『イラク戦争を問う』 川村晃司 / 朝日新聞 3/22

メディアは無気力の源泉?


3月22日の朝日新聞オピニオン欄「イラク戦争を問う」への寄稿の中で、テレビ朝日コメンテーターの川村晃司氏(カイロ、ニューヨーク特派員を経て現職)が、アメリカとイラクのメディア操作の例を挙げていた。

「アメリカはベトナム戦争での経験から、メディアを味方につけることの大切さを学んだ。世論を動かすことを目的としたメディア操作に関しては、イラクよりはるかに洗練されている。湾岸戦争の時には、クウェートの若い女性が米国議会で、涙ながらに証言に立ち、『イラク兵が保育器の中の乳児を投げ出して殺した』と語り、国際世論を大きく動かした。この証言はクウェート政府がスポンサーとなり、米国の広告代理店が駐米クウェート大使の娘をモデルに使って演出した嘘の証言だったことが1年半後に明らかになる。しかしその時には、軍事戦略上の目的は完全に達成された後だった」

「一方、イラク側はアメリカの非人道性を訴えるため、400人以上の民間人が犠牲になったバグダット市内のシェルターと、化学兵器工場とされて爆撃を受けた粉ミルク工場に外国メディアを案内した。シェルターには黒こげとなった婦女子の遺体が並んでいた。私を案内してくれた検閲官は涙を流し、赤ん坊の遺体の脇で嘔吐していた。この時私は初めて検閲を受けずにリポートすることができた。しかし、粉ミルク工場とともに破壊された隣接工場については説明がなされず、取材も拒否されるなど不自然な印象が残った」

「『従軍記者』と『戦場記者』は異なる。最大の違いは、現場が語りかけてくる事実と多角的に向き合うことができるか否かという点であろう」

「最近のメディアの傾向として心配なのは、国益と地球規模の公共の利益とが衝突した場合の選択である。9・11事件以降の米国では、そして最近の日本では、それが大きく『国益』のほうにぶれていることに、大きな不安を感じている」

「戦争報道の難しさは、個々の記者には全体が見えないというところにある。戦場記者の役割は、爆弾の向こう側にある真実を瞬間の歴史家として記録に残すことだ。ジャーナリズムがナショナリズムに組み込まれてしまうのを防ぐ、孤独な闘いを続けることでもある」


テレビの報道を見ていると、つい全体を見ているような気になってしまう。同じ国の人は、だいたい同じことを考えているんじゃないかとも思えてくる。「真実の瞬間」や「孤独な闘い」とは対極の世界だ。同じ映像が何度も流れ、思考能力を麻痺させていく。孤独な闘いを続ける戦場記者の記録を、できるだけレアな形で受け取りたいのだけど・・・

「わたしたちはドラマチックなお話に囲まれて暮らしている。殺人、誘拐、爆発、自殺、戦争。いつも似たような文体や語彙を使って血みどろの出来事が耳に入ってくる。聞いている方はやがてそれにも慣れてしまって、より大きな刺激を求めるが、流れる血の量が増えても退屈するばかりなのは、それを捕らえる言葉がワンパターンで、細かなところまで違いを見極めて、事物そのものに迫るだけの質を失っているせいかもしれない。どんな出来事も一回しか起こらない。似た出来事はあっても、同じ出来事はない。磨かれた言葉だけが、その一回性をとらえることができる。言葉が大雑把になっていくと、感じ方も考え方も後退していき、やがて人間そのものが無気力になっていく」<多和田葉子(半歩遅れの読書術―3月16日/日本経済新聞)>
2003-03-24

『ローリング・ストーンズ JAPAN TOUR 2003』 THE ROLLING STONES /

真横から目撃した奇跡。


ストーンズの日本公演に関する記事をいくつか読んだけれど、ふーんという感じだった。だが、3月13日の日経新聞夕刊に掲載されていた渋谷陽一のライブレポートは違った。それまで私が読んだ記事には「何も書かれていなかったんだ」と気がついた。

10日の武道館ライブについてのそのレポートを14日夜に読み、いてもたってもいられなくなった私は、15日夜、翌日の東京ドーム公演のチケットを買った。ストーンズのライブに行くのは二度めだし、ロン・ウッドとチャーリー・ワッツはソロで来日したときも見に行ったが、いずれも10年くらい前のことだ。

渋谷陽一はこう書いていた。
「一九九〇年の初来日の時、複数のキーボードで厚く装飾された音に守られて演奏するストーンズに本来のロックらしいグルーヴ(ノリ)は感じられなかった。あのストーンズでさえ、こうして衰弱していくのか、と悲しかったことを覚えている。それから彼らは今回を含め四回来日しているのだが、年々サウンドはシェイプアップされ、グルーヴを増してきた。平均年齢が六十歳になろうとするバンドが年々成長し、グルーヴが若々しくなっていくのだ。あり得ないことだし、ほとんど奇跡といっていい」

