『MOOG(モーグ)』 ハンス・フェルスタッド(監督) /

ピュアな冒険家 ― モーグ博士とフラハティと中村史郎。


電子楽器の神様、ロバート・モーグ博士は、物理学と電子工学が専門。
1964年に初のシンセサイザー「モーグ」を世に送り出した人だ。

モーグを愛するミュージシャンへのインタビューやライブが楽しめる映画。ビースティ・ボーイズの1月来日公演にも同行したマニー・マーク、ラウンジ系モンドミュージックをファッションにしたステレオ・ラブ、プログレで名高い元イエスのリック・ウェイクマン、ファンクな下ネタ連発のバニー・ウォレルなど、モーグをマジで叩きまくるパワフルな旧世代から、ゆるゆるのレトロ感覚で取り込む最近の世代までバラエティに富んでいる。

モーグの魅力を100%引き出すことに成功しているのが、エド・ケイルホフというシンセプレイヤーによるシェイファービールのCF。1969年ごろNYで撮影されたらしいが、「男は黙ってシェイファービール」というコピーに驚いた。このコピーはサッポロビールのオリジナルかと…。

シンセサイザーの電子音というのは、もはや癒し系の音なのだと気付く。そう、初期のシンセは、コンピュータを使わないアナログな機械。「素晴らしい楽器をありがとう」とモーグをリスペクトする人たちが博士と会話する様子はハッピーそのものだ。

サビついたトヨタ・ターセルに乗るモーグ博士は、シンセの電子回路を「感じる」ことができる。新しいアイディアも、自分のものではなく、どこからかやってくるのだという。博士はそれを感じとり、次のプロセスにつなげるだけなのだ。

「ある映画作家の旅-ロバート・フラハティ物語」(みすず書房)の中の「先入観なしに」という言葉を思い出した。ドキュメンタリーの父、ロバート・フラハティがエスキモーの生活に密着した代表作「極北のナヌーク」(1922)を見て衝撃を受けた私だが、このひとことで映画の謎がすべて解明されたような気がしたのだった。モーグ博士の生き方も、まさにこれだと思う。何かを見つけるために勇んで冒険するのではなく、自然に外へ出て自然に帰ってくるような趣味的な冒険家。

エスキモーの子供が、複雑なシャッター機構をもつカメラを、その目的も知らないまま監督に代わって組み立ててくれたというエピソードも印象的だ。「極北のナヌーク」の上映会では全員がスクリーンに突進したというほどイノセントなエスキモーの人々が、カメラという機械に対する天性のセンスを持ち合わせているというのだから目からウロコ。エスキモー語には、「作る」「創造する」という言葉がないというが、ロバート・フラハティも、そんな彼らを映画として撮る前に、先入観や目的なしに「感じた」のだと思う。

先日、日常のものをプロがデザインしなおすというコンセプトの番組「ニューデザインパラダイス」の総集編を見た。面白いものがないなと感じる中、ひとつだけすごいものがあった。日産のデザイン本部長、中村史郎がつくったクリスマスケーキである。クリスマスに家路へ向かう雪道を表現したという高さのある白いケーキ。これには驚いた。だって、ケーキである前に、道なんだもん。クルマや道路のことばかり考えている異分野の人だからこそ、子供みたいな感覚で、どこにもないものがつくれるのだろう。

チョコレートについての雑誌のインタビューでも、結局は日産のマーチにショコラというボディカラーがあるという話になり「あのクルマはトリュフに似てませんか?」なんて言っていた中村史郎さんは、ロバート・フラハティやモーグ博士と、どこか似ている。


*2004年アメリカ映画
*シブヤ・シネマ・ソサエティでレイトショー上映中
2005-04-07

『グランド・フィナーレ』 阿部和重 / 講談社

世界を救うかもしれないメルヘン。


芥川賞の選評を読んだら「小説としての怖さがどこにもない」と石原慎太郎。「作品にリアルな怖さがない」「肝心な部分が書かれていない中途半端な小説」と村上龍。
だが、この小説はそもそも怖いモチーフを扱ったものなのだろうか?

