『第50回 ヴェネチア・ビエンナーレ(la Biennale di Venezia)』 /

モテる日本。モテない日本。


ある種の美術展はストレスの宝庫だ。並ばなきゃダメ。静かにしなきゃダメ。さわっちゃダメ。写真はダメ。はみ出ちゃダメ。逆行しちゃダメ。その点、2年に1度開かれる最も歴史の古い国際現代美術展「ヴェネチア・ビエンナーレ」は楽園だった。

メイン会場の「ジャルディーニ」には、各国のパビリオンが別荘のように点在している。最も古い建物はベルギー館で1907年、シックな日本館は1956年に完成した。ゆっくり散歩しながらハード(建物)とソフト(作品)のセットで「お国柄」を体験できるのが楽しい。

ポップな目立ち方をしていたのがオーストラリア館(byパトリシア・ピッチニーニ)のグロテスクな肉の塊やリアルな人形たち。フォトジェニックな不気味さに、思わず写真を撮りまくってしまう。

イスラエル館(by マイケル・ロヴナー)も大人気で、CGを使わずに群集の動きだけでパワフルな映像作品を見せていた。壁面やシャーレにうようよする膨大な数の細菌はすべて人間なのだ。ひとつのテーマへのアプローチのしつこさに圧倒された。

ドイツ館(マーティン・キッペンベルガー他)の主役は通風孔のインスタレーション。地下鉄が7分おきに轟音をたてて下を通り、ふわーっと風が巻き起こる。笑えた。

スペイン館(byサンチャゴ・シエラ)の内部は廃墟。裏へまわるとドアが開いているが係員に「スパニッシュ オンリー!」とシャットアウトされてしまう。凝った演出だ。

そして、本当に閉ざされていたのがベネズエラ館。作品が検閲に引っかかり「棄権」となったらしい。

ただし「ジャルディーニ」にパビリオンを持つ国は29のみ。その他の約30の参加国は、市内各所の建物を借りた展示だから、迷路のようなヴェネチアの街を歩き回らなければならない。今回「金獅子賞」をとったのは、非常にわかりにくい場所にあるルクセンブルグ館(by スー=メイ・ツェ)だった。壁一面に防音スポンジが敷き詰められた部屋、運河に面して椅子とテーブルと赤い編み糸が配された部屋、砂時計が回転している部屋、砂漠の砂を延々と掃き続ける男たちの映像の部屋、緑あふれる大自然の崖っぷちでこだまと対話するように優雅にチェロを弾く女性の映像の部屋。どの部屋にもおやじギャグに似た不毛な空気が漂い、意味の追求とは正反対の引力が心地よい。タイトルは「air condition」。歩き疲れたあとに、こういう脱力系の展示はありがたかった。

日本館(by曽根裕・小谷元彦)は地味だった。アジアでパビリオンを持っているのは日本と韓国だけなのに、どちらも観客が少なくて寂しい。予算も少ないみたいだ。別会場では国という枠を取り払ったいくつもの企画展がおこなわれており、ルイ・ヴィトンや六本木ヒルズとのコラボレーションで夢を実現できたという村上隆が圧倒的に目立っていたし、総合ディレクターの目にとまり白羽の矢が立った土屋信子という無名の日本人アーティストが出品したりもしていたのだけど。

キュレーションの鍵を握るのはプロデュース力であり、日本館の作家はかわいそうだったと村上隆は言う。
「お金のことって、アート界ではことさら批判の対象になるけれど、その流れをいちど全面肯定することでぼくは、構造そのものの鎌首にナイフを突きつけたいんです。(中略)アートとは欲望なんです、約めていえば。所有欲とか権力欲とか、エグゼクティヴになりたいとか、もてたいとか、尊敬されたいとか、わかってほしいとか。日本のアーティスト自体に強烈な欲望がないっていうのが問題ですね」(美術手帖2003/9より)

