『サナヨラ』 大森克己 / 愛育社

フレッシュな遺影たち。


写真集に出会った。買ってしまった。買わされてしまった。
表紙のアイスキャンディーと帯紙のカラーコーディネートにやられたのか。サナヨラというわけのわからないタイトルに魅せられたのか。大森克己という人間の魂に突き動かされたのか。

4年かけてつくられた写真集らしい(ロバート・フランクみたいに焼き直しばかり出してる人とはちょっと違った)、脈絡はないけれど完成度の高い写真が並んでいる。この誠実で丁寧な世界が、自分には必要だったんだと思う。分けてほしかったんだと思う。写真集が「必要」になるなんて、ヤバさ半分、うれしさ半分。

なぜ、写真には、人柄が出るのだろう。生き方が出るのだろう。どんなものを前にしても、今の彼が撮れば、きれいなっちゃうんだろうか? 電車の中で女性の足を盗み撮りした1枚も、手のひらにハチがいっぱい乗ってる1枚も。ホンマタカシでも平間至でもない、ストレートすぎる健全なまとまりだ。この人は、カメラマンである前に、人として人気があるんだろうなと思わせるような。心洗われるというよりは、普通に生きