『コピーの時代-デュシャンからウォーホル、モリムラへ』 滋賀県立近代美術館 /

ホンモノより、アタラシイモノが見たい。


桜の季節には京都国立近代美術館のカフェへ。
燕子花の季節には根津美術館の庭園へ。
紅葉の季節には足立美術館の茶室へ。
だが、この夏はなんといっても滋賀県立近代美術館である。

というのは屁理屈だが、人はなぜ美術展へ行くのだろう? 本物を見るため? だとしたら、東京から琵琶湖までわざわざコピーアートを見に行くのは馬鹿げている?

マルセル・デュシャンから始まって、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタイン、森村泰昌まで、22名と1グループによる137点の作品を6つのゾーンに分け、引用と複製の歴史を振り返り、シミュレーショニズムの最前線に迫る企画展だ。

紙幣をコピーした赤瀬川源平、コンビニのサインボードから文字を消した中村政人、名画の登場人物を1人だけ消したり、ありそうでどこにもない風景を写真のように細密に描く小川信治、登場人物の視点から名画を描き直したり、著作権侵害にならないようにディズニーアニメをコピーした福田美蘭、オリジナルのない映画の登場人物になりきるシンディ・シャーマン…。

福田美蘭の最新作(2004)は、この美術館の所蔵作品(人間国宝による着物と壷)のパロディー。着物をまとった想像の自画像と、壷を収納しておくための木箱や詰めものを描いた作品が「本物」と並べて展示されているのだから面白すぎ。今回、メインの作品と対比するための「本物」のいくつかは、所蔵美術館からのレンタル期限切れで撤去されていたのだが、この美術館の所蔵品ならノープロブレムだ。

デュシャンの作品は、便器を倒して署名しただけの「泉」(1917)をはじめとするレディメイドシリーズや、モナリザの顔にひげを書いただけの「L.H.O.O.Q.」(1919)などたくさんあったが、「オリジナル」ではなく1964年にミラノで複製されたもの。これも、オリジナルと並べて展示したら面白いかも。

1917年、デュシャン自身が委員をやっていたニューヨークのアンデパンダン展で「泉」が出品拒否されたのは有名な話だが、「デュシャンは語る」(ちくま学芸文庫)によると、どうやら無視されたってことらしい。便器は会場の仕切りの外に置かれており、「展覧会の後で、仕切りの後に『泉』を見つけました。それで取戻せたわけです!」なんて本人は語っている。「私はいっぺんで受けいれられるようなものは、何もつくれなかった」とも。

本当に面白いものは、展示会場ではなく、仕切りの後ろにこそあるのだ。それが、美術展に足を運ぶ理由でもある。回顧展を観るだけでなく、オリジナルが生まれる瞬間に立ち会えたらいい。

*9月5日まで開催中
2004-08-12

『69 sixty nine』 村上龍(原作)・李相日(監督) /

地方出身の男が、女と世界を救う?


「経済力もお嫁さんもない地方都市の無名の十七歳だったら、誰だって同じ思いを持っている。選別されて、家畜になるかならないかの瀬戸際にいるのだから、当然だ」
-「69」より

女を幸せにするのは、地方出身の男である。というのは嘘ではなく、私の個人的な考えだ。
1969年の佐世保について1987年に書かれた小説が、2004年の今、映画になった。

村上龍は、どこへ行くのだろう。洗練されることなく文化の最前線を突っ走ってほしいものだが、一方で、彼ほど政治家に向いている人はいないとも思う。「長崎生まれ、武蔵野美術大学中退」という肩書きは「東京生まれ、一ツ橋大学卒業」の田中康夫を超える武器となるだろう。

「69」の主人公ケンは、佐世保時代の村上龍だ。こんなに世の中の見えている高校生は、私が通っていたマザコンばかりの東京の高校には、1人もいなかった。重要なことに早く気付くためには、中心を外側から眺める見通しのいい場所にいなきゃダメなのだ。そんなわけで、東大に入る人数だけはやたらと多い私の高校は全滅だったが、中学には「69」におけるケンのような男子が1人だけいた。東京だが海に近かったせいだと思う。彼はいつも、海の向こうの町や文化を見ていた。