*ヴェネチアで開催中(6/15~11/2まで)
2003-10-19

『デッドエンドの思い出』 よしもとばなな / 文藝春秋

よしもとばななが愛される5つの理由。


「私はばかみたいで、この小説集に関しては泣かずにゲラを見ることができなかったですが、その涙は心の奥底のつらさをちょっと消してくれた気がします」(「あとがき」より)
泣きながら自分の小説のゲラを見るよしもとばななは、うっとりと鏡の中の自分に見入る松浦亜弥と同じくらい信用できる。本人が没頭できるというのは、何よりの品質保証だ。

「この短編集は私にとって『どうして自分は今、自分のいちばん苦手でつらいことを書いているのだろう?』と思わせられながら書いたものです」(「あとがき」より)
つらいことを美しく書き、苦手な人に美しい理解を示す。それは運命を支配することだ。言い換えれば、他者を勝手に美化するエゴイズム。でも、その作業をていねいにやっていけば傲慢ではなくなるはず。「あったかくなんかない」という小説には、その秘訣が明かされている。

「ものごとを深いところまで見ようということと、ものごとを自分なりの解釈で見ようとするのは全然違う。自分の解釈とか、嫌悪感とか、感想とか、いろいろなことがどんどんわいてくるけれど、それをなるべくとどめないようにして、どんどん深くに入っていく。そうするといつしか最後の景色にたどりつく。もうどうやっても動かない、そのできごとの最後の景色だ」(「あったかくなんかない」より)

「あったかくなんかない」は、反抗的な小説。
まことくんが抱く「明かりはあったかくない」という考えは、あまのじゃくだけど素直。人生における幸せの時間は、思いがけない瞬間に現れる。頑張って手に入れるものではなく、さりげなく曖昧なものだ。そういう時間がもてれば、家族が多いほうが幸せってこともないし、長生きが幸せってこともないし、孫の顔をみるのが幸せってこともない。決められた概念を手に入れるだけの人生は貧しすぎる。

「幽霊の家」は、保守的な小説。
若さゆえの残酷な別れ、SEXの悲しみと幸せ、タイミングの重要性、親から受け継ぐものの価値、長く続けることの意味。主人公のように本質的な生き方をしていれば、日々のちょっとした傷なんて簡単に癒えてしまいそうだ。唯一無二の運命を描きつつ、選択肢はひとつじゃないという小説。相手は誰だっていいんだといわんばかりに、流れに任せて生きる人が幸せをつかむのだ。この作品自体が「幽霊」のような幻想だと思う。

「おかあさーん!」は、ウソっぽい小説。
私たちは、かつて自分を傷つけた人、自分とうまくいかなかった人のことをどう考え、どう克服していけばいいのか。物理的な解決策ではく、普遍的な希望が提示される。つまりフィクションの効能。汚れた現実世界を救うのは「美しいウソ」なのである。

「ともちゃんの幸せ」は、ふてぶてしい小説。
感じる人は生きづらく、傷つく人は損をする。神様は、弱者に対して何もしてくれやしない。不確かで力をもたない祈りのような小説だが圧倒的。傷ついた心は、他人と共有したり、ぶつけあったりせず、ただひっそりと受け止め、こつこつと貯金すればいいのだ。

「デッドエンドの思い出」は、取り返しのつかない小説。
最後の3行だけで泣ける。泣けば他人にやさしくなれるか?そんなことは断じてない。自分も幸せになろうと思うだけだ。ますますエゴイスティックに。
著者は、この小説が「これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好きです」といい、「これが書けたので、小説家になってよかったと思いました」とまでいう。世に出る前に、少なくとも1人を救った作品。何よりの品質保証だ。
2003-10-14

『偶然にも最悪な少年』 グ・スーヨン(監督) /

必然的に風通しのいい映画。


グ・スーヨン監督はCMディレクターであり、原作本「偶然にも最悪な少年」の著者。
映画化を企画したのはピラミッドフィルムの原田雅弘。
脚本を担当したのはグ監督の弟でコピーライターの具光然(グ・ミツノリ)。

つまりこれ、バリバリにCM業界寄りの映画だ。監督、撮影部、照明部、スタイリスト、ヘアメイクはCMのスタッフで構成されている。とはいえ、それ以外はすべて映画のスタッフだから「映画界のシキタリ」には何度も泣かされたらしい。CMではタレントにいちばん気をつかうが、映画では「監督がとにかく天皇」なのだそう。

