『開放区』 木村拓哉 / 集英社

TVがだらだらついているのは嫌、とキムタクは言う。


4月末の発売以来、2か月で50万部以上が売れたという。
タレント本としては、一昨年の「プラトニック・セックス」(飯島愛)に続き、100万部を突破する勢い。男性読者が2割強を占め、特に30~49歳の男性は1割近い。

本人のコメントは「買ってくれたみんなに感謝します。1人でも多くの人に読んでほしい」という月並みなものではなく「ぶっちゃけ、すっげー嬉しい。 まじでヤベーって感じ」というものでもなく、以下のようなものだった。

「出来上がった本を手にして、あらためて、『おれって、まだまだだな』と思った。この本を買ってくれた人がどんなふうに読んでくれるのか・・・食卓で読んだり、まくら元に置かれたり、あるいは本棚の片隅に収められるのかもしれない。そんなことも想像して楽しんだりもしています」

この発言には、彼がモテる理由のすべてが凝縮されている。つまり「自然体」「負けず嫌い」「想像力」の3点セット。ムカつくような前向きさや、うんざりするような屁理屈や、あきれるような鈍感さの対極にあるものだ。たったひとつのコメントにも、これらを注ぎ込めてしまう集中力の高さは、実にテレビ向き。この本の原料も、主としてこの3点セットだ。

「決別っていう言葉は好きじゃない。人は、一度出会ったら、きっと、そのあともずっとつながっていくものだと思うから。恋愛でも、たとえ別れても、すべて終わりじゃなくて、友達は無理かもしれないけど、新しい関係でいたい」

「このシート、もう少し倒れてくれないかなぁと思ったときに、『これ以上、倒れるわけねーだろ!?』って、口答えしてくるようなクルマがいい。(中略)最新式じゃないほうが贅沢な気がする。だって、そこには、会話が生まれるから」

「友だちに直接相談を持ちかけられたときは、できるだけ自分なりの答えを見つけ出そうとする。相手がどん底まで落ち込んでたら、話を聞きながら、自分もそこまでいっしょに降りていく。ふつうのテンションでいたら、ほんとの気持ちなんて、きっと理解できない」

彼は子供のころ、冷凍食品やインスタント食品はほとんど食べさせてもらえず、お小遣いももらえず、自転車を欲しいと思えば粗大ゴミ置き場のチャリンコを修理して乗り、だけど、あちこち連れていってもらったそう。まさに「モノより思い出」な育てられ方だ。

「俺、ふだんは、あんまり泣くガキじゃなかった。泣くと親父にひっぱたかれたから。それでまた泣くと、今度は『泣きやめ!』って、ひっぱたかれる」

「ガキのころ、繰り返し聞かされた『男と男の約束だからな』っていう親父の言葉は、子ども心にも、妙に重く感じた」

「そのころからずっと、デパートの食品売り場は好きになれないんだよね。なんでだろう・・・って思ってたんだけど、もうすでに食べられる状態に調理された匂いがダメなのかもしれない。そういう匂いは台所から生まれるものだっていうのが、感覚としてあるから」

「食の嗜好は、やっぱり育ってきた環境が大きいと思うよ。俺の場合はとくにそう。『おいしそうじゃないから食べない』っていうんじゃなくて、『自分にとってなじみがないから食べない』っていうことのほうが多い」

この保守的な感じ、新鮮。家族を大切にし、ルーツを大切にし、墓参りに行きたいという木村拓哉。彼の言葉を聞いていると、世の中の画一的な幻想や焦りや苛立ちから、しばし開放される。なじみがないものは食べないという自己のルーツに根ざした古風なモノサシは、わけのわからないプロパガンダが充満している今、とても重要なことのように思えてくるのだ。
2003-06-27

『プラダ青山東京』 ヘルツォーク&ド・ムーロン / プラダ財団

ショッピングより、建物ウォッチング。



東京の風景は、どんどん変わる。
カフェもレストランもブティックも美術館も、あっという間に消滅してしまう。いつも工事中だ。今度は何ができるんだろう?以前ここには何があったんだっけ?そんなことを考えることすら面倒になってくる。そのうち、多くを期待しないようになった。万が一愛着をもってしまったりしたら、裏切られたときに、悲しすぎるから。