私は、ステージの真横に設置された「最後のS席」から「あり得ない奇跡」を目の当たりにした。

1曲目の「ブラウン・シュガー」からアンコールの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」まで、セットも音も構成もタイトだった。ミック・ジャガーのスレンダーなボディ、腕を前に突き出す独特のポーズ、張りのあるヴォーカル、エネルギッシュな動き、「みんな、どお?」といった日本語に、私は釘付けになった。スプリングコート風のロングジャケットやブライトカラーのシャツやノースリーブのインを自然に脱いだり着たりした。最後はピンクのシャツだ。こんなにシンプルでセンスのいい服を、女の子のようにさらっと着こなし「まねしたい」と思わせてしまう59歳の男が一体どこに?写真や映像で見るよりも、そして10年前よりも、彼は明らかにチャーミングだった。

チャーリー・ワッツのパワーも相当なものだったし、ロン・ウッドは相変わらず少年のように飄々と楽しんでいた。キース・リチャーズのソロは声もかすれており、ギターも最初と要所だけ弾くといった感じだったが、エモーションの伝わり方はただごとではなかった。彼が最前列のファンに近づき、ひざまずいて声援にこたえる姿を見ているだけで、どきどきしてしまう。

正面のスクリーンもまともに見えない位置だったから、生身の彼らを見るしかないし、音だってスピーカーの後ろから聴いているようなものだ。おかげで、ステージの前後の広がりやメンバーたちの「無意識」をバックステージから眺めるような面白さがあった。

私はその夜、1968年にゴダールが撮った「ワン・プラス・ワン(sympathy for the devil )」のビデオを見直してみた。「悪魔を憐れむ歌」ができあがっていくレコーディングのプロセスと、当時の政治状況を彷彿とさせる革命劇を1+1として編集した奇跡的な映画だ。当時の服、クルマ、スタジオのインテリア…すべてが鮮やかな色調で、今見ると「おしゃれでかっこいい映画」としか思えない。

そこには、20代のミックとキースとチャーリーが映っていた。スタジオ風景のほとんどが1シーン1カットで撮られているためか、彼らはカメラを意識しているようには見えず、ごく自然に音合わせをしている。「今日の彼らとほとんど同じじゃん!」と私は思った。

*JAPAN TOUR 2003/3月21日まで
2003-03-18

『戦場のピアニスト』 ロマン・ポランスキー(監督) /

感動を強要しない描写。


ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した1939年。ワルシャワのユダヤ人はゲットーと呼ばれる居住区に移され、ドイツ兵とユダヤ警察による虐殺行為に脅える日々を過ごした―

「戦場のピアニスト」は、シュピルマンという一人のピアニストが、こんな時代をどう生きのびたのかを、彼自身の回想録をもとに淡々と描写する。

「ザ・ピアニスト」という原題が示す通り、これは職業についての個人的な映画だ。「ザ・ジャーナリスト」でも「ザ・コック」でも「ザ・タクシードライバー」でもいい。戦場において自分の職業はどうなるのか? ピアノのないピアニストは、ペンのないジャーナリストは、食材のない料理人は、クルマのない運転手は、戦場で何をすべきなのか? 考えてみる価値がある。

シュピルマンは、ユダヤ系ポーランド人である前に、マッチョなオトコである前に、ピアニストだった。ユダヤ人かと訊かれれば言葉を濁すしかないし、肉体労働も満足にできないが、仕事はと訊かれれば極限状況においてもピアニストと答えることができた。彼を2000年(88歳)まで生かしたのは、そんなピュアな職業意識だと思う。有名なピアニストであることなど戦場では何の役にもたたず、ただ逃げ隠れするだけのひ弱なシュピルマンだが、それこそが彼の個性であり生き方だった。家族全員を失っても、死の淵をさまよっても、再び演奏することへの希望を捨てなかったから生きのびることができたし、運命は彼にそれを許したのだろう。

隠れ家に潜伏し、音を立てることすら叶わぬ状況の中、シュピルマンは空想の中でピアノを弾く。誰にも犯すことのできない聖域としての想像力は美しく、あらゆる職業への強い肯定感を与えてくれる。彼がドイツ軍将校に命じられるまま、廃墟と化した町の空き家で2年ぶりにショパンを弾くシーンも忘れがたい。シュピルマン役を見事に演じ切ったエイドリアン・ブロディもまた、どんな非常事態においても俳優として生き続ける力を得たにちがいない。

