『巨匠たちの秘蔵ドキュメンタリー』 テオ・アンゲロプロス/マノエル・デ・オリヴェイラ/アモス・ギタイ/クシシュトフ・キェシロフスキ /

1時間でわかる、各国の現実。


下北沢の短編映画館トリウッドで、夢のようなイベントが開かれた。ヨーロッパと中東を代表する4人の映画監督の、ビデオやDVDになっていないドキュメンタリー作品が1日限りで上映されたのだ。この4本、見事な起承転結になっていて面白かった。

●「アテネ-アクロポリスへの三度の帰還」by テオ・アンゲロプロス(ギリシャ)1982・44分

アクロポリスをめぐる歴史の再発見。監督がかつて住んでいた家の下から古代遺跡が発見され、発掘作業が進んでいる。おもちゃが見つかり、自分の部屋の真下に少年の部屋があったことがわかったという。これ、男の人にとって、父探しどころではない衝撃なんじゃないだろうか。
古代遺跡に比べればごく最近の建物であるともいえる新古典主義の建物がどんどん壊され、発掘が優先されているらしい。船のようにゆっくりと進むカメラがとらえる街は魅力的だが、偉大な歴史を抱える都市に住むというのは、つまりこういうことなのだ。
舞い上がれない蝶や鳥、ストップモーションの人物など、アンゲロプロスらしい宙吊りのイメージが多数登場し、絵づくりが冴える。オリンピック前に世界が見るべき1本だと思うけど、7月10日から東京国際フォーラムで開かれる「テオ・アンゲロプロス映画祭」でも上映されないしなあ。

●「リスボン」by マノエル・デ・オリヴェイラ(ポルトガル)1983・61分

ポルトガルの人も大変そうだ。大航海時代の偉業抜きには語れない港町リスボン。歴史を全方位からていねいに浮かびあがらせる真面目さはオリヴェイラならでは。このドキュメンタリーをドラマとして完成させたのが「永遠の語らい」(2003)だと思う。華やかな歴史とは対照的なファドのメロディーがあまりにも哀切。哀切は、眠い。

●「オレンジ」by アモス・ギタイ(イスラエル)1998・58分

イスラエルの経済を支えているのは、そんなポルトガルが中国から持ち込んだオレンジなのだった。アモス・ギタイは、オレンジ産業をベースに、イスラエルとパレスチナの対立構造を、ゴダールのような1+1(古い写真を繰り返し写すパート+ドキュメンタリーパート)の手法であぶりだす。
暗く重いテーマだが、鮮やかなオレンジ(柑橘類)の映像が救いになっている。果物に罪はないし、オレンジだけは豊富にあるという国に、ある種のうらやましさを感じたってバチは当たらないだろう。実際、映画の中では「足りないものを嘆くのではなく、豊かなものに目を向けるべき」というような小説のメッセージが繰り返し引用されるのだ。
イスラエル産の柑橘類にはJAFFA(ヤッファ)のシールが貼ってある。ヤッファとはもともと町の名前だが、いつの間にかオレンジを意味するようになった。

●「I’m so so」by クシシュトフ・ヴィエジュビツキ(ポーランド) 1995・56分

クシシュトフ・キェシロフスキ監督が主演し、彼の助手が監督をつとめる。キェシロフスキ監督は、この映画に収まった数ヶ月後、突然の心臓発作で亡くなるのだが…。
「I’m so so(まあまあ)」というタイトルは、「最近どう?」と訊くと「最高さ!」とハイテンションで答えるような中身のないアメリカ文化は苦手だと監督が語るシーンからきている。気のおけないスタッフとの会話の中に監督の才気が光り、私はもう釘付け。「偶然によって運命は変わるが、たとえ何かを失っても誠実な人は誠実なままだし、そうでない人はそのまま」などと監督はおっしゃる。
「僕は悲観主義で、未来が怖い」ともおっしゃっていたが、あくまでも楽観主義への痛烈な批判なのであリ、監督は意外にウソツキであることが最後にわかるのであった。
2004-06-29

『世界の中心で、愛をさけぶ』 片山恭一(原作)・行定勲(監督) /

映画化という仕事。


はじめに原作を読んだ。
ヒロインのアキが死ぬことは最初からわかっていて、そのことが随所で強調される。朔太郎は、アキに恋する日々の中で突然「どんなに長く生きても、いま以上の幸福は望めない」という「恐ろしい確信」にとらわれてしまう。あまりにもベタな伏線。

が、その後アキが入院し、朔太郎が彼女の自宅に侵入するシーンの鮮やかさといったら。
「自分がすでに彼女を失い、遺品をあらためるために、この部屋に足を踏み入れたような錯覚にとらわれていた。それは奇怪で生々しい錯覚だった。まるで未来を追憶しているようだった」