世の中の見えていなかった私は、14歳のとき、彼をリュウと名付け、原稿用紙5枚のふざけた作文を書き、賞金をもらった。それから10年後、相変わらず世の中は見えていなかったものの書くことを仕事として選んだ遠因にリュウの存在があったことは確かだが、同じ時期、彼は留学先の米国で銃に撃たれ死んでしまった。彼が何を愛し、どう生きようとしていたのかは知らないが、とにかく日本は、村上龍ばりの貴重な人材を1人失ったのだと私は思った。

映画版「69」は、原作とはずいぶん違う。1969年の風俗が、面白おかしくサンプリングされているだけなのだ。

「恐れることはない。とにかく『盗め』。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ」
-椹木野衣「シミュレーショニズム」(1991)より

雑多な要素のつめこみ過ぎでまとまりに欠ける映画だが、ケンを演じる妻夫木くんの日焼けしたランニング姿のまばゆさが、すべてを貫いている。楽しんで生きろというのが「69」の唯一のメッセージであり、楽しむってことは、実は相当エゴイスティックなことだから、まばゆさは残酷さでもある。ダサイ奴、馬鹿な奴、醜い奴を切り捨てる若いリーダーシップの残酷な輝きを、映画は切り取った。

「楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。(中略)だが、いつの時代にあっても、教師や刑事という権力の手先は手強いものだ。彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである。わたしはその戦いを今も続けている。退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう」
-「69」あとがきより

村上龍は、今も戦っている。だが、脚本を書いた宮藤官九郎は戦っていない。小説の暗い結末を、あまりにも明るく処理してしまった。つまり、戦わずに楽しく生きられる世代がようやく登場したってことなのか? 鮮やかなラストのおかげで、まとまりのなさは払拭され、楽しい嘘をつくことの意味がくっきりと浮き彫りになった。楽しい嘘たちが、原作を、軽やかに超えてしまったように見えるのだ。
2004-07-28

『下妻物語』 嶽本野ばら(原作)・中島哲也(監督) /

下妻が世界とつながっている理由、もしくは「ジャージ」と「お洒落なジャージ」の違いについて。 


茨城県・下妻を舞台にした映画が、世界で公開される。
カンヌ映画祭のマーケット試写会にて「カミカゼ・ガールズ」という英訳で上映されたところオファーが殺到し、米国、イタリア、スペイン、ドイツ、オランダ、ベルギー、チェコ、中国、韓国、タイなどで上映が決まったという。

下妻ってどこよ? ヤンキーとロリータの友情? 極端すぎて、どこにも共感できるスキなんてないじゃん。予告編を見てそう思った私は浅はかだった。

世界の共感を得るのは、グローバリズムなどではなくローカリズムに決まってる。中島哲也監督はサッポロ黒ラベルの温泉卓球編などで知られるCMディレクターであるからして、絵づくりがいちいち決まっているし、編集やCGにも妥協がない。土屋アンナの体当たり演技は、それだけでヤンキー精神全開...時々お仕事でご一緒する機会があるけれど、こんなに姉御肌でカッコイイ20歳女子を私はほかに知りません。

下妻物語は、優れたファッション・マーケティング映画でもある。深田恭子演じるロリータの桃子と土屋アンナ演じるヤンキーのイチゴという両極な二人だが、お洒落に没頭する女の子の気持ちを的確に言い当てている。代官山を舞台にフツーの流行を見せたって、説得力のあるファッション映画は撮れないだろう。桃子の住む下妻には巨大なジャスコがあるのに、どうして休みのたびに何時間もかけて代官山まで来てロリロリのお洋服を買わなきゃなんないのか。そもそも桃子はどんな家に育ち、どういう経緯で下妻に住み、いかにロココの精神を身にまとうに至ったのか。ファッションを語るには、ここんとこが最も重要なのだ。

しかもこの2人、スジが通っていてかっこいい。互いに信念を持っているからこそ、見た目の違い、主義の違いを超えて認め合える。友だちって必要なのか? 学校って行くべきなのか? 仕事ってするべきなのか? 借りって返すべきなのか? ほんと、ためになる映画だけど、もちろん現実にはこんなスジの通った女子高校生など存在しないはず。2人の生き方は、原作者、嶽本野ばら氏の「ハードボイルドじゃなきゃ乙女じゃない」という美学のイコンなのである。