シュピルマンは、戦争が終わったら再びラジオで生演奏の仕事をするとドイツ軍将校に伝え、将校は、必ずラジオを聴くよと言う。だが、こんなふうにシュピルマンを助けたフレンドリーな将校でさえ、聖人として描かれるわけではなく、ドイツ軍の敗北により捕らわれの身になれば、かつて助けたシュピルマンに恩返しを求めるようなリアリティのある人物として描かれるのみだ。感動という言葉が似合わない抑制のきいた描写は、この映画の最大の美点だと思う。

シュピルマンは、そんな彼を救うべく、ポーランドの権力者に直談判したが要求は果たされず、将校はソ連軍の戦犯収容所で亡くなったという。

事実には、教訓もオチもない。将校は1952年に死に、ピアニストは2000年まで生きた。二人とも、もういない。私は、ポーランドで同様の体験をしたという監督がすみずみまで共感したのであろうピアニストの個人的な記録を、ひとつの歴史として素直に受けとめることができた。

*2002年 ポーランド、フランス合作
*カンヌ国際映画祭パルムドール受賞
*全国各地で上映中
2003-03-15

『リトル・バイ・リトル』 島本理生 / 講談社

校生作家がまともに描く、まともでない食事。


経新聞夕刊のコラム「旬の一句」(2/22付)で、女子高生の文章が紹介されていた。
著者が勤務する高校では、毎年オーストラリアに交換留学生を出しており、ホームステイ後にレポートを提出させているのだ。

「さてさて始まりました16歳の旅。入国検査はマジでめっちゃ大変!英語でペラペ~ラと言われて目がハテナになった…(☆○☆)(いっちゃん大ぴ~んち!)ほいでもなんとか通過して、やっと入国できたぁ~と思い、胸を弾ませ外へ出ると私のホストが!!!いなかった…(負けるな!)着いてバスから降りるとホストがいた。(おせ~んだよ!)(冗談♪ちょい本気)おっと、ここでマイホストを紹介しておこう◎彼女の名前はNyta、彼氏は募集中。(紹介終わり)ラリア(オーストラリア)のナマリは思った以上に意味プーだった…(×○×)ほぇ~。しかし、わけも分からず、Yes,Yesと言って乗り切った。ってかラリアは想像以上に寒かった…」

これを読んだ国際理解教育部長なる人物は激怒したそうだ。著者はこうコメントする。
「若者たちは、寸暇を惜しむように、メールのやり取りに没頭している。このレポートには、その影響があきらかだ。この生徒は、ふざけているのではない。これが、今の女子中高生たちの日常的な言語感覚なのだろう」

なぜ、この文章が激怒の対象になるのだろう。十分に面白いし、臨場感が伝わってくるではないか。私も携帯メールでは同じような文を書いており、公開しないという点のみが唯一の違いだ…などと考えていた矢先、高校生作家の芥川賞候補小説「リトル・バイ・リトル」のあとがきを読んで驚いた。

「明るい小説にしようと、最初から最後までそれだけを考えていた。淡々と流れていく日々を照らす光を書きたかった。この小説の中で主人公をとりまく状況は少し困難なものかもしれない。けれど、そういう状況に対抗できる唯一の手段は明るさではないかと思う。大変なときに笑っていられるだろうかと思われるかもしれないが、大変なときにこそ笑っているべきだと、笑うこと以上に人間を裕福にできるものはないと、私は信じている」

何てまともな文章だろう。まともすぎて面白みがない。しかし、私はそのことに驚いたのではなく、彼女が意図したような「明るさ」や「笑い」をこの小説から受け取ることができなかったことに驚いたのだ。つまり、このあとがきは、実は相当面白いのかもしれない―

「リトル・バイ・リトル」には食べ物がたくさん登場するが、いまひとつ美味しそうではない。

「ポケットに手を入れると、中から裸のサンドウィッチを取り出した」「1週間前のフランスパン」「少し焼きすぎた豚肉のショウガ焼き」「カキフライの三倍は量がある山盛りのキャベツを前にウサギになったような気がしながら重い胃にごはんを少しずつ入れた」

食べたばかりなのにまた食べなければならない、というシーンが多いのも異常。「周といるときは、いつも食が充実している気がする」などと「私」は言うし、「私」の不器用な料理に対し「この一ヶ月の食事の中で、きょうの夕食が一番おいしいです」などと周は言うが、私がこの小説から受け取ったのは、食にまつわる痛々しい空気に他ならない。何でもありの現代において、食生活をどうするかというのは大問題。「幸せな食事」を日々実現するのは、ものすごく難しいことなのだ。

携帯メールの文章が、限定的なコミュニケーションのための厳密なルールに基いているのに対し、小説の文章には、そのようなルールがない。まともな文章とは、より自由な広がりをもつ文章でもあるのだと、当たり前のことを私は思った。
2003-03-04