表参道から根津美術館に向かう「みゆき通り」に、6月7日、プラダ青山店がオープンした。この建物は、建設中のときから面白かったし、既に記憶に残る建物となってしまった。周囲の建物に特別な思い入れをもたないようにしている私がそんなふうに思うのだから、世界中の人々がわざわざ見学に来たっておかしくない。
クリスタルのように透明で尖っているから?全体を覆うひし形の格子から中の様子がゆがんで見えるから?単に意表をついた建物だから?ひとついえるのは、ブランドショップにありがちな権威的な匂いが感じられないこと。四角四面な重厚さ、威圧感、閉鎖性の対極にある軽やかさを建物全体で実現してしまった。外壁なしに「インテリアのみ」で成立しているような印象だ。

この店で、今のところ最も売れている商品は、地下1階の写真集コーナーにあるこの本である。
というのは私の勝手な想像だが、設計を担当したスイスの建築事務所、ヘルツォーク&ド・ムーロンによる写真とドローイング集は、実際の建物よりも面白い。「プラダ青山東京」のプロジェクトがどのように進行したのか、その紆余曲折の経緯が赤裸々に書かれており、日本語訳も付いている。

建設予定地を見た彼らはこう思う。
「付近は多種多様な建物が共存していたので、周囲の環境に合うような建物を建てる必要性からわれわれは全く解放された」
「空き地は全くなかった。ありとあらゆる土地が角から角まで利用されていた」
そして、高くてスリムな目立つ建物にしたいと漠然と思う。
「付近の建物のような、ずんぐりとしゃがんだ格好で街にちょこんとすわっている感じのものは建てたくはなかった」・・・

この本には「プラダ青山東京」に関するあらゆるアイディアが詰まっており、当初のピュアな発想の断片が、どのように具現化したのかを見届けることができる。このプロセスこそが建築の面白さであるならば、完成した建物を見ることの面白さはその何分の一でしかない。

建物の中は実践的な売り場であるから、スタッフにとって使い勝手はいいのかなとか、白い壁やじゅうたんの汚れ対策は大変だろうなとか、建物全体にたちこめる独特の匂いが気になったりしてしまうのだ。まあ、それ以前に、商品に目を奪われてしまうわけだけど―

外の広場に出ると、プラダのロゴ入り紙袋を持った私に、フジテレビのクルーが声をかけてきた。プラダフリークを撮影しようという魂胆らしいが、私のお買い物はこの本だけ。しかも、彼らにとって都合の悪いことには、プラダ製品を1点も身につけていない。
どうして私に?と思って周囲を見回すと、紙袋を手に建物から出てくる人は、とっても少ないのであった。
2003-06-17

『むずかしい愛』 カルヴィーノ作・和田忠彦訳 / 岩波文庫

動揺する快楽。


新しい本を次々に読むことは、1冊の本を繰り返し読むことよりも幸せだろうか?
幸せだと思う、たぶん。
でも、その1冊がカルヴィーノだとしたら?

1950年代後半に書かれた12の短編集だ。
すべてに「冒険」というタイトルがついている。
冒険とは、自分が変わること。
体が変化し、心が動揺する瞬間。
それまでの緻密な記述が、意味を失う瞬間。
言葉で埋めつくそうとすればするほど、大切なものはこぼれ落ち、
饒舌になればなるほど、まだ話していないことが際立ってくる。

「ある兵士の冒険」
兵士が列車の中で女に痴漢をする。彼女は兵士の行為を受け入れるか?拒否するか?安易に結論を出すストーリーづくりの無意味さ、つまらなさが暴かれる。

