『平成マシンガンズ』 三並夏 / 河出書房新社

15歳のジレンマ。


「あたしも何故かこのマシンガンは人を殺さないような気がしていたから特に気にせず、浮かび上がった父や母、愛人や友達を適当に撃った。撃って何が起こるというわけではない、相手が死ぬわけではないし怪我もしないし心の傷も与えない」

なんて健康的な夢だろう。大人の作家なら、クールな視点や変化球で突き抜けようとするところだが、この小説はどこまでも王道。逃げないし、ひねてない。つまらない同級生やつまらない大人たちを過剰な自意識で見下しながらも、自分自身もまた相当つまらない人間であることがわかってしまっていて、それはどうしようもないことなのに、どうにかしようと思っている。

彼女のジレンマは「相手にダメージを与えないマシンガンで打ちまくる」というゲーム的なモチーフに結晶している。それは、手ごたえがないということではなく、自分自身だけにダメージを与えるという建設的な意味を含んでいる。

相手をなぐったり傷つけたりしてはいけないことになっている時代。なんとなくきれいに整備されている日々。生まれたとき既に1990年だった平成生まれの彼女は、何事もなかったかのような不自然さでアメリカナイズされた退屈な学校生活の中で「本能に従って自分の意思でしていること」はいじめだけと言う。

彼女たちの世代が可哀想ってわけじゃない。いつの時代も、子供たちの仕事は、大人たちに反抗することなんだから。だけど一体何に反抗すればいいかわからないのだとしたら、パワーがあり余るかも。いじめたり、いじめられたりを延々と繰り返すことで、かろうじてバランスをとっていくわけだ。

生々しいものは、とりあえずゲームの中にしかない。だからゲームで練習するしかない。この世に生まれ落ち、好きなことが見つかるまではゲームを続けてもいいし、ゲームを続けるしかないし、何なら一生ゲームに熱中したっていい。

そう、そのくらい、ゲームは子供にとって必要不可欠。もしもゲームが手に入らなければ、夢にゲームが出てきちゃうだけの話だ。夢にはいつも、現実にたりないものが登場して、私たちを満たしてくれる。だからせめて、大人の妄想がつくったゲームから選ぶのではなく、オリジナルな妄想を夢の中に構築したいもの。彼女はそれをやった。だから小説になった。思考停止状態からの、正面からの脱却を試みた。

「討つべき標的を知りたいと思った。闘うべき敵の正体を知りたいと思った」

まずは、世の中をまんべんなく撃ってみる。
そして、自分自身に跳ね返ってくるダメージを感じてみる。
やがて彼女は、本当に撃つべき相手のみを、正確に狙い始めるだろう。怖い!楽しみ!
2005-11-29

『春の雪』 行定勲(監督)/三島由紀夫(原作) /

三島由紀夫(80)の魂はどこに?


三島由紀夫の遺作「豊饒の海」。その第1巻である「春の雪」を読み直しながら、これはレオパルディだ、と思った。たまたまイタリア的悲観主義に関する本を読んだばかりだったので、三島由紀夫とレオパルディが結びついたのだ。

「彼(レオパルディ)の思想を簡単にまとめると、自然を超越するもの(神など)は存在しない。したがって、人間が置かれた状況(身体的、物質的な制限/制約も含め)から逃げられることはあり得ない。そして、人間の状況/環境である自然は、善良で優しいものではなく、邪悪な性質を持つか、それとも、少なくともニュートラルなもので、人間の苦に対しては冷淡で無関心である」 -「イタリア的『南』の魅力」ファビオ・ランベッリ(講談社選書メチエ)より

だけどまさか「春の雪」の終盤に、レオパルディの名がダイレクトに登場するなんて気づかなかった。学習院の校庭外れの草地で「美しい侯爵の息子」である主人公の清顕(きよあき)が、お化けと呼ばれる「醜い侯爵の息子」に初めて話しかける場面。

「いつも何を読んでるの」
と美しい侯爵の息子がたずねた。
「いや……」
と醜い侯爵の息子は本を引いて背後に隠したが、清顕はレオパルジという名の背文字を目に留めた。素早く隠すときに、表紙の金の箔捺(はくお)しは、一瞬、枯草のあいだに弱い金の反映を縫った。