グ監督は言う。
「映画では役者たちを俳優部って呼ぶのも興味深かった…CMでタレントは役者というよりも、限りなくモデルに近いからね」
「監督は確かに絵を決める存在だけど、人間的に崇めるのはどっかおかしい…それで閉鎖的だったり、ヘンな緊張感があったり。でも、それって映画の発展を妨げてねぇか。そんなんじゃおもしろいモノはできないよ」

自殺した姉のナナコ(矢沢心)にまだ見ぬ祖国(韓国)を見せたいと思いついたビーボーイのヒデノリ(市原隼人)は、こわれかけた女子高生の由美(中島美嘉)を巻き込み、チーマーのタロー(池内博之)のボロいマーク�に死体をのせ、4人で東京から博多へ向かう。この単純なストーリーに私はしびれ、期待した。

公開2日目の最終回上映にして7人しか観客のいない品プリシネマではさすがに不安にかられたものの、4人のしょうもない日常が描かれ、ナナコが自殺し、ヒデノリが街をさまようあたりから映画は動き出した。音は浅井健一(SHERBETS)の「Black Jenny」。これはもはやナンニ・モレッティの「親愛なる日記」でパゾリーニが殺された伝説の海岸にヴェスパが辿り着く長回しのバックに流れるキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」と同じくらい有無を言わせない。このシーンだけで映画が成立してしまうのである。

その後はピュアなロード・ムービーだ。死体はどんどん腐るし、お金は調達するしかない。ヒデノリが醸すペラペラな空気感と、媚びも屈託もない由美の存在感が、中味のない言葉や力のない笑いやありがちな心の病いにアクチュアルな輝きを与える。万引きしてもカツアゲしても人を刺しても、特別には悪くない。動物以上、大人以下。そしてKISS。勢いで密航。すべてが自然現象にしか見えない異常さこそが現代のリアル。成長物語にもなってないし、何かが成就するわけでもないけれど、意外とタフで普通な日常が続いていくんだろうってことはわかる。こういう日本の行く末をまじに突き詰めるか、おちゃらけるかの二者択一を迫られるが日本映画のシキタリなのだとしたら、そうではないものをこの映画は見せてくれた。イライラとヘラヘラの間に、こんなにも等身大な道が開けていたとは―

死体に話しかけたり、鼻歌まじりに着替えさせたり、死化粧したりの中島美嘉がいい。CMスタッフによる衣装、メイク、照明、演出が冴え、4人とも演技をしていないように見える。少なくとも「俳優部」の役者には見えない。

「GO」よりも希薄、「ユリイカ」よりも気楽、モンテ・ヘルマンの「断絶」とサム・ペキンパーの「ガルシアの首」とラリー・クラークの「ブリー」を足して3で割って渋谷系にした高品質なB級映画。最悪なんかじゃない。渋谷東映で見れば満席だったはず。きっと。

*全国各地で上映中
2003-09-25

『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 本広克行(監督) /

踊る大組織。


オープンしたばかりのルイ・ヴィトン六本木ヒルズ店の混雑ぶりはただごとではなかったが、そのほぼ正面に位置するヴァージンシネマズ六本木のプレミアスクリーンはがらがらだった。

動員数が既に1000万人を突破したというこの映画をたった10人程度で鑑賞するのは寂しすぎる―と私が感じたのは、満席の大劇場で見た5年前の前作を思い出したからだった。その時は、上映中に携帯の着メロが4種類くらい鳴った。しんとしたシーンでオーソドックスな着信音がステップトーンで音量を上げながら場内に響きわたった時は、本気で演出の一部かと勘違いしたものだ。映画を観ているというよりは、大勢でわいわいテレビを見ているような雰囲気が新鮮だった。