普通に生きているのに、いつのまにか、ぎりぎりの場所を歩かされてしまっている。そういう主観と客観のずれを描いた小説だと思う。主人公は自分のことを正常と開き直っているわけでもなく、異常という劣等感にさいなまされているわけでもなく、特別な優越感を抱いているわけでもない。非常にまともな感覚をもっている印象だ。ナルシシズムとは無縁の知的なイノセンスは、それだけで読むに値する。次第に明らかになる主人公のプロフィールを、友達になっていく気分で読み進めることができるのだ。

実際、主人公の友だちは皆すばらしい。冷たくも温かくもなく、そのまんまだ。思ったことはズケズケ言うが、裁かない。感動的なことを言わないし、彼を本質的に助けたりもしない。普通に鈍感で、普通に信用できる。あんまり頼りにならないけど安心できる。これこそが友だちってものの理想的な距離感かも。こんな友達がいるだけで、主人公はきっと大丈夫なはずなのだ。

ロリコンという言葉は、主人公を説明するための後付けのタームにすぎない。この小説はとても親切な構造になっていて、主観的な描写のあとで、必ず客観的な説明がなされるのだ。カメラで世の中を趣味的に切り取っていた主人公は、ふとしたきっかけから脚本・演出によって世の中を動かし始めるのだが、そのことは、こんなふうに説明される。

「カメラを手にしなくなったわたしは、言葉のみを使いこなして現実に介入しなくてはならない難儀な場所へと辿り着いてしまった。果たしてわたしはこの難関を、乗り切ることが出来るのだろうか」

犯罪的行為の受け取られ方というのは、千差万別だと思う。世間は騒ぐかもしれないが、友達は聞き流すだけかもしれない。親友であれば同情するかもしれないし、後輩なら武勇伝ととらえるかもしれない。妻にしてみれば耐え難い苦痛かもしれないし、当事者である幼い娘は傷ついて死ぬかもしれない。

ロリコンとは子供を愛することの対極ではなく、延長なのだというのが、この小説の重要なメッセージだ。ロリコン的嗜好は子供を傷つけることもあるだろうが、子供を救う可能性もあるのだということ。世界のある部分とディープに関わってしまうマニアックな人がどう生きていけばいいかのヒントを与えてくれる。

以前、クライアントであるIT関連の会社社長が、一心不乱にパソコンに向かう社員の一部を指さして私にこう言った。「こいつらには社会性はないんだけどね。役に立つから飼ってるんだよ」。

パソコンマニアの一部がハッカーになり、印刷技術の進歩が偽札づくりを助長し、クローン技術の追求が生命のモラルをおびやかし、学校の先生が子供を愛することの延長にも犯罪がある。すべてのプロフェッショナリズムは、違法な行為につながる可能性を秘めているのかもしれない。

主人公は故郷に帰り、2人の少女と出会う。
「二人そろって頷いてみせた―その肯定の身振りの力強さが、わたしをますます脱力させて、仄かにときめかせた」

脱力し、仄かにときめく。なんと小さな手がかりだろう。世界とつながるための、あまりに弱々しすぎるモチベーション。でも、この繊細な手がかりが重要なのだ。このメルヘンこそが、世界を救うグランド・フィナーレの鍵になるかもしれないのだ。

強さのみを志向する人には、世の中を救えない時代になった。
2005-03-11

『対岸の彼女』 角田光代 / 文藝春秋

女の友情を描いたふりをしたホラーな純文学。


あまりにも冴えない、あまりにもぱっとしない世界。一体、何のためにこういう小説を書くのか? どこからこういうものを構築するのか? こういう小説を読む意味は何なのか?このネガティブさは、読者を危うく共感させてしまうほどだ。そこが角田光代という作家の恐ろしいところ。ネガティブなディティールの凄まじい積み重ねが、エンタテインメントにすら見えてしまう。

自分のコンプレックスを受け継ぐ娘、何で結婚したのかと突っ込みたくなるようなつまらない夫、嫌味なだけの姑、薄っぺらい友情、不器用でだらしない女社長、ジゴロみたいな醜悪な男・・・。読んでいるだけで不信感にまみれ、どっと疲れてしまう。やだなあ、こんな主婦も、こんな女社長も、こんな会社も、ここで働く女も、ジゴロみたいな男も、事業内容も、何もかも。

些細な苛立ちの集積が読者を疲れ果てさせる露悪的なフィクション。醜悪な日常が繰り返され、しかも、それは長いタームで繰り返される。気が晴れるような新しい風景はどこにも見出せず、ただ、掃除し残した場所を掃除し直すための人生。そのための再会。

この小説は一見、子持ちの主婦である小夜子と、独身の起業家である葵の対比を描いたものに見えるが、そうではない。小夜子と葵は、読んでいると混乱してくるくらい、ほとんど同じタイプの人間に見える。細密な描写と検証を重ねるほど似てくるのだ。それでは「対岸の彼女」とは誰か。