「ある悪党の冒険」
売春婦とその夫。売春婦の家に逃げる男。彼を捕まえる男。悪党なんて、どこにもいないし、逃げ切ることと捕まることの間にも、たいした違いはない。

「ある海水浴客の冒険」
泳いでいる最中に水着をなくした女の羞恥心と孤独。そして、その後の希望。どちらもすぐに消えてしまう。旅って、むなしい。

「ある会社員の冒険」
夢のような一夜を過ごした会社員。女と別れた後、彼女に恋したことに気付く。だが、言葉に置きかえはじめたとき、それは絶望に変わる。

「ある写真家の冒険」
写真を撮りたがる人々を軽蔑し、反写真論を展開する男が、次第に写真にのめりこんでゆく。頭でものを考えながら、身体は別の変化を遂げるのだ。すべてを撮り、すべてを捨てようとしたギリギリの瞬間、彼は真実を悟る。この短編は、映画だ。

「ある旅行者の冒険」
愛する女のもとへ向かう男。旅のプロセスと夢のような時間との間に横たわる眩暈のような断絶。誰もが、こういう2つの時間を行き来しているのだろうか。だとしたら、おかしくならないほうが、どうかしている。

「ある読者の冒険」
海で女と出会い、読書の快楽を台無しにされる男。身体は知性と相性が悪く、現実はロマンを着実にむしばんでゆくのだ。

「ある近視男の冒険」
メガネをかけると風景が変わり、人生が変わる。でも、実は何も変わらない。それは、彼の人生で最後のときめきだった。何かのせいで人生がつまらないと考える男のつまらなさ。

「ある妻の冒険」
上流階級婦人の不倫。彼女の中の意識を変えたのは、一夜を過ごした相手ではなかった。彼女はそのことを、体で理解する。

「ある夫婦の冒険」
ある夫婦のすれちがい生活。満たされない日々の中にこそ、愛はあるのだ。愛ってむずかしい。

「ある詩人の冒険」
愛の言葉を書いたことのない詩人が、美しい恋人の肢体を見つめながら沈黙する。幸せは言葉にできないのだ。だが、苦悩を目にすれば、いくらでも言葉があふれ、世界は真っ黒に埋め尽くされる。

「あるスキーヤーの冒険」
奇跡とは、選ばれた人が、無限の選択肢の中から選びとったもの。だから、奇跡だけを目撃していればいい。
2003-06-06

『D.I.』 エリア・スレイマン(監督) /

わからない。わらえない。ありえない。


「パレスチナをD.I.で初めて体験するのは、生まれて初めてふぐを食べるような体験に似ているかもしれません。パレスチナには、やさしい景観があり、ちっぽけな魂があり、ほとんど透明で、見ればひと目で見渡せてしまいます。そこで生きようと思えば生きることもできるし、生きれば愛おしくもなります。そうしたいと思われる方は、ぜひどうぞ。ただし、毒にはあたらないように、お気をつけて・・・」

監督の日本へのメッセージだ。カンヌでの記者会見では、パレスチナで全部撮影できたのかと聞かれ「シューティング(撮影)は全部はできなかった。イスラエル軍がシュート(銃撃)していたからね」と答えたそう。

監督演じる男はイスラエル占領下の東エルサレムに住み、彼が愛する女はパレスチナ自治区のラマラに住む。イスラエルとラマラの間にはイスラエル軍の検問所があり、女はエルサレムに入れない。そんな2人は、検問所の駐車場の一角でデートを重ねる・・・

単純なストーリーだが、こういう状況にリアリティを感じるのは無理だ。ラマラってどこよ?検問所って何よ?っていうか、誰がパレスチナ人で誰がイスラエル人なわけ?

映画で描かれるパレスチナの日常は、同じことの不毛な繰り返しだ。穴を掘ったり、壁をこわしたり、ゴミを他人の家に捨てたり、ひたすら掃除したり。サッカー少年の蹴るボールはズダズタにして返され、それを無表情で見守る人がいる。こわれればつくり直し、やられたらやり返し、家に火をつけられれば淡々と消火作業をする。主役の男女は、最後までひとこともしゃべらない。

こんな調子だから、悩殺美女やアラファト議長の顔が描かれた風船が検問をあっさり突破するシーンは爽快だし、パレスチナの女忍者がイスラエルの兵士たちと戦うスペクタルシーンには大爆笑!とまとめたいところではある。実際、パレスチナでの上映では大受けだったそうだし。だけど、これらのユーモアはあまりにも正当派すぎて、平和な国の成熟した(弛緩した)ギャグに慣れてしまった部外者の私には笑えない。

男がアンズをかじり、種をクルマから捨てると路肩の戦車が爆発するが、種を捨てた本人はポーカーフェイスのまま。暴力に対抗する武器は、ポーカーフェイスでありアンズの種であり、風船や悩殺美女や女忍者なのだ。圧倒的に正しく懐かしいファンタジー!