しかし、寂しさを感じた本当の理由は、この映画が組織をテーマにした作品だからだと思う。

本店(警視庁)vs所轄(湾岸署)という図式がメインディッシュであることは相変わらずだが、今回は、そういう「軍隊みたいな組織」に対抗する集団が現れる。

だからといって、組織のもつ根本的な問題が追及されるということはなく、逆にメリットや楽しさが強調されるばかりだ。組織内における上層部への不満は具体的にアピールされるものの、組織外追放(リストラ)の深刻なリアリティは描かれないし、本気で組織を恨んでいるはずの人間が吐き出すセリフにも迫力はない。つまり、この映画においては、警察という組織内の内輪もめのほうが圧倒的に面白いのだ。進化し続けるお台場という街を舞台に、情報(警視庁)vs現場(湾岸署)の対立の構図が冴える。

脚本家の君塚良一は、ずっとフリーでやってきた人だという。つまり、これは、会社組織に属したことのない人が客観的な取材にもとづいてつくったお話なのだ。大変なことも多そうだけど一人でいるよりは心強いし楽しそうだよなという視点、上からの命令が絶対の中でロマンを持ち続けている人が組織を支えているんだよなという視点が、この作品を貫いていると思う。

織田裕二も深津絵里も水野美紀も柳葉敏郎もユースケ・サンタマリアも小泉孝太郎も、皆、これがいちばんハマリ役なんじゃないか?と感じさせるような輝き方で、それぞれのキャラクターを演じている。スタッフの頑張りや旺盛なサービス心も伝わってきて、この映画自体が理想的な組織の産物であるかのように見えてくる。

で、さらに、クレジットの中に知っている名前や企業名を発見したりするものだから、平日のこんな時間にワインを飲みながら映画なんか見てないで仕事しなくちゃ!という痛い気分にさせられるのであった。

*全国各地で上映中
2003-09-16

『10話』 アッバス・キアロスタミ(監督) /

これは、ドキュメンタリーじゃない。


女がテヘランの街を車で走り、固定されたデジタル・ビデオが車内を撮影する。監督やスタッフは同乗していない。嘘みたいにシンプルな手法の「隠し撮り風映画」だ。

彼女の息子、姉、老女、娼婦らが助手席に乗り込み、会話を交わす。「10話」から始まるからラストが「1話」。カウントダウンによって期待が高まり、オチもあるから、ちっともドキュメンタリーらしくはない。手法に関しては究極のミニマリズムなのに、監督の意図がムンムンだ。

息子を除き、助手席に座るのはすべて女。しかもほとんどが「うまくいっていない女」。彼女自身は、アートなお仕事をするバツイチの自立した美人である。

これがイランの現実?そうなのかもしれない。だけど、もっと何かあるはずでしょう、日本の女が驚くようなきらめく細部が。この映画に登場するのは、オーソドックスな話ばかりなのだ。女は失恋するとなかなか立ち直れなかったり、髪を剃っちゃったり、娼婦になっちゃったり・・・驚きがないのがこの映画の驚きで、上から見下したようなおやじっぽい視線を、主役の彼女に代弁させている感じが不快。ゴダールみたいに監督自身がぐちぐち説教する映画のほうがタチがいい。

救いは、彼女の息子が10話中4話に登場すること。彼の元気な表情が映ると、それだけでほっとする。母との会話にうんざりして外に飛び出しちゃったりする彼だが、実のところ、この映画の説教くささに耐えられないのだと思う。それを素直に暴いてしまう唯一の存在。結果的にこの映画は、子供の使い方が圧倒的にうまいキアロスタミらしい作品になっているし、やたらと作り込みの目立つイラン映画らしい作品でもある。

さて、私はその後、ドキュメンタリーのお手本のような映画を見てしまった。フレデリック・ワイズマンの「DV―ドメスティック・バイオレンス」である。夫の暴力に耐えかねた女が駆け込むDV保護施設を中心にカメラが回され、演出も脚本もナレーションもない。必要な情報はすべて自然な形で語られる。職員も被害者も真剣だ。被害者の女たちが、カメラを気にせずに語るなんてありえないだろうと普通は思うし、撮影許可が下りないだろうとも想像する。でも、できるのだ。

