『逃亡くそたわけ』 絲山秋子 / 中央公論新社

夏の旅のすべて。


「あたしは冷静ではあったけれど、決してまともなわけではなかった。それを自覚していた」(本文より)

マルクスの資本論の一節が幻聴としてきこえる「花ちゃん」。
「人間の精神は言語によって規定される」(byヴィトゲンシュタイン)ゆえに、名古屋弁をしゃべらない「なごやん」。
ふたりは病院を抜け出し、お金とクスリが少々たりない状態で、九州を縦断する。
クルマは名古屋ナンバーの「ルーチェ」、BGMは「THEピーズ」。
おなかがすいたら土地の名物を食べ、畑の野菜を盗む。
病院に連れ戻されるのはイヤだから、他人のポルシェにぶつければ逃げるのみ。
しかも、花ちゃんは無免許だ。
車中泊に疲れれば温泉に泊まり、街に出ればホテルヘ。
宮崎では化粧をし、鹿児島では「普通に動いている町」に元気をなくす。

善悪のみさかいのつかない、ナチュラルなアウトローぶりは特筆に価する。
いきあたりばったりの旅は、なんて魅力的なんだろう。
潮時がくるまで、それは、つづくのだ。
物語なんていらない。状況だけでいい。エアコンがこわれるだけでオッケー。
クルマ好きにしか書けないロードムービーだ。
メーカーに入社し、各地を赴任し、躁鬱病で入院中に小説を書き始めたという著者の体験が、美しく結晶していると思う。

「もう、いいからさ、高速乗ろうよ。捕まらないよ」
道の単調さになごやんは辟易した様子だった。
「高速は山の向こうったい」
なごやんはうんざりした顔で溜息をついた。
「マツダのディーラーないのかなあ」
「こげな道にあると思うと?」
「ないよなあ」
国道265はどんどん細くなっていった。センターラインもいつの間にか消えてしまった。(本文より)

「あたしはただ、こんなに幾晩も一緒にいて、男と女なのに一度もさせてあげなかったら可哀想かな、と思っただけだった。でもなごやんはほんとのお兄ちゃんみたいに優しい声でおやすみと言った」(本文より)

資本論は、花ちゃんの失恋のキズと関係があるのだった。
精神病とわかった途端にふられた彼女を、なごやんはヘーゲルを引用しつつ、なぐさめる。人は見たいようにしか見ないんだよ、精神病くらいでいなくなる友達なんか、遅かれ早かれ分かれる運命だったんだよ、と。

そしてふたりは、ぐったりするような劇薬「テトロピン」の代わりに、ラベンダーを探しにゆくのだ。

「すてきだなあ、やさしいなあ、あるかなラベンダー」(本文より)
2005-07-26

『BALI deep展』 阿部和重ほか / 代官山ヒルサイドフォーラム

男の子にとってのバリ。


2005年上期のヒット商品番付が発表された。
東の横綱は「富裕層向けサービス」。西の横綱は「生鮮100円コンビニ」。勝ち組と負け組みに二分されたといわれる時代を立証するかのような結果だ。

西の大関には「ロハス」(LOHAS=Lifestyles Of Health And Sustainability)。「価格や効率ではなく、環境に配慮しつつ、自分の価値観でモノやサービスを選ぶスタイル」というような意味なのだろうが、いま、この言葉が注目される理由は、定義のゆるさに加え、勝ち負けなんてカンケーないじゃんと思っている人の多さと無関係ではないだろう。

気がつけば私も、ロハスなお仕事に囲まれている。アロマ、オーガニック、スローライフ、ヨガ、リラクゼーション・・・そんなキーワードだらけの日々。自らを振り返ってみると、日ごろ真摯な思いで書いているはずの美容法や健康法など、まるで遵守していない生活に笑ってしまうのだが、そういうテキトーなスタイルも、たぶん、ものすごくロハスなのだと思う。ロハスは曖昧。ロハスは寛大。ロハスはエゴ。ストレスフリーで好きなように生きている人は、みんなロハス!