映画では外されたこのシーンで、小説のテーマが「未来への追憶」そのものであることがわかる。好きになった瞬間に、失うことを恐れなければいけない繊細な季節の物語。アバウトな大人になる前の、理屈っぽく悲観的な思春期の…。

大人になってしまったら「失われた過去」を追憶しても前へ進めない。自分の過去も誰かの過去も、自然に受け入れればいい。それが人を好きになるということだ。現実を太く生きるために。失うことを恐れずにすむように。

2人の現実離れした会話は、小説ならではの気恥ずかしさに満ちているが、映画ではもう少し普通の会話になっており、長澤まさみと森山未來が軽やかに普遍化してみせる。小説には小説の、映画には映画のよさが生きていて、幸福に共存しているのだ。片山恭一いわく「小説のなかで描かれているシーンと、小説にはない映画独自のシーンとが相互に補い合う感じで、決してぶつかっておらず理想的でした」

ウォークマンでカセットテープを聞く柴咲コウがアップになり、彼女の目の色が変化し、涙がひとすじ落ちる。まるでCFみたいなオープニングの表情が、私を釘付けにした。これが女優だ、と思った。限られたシーンで彼女は圧倒的な存在感を見せるのだ。「GO」に引き続き、山崎努の演技もすごかった。どうしてこんなに面白い人物造詣ができるのだろう。

大人になった朔太郎(大沢たかお)が暗い街を走り、その姿が彼に良く似た少年(森山未來)に変わり、高校時代のまぶしい四国の町につながる。クルマなんかなくても、ある風景を駆け抜ければ、映画はロードムービーになる。過去の明るさと現在の暗さの対比、それだけでこの映画は成功している。

いい原作だから、いい肉づけができるのだろうか。俳優の解釈が冴え、表情や走りに凄みが出る。スタッフのリアルが積み重なり、よりピュアなものになる。
映画が面白くなるか、つまらなくなるかの分かれ道について考えた。この映画を見る前に、大好きな監督の、ものすごくつまらない作品をDVDで見てしまったからだ。原作はなく、キャスティングも悪かった。監督の個人的な観念が空回りしていた。

観念を描写に変換し、描写に愛を注ぐ。原作の映画化とは、そういうことだ。何かを何かに変換して納品するのがあらゆる仕事の本質なのだとしたら、自分もそんなふうに仕事をしたいなと思った。右から左へ納品するのではなく、勝手に壊して納品するのでもなく、愛と必然性に基づいた職人的な加工をして納品する。まったく別物でありながら、左右がつながるような。1+1が2以上になるような。

柴咲コウは、原作を泣きながら一気に読み、それがダ・ヴィンチで紹介された。編集担当者はそれを知り、彼女の言葉を小説の帯コピーに使った。行定監督は、原作を愛している女優に頼もうという気持ちで彼女をキャスティングした。まさに愛の連鎖!

女子高生たちが「この映画、まじやばいよ」と言いながら泣いていた。私もそう思う。ウォータープルーフのマスカラでよかった。
2004-06-20

『幸せになるためのイタリア語講座』 ロネ・シェルフィグ(監督) /

「不自由な映画」と「自由な写真」。


年齢を重ねても不器用な人は多い。この映画は、そんな生き方にスポットを当てた。かっこいいとこなんてないし、夢のようなことも起こらない。6人の男女が織り成すダサダサの恋愛映画。

とりわけ不器用なのが、パン屋で働いているのに何度もパンをひっくり返し、いつも髪が乱れていたりスカートがめくれていたりする問題解決能力のない女オリンピア。とても他人ごととは思えず痛い! 不器用な人をなめるんじゃないわよ、と言いたいところだが、映画の撮り方自体も不器用なので、まあいいかって感じ。

不器用な人がこの映画を見ても救われないし解放感もない。ベネチアまで行ってもロードムービー感すら漂わない。彼らが仲間とだけコミュニケーションしているからだ。牧師が「僕にはもう必要ない」とかいってマセラッティを手放すってのも、あまりに紋切り型。

この映画全体を貫く不自由さの理由は、ラース・フォントリアーを中心としたデンマークの4人の監督たちによる「ドグマ」のルールに従っているからかもしれない。許されているのは手持ちカメラを使ったロケーション撮影のみ。小道具やセットを持ち込んではならず、背景以外の音楽を使ってはならず、カラーでなければならず、人工照明は禁止。殺人や武器の使用、表面的なアクションも禁止...一体、何のためにこんな制約を? 1ミリも理解できない。