「人のものでも好きならば取ってしまえば良いのです。どんな反則技を使おうと、狙った獲物は手に入れなければなりません。我儘は乙女の天敵です。自分さえ幸せになればいいじゃん」

「酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富なレディになることなんて私は望みはしません。酸っぱいものは食べたくない、甘いものだけでお腹をいっぱいにして私は生きていくのです」

「こいつは、何時も一人で立ってるんだよ。誰にも流されず、自分のルールだけに忠実に生きてやがるんだよ。群れなきゃ歩くことも出来ないあんたらと、格が違うんだよ」

「心の痛みを紛らわす安易な手段を憶えてしまったら、きっと人は何か大切なものを損なってしまうのです」

原作には、桃子とイチゴを橋渡しするブランドとして、HONDAとのWネームを展開しているシンイチロウ・アラカワの服が出てくる。「ヤンキーのままでもいいから、少しはイチゴをお洒落にしたい。本人も気付かぬうちに、私好みにカスタムしていきたい」というのが桃子の思惑なのだ。

私は、ロリ服も特攻服も着たことがないしHONDAのバイクにも今のところ乗っていないけど、シンイチロウ・アラカワは好きだ。ここの服を着てると「HONDAの仕事してんの?それってノベルティ?」と言われがちなのが難点ですが、乙女のカリスマなんていわれる嶽本野ばら氏に自分が影響され、カスタマイズされそうになる理由がようやくわかった気が…。
2004-07-13

『巨匠たちの秘蔵ドキュメンタリー』 テオ・アンゲロプロス/マノエル・デ・オリヴェイラ/アモス・ギタイ/クシシュトフ・キェシロフスキ /

1時間でわかる、各国の現実。


下北沢の短編映画館トリウッドで、夢のようなイベントが開かれた。ヨーロッパと中東を代表する4人の映画監督の、ビデオやDVDになっていないドキュメンタリー作品が1日限りで上映されたのだ。この4本、見事な起承転結になっていて面白かった。

●「アテネ-アクロポリスへの三度の帰還」by テオ・アンゲロプロス(ギリシャ)1982・44分

アクロポリスをめぐる歴史の再発見。監督がかつて住んでいた家の下から古代遺跡が発見され、発掘作業が進んでいる。おもちゃが見つかり、自分の部屋の真下に少年の部屋があったことがわかったという。これ、男の人にとって、父探しどころではない衝撃なんじゃないだろうか。
古代遺跡に比べればごく最近の建物であるともいえる新古典主義の建物がどんどん壊され、発掘が優先されているらしい。船のようにゆっくりと進むカメラがとらえる街は魅力的だが、偉大な歴史を抱える都市に住むというのは、つまりこういうことなのだ。
舞い上がれない蝶や鳥、ストップモーションの人物など、アンゲロプロスらしい宙吊りのイメージが多数登場し、絵づくりが冴える。オリンピック前に世界が見るべき1本だと思うけど、7月10日から東京国際フォーラムで開かれる「テオ・アンゲロプロス映画祭」でも上映されないしなあ。

●「リスボン」by マノエル・デ・オリヴェイラ(ポルトガル)1983・61分

ポルトガルの人も大変そうだ。大航海時代の偉業抜きには語れない港町リスボン。歴史を全方位からていねいに浮かびあがらせる真面目さはオリヴェイラならでは。このドキュメンタリーをドラマとして完成させたのが「永遠の語らい」(2003)だと思う。華やかな歴史とは対照的なファドのメロディーがあまりにも哀切。哀切は、眠い。

●「オレンジ」by アモス・ギタイ(イスラエル)1998・58分

イスラエルの経済を支えているのは、そんなポルトガルが中国から持ち込んだオレンジなのだった。アモス・ギタイは、オレンジ産業をベースに、イスラエルとパレスチナの対立構造を、ゴダールのような1+1(古い写真を繰り返し写すパート+ドキュメンタリーパート)の手法であぶりだす。
暗く重いテーマだが、鮮やかなオレンジ(柑橘類)の映像が救いになっている。果物に罪はないし、オレンジだけは豊富にあるという国に、ある種のうらやましさを感じたってバチは当たらないだろう。実際、映画の中では「足りないものを嘆くのではなく、豊かなものに目を向けるべき」というような小説のメッセージが繰り返し引用されるのだ。
イスラエル産の柑橘類にはJAFFA(ヤッファ)のシールが貼ってある。ヤッファとはもともと町の名前だが、いつの間にかオレンジを意味するようになった。