「私は普通の体験をドキュメントすることに興味がある。家庭内暴力がありふれた人間の行動である以上、映画の題材にふさわしいと思った」とワイズマンは言う。そこには感動も共感も押し付けがましさもなく、自分の存在を消すことのセンスが際立つ。重要なのは、監督が現場から消えることではなく、いながらにして存在感を消すこと…。

ワイズマンは、山形ドキュメンタリー映画祭の機関誌「documentary box」で、アメリカの国道1号線をひたすら南下する至高のドキュメンタリー・ロードムービー「ルート1」を撮った故ロバート・クレーマーと対談している。「我々は見えない存在になりたいんだ」とクレーマーが言い、ワイズマンが「その通りだ」と頷く。

そしてこうも言う。「できあがった結果に何らかの意味で自分でも驚くことがなければ、映画を作る意味なんてないと思うね。そうでなければ、結果がどうなるか最初からよく分かっていることのために1年も費やすことになる」

●「10話」 (アッバス・キアロスタミ)
2002年/フランス・イラン/94分/ユーロスペースで上映中
●「DV―ドメスティック・バイオレンス」 (フレデリック・ワイズマン)
2001年/アメリカ/195分/アテネフランセで上映中
●「ルート1」 (ロバート・クレーマー)
1989年/USAフランス/255分/アテネフランセで上映中
2003-09-09

『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』 村上龍 / 文藝春秋

女よ飛び出せ、とおじさまはアドバイスする。


ナシやブドウやサクランボが畑から盗まれる事件が相次いでいるらしい。何百個、何千個という単位だそうだから、組織的で悪質な犯罪に違いないし、農家にしてみれば相当な被害だろう。被害者の一人はインタビューに答え、こんなふうに語っていた。
「せっかく育てたのに、残念です…」
商売上の打撃を嘆くのでもなく、犯人への怒りをあらわにするのでもなく、淡々と。
まずは、自分がつくった商品に対する思いがあふれ出る。愛のある仕事は強いなと思った。

「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」は、仕事の強度に関する短編集だ。

「どこにでもある場所」とは、コンビニや居酒屋や公園やカラオケルームや披露宴会場や駅前や空港。これらの場所で、「どこにもいないわたし」たちが、一瞬のうちに実に多くのことを考える。ありふれた場所にいても、希望を持ち続ける勇気が必要ということだ。そうでなければ、私たちは、これらの場所に押しつぶされてしまうだろう。ありふれた場所に流されず、ありふれた他者に依存せず、そこから飛び出す唯一の方法。それは、自分を浄化する内なる衝動に耳を傾けることだ。言い換えれば「一日二十時間没頭できる何か」を見つけること。安直な他者との関係は、永遠でも絶対でもなく思い通りになるわけでもないが、内なる衝動はシンプルでクリアで世界を変える強度をもつ。村上龍は、これらの小説の中に「他人と共有することのできない個別の希望」を書き込みたかったという。

「コンビニ」は、音響スタジオで働く「ぼく」がサンディエゴに留学を決める話。この仕事が好きなのだと「ぼく」が実感するくだりが美しい。「おれはだまされていた」が口癖の兄は、かつて「ぼく」にこうアドバイスをした。「本当の支えになるものは自分自身の考え方しかない。いろんなところに行ったり、いろんな本を読んだり、音楽を聴いたりしないと自分自身の考え方は手に入らない。そういうことをおれは何もやってこなかったし、今から始めようとしてももう遅いんだ」と。自分自身はダメダメなのに、弟を圧倒的に正しく導く兄。ありえない。まるでポジティブな亡霊のような存在だ。そんな兄の働くスナックに「ぼく」がサンディエゴ行きの報告へ行くと、兄はシャンペンをおごってくれるのである。ファンタジーだ。

「居酒屋」という短編も留学がテーマだ。居酒屋とはこんな場所である。「誰もが自分の食べたいものを食べていて、無理をしていない。等身大という言葉があるが、居酒屋は常に等身大で、期待を大きく上回ることはないが、期待を大きく裏切ることもない。だが、居酒屋には他人というニュアンスを感じる人間がいない」。要するに、居酒屋にいる限り、人は進歩することはできないということだ。一緒にいると境界が曖昧になってしまうようなつまらない恋人と中野の居酒屋へ行くよりは、西麻布でホステスをしろと村上龍は言っているのである。まじ? 実際、「わたし」が西麻布でホステスをしていた時に来た男が「わたし」の人生にくさびを打ち込む。つまりその男は、その辺のおやじとは違う、見識ある「おじさま」であったということだろう。「一日に二十時間、絵を描き続けても飽きない人間が、画家だ」と男は言い、「わたし」は20年ぶりに絵を描きはじめる。