私はときどき、心配になる。こんなにたくさんの情報があって、みんな、大丈夫なんだろうか。押し潰されたりしないだろうか。こういうふうに生きなくちゃ、この美容法をやらなくちゃという脅迫観念にとらわれたりする人はいないだろうか? だけど、ほとんどの女の子は、惑わされたりなんかしていない。ひとつに決めたりもしていない。その都度、好きなものを好きなだけ楽しんでいる。

危ないのは、実は、男の子だ。ナイーブな男の子は、自分の世界を乱されると病気になったり、アイデンティティの危機に陥ったりしてしまうから、惑わされないふりをするしかない。

というわけで、「バリ」が必要なのは、男の子だと思う。女の子はたぶん何だっていいのだが、男の子はバリを愛したら、バリがいいと思い続けるだろう。ひとつの定食屋を見つけたら通い続けるように。あれこれちょっとずつ違うものを食べたいとは思わないように。

「BALI deep展」は、東京で最も美しい場所のひとつで開かれている。まさに、パスポートの要らないバリ。映像と音楽と写真と阿部和重の文章が楽しめて、いい匂いがして、広々としていて、涼しくて、きもちいい。会場の外には、ロハス系セレブから届いた花輪が大量に並んでいて驚くが、旧山手通りを歩き、この展覧会をみて、ヒルサイドカフェでお茶を飲むというのは、悪くない夏のすごし方といえる。しかし! スローなはずのこの企画、なんと、たった6日間だけで終わってしまうのだ。その後はバリに会場を移し、1か月間近く開かれるようだけど。

すぐに終わってしまう「BALI deep展」は女の子のためのものだが、男の子のためには「終わらない箱」がもうすぐ発売される。牢獄の扉を思わせる重厚な箱の中に、BALI deep展がすべてつまって、約3万円。ナイーブな男の子感をもりあげるのは、もちろん阿部和重の文章だ。

「バリの時間を操作し、旅行者たちを安らかな夢へと導いてくれるのは、宿の屋根裏に棲む、一匹の巨大なヤモリである。この、『BaliDeep』という一つの入口もまた、ベッドの天蓋を這い歩く、巨大ヤモリのごとくさりげなく、快い睡夢の深みへとあなたを忽ち引きずり込むだろう」


*6.26まで代官山ヒルサイドフォーラムで開催中
*7.4~7.31 BALI Puri Lukisan Museum in UBUD
2005-06-24

『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』 山田真哉 / 光文社新書

お金に関する本はなぜ売れるのか?


さおだけ屋が潰れない理由が気になって気になって気になって眠れない・・・という人がいたので「じゃあ私が代わりに読んで教えてあげる」と言ってしまった。代行読書である。

さおだけ屋が潰れない理由は、会計学によって説明される。企業というのは「継続」が大前提であり、継続するためには「利益」が必要。利益を増やすためには「費用を減らす」か「売り上げを増やす」の2通りの方法しかない。
著者が例をあげるのは、費用を減らすことに着目した堅実なさおだけ屋と、利益を増やすことに着目したヤバイさおだけ屋。どちらのさおだけ屋も、理論上は潰れないのである。

会計がわかれば、経済がわかるようになり、数字に強くなり、出世につながるという。だが、はっきりいって、会計学ってケチくさい。「節約」「キャッシュ・フロー」「機会損失(チャンスロス)」「在庫」「回転率」「連結経営」「支払いはなるべく遅く、回収は早く」・・・こんなワードを眺めているだけでズーンと意気消沈してしまう。
ケチとは「『利益を出す』という会計目的に対して、もっとも合理的に行動している人間」と著者は言うが、会計目的だけでは企業も人も生きていけない。会計上の合理性が現実の成功に結びつくとは限らないのだ。この本に書いてあることをそのままやったら、会社は潰れるだろう。

会計上の理想を追求している企業は私のまわりにも多いけれど、「翌月末払い」という支払い条件を「手形」に変えた途端に取引先がごっそり離れてしまったり、過激な経費削減策のせいで有能な社員が辞めてしまったりという例を見るにつけ、ケチは嫌われるに決まってるじゃん!と思う。支払いを遅くして回収を早くする? そんな自己チューなことばかりを皆が第一に考えていたら、世の中一体どうなるわけ?

この本は、公認会計士である著者が、企業や個人の会計についてやさしく説明してくれているのだから圧倒的に正しいし、会計志望の人にとっては楽しい入門書となるだろう。しかし、そうでない大半の人は、これを知った上で、どうやって生きていくかを自分で考えなければいけないのである。

「費用を減らす」と「売り上げを増やす」を同時に実現する「ラクしてボロ儲け」的なサジェスチョンを、最近よく耳にする。みんな、そんなにラクしたいのだろうか? 堅実な実業ではダメなわけ?「生産的なことをして、働いた分だけ儲ければいいじゃん」というような考えはもはや少数派?

さおだけ屋にせよバブリーな事業にせよ、その仕組みを生み出す人はスゴイなと思う。だけど、それに追随する人ってのはどうよ? どこまでラクをしたいんだお前は!と誰に向かって突っ込んでいるのか自分でもよくわからないけれど、とにかく虚業的な事業経営者の周辺には、同じような顔をしたコピー人間が無数に現れて、六本木や渋谷をうろついている。
2005-06-06

『半島を出よ(上・下)』 村上龍 / 幻冬舎

生きのびる男は、だれ?