私が唯一笑えたのは、夜の検問所でやりたい放題の検問をする将校の演技。イスラエルの有名タレントが演じているらしいが、支配者と被支配者の構図を骨抜きにする傑出したキャラクターだ。

「D.I.」の意味はDIVINE INTERVENTION(神の介在)。自由になるためのイマジネーションを意味するという。イマジネーションさえあれば、愛はどんな困難な壁も通過するのだろう。アカデミー賞の外国語部門は、パレスチナは国として認められないという理由で、この映画をノミネートから排除したそうだけど。

選曲のセンスのよさは驚きで、世界的なトレンドの気分を反映しながらも新鮮。
美女や風船のように、音楽は国境をさらっと突破してしまうのだ。

*2002年 仏・パレスチナ合作パレスチナ映画
*カンヌ映画祭審査員賞受賞
*渋谷・ユーロスペースで上映中
2003-06-02

『BULLY(ブリー)』 ラリー・クラーク(監督) /

取り返したくない、取り返しのつかない10代。


コロンバイン高校の銃乱射事件とならび全米に衝撃を与えたといわれる、1993年、南フロリダで起きたボビー・ケント殺害事件。映画化したのは、ティーンエイジャーの生態を撮り続け、95年に「KIDS」で監督デビューした写真家、ラリー・クラークだ。

いじめっこのボビーを殺したのは、親友のマーティを含むティーンエイジャー7人だった。

ローマの貧しい若者を撮ったパゾリーニの「アッカトーネ」(1961)を思い出した。国も時代も経済状況も違うけれど、若い世代の圧倒的な現実感があふれている。鬱屈しているのでもなく、退屈しているのでもなく、ハチャメチャに壊れているというわけでもなく、ビジョンなく、ただひたすら現実と向き合っている感じ。こういう「動物としての人間」を自然にフィルムに収めることができる人は、パゾリーニとラリー・クラーク以外、思いつかない。

ティーンエイジャーに明確なビジョンなんて、あるわけがない。生活、将来、世間体・・・ビジョンがあるのは、頭で考える大人だ。ティーンエイジャーは、親が選んだ土地に、仕方なく住んでいるだけ。大人の体をもてあましながら、街と家に監禁されているといっていい。輝くような夏の光の中、ぶらぶらしていても、本当の自由なんてない。適当にバイトしたり、ナンパしたり、アブナイものに手を出したり、波に乗ったり、オープンカーでつるむしかない。ほかに、何かやるべきことでも?

殺されるのは、父親にビジョンを押しつけられるボビー。主犯は、引っ越したいと言っても父親にとりあってもらえないマーティ。ティーンエイジャーから見た親は、動物から見た人間だ。頼りたいし、頼るべきなのだけど、最終的には頼れず、噛みつくしかない存在。殺人の発覚を恐れるマーティは、幼い弟に自分のピアスをつけてやり、抱きしめる。逮捕され、警察のクルマで去っていく彼を見送るのは、マーティにそっくりなこの弟だけ。彼も、もうすぐ兄と同じ世代になる・・・。

マーティを含む男4人女3人のグループは、見事に役割分担し、殺人のシナリオを進めていく。というのは嘘で、一見大人びている彼らも、犯罪に関しては、あまりにも詰めが甘い。この経験のなさ、考えの浅さ、キレ方やビビリ方こそがティーンエイジャーの真髄。生々しく、痛々しく、しびれる。私は、大人の完全犯罪なんかに、興味はない。

7人には、懲役7年から死刑まで、さまざまな判決が下される。不定形のものを四角いものさしで裁くことは、どんな意味をもつだろうか?