私は、この映画を見るために新宿へ行ったわけだが、photographers’galleryで開かれていた蔵真墨の写真展とセットにしたのは正解だった。

蔵真墨の写真は私だ―多くの人がそう感じると思う。女子高生やらビジネスマンやらおばさんやらおっさんやら多様な人物が写っているのに、圧倒的なシンパシーへと導かれる。美しいものを美しいとくくらず、不器用な人間を不器用とくくらないクールな客観性。ステレオタイプからの限りない自由。そこから生まれるエッジイな笑い。人+場所+瞬間の吸引力。それは、デンマークとイタリアで撮影された映画にすら欠けていたロードムービー感だと思う。

こういう写真は、偶然には撮れないはず。「普通の人」のキャスティングのセンスが素晴らしすぎるし、ほとんど正面から撮ってるし。一体どうやって仕込んでいるんだろう? それだけが知りたかった。だから、ギャラリーの事務所にいたフェミニンな女性が本人であることを知り、私は歓喜した。彼女の写真はなんと偶然の産物なのだそう。「いろいろ問題もあるんですけど」とミステリアスに微笑む彼女。ああ、それらの問題がいかなるものであってもオッケーです、あなたなら。

蔵真墨さんの写真に出会った「Photographers’gallery press」(No.3 \1,600)は、仕事柄「コマーシャル・フォト」ばかり見ている私にとって、久々にエキサイティングなアート写真雑誌だった。

たとえば、小津安二郎が1937年に撮った静物写真の強さ。

たとえば、六本木の地下鉄の階段を上がったら目の前に交通安全ポスターがあり「おっとという感じでインパクトを受けて、よしこれ撮っちゃおう」というノリで森山大道が撮った「アクシデント」シリーズ(1969)が、他人の写真を勝手に撮って卑怯だとか、汚いとか、そういうことでいいのかなどと言われたというエピソード。

たとえば、肺がんに侵された肺と正常な肺を並べてあるような脅迫的な写真の場合、どちらがきれいかは趣味の問題であって「ただれた肺をきれいだとかバロック的な肺だとか言ってもいいんじゃないか」というようなことを主張する島田雅彦。

真実に肉薄しようとするカメラマンを揶揄したしりあがり寿のマンガ「キャメラマン・シャッ太」も秀逸!
2004-05-29

『永遠(とわ)の語らい』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

セレブな映画には、何が欠落してる?


コンサバ系女性誌の言葉使いはおもしろい。
コスメ、ファンデ、ワンピ、アクセ、ローテ、リュクス、ミューズ、セレブ…

95才のマノエル・ド・オリヴェイラ監督が、昨年は、西洋文明をテーマに95分のセレブな映画を撮った。来日した監督は、生きていれば100歳になる小津安次郎の墓参りをしたという。小津監督なら、今年どんな映画を撮っただろう。日本やアジアの登場しないこの映画を観ながら、そんなことを思った。

ポルトガル人のローザは、7才の娘を連れ、地中海を巡る船旅をする。フランス、イタリア、ギリシャ、エジプト、トルコ…。最終的にはインドでシフトを交代するパイロットの夫と落ち合い、3人でヴァカンスを過ごす予定である。あえて船旅を選んだ理由は、本でしか見たことのない歴史を確かめるため。ローザはリスボン大学の歴史教授だから、娘の質問にも完璧に答える。観客にとっても有益で楽しい旅だ。

この船には、知性、経済力、美貌、知名度というセレブの条件を完璧に備えた3人の女性が乗船している。フランスの実業家(byカトリーヌ・ドヌーヴ)、ギリシャの大女優(byイレーナ・パパス)、イタリアの元モデル(byステファニア・サンドレッリ)という面々。ホストである船長(byジョン・マルコヴィッチ)を囲み夕食をとる彼女たちは、それぞれの国の言葉を話すが、何の問題もなく通じ合える。まさに、理想のコスモポリタニズムを体現したテーブルなのだ。が、彼女たちの会話が豊かであればあるほど「そこにないもの」が次第に際立つ。

ローザと娘がテーブルに招待されることで、それは明らかになる。ローザは他の3人に比べると若く無名だが、知性と経済力と美貌を備えているため船長にデッキでナンパされ、無理やりテーブルに迎えられるのだ。

表面的にはまず、セレブたちに欠落している「夫と可愛い娘」の存在が強調されるが、本当に欠落しているのは、もっと決定的なものだった。そのことを暗示するのが、船長が娘にプレゼントする人形。つまり、あとから加わった3人の女(ローザ、娘、人形)が、既存の3人の欠落を浮き彫りにするのである。すべての舵を握るのは、ポーランド系アメリカ人である唯一の男、船長だ。

オリヴェイラ監督は言う。
「映画を撮っていく上で一番難しいのはシンプルさをどう出していくかということです。これはいろいろなことを言いたい時に、長い文書を書くのは簡単でも、ほんの短い文章のなかで伝えるのは難しいのと同じです…現代は、いろいろなことが盛りだくさんになっていてスペクタルの様なものの方が、観客を惹き付けているような傾向にありますが、こういった類の映画はドラッグのようなものではないかと思っています」