女性専用車両というのはどうかなと思う。
電車の中には痴漢男もいるが、痴漢をつかまえてくれる勇敢な男もいる。そもそも電車というのは痴漢よりもコワイことが起こりうる危険な密室なのだから、痴漢男と一緒に勇敢な男まで排除するのは本末転倒。女性専用車両をつくるなら、せめて各ドアにマッチョなボディガードを配置してほしいものだ。

・・・などと思っていたが、こういう認識は甘すぎるなと、この小説を読んで思った。
誰にも頼らずに、自分で戦わなくちゃ。助けたいと思う男や女を、自分が助けなくちゃ!

この小説には、勇敢な女がふたり登場する。高麗遠征軍の女性士官と、NHK福岡放送局の女性アナウンサーだ。ふたりとも組織に所属しているが、自分の判断で勝手な行動をとる。やるべきことの優先順位がわかっていて、本能に忠実なのだ。女はもともと少数派であることに慣れており、腕力では男にかなわないことや、出世の限界を知っている。だから、現実的な判断をくだすことができる。

お母さんたちも、たくましい。
「これから福岡はどうなるのか、それはわからない。だがやらなければいけないことははっきりしている。今までと同じように、子どもを育てるのだ。食べさせ、風呂に入れ、服を着せ、幼稚園に送る」

一方、社会の多数派となることに成功した男たちは、庇護されることによって現実と向かい合うことを避けてきたため、いざという時にやるべきことがわからない。著者が着目するのは、多数派社会から脱落した凶悪な少年たちだ。住民票コードすら持たない「イシハラグループ」。著者は、チームという概念から最も遠い彼らにチームを組ませるのである。

少年たちに住居を提供している49歳の詩人イシハラは言う。
「暴走族は寂しくて、ただ愛に飢えているだけだ。お前らは違う。お前らは別に寂しくないし、愛が欲しいわけじゃない。愛も含めて、どんな社会的な約束事に対しても、そもそも最初から折り合いをつけられないんだ。だからお前らは誰にも好かれないが、誰にも騙されない。暴走族はすぐに多数派になびく。だがお前らは多数派のほうから拒絶されている。だからお前らは面白いんだ」

イシハラグループでは「趣味的」「おせっかい」などという言葉が嫌われる。彼らは単なる「マニア」や「おたく」ではなく、何かを模倣してその気分を味わうような洗練された希薄な趣味性や、表面的な共有感覚とはかけ離れた場所に孤立する存在なのだ。わけのわからない破壊への欲求を秘めた少年たちに可能性があるとしたら何か? それがこの小説のテーマだ。こういう少年たちと、北朝鮮という特殊な国から来たゲリラたち。ふたつのマイノリティを戦わせることで、多数派の思考停止状態と貧弱さをあぶり出す。ゲリラと正面から対決できるのは、社会から見捨てられたマイナーな少年たちだけなのである・・・という美しいおとぎ話だ。

「共有する感覚というのは静かなものなんだ、モリはそう思った。みんな一緒なんだと思い込むことでも、同じ行動をとることでもない。手をつなぎ合うことでもない。それは弱々しく頼りなく曖昧で今にも消えそうな光を、誰かとともに見つめることなのだ」

少年たちは、なんて繊細なんだろう。
そして、そんな彼らが生きのびるのは、もちろん簡単なことではない。

勇敢なふたりの女性は、自分が助けたいと思う男を、助けることができた。
助けてくれる女がいない男にとっては・・・つらい世の中だと思うのだ。
2005-05-23

『エレニの旅』 テオ・アンゲロプロス(監督) /

太陽よりも、くもり空。


沖縄でのモデル撮影に同行したが、雨だった。1年分のポスターを撮影しなければならないのだから、予定調和的にいえば、夏のポスターはピーカンの海岸でということになる。だが、ちっとも晴れないし「晴れ待ち」の時間もない。
撮影がスタートすると、意外といいんじゃないかと思い始めた。モデルの肌が濡れるのもいいし、まぶしすぎて表情が固まってしまう心配もない。雨の海岸はちっとも沖縄らしくないけれど、そもそも沖縄のイメージというのが、あまたのピーカンポスターによってつくり出されていることは間違いない。

一方、私にとってギリシャのイメージといえば、どんよりとしたモノクロームの海と空である。これは間違いなく、陽光に満ちた地中海ロケにおいて断固たる「曇り待ち」をするアンゲロプロス監督のせいだ。