●「I’m so so」by クシシュトフ・ヴィエジュビツキ(ポーランド) 1995・56分

クシシュトフ・キェシロフスキ監督が主演し、彼の助手が監督をつとめる。キェシロフスキ監督は、この映画に収まった数ヶ月後、突然の心臓発作で亡くなるのだが…。
「I’m so so(まあまあ)」というタイトルは、「最近どう?」と訊くと「最高さ!」とハイテンションで答えるような中身のないアメリカ文化は苦手だと監督が語るシーンからきている。気のおけないスタッフとの会話の中に監督の才気が光り、私はもう釘付け。「偶然によって運命は変わるが、たとえ何かを失っても誠実な人は誠実なままだし、そうでない人はそのまま」などと監督はおっしゃる。
「僕は悲観主義で、未来が怖い」ともおっしゃっていたが、あくまでも楽観主義への痛烈な批判なのであリ、監督は意外にウソツキであることが最後にわかるのであった。
2004-06-29

『世界の中心で、愛をさけぶ』 片山恭一(原作)・行定勲(監督) /

映画化という仕事。


はじめに原作を読んだ。
ヒロインのアキが死ぬことは最初からわかっていて、そのことが随所で強調される。朔太郎は、アキに恋する日々の中で突然「どんなに長く生きても、いま以上の幸福は望めない」という「恐ろしい確信」にとらわれてしまう。あまりにもベタな伏線。

が、その後アキが入院し、朔太郎が彼女の自宅に侵入するシーンの鮮やかさといったら。
「自分がすでに彼女を失い、遺品をあらためるために、この部屋に足を踏み入れたような錯覚にとらわれていた。それは奇怪で生々しい錯覚だった。まるで未来を追憶しているようだった」

映画では外されたこのシーンで、小説のテーマが「未来への追憶」そのものであることがわかる。好きになった瞬間に、失うことを恐れなければいけない繊細な季節の物語。アバウトな大人になる前の、理屈っぽく悲観的な思春期の…。

大人になってしまったら「失われた過去」を追憶しても前へ進めない。自分の過去も誰かの過去も、自然に受け入れればいい。それが人を好きになるということだ。現実を太く生きるために。失うことを恐れずにすむように。

2人の現実離れした会話は、小説ならではの気恥ずかしさに満ちているが、映画ではもう少し普通の会話になっており、長澤まさみと森山未來が軽やかに普遍化してみせる。小説には小説の、映画には映画のよさが生きていて、幸福に共存しているのだ。片山恭一いわく「小説のなかで描かれているシーンと、小説にはない映画独自のシーンとが相互に補い合う感じで、決してぶつかっておらず理想的でした」

ウォークマンでカセットテープを聞く柴咲コウがアップになり、彼女の目の色が変化し、涙がひとすじ落ちる。まるでCFみたいなオープニングの表情が、私を釘付けにした。これが女優だ、と思った。限られたシーンで彼女は圧倒的な存在感を見せるのだ。「GO」に引き続き、山崎努の演技もすごかった。どうしてこんなに面白い人物造詣ができるのだろう。

大人になった朔太郎(大沢たかお)が暗い街を走り、その姿が彼に良く似た少年(森山未來)に変わり、高校時代のまぶしい四国の町につながる。クルマなんかなくても、ある風景を駆け抜ければ、映画はロードムービーになる。過去の明るさと現在の暗さの対比、それだけでこの映画は成功している。

いい原作だから、いい肉づけができるのだろうか。俳優の解釈が冴え、表情や走りに凄みが出る。スタッフのリアルが積み重なり、よりピュアなものになる。
映画が面白くなるか、つまらなくなるかの分かれ道について考えた。この映画を見る前に、大好きな監督の、ものすごくつまらない作品をDVDで見てしまったからだ。原作はなく、キャスティングも悪かった。監督の個人的な観念が空回りしていた。