唯一、魅力的に描かれている人物に思いを馳せればわかる。ナナコである。高校時代のナナコだけが、あらゆる登場人物と異なる次元のことを言っている。彼女の立ち位置だけに、抜け感がある。謎が残されたままだからだ。

「あたし、大切じゃないものって本当にどうでもいいの。本当に大切なものは一個か二個で、あとはどうでもよくって、こわくもないし、つらくもないの」
ナナコが登場するとき、この小説はホラーになる。ぞっとするような底なしの美しさ。

「ずっと移動してるのに、どこにもいけないような気がするね」
高校時代の葵と家出し、補導される寸前の、ナナコのこのセリフは秀逸だ。どこにも行けないロードムービー。まさに、この小説のことである。ナナコだけが小説全体を俯瞰している。そして、ナナコだけが、どこかへ行ってしまうのだ。

そういう意味では、葵の父親もいい。職業はタクシーの運転手であり、どこにでも移動できる。こんな身軽で都合のいい父親、ちょっといない。そんな彼の計らいで葵とナナコが再会するシーンは、よしもとばななの「ムーンライト・シャドウ」を彷彿とさせる名場面だと思う。

著者のこの不思議なバランス感覚は面白い。リアリティを追求しないもののほうに、よりリアルな魅力があるのだ。小説とは、言葉とは、本来そういうものかもしれない。真実は、小説の中にあるのではなく、別のところに生まれる。小説を読むために小説があるのではなく、現実を生きるために小説はある。本をパタンと閉じて、外へ出るために。
2005-02-21

『カルヴィーノの文学講義/新たな千年紀のための六つのメモ』 イタロ・カルヴィーノ / 朝日新聞社

名前と涙―イタリア文学とストローブ=ユイレ


文学の価値を決める要素とは何か?
文体、構成、人物造詣、リアリティ、そしてユーモアである。
…などという凡庸なことをカルヴィーノは言わない。

現代イタリア文学の鬼才が出した答えは「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」。
こんな章立てを眺めているだけでうっとりしてしまう本だけど、カルヴィーノは1984年、ハーヴァード大学で実際に6回の講義をおこなった。(6回目のテーマ「一貫性」のメモはない)

文学を語りながらイメージについて語るカルヴィーノ。文学の魅力は映画の魅力と同じじゃん!と私は思い、5つの要素にストローブ=ユイレがつながった。フランス出身だが、原作に合わせてドイツ語映画やイタリア語映画も撮っている監督夫妻だ。

彼らの映画の第一の魅力は「軽さ」だと思う。わずか18分の軽妙な処女作「マホルカ=ムフ」(1962)、あるいは、もっとも一般受けしたという「アメリカ(階級関係)」(1983-84)を見ればわかる。後者はカフカの未完の長編小説の映画化だが、船、エレベーター、バルコニー、列車へと移動する主人公の軽やかさは、何度見ても釘付け。カルヴィーノの「軽さ」についての講義も、まさにカフカの短編小説「バケツの騎士」の話でしめくくられているのだった。

「早すぎる、遅すぎる」(1980-81)という2部構成のカッコイイ映画の魅力は「速さ」。ロータリーをぐるぐる回るクルマの車窓風景から始まり、農村や工場を延々と映したり、田舎道を延々と走ったりしながら政治や歴史を語る風景ロードドキュメンタリーだ。

「視覚性」を追求した映画は「セザンヌ」(1989)。セザンヌの絵やゆかりの風景を、評伝の朗読とともに凝視することで、地層の奥や歴史までもが見えてくる。

「正確さ」なら、レナート・ベルタのカメラが冴える2本「フォルティーニ/シナイの犬たち」(1976)と「労働者たち、農民たち」(2000)だ。前者は人がしゃべり終わって沈黙した後もずーっとカメラを回し続け、ヴィットリーニの小説を映画化した後者は、台本を朗読する数人の男女が映されるばかり。映画の中で本を読ませる手法において、ストローブ=ユイレはゴダールよりも徹底している。演技やそれっぽさを排除することで、引用の意味が際立つ。映画化とは、原作を正確に伝えるための方法を選ぶことなのだ。

神話、家族、故郷、対話といった「多様性」の魅力は、同じくヴィットリーニを映画化した「シチリア!」(1998)とパヴェーゼの映画化である「雲から抵抗へ」(1978)で味わえる。棒読みの演技、寓話的な物語、そしてストレートな対話の魅力は、ロッセリーニとゴダールとパゾリーニとワイズマンを足したような面白さ。