最新作「エレニの旅」は水没する村の物語だから、雨のシーンも多かった。監督はCGを使わず、映画のために2つの村をつくってしまった。ひとつの村は、1年のうち数か月だけ水が干上がる湖に建設し、水が満ちるのを待ったのである。

沈むことを前提とした村をつくるなんて、どこかのディベロッパーみたいだ。売ることを前提としたビルを建て、テナントを誘致して付加価値を高めて…。しかし、アンゲロプロスは企画屋でもブローカーでもない。撮影によってイメージが具現化する瞬間こそが喜びと語るピュアなアーティストだ。「一番好きな工程は撮影なんだよ。今までこの世に存在しなかったもの、自分でも予想しなかったものが生まれる瞬間がね」

アンゲロプロスならではの、決めのシーンが随所に登場する。そのたびに笑いや拍手が起こってもいいんじゃないかと思うくらいのサービスぶりだ。ロビーでは「あれがアンゲロカラーだよねえ」なんて語り合うファンの声も。

1シーン1カットの長回しも、むしろ短く感じられるほどで、あげくの果てには「え、もう終わりなの?」って感じ。2時間50分の映画をこんなふうに感じるのは、私が重篤なアンゲロ中毒患者であると同時に、この映画が3部作の1つめに過ぎないからだろう。

アンゲロプロスの映画の特徴は、国境を越える難民。そして、たとえ殺される寸前であっても相手の国籍をたずね、自らを名乗ることだ。私は誰であなたは誰なのか? この映画では、エレニのうわごとに集約されている。
「看守さん、水がありません。石鹸がありません。子供に手紙を書く紙がありません。また違う制服ですね。あなたはドイツ人ですか? 私の名前はエレニです。反逆者を匿った罪です。私は難民です。いつどこへ行っても難民です。今度はどこの牢獄です?」

映画のあと、傘もなく、雨の銀座をさまよった。日曜だったため目指す店がすべてクローズし「夕食難民」になってしまったのだ。霧雨の中、しっとりとぬれた街は映画の続きのようだったが、お気楽な難民である私には、水没する町が美しい理由、悲劇の物語を限りなく美しく撮る理由がわからなかった。

ボートの群れ、木に吊り下げられた羊たち、別れの赤い毛糸…この映画の決めのシーンは、すべて哀しみに満ちている。それは難民という、旅をせざるを得ない人々を象徴する美しさだ。「必然性をもった旅」という推進力によって映画は進み、監督のピュアな想像力によって風景や音楽が具現化される。現実の物語をなぞったものではなく、まさに「今までこの世に存在しなかったもの」の美しさなのだろう。

アンゲロプロスの映画には、一国の階級意識に縛られることの下品さとは無縁の清清しさがあると思う。


*2004年 ギリシャ映画(ギリシャ・フランス・イタリア・ドイツ合作)
2005-05-03

『コーヒー&シガレッツ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

コーヒーもシガレッツも、無意味である。


1日に何度も私をカフェに誘う人がいた。そんなに私と話がしたいのねと思っていたら、その人は単なるコーヒー&シガレッツ中毒とわかり、大笑い。

私自身はコーヒーを飲まないしシガレッツも吸わないけれど、それでも私はコーヒー&シガレッツが好きだ。コーヒー&シガレッツとともに過ごす時間の愛すべきばかばかしさや無意味さの中毒になったのかもしれない。

そしてこの映画も「映画」というよりは「中毒」とか「習慣」とかいうジャンルに分類したいような、意味のない映画である。モノクロで映されるコーヒーとシガレッツは汚くて、ちっとも美味しそうじゃないし、会話も面白くなんかないし、人間関係も当然うまくいかない。

会話なんて、もともと面白くないんだってこと。コーヒーなんて、かっこよくないんだってこと。シガレッツなんて、体に悪いだけなんだってこと。それでも人は会話したいしコーヒーを飲みたいしシガレッツを吸いたいのである。

映画のあと渋谷のワインバーに行ったら、私が手にしていたパンフレットを見てスタッフが言った。「それ、僕が明日見ようと思っている映画です」。デートですかと聞くと「こういう映画やゴダールは彼女を誘えないから必ず1人で」と笑った。圧倒的に彼は正しいと思う。そして、まさにこれは飲食店に勤める人には必見の映画。こういうニュアンスが感覚的にわかっていたら、最高のサービスができるはず。

