさまようような可能性も残したかった」

ミニマムな制約の中での現実的なコミュニケーションが面白い。人はどのように他人に先入観を抱いたり、距離を縮めたり、理解しあったり、友達になったり、万が一には好きになっちゃったりするのか? 普通の女と娼婦を、男はどう区別するのか? ただすれちがうだけの他人とのコミュニケーションこそが大切なのだと、この映画は気付かせてくれる。日々すれちがう他人に対して無神経な人に、いい出会いなんてありえないのだ。これ、重要なことである。

おとぎ話度が最も強烈なのは、ナタリアと恋人の出会いと別れの回想シーン。彼女の話があまりに現実ばなれしていることから、マリオは「おとぎ話を信じるな。現実を見ろ」と言う。正論だ。だって彼女は、恋人の職業も知らないし、恋人が1年間、彼女を置いてどこかへ行かなければならない理由すらも聞いていないのだから。ナタリアが一目ぼれで恋に堕ちた理由は、彼がハンサムであるからという以外に思いつかない。そんな彼女にマリオは自らの願望をしのばせつつ「彼は戻らないよ。僕は男だからわかる」と言い切る。

3日目の夜になっても、恋人は橋の上に現れない。ナタリアは「1年間愛し続けた私を、彼はこんなふうに裏切ったんだわ」と強気のセリフを初めて口にし、マリオは狂喜乱舞。が、雪の中、夢みたいな夜を2人で過ごした後、彼女の恋人は現れる。そして、彼女はあっさりと彼の元へ舞い戻ってしまうのである。呆れてしまうようなこのエンディングは、今見ても斬新。

ミステリアスな男は有利である。映画を観ている私たちだって、ナタリアの恋人については、ほとんど何も知らないのだから。こんな男が1年後にちゃんと戻ってきたら、3日前に軽いナンパで出会った男が太刀打ちできるわけがない。マリオはといえば、下宿先で女主人に起こされる朝の風景から、橋の上の娼婦についていっちゃうシーンまで、スクリーン上で暴かれてしまっているのだから、もはやダメダメである。

しかし、言うまでもなく、マストロヤンニ演じるマリオは素晴らしい。「よくわからないけどかっこよさげな男」より、「すべてをさらけだしてあっさりふられちゃう男」のほうが、観客にとっては「いい男」に決まっているのだ。つまり、この映画は2つの意味でハッピーエンドである。ナタリアはわけのわからない恋人とうまくいった。そして、いい男が一人、まだスクリーン上に残っている。

娼婦(クララ・カラマイ)の存在感も忘れ難い。「私だって誰にも頼らないで生きてるんだよ」というセリフは目からうろこであった。ナタリアのような普通の女は男に頼って生き、橋の上の娼婦は男に頼らずに生きているのである。

*1957年 イタリア・フランス合作
*ヴェネツィア映画祭銀獅子賞受賞
*シネ・リーブル池袋で1月10日までモーニングショー上映中
2003-01-09