キャスティングに魂をこめたとき、映画は、もうひとつの現実になる。適当な10代を選んで、その場で裸にして、セックスさせたってダメなのだ。それは違う。ありえない。パンフレットには、フロリダの湿地帯で発見されたボビーの死体写真や加害者の7人の顔写真まで掲載されているのだが、これを見ると、映画がいかに真実に迫っているかがよくわかる。

ボビーとマーティの関係について、監督が語った言葉が印象的だ。
「まあ、真相はわからないが。きっと本人たちにもわかるまい」
わからないものを撮るためには、わからないまま溶け込むしかない。若者への愛が、映画を撮らせるのだろう。

無防備なティーンエイジになんて、ぜったい戻りたくないなと思う。
ビジョンを抱えてしまった私たちは、戻りたくても、ぜったい戻れないわけだけど。

*2001年アメリカ
*シネセゾン渋谷で上映中
2003-05-22

『バカの壁』 養老孟司 / 新潮新書

脳は、高級じゃない。


自分の恋人は、自分の知らない場所で、どんなことをしているのか?
これを頭で考えはじめると、トラブルのもとになる。

浅野智彦氏(東京学芸大助教授・社会学)らがおこなった、16~29歳の意識と行動についての調査結果(朝日新聞5月7日)によると、10年前と比べ、ますます多くの若者が、複数の顔をもつ自己、一貫性のない多元的な自己を、違和感なく受け入れつつあるという。「場面によって出てくる自分は違う」と答えた人は、一定だと考える人に比べて、携帯やネットで知り合った人に会いに行くことが多い。「その場限りの顔」と「素顔」との差がリアルに感じられなくなってしまっているのだそう。

一貫性がない(ように見える)というのは、致命的なんじゃないだろうか? 言い訳をしてでも、ビシッと筋を通すのがマナーじゃないの?と私は思うけど、なんだか違うみたいだ。ということは、ある人の言動の重みや、それが素顔なのかその場限りの顔なのかは、本人にも、目の前の人にも判断できないってことだ。まじ?

「バカの壁」は、まさに、そのことを危惧した本。
「人間は変わるが、言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対の存在のはずです。しかし近年、約束というものが軽くなってしまった」

「大学生を見ていて、ここ二、三年で非常に目立つ現象があります。私が、一時間目の講義に行くと、既に机の上に突っ伏して寝ている学生が結構いるのです。放っておいて一時間半講義してもまだ寝ている。一度も目を覚まさない。これがなかなか理解できない。私が喋っているのを聞いて退屈だから寝たというのなら、残念ではあるもののよくわかる。しかし、彼らはもう最初から最後までひたすら寝ている」

わかるような気がする…。似たような光景も、よく目にする。会議の間ずっと、携帯で話をしているかと思うと、そのまま出て行って戻ってこない人がいる。会社にいる間ずっと、インターネットやメールをやっている人がいる。彼(彼女)は一体どこにいるのだろう?

机に突っ伏して寝ている大学生は起きないし、教授も彼を起こさない。彼(彼女)は、最初から、そこにはいないのだ。

いつからか、人は、その場にいないことを許されるようになった。携帯やメールですぐに連絡がとれるのだから、約束したり、無理に参加したりする必要がない。「いま」「ここ」の意味が希薄になっている。

著者が薬学部の学生に、イギリスBBC放送が制作した出産ドキュメンタリー番組を見せたところ、女子の感想は「新しい発見が沢山ありました」というのがほとんどで、男子の感想は「そんなの知ってましたよ」だったという。細部に目をつぶって「知ってましたよ」というのは、一種の思考停止状態で、自分が知りたくないことについて自主的に情報を遮断しているんだって。つまり、これが「バカの壁」。

脳は高級なものではなく、計算機にすぎないと著者はバッサリ。都合のいいように情報を受け入れたり拒否したりしている限り、自分と違う立場のことは永遠にわからないし、話も通じない。