「豊穣の海」全4巻の伏線ともいえる唐突なこの場面は、映画「春の雪」には出てこない。映画を見るだけでは、三島由紀夫のため息が出るような美文とその恐るべき読みやすさに度肝を抜かれることもないし、清顕の豊かすぎる想像力がもたらす屈折したお坊ちゃまぶり-喪失を恐れるがゆえの傲慢さや天真爛漫な残酷さといったきらめくような魅力-も圧倒的にたりない。

だけど、映画「69 sixty nine」における妻夫木くんに清顕との共通点を見出し、今回抜擢したのであろう(あくまで想像ですが)行定監督のセンスはさすがだと思う。個人的には、窪塚くんが演じる清顕も、ぜひ見てみたいところだけど。

映画「春の雪」は後半、禁じられた恋という制約の中、ようやく王道を駆け上がり、転げ落ちる段階になって、主演の2人(妻夫木聡&竹内結子)の魅力が増した。地位や伝統や着物は、乱れてこそ美しいのである。

清顕の周囲は、それぞれの政治力で動く鈍感な大人ばかりだが、中でも「咲いたあとで花弁を引きちぎるためにだけ、丹念に花を育てようとする人間のいることを、清顕は学んだ」と原作で表現される蓼科のユニークな人物造型を、大楠道代がうまく表現していたのが面白かった。

特筆すべきは、月修寺門跡を演じた若尾文子で、もうすぐ72歳の誕生日を迎えるというのはうそでしょう?の美しさである。三島由紀夫と若尾文子は、かつて「からっ風野郎」(1960)という増村保造監督のヤクザ映画で共演したというのも驚きだが、三島由紀夫がいま生きていれば80歳。この映画にだって、きっと出演していたに違いない。

いい作品は、作者の死後も、あらゆる世代によって真剣に受け継がれるのだなと思う。
若尾文子の高貴な京都弁、そして、ラストに流れる宇多田ヒカルの「BE MY LAST」が、この作品に魂を吹き込んだ。
2005-11-07

『ジグマー・ポルケ展 ― 不思議の国のアリス』 上野の森美術館 /

みずみずしい毒。


ゲルハルト・リヒター、アンゼルム・キーファーらとともに現代ドイツを代表する画家、ジグマー・ポルケ。日本での個展は今回が初めてだ。「日本におけるドイツ年」ということでようやく実現したわけだが、お金を出したのは日本側。ドイツのいかなる公的機関の助成も受けていないという。「ゲルハルト・リヒター展」(川村記念美術館11/3~)は、デュッセルドルフの州がバックアップしているというのに!

だから、今回のポルケ展は「すべてをカバーできていません。ドイツ人たちがまったく協力的でなかった点は強調しておいてください。オープニングなどになればどうせ彼らはやって来て、自分の手柄のように振る舞うでしょう」(美術手帖11月号インタビューより)ということなのだ。

「不思議の国のアリス」は1971年の作品タイトルで、既成のプリント生地を悪趣味に組み合わせ(2種類の水玉+サッカーのイラストプリント!)、その上にアリスと芋虫と毒キノコ、そしてアリスとは何の関係もないバレーボール選手が落書きのように描かれている。たちの悪い冗談のようだが、いつまでも見ていたい絵だ。なぜ、この作品がポルケ展のサブタイトルに?と考える間もなく、私は既に、自分がアリスの視点でポルケ展を見ていたことに気付く。

ポルケの絵は大きい。これは想定外のことだった。本の中でしか見たことのなかった絵たちが目の前に立ちはだかった瞬間、私は毒キノコを口にしたのである。

大きさも色も、本の中の印象とはまるで違い、別の作品集を見ると、またもや違う。とりわけ紫の顔料を使った3部作「否定的価値」(1982)と、血を思わせる天然の朱砂(水銀と硫黄の化合物)を使った4部作「朱砂」(2005)については、印刷物と実物はまったくの別物!としかいいようがない。2つの作品群は驚くほどフレッシュで、ところどころが濡れたように光っている。会場の温度が上がると、どろどろに溶け出すのかも…。そう、これらは、毒をもりこむように化学変化を想定した色。魔術的な意味を画材にこめるポルケが、錬金術師とよばれる所以である。