「派手な作品であれば人は振り向きますが、それらには、実は魅力もなければ深さもありません。観客はおそらくそのようなものに値しない。観客とはもっとすばらしいものに値すると思うのです。私の映画が、観客に何かそれ以上のものを伝えられるものであって欲しいですし、そして、そこでまた観客が、それぞれのアイディアや考えを付け加えていけるような作品でありたい。その時に観客は、受け身ではなく能動的な主体となりうるのですから」

タイタニックを観たすべての10代にこの映画を観てもらい、どっちが面白いか訊いてみたくなった。なぜなら映画館のロビーは年配の観客であふれ、まさに豪華客船のデッキのようだったから。

この映画にもっとも欠落しているのは、若い観客である。
モードなガールにマストなシネマ!


*2003年 ポルトガル=フランス=イタリア合作
2004-05-11

『負け犬の遠吠え』 酒井順子 / 講談社

広告業界版・負け犬の遠吠え


勝ち犬と負け犬は、簡単に2分できない。
本書によると「既婚・子あり」「既婚・子なし」「離婚歴あり」「未婚でモテる」「未婚でモテない」の順に勝っていることになるが、子供を手放した人や未婚の母はどうなのよ?と考え始めると話はややこしい。強引に線引きするなら「子育てという最も価値ある営みをしているか否か」という話になるようだ。なぜなら、ものすごく価値ある仕事をしているように見えるセレブリティーたちも、出産するや否や「どんな仕事よりも素晴らしい体験!」などとコメントし、素晴らしい仕事すらしていない負け犬たちをがっかりさせるのだから。

その点、林真理子という作家は、子供のことを書かないという原則を貫いている。しかも、彼女のポリシーは、負け犬への気遣いというレベルを超えた長期的な戦略。作家としての生涯ビジョンを優先するプロの姿勢に、負け犬は共感をおぼえるのである。

一方、鷺沢萠という作家は、著者の「負け犬物書き仲間」として本書に登場する。私は彼女が亡くなる3日前、JALの機内誌で、遺稿だったかもしれない彼女のエッセイを読んでいた。それは、波照間島のソーキそばについて綴られた生命力あふれる文章で、タイトルは「世界でいちばん美味しいそば」。私は、ポスターの撮影の仕事で、彼女がいつか住みたいと考えていた沖縄へ行くところだった。

私たちのチームは総勢10数人だが、撮影スタッフと制作スタッフの雰囲気が違う。「おしゃれ」という言葉ひとつとっても互いに共有できない決定的なスタイルの差。
ロケの最中、私はある真実に気がついた。撮影スタッフは、男女含め、全員が完全な勝ち犬だったのだ。カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、マネジャー、コーディネーター…。
一方、制作スタッフに、勝ち犬は一人もいなかったのである。プロデューサー、クリエイティブディレクター、アートディレクター、デザイナー、コピーライター(私)…。

このチームの場合、制作スタッフのほうが明らかにコンサバだから「勝ち犬は面白いことを避けて生きる保守派である」という本書の定義は当てはまらない。どちらかといえば勝ち犬たちのほうが、無邪気でやんちゃ。めちゃくちゃな酔い方をしたり、異様にノリがよかったりする素直さが特長である。他方、負け犬たちは少々ひねくれた感じで、球を投げると必ず変化球が返ってくる…。

夕食時、撮影スタッフが泡盛、制作スタッフがスペインワインを注文しているのを見て、私はひざを打った。本書の「負け犬は都市文化発展の主なる担い手でもあるのです」という一文を思い出したのだ。
「青森県の漁港でほんの一時期しか水揚げしない珍しい魚が寿司屋で食べられるのも、決してメジャーヒットはしないであろうヨーロッパの小国で作られた地味な映画が見られるのも、深夜においしいフレッシュハーブティーが飲めるのも、負け犬が都市文化を底支えしているからなのです」。

思い返せば、東京でも、フレンチレストランでの打ち上げを企画したのは負け犬だった。その後カラオケに行きたがったのは勝ち犬で、負け犬たちの5倍歌った勝ち犬たちはさらにクラブへと元気に繰り出したが、私はといえば、負け犬同士でまったりとカフェでお茶を飲んでいたではないか。

広告業界における負け犬は、都市文化発展の担い手ではあるものの、体力がやや足りないのかもしれません。体力がないから素直になれず、変化球を投げ続けるしかないのです。

フレッシュハーブティーなど深夜に飲みつつ、素直な写真を見ながらひねくれたコピーを考えるのは、世界でいちばん素晴らしい仕事だと私も信じているわけです。が。
2004-04-26