コーヒーとシガレッツの汚さとは対照的に、ジャームッシュはモノクロ画面の中で女優の魅力を最大限に引き出す。とりわけ怪しげなニューヨーカー、ルネ・フレンチは前作「女優のブレイクタイム」におけるクロエ・セヴィニーを超える美しさだ。

ロベルト・ベニーニの演技が過剰でダサすぎると感じても、おかしな二人がトム・ウェイツとイギー・ポップだとわからなくても、ケイト・ブランシェットが一人二役だとわからなくても楽しめる。リチャード・ベリーをトリビュートしたイギー・ポップのテーマ「ルイルイ」は、秋冬コレクションでクラシック音楽にデビッド・ボウイの「ヒーローズ」を重ねたという気鋭のファッションブランド、ドレスキャンプのようではないか。

ジム・ジャームッシュ。1953年生まれ。洗練とはかけ離れた若さ。こんなつまんない映画に立ち見が出ている。


*2003年アメリカ映画
*シネセゾン渋谷で上映中
2005-04-17

『MOOG(モーグ)』 ハンス・フェルスタッド(監督) /

ピュアな冒険家 ― モーグ博士とフラハティと中村史郎。


電子楽器の神様、ロバート・モーグ博士は、物理学と電子工学が専門。
1964年に初のシンセサイザー「モーグ」を世に送り出した人だ。

モーグを愛するミュージシャンへのインタビューやライブが楽しめる映画。ビースティ・ボーイズの1月来日公演にも同行したマニー・マーク、ラウンジ系モンドミュージックをファッションにしたステレオ・ラブ、プログレで名高い元イエスのリック・ウェイクマン、ファンクな下ネタ連発のバニー・ウォレルなど、モーグをマジで叩きまくるパワフルな旧世代から、ゆるゆるのレトロ感覚で取り込む最近の世代までバラエティに富んでいる。

モーグの魅力を100%引き出すことに成功しているのが、エド・ケイルホフというシンセプレイヤーによるシェイファービールのCF。1969年ごろNYで撮影されたらしいが、「男は黙ってシェイファービール」というコピーに驚いた。このコピーはサッポロビールのオリジナルかと…。

シンセサイザーの電子音というのは、もはや癒し系の音なのだと気付く。そう、初期のシンセは、コンピュータを使わないアナログな機械。「素晴らしい楽器をありがとう」とモーグをリスペクトする人たちが博士と会話する様子はハッピーそのものだ。

サビついたトヨタ・ターセルに乗るモーグ博士は、シンセの電子回路を「感じる」ことができる。新しいアイディアも、自分のものではなく、どこからかやってくるのだという。博士はそれを感じとり、次のプロセスにつなげるだけなのだ。

「ある映画作家の旅-ロバート・フラハティ物語」(みすず書房)の中の「先入観なしに」という言葉を思い出した。ドキュメンタリーの父、ロバート・フラハティがエスキモーの生活に密着した代表作「極北のナヌーク」(1922)を見て衝撃を受けた私だが、このひとことで映画の謎がすべて解明されたような気がしたのだった。モーグ博士の生き方も、まさにこれだと思う。何かを見つけるために勇んで冒険するのではなく、自然に外へ出て自然に帰ってくるような趣味的な冒険家。

エスキモーの子供が、複雑なシャッター機構をもつカメラを、その目的も知らないまま監督に代わって組み立ててくれたというエピソードも印象的だ。「極北のナヌーク」の上映会では全員がスクリーンに突進したというほどイノセントなエスキモーの人々が、カメラという機械に対する天性のセンスを持ち合わせているというのだから目からウロコ。エスキモー語には、「作る」「創造する」という言葉がないというが、ロバート・フラハティも、そんな彼らを映画として撮る前に、先入観や目的なしに「感じた」のだと思う。

先日、日常のものをプロがデザインしなおすというコンセプトの番組「ニューデザインパラダイス」の総集編を見た。面白いものがないなと感じる中、ひとつだけすごいものがあった。日産のデザイン本部長、中村史郎がつくったクリスマスケーキである。クリスマスに家路へ向かう雪道を表現したという高さのある白いケーキ。これには驚いた。だって、ケーキである前に、道なんだもん。クルマや道路のことばかり考えている異分野の人だからこそ、子供みたいな感覚で、どこにもないものがつくれるのだろう。

チョコレートについての雑誌のインタビューでも、結局は日産のマーチにショコラというボディカラーがあるという話になり「あのクルマはトリュフに似てませんか?」なんて言っていた中村史郎さんは、ロバート・フラハティやモーグ博士と、どこか似ている。


*2004年アメリカ映画
*シブヤ・シネマ・ソサエティでレイトショー上映中
2005-04-07