原作と風景と人間へのリスペクト。そこには必然性と自由がある。「シチリア!」という映画であれば、シチリア出身者をシチリアで撮ることに最大の意味がある。料理と同じで、テクニックやレシピよりも、大切なのは素材なのだ。

ヴィットリーニといえば「名前と涙」という掌編(新読書社「青の男たち-20世紀イタリア短篇選集」に収録)が印象に残っている。よく見るために目をつぶり、そのものを描かないことで浮かび上がらせるような作品だ。ある名前を地面の奥深くに書き付ける主人公の姿を思うと、それは映画の一場面になる。その名の人物は姿を現さず、涙をふいたハンカチだけがあとに残る、失われつつある記憶についての物語。

言葉を追っているのに、いつのまにか言葉が消えてしまうような…そんな映画がいいなと思う。
2005-01-27

『若かった日々』 レベッカ・ブラウン(著)柴田元幸(訳) / マガジンハウス

タバコは悪か?


禁煙化が進んでいる。
最先端のバリアフリービルでは、優雅に車椅子をすべらせる人の脇で、初老の愛煙家が血まなこになって喫煙コーナーを探している。ようやく見つけた唯一のカフェで貴重な灰皿を確保する彼に、隣席の客が眉をひそめる。「タバコ、遠慮していただけませんか?」
この言葉に拒否権はない。いまや禁煙=正義であり、喫煙者=人間失格なのだから。

一方、愛煙家が肩身のせまい思いをせずにすむ場所も、まだまだ多い。
彼は一応、目の前の知人にだけは断りを入れる。「タバコ、吸ってもいいですか?」
この言葉にも拒否権はない。波風を立てたくない知人は、喫煙という暴力に甘んじるしかないのである。
愛煙家と嫌煙家は、もはや一触即発の状況だ。

私は、愛煙家でも嫌煙家でもないが、本書に収められている「煙草を喫う人たち(The Smokers)」という短編には1票を投じたい。ここには、極端な二項対立の現実を凌駕する、ごく個人的な真実が描かれている。

喫煙者のいない家で育った私にとって、一家全員がタバコを喫うこの小説は新鮮だ。家じゅうに灰皿があり、たとえば外に置いてある灰皿や、母親のフォード・ステーションワゴンはこんな感じ。
「雨が降ったあとは、薄汚く泡立った、紅茶みたいに茶色い水がたまって、灰やフィルターやゴミが浮いていた」
「吸殻がぎっりしり詰まっていて、口紅のついた折れたフィルターが飛び出していて、それが床に落ちて…(中略)灰皿の蓋はどうやっても閉まらなかった」

美しいとは言い難い描写を軸に、家族の関係が浮き彫りになってゆく。対照的なタバコの喫い方をする父と母、彼らの不和、兄と姉と私の初めての喫煙、喫煙を軽蔑する祖母の家での母、インチキな父が3番目の妻についたウソ、父と母の死…。

「私」の両親は2人で3つのガンを経験し「直接の原因だったかどうかはともかく、喫煙がそれらに貢献したことは間違いないと思う」と述懐されるのだが「でもそれと同時に、喫煙が何年ものあいだ彼らの救いになっていたとも思う」と著者は振り返る。「つらい年月を両親が生き抜く上で何か助けがあったことをありがたく思う」と言い切るのだ。

レベッカ・ブラウンは、本当のことを静かに、ストレートに突きつける作家だ。彼女の小説を読んでいると、真実とは、定義できないものや見えない部分にこそ宿るのだとわかる。鋭利な少女的感性で切り取られる家族の物語は、読んでいるだけで疲労困憊してしまうほどだが、すべての過去を美化する潔さが、かろうじて疲れを消し去ってくれる。美化 ― それは、傷ついた人だけが行使することを許される癒しの能力なのかもしれない。

すべての短編を読み終えたあと、2ページに満たない冒頭の掌編「天国(heaven)」を読み返さずにはいられない。両親へのさまざまな思いをこんなふうに昇華できる。それが、天国という場所(=小説)なのだと思う。

「二人がそこにいるのを思い描けるような場所がどこかにあるんだと信じられたらいいのに」
彼女がそう書いているだけで、天国の存在を信じることができる。
すぐれた小説家の想像力は、灰にまみれた現実を、瞬時にぬりかえてしまう。
2005-01-07