21世紀における絵画の意義と役割について、ポルケは控え目に語る。
「絵画があるということはいいことだ、と言っておきましょう。(中略)社会は絵画を必要としていません。社会が求めているのは映像であり、それは今日では機械的に、写真の技術で、フィルムその他によって創り出すことができます。絵画にもう何も啓蒙的なものはありません」

だが、こんなセリフを真に受けてはいけない。真実はいつだって作品の中にあり、実物をみれば一目瞭然なのだから。図録にも収まらず、公的機関のサポート枠にも収まらないポルケは、これからも世の中をあざむき続けるだろう。


*上野の森美術館で開催中(10/30まで)
*国立国際美術館で巡回展(2006年4/18~6/11)
2005-10-28

『アワーミュージック』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

説教をやめたゴダール。


「地獄」と「天国」の間に「サラエボ」がある。とてもわかりやすい3部構成だ。
サラエボ編にはゴダール自身が出てきて、映画についての講義までする。だが、ほとんどの学生は退屈そうだ。「デジタルカメラは映画を救えますか?」と質問されたゴダールは何も答えないし、学生の一人であるオルガの死を知ったときも、ゴダールは何も言わない。

代わりに、パンフレットには、ゴダールのこんな言葉が紹介されている。

「昔は小さなデジタルカメラは存在しなかったけれど、こうした道具があるためにいっそうこの仕事は難しくなっているということです。誰でもデジタルカメラを買ってそこにある木を撮影することはできる。でもそれが映画になるわけではない。絵筆さえあれば誰でも画家になれるわけではないのと同じです。でもなぜかあの小さなカメラを買って技術的なことを一通り把握すると、これで映画が撮れると思ってしまうらしい」

「カンヌで観客に見せるためには英語の字幕をつけなければならない。私は最初は拒否したんです。なぜ英語字幕なのでしょう。(中略)英語字幕をつけることで、人は映画そのものを見なくなってしまう。観客は字幕を読み、時々顔を上げて画面にブラッド・ピットがいるかどうか確認するわけですが、この映画にはブラッド・ピットはいないので、途方に暮れてしまうのです」

「ところで、16対9という、日本発で世界中で採用されつつある画面サイズは、あなた方の目の形から来ているのでしょうか?日本人は世界を横長に見ているということでしょうか。(中略)わたしは棺や蛇のような横長サイズよりクレジットカードの形のほうがまだしも好きです」


この映画でゴダールが描く「天国」は、しっとりとした場所だが、楽園のイメージからはほど遠い。これが天国なのだとしたら、ゴダールはこれまで、天国ばかりを撮ってきたことになる。

「地獄」は各種戦争映像のモンタージュだ。ゴダールは自分でもしばしば戦争を描いているけれど、それは天国との違いがわからないようなヘナヘナでファッショナブルな戦争であり、お金をかけないキッチュな戦争だ。ゴダールは、地獄を撮ったことがないのだと思った。そして、それこそがゴダールを見るべき理由なのだ。

ゴダール以外の多くの映画は、多かれ少なかれ、地獄あるいは地獄を思わせる通俗的な概念にまみれていて、それが見る側を疲れさせる。映画よりも現実の風景を見たほうがマシなのではないか?という考えを捨て切れないのである。

だが、ゴダールの映画は、現実の予定をキャンセルしてでも見る価値がある。そこには、地獄がないからだ。広告看板とは逆の、心洗われるみずみずしさ。お金儲けのことばかりを毎日考えなければならないような人は、絶対見に来たほうがいいんじゃないだろうか?などと余計なことを思いつつ客席を見まわすと、あまりそういうことを考えていないように見える、幸せそうな人ばかりだった。

「天国」のラストシーンは美しい。「よく晴れた日だった。遠くまで見える。でも、オルガのいる所までは見えない」というナレーションが、「気狂いピエロ」(1965)のラストで引用される「見つけたぞ。何を? 永遠を」というランボーの詩に重なった。


*2004年 フランス=スイス 80分
*シャンテ・シネで上映中
2005-10-20