観念を描写に変換し、描写に愛を注ぐ。原作の映画化とは、そういうことだ。何かを何かに変換して納品するのがあらゆる仕事の本質なのだとしたら、自分もそんなふうに仕事をしたいなと思った。右から左へ納品するのではなく、勝手に壊して納品するのでもなく、愛と必然性に基づいた職人的な加工をして納品する。まったく別物でありながら、左右がつながるような。1+1が2以上になるような。

柴咲コウは、原作を泣きながら一気に読み、それがダ・ヴィンチで紹介された。編集担当者はそれを知り、彼女の言葉を小説の帯コピーに使った。行定監督は、原作を愛している女優に頼もうという気持ちで彼女をキャスティングした。まさに愛の連鎖!

女子高生たちが「この映画、まじやばいよ」と言いながら泣いていた。私もそう思う。ウォータープルーフのマスカラでよかった。
2004-06-20

『幸せになるためのイタリア語講座』 ロネ・シェルフィグ(監督) /

「不自由な映画」と「自由な写真」。


年齢を重ねても不器用な人は多い。この映画は、そんな生き方にスポットを当てた。かっこいいとこなんてないし、夢のようなことも起こらない。6人の男女が織り成すダサダサの恋愛映画。

とりわけ不器用なのが、パン屋で働いているのに何度もパンをひっくり返し、いつも髪が乱れていたりスカートがめくれていたりする問題解決能力のない女オリンピア。とても他人ごととは思えず痛い! 不器用な人をなめるんじゃないわよ、と言いたいところだが、映画の撮り方自体も不器用なので、まあいいかって感じ。

不器用な人がこの映画を見ても救われないし解放感もない。ベネチアまで行ってもロードムービー感すら漂わない。彼らが仲間とだけコミュニケーションしているからだ。牧師が「僕にはもう必要ない」とかいってマセラッティを手放すってのも、あまりに紋切り型。

この映画全体を貫く不自由さの理由は、ラース・フォントリアーを中心としたデンマークの4人の監督たちによる「ドグマ」のルールに従っているからかもしれない。許されているのは手持ちカメラを使ったロケーション撮影のみ。小道具やセットを持ち込んではならず、背景以外の音楽を使ってはならず、カラーでなければならず、人工照明は禁止。殺人や武器の使用、表面的なアクションも禁止...一体、何のためにこんな制約を? 1ミリも理解できない。

私は、この映画を見るために新宿へ行ったわけだが、photographers’galleryで開かれていた蔵真墨の写真展とセットにしたのは正解だった。

蔵真墨の写真は私だ―多くの人がそう感じると思う。女子高生やらビジネスマンやらおばさんやらおっさんやら多様な人物が写っているのに、圧倒的なシンパシーへと導かれる。美しいものを美しいとくくらず、不器用な人間を不器用とくくらないクールな客観性。ステレオタイプからの限りない自由。そこから生まれるエッジイな笑い。人+場所+瞬間の吸引力。それは、デンマークとイタリアで撮影された映画にすら欠けていたロードムービー感だと思う。

こういう写真は、偶然には撮れないはず。「普通の人」のキャスティングのセンスが素晴らしすぎるし、ほとんど正面から撮ってるし。一体どうやって仕込んでいるんだろう? それだけが知りたかった。だから、ギャラリーの事務所にいたフェミニンな女性が本人であることを知り、私は歓喜した。彼女の写真はなんと偶然の産物なのだそう。「いろいろ問題もあるんですけど」とミステリアスに微笑む彼女。ああ、それらの問題がいかなるものであってもオッケーです、あなたなら。

蔵真墨さんの写真に出会った「Photographers’gallery press」(No.3 \1,600)は、仕事柄「コマーシャル・フォト」ばかり見ている私にとって、久々にエキサイティングなアート写真雑誌だった。

たとえば、小津安二郎が1937年に撮った静物写真の強さ。

たとえば、六本木の地下鉄の階段を上がったら目の前に交通安全ポスターがあり「おっとという感じでインパクトを受けて、よしこれ撮っちゃおう」というノリで森山大道が撮った「アクシデント」シリーズ(1969)が、他人の写真を勝手に撮って卑怯だとか、汚いとか、そういうことでいいのかなどと言われたというエピソード。

たとえば、肺がんに侵された肺と正常な肺を並べてあるような脅迫的な写真の場合、どちらがきれいかは趣味の問題であって「ただれた肺をきれいだとかバロック的な肺だとか言ってもいいんじゃないか」というようなことを主張する島田雅彦。

真実に肉薄しようとするカメラマンを揶揄したしりあがり寿のマンガ「キャメラマン・シャッ太」も秀逸!
2004-05-29

『永遠(とわ)の語らい』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

セレブな映画には、何が欠落してる?