「『個性』は脳ではなく身体に宿っている」
「知るということは、自分がガラッと変わることです」
「他人のことがわからなくて、生きられるわけがない」
「身体を動かさないと見えない風景は確実にある」

脳のスペシャリストが語る身体論だ。
「いま」「ここ」を感じることができなければ、いつ、どこで、何を見ても、何も感じないだろう。
遠い国のために奉仕活動をしても、目の前の大切な人を傷つけていたとしたら本末転倒。
大切なことを理解するのは、脳ではなく、身体なのだ。
2003-05-17

『殺人に関する短いフィルム/愛に関する短いフィルム』 クシシュトフ・キェシロフスキ(監督) /

恋愛と絶望の分岐点。


1987~1989年にかけてテレビシリーズとして企画された「デカローグ」。その第五話のロング・バージョンが「殺人に関する短いフィルム」(1987年/85分)で、第六話のロング・バージョンが「愛に関する短いフィルム」(1988年/87分)だ。2本とも、オリジナル・バージョンの完成度の高さを損なうことなく描写に深みが増しており、ポーランドという国の凍えるような空気感に魅了されずにはいられない。

「殺人に関する短いフィルム」には、無差別殺人と死刑という、救いようのない2つの殺人が描かれている。主役のヤツェクは当初「キレてる若者」に過ぎないが、死刑の直前、唯一自分のことを名前で呼んでくれた弁護士に、自分の物語を告白する。

この告白で思い出されたのが大阪の児童殺傷事件で、8人の命を奪った宅間被告は、裁判で「たまたま出会ったヤツに不愉快な思いを散々させられてきたから、関係のない人間を襲うのは自分の中では正論だ」 「自分(が被害者)ならば謝罪されても何とも思わない」と言い放った。

私はまた「女の部屋に侵入して強姦し、金品を奪って逃げる」というような、よくある事件を思い出した。金がある男なら金を払ってSEXをするはずだし、魅力のある男なら女を口説いてSEXするはずで、どちらも持たない男は、金と女を同時に奪っちゃったりするのである。目的はどっちなんだ?どっちかにしろよ!と長年の疑問だったのだが、ある人に質問したら「悪い奴は悪いことを全部やるのだ」という簡潔な答えが返ってきた。

無政府状態になれば、抑圧された人々は、往々にして略奪や暴力に走る。人は何かに飢えたとき、そこに規則がなければ、欲望のまま他人のモノを奪う動物なのだ。規則があったとしても、愛とコミュニケーションの手段を喪失してしまったら、それを守る意味は見出せなくなるだろう。

監督は言う。「私はモラルには興味がない。興味があるのは美と感情だ。しかし、もっとも大事なのは愛だと思う。愛を失ったら、生活は指の間からこぼれ落ちてしまう―」

それでは、どんなところに愛は生まれるのか。「愛に関する短いフィルム」の場合、向かいのマンションを望遠鏡で「のぞき見する少年」と、かなり年上の「のぞき見される女」との間に愛が生まれる。簡単にいえば「ストーカー」vs「悪い女」。犯罪的コミュニケーション以外は成立しそうにない関係だが、こんなところに、実はもっとも純度の高い恋愛コミュニケーションが宿るのだから、人生は希望に満ちている!

少年は、女にのぞきを告白し、軽蔑される。だが、女がそのことを自分の彼氏に告げ、激怒した彼氏が少年のマンションの前に立ち「どこのどいつだ、出て来い!」と叫ぶとき、少年はへろへろと階下に降りてゆき、ぼこぼこに殴られるのである。

一緒にアイスクリームを食べたいとしか要求していない少年を、女が自室に招き「世間で言われている愛の正体」を教えるシーンも忘れがたい。少年は傷つき、自殺未遂をはかるのだが、この事件により、2人のコミュニケーションはさらに加速する。

女に翻弄される少年のナイーブさはもちろん、少年の言動の意外性にそのつど心をうたれ、変化していく彼女がすばらしい。恋愛とは、格差や嗜好を超えて、互いに変化することなのだ。

*Bunkamuraル・シネマ「キェシロフスキ・コレクション」にて上映
2003-04-30