ほとんどの短編に、この手のアドバイザー的な「おじさま」が登場する。こういう存在になることは、「おじさま」の究極のロマンであることだろう。若い世代や女を描いているように見える本書は、「おじさま」にとっての救いの物語でもある。
2003-08-21

『熊座の淡き星影』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

時間と空間のロードムービー。


ジュネーブのホテルで、ニューヨークへ帰国することになった夫婦のお別れパーティが開かれている。翌朝、夫婦はまず、妻の故郷であるトスカーナの城塞都市ヴォルテッラへ向かう。スイスから一気にイタリアを南下するのだ。クルマはBMWのオープンカー。1965年の作品だ。

こんなブラボーなイントロを持ってこられたら、それだけでもう、涙が出てしまう。映画のタイトルが出るころには、既に満たされた気持ちだった。

もちろん映画の本題はそこからで、ヴォルテッラにある妻の実家を舞台にドラマが展開してゆくのだが、私たちは、アメリカ人の夫の視点で、ごく自然に、博物館のように謎めいた屋敷の内部へ入り込むことができる。

だから、やっぱり重要なのはイントロだ。スイスで通訳をつとめる聡明な妻が、イタリアの実家でどう変化するのか。アメリカ人の夫は、そんな妻をどう見守るのか。よそ者の視点がきわだつ。この映画は、ほとんどが屋敷の内部で撮られたにも関わらず、完璧な旅の物語なのだ。

早くここから抜け出し、妻と一緒にニューヨークへ帰ることを願う夫は、過去にとらわれた彼女を救うべく、怪しすぎる人物関係をとりもつ努力までする。ついにぶちきれて義弟を殴ってしまう晩餐会のシーンですら、彼はまっとうだ。「やっぱ、アメリカ人は血の気が多いよね」などと早合点してはいけない。

義弟は、屋敷の周辺の廃墟を案内したり、姉の過去におわせたりしながら、彼に言う。「田舎は、どこでも同じだ」と。イタリア人がアメリカ人に向かって、そう言うのである。
イタリア映画であるにもかかわらず、クルマがBMWだったり、食前に飲む酒がスコッチだったりするのが上流階級らしい。パゾリーニとは全然ちがう。地方都市の名門という迷宮が、新たな歴史的苦悩を紡いでゆく。

ラストシーンは屋敷の中庭。妻の父親の彫像の除幕式がおこなわれており、その輪に、ある人物が加わるところで映画は終わる。この終わり方も秀逸だ。葬式のようでいて、それは、確かな始まり。何かが終わるのではなく、続くのだ。歴史はこうやって変化が加えられ、良くも悪くも継承されていく。イタリアの歴史と文化の深淵をのぞき見る思いがした。

―熊座の淡き星影よ
私にはとても信じられない
父の庭園の上にきらめくお前たちに
こうして再び会えるとは
幼い日を過ごしたこの館の
喜びの終焉を見たこの窓辺で
きらめくお前たちと
こうして語り合えるとは―
(ジャコモ・レオパルディ「追憶」より)

単なるミステリーでもなく、単なる近親相姦の話でもない。ポランスキーとトリュフォーとキェシロフスキーとゴダールを、この1作に見る。そして、もとをたどれば、これは溝口健二なのではないかと思うのだった。やっぱすごいよ、雨月物語って。

美味しいレストランに行くと、ついほかの美味しいレストランの話とか、ほかの美味しいものの話になったりするものだ。いい映画をみれば、ほかのいい映画のことを全部思い出してしまう。

*1965年 イタリア映画

*ヴァネチア国際映画祭金獅子賞受賞
*シネ・リーブル池袋にて上映
2003-08-05