コンサバ系女性誌の言葉使いはおもしろい。
コスメ、ファンデ、ワンピ、アクセ、ローテ、リュクス、ミューズ、セレブ…

95才のマノエル・ド・オリヴェイラ監督が、昨年は、西洋文明をテーマに95分のセレブな映画を撮った。来日した監督は、生きていれば100歳になる小津安次郎の墓参りをしたという。小津監督なら、今年どんな映画を撮っただろう。日本やアジアの登場しないこの映画を観ながら、そんなことを思った。

ポルトガル人のローザは、7才の娘を連れ、地中海を巡る船旅をする。フランス、イタリア、ギリシャ、エジプト、トルコ…。最終的にはインドでシフトを交代するパイロットの夫と落ち合い、3人でヴァカンスを過ごす予定である。あえて船旅を選んだ理由は、本でしか見たことのない歴史を確かめるため。ローザはリスボン大学の歴史教授だから、娘の質問にも完璧に答える。観客にとっても有益で楽しい旅だ。

この船には、知性、経済力、美貌、知名度というセレブの条件を完璧に備えた3人の女性が乗船している。フランスの実業家(byカトリーヌ・ドヌーヴ)、ギリシャの大女優(byイレーナ・パパス)、イタリアの元モデル(byステファニア・サンドレッリ)という面々。ホストである船長(byジョン・マルコヴィッチ)を囲み夕食をとる彼女たちは、それぞれの国の言葉を話すが、何の問題もなく通じ合える。まさに、理想のコスモポリタニズムを体現したテーブルなのだ。が、彼女たちの会話が豊かであればあるほど「そこにないもの」が次第に際立つ。

ローザと娘がテーブルに招待されることで、それは明らかになる。ローザは他の3人に比べると若く無名だが、知性と経済力と美貌を備えているため船長にデッキでナンパされ、無理やりテーブルに迎えられるのだ。

表面的にはまず、セレブたちに欠落している「夫と可愛い娘」の存在が強調されるが、本当に欠落しているのは、もっと決定的なものだった。そのことを暗示するのが、船長が娘にプレゼントする人形。つまり、あとから加わった3人の女(ローザ、娘、人形)が、既存の3人の欠落を浮き彫りにするのである。すべての舵を握るのは、ポーランド系アメリカ人である唯一の男、船長だ。

オリヴェイラ監督は言う。
「映画を撮っていく上で一番難しいのはシンプルさをどう出していくかということです。これはいろいろなことを言いたい時に、長い文書を書くのは簡単でも、ほんの短い文章のなかで伝えるのは難しいのと同じです…現代は、いろいろなことが盛りだくさんになっていてスペクタルの様なものの方が、観客を惹き付けているような傾向にありますが、こういった類の映画はドラッグのようなものではないかと思っています」

「派手な作品であれば人は振り向きますが、それらには、実は魅力もなければ深さもありません。観客はおそらくそのようなものに値しない。観客とはもっとすばらしいものに値すると思うのです。私の映画が、観客に何かそれ以上のものを伝えられるものであって欲しいですし、そして、そこでまた観客が、それぞれのアイディアや考えを付け加えていけるような作品でありたい。その時に観客は、受け身ではなく能動的な主体となりうるのですから」

タイタニックを観たすべての10代にこの映画を観てもらい、どっちが面白いか訊いてみたくなった。なぜなら映画館のロビーは年配の観客であふれ、まさに豪華客船のデッキのようだったから。

この映画にもっとも欠落しているのは、若い観客である。
モードなガールにマストなシネマ!


*2003年 ポルトガル=フランス=イタリア合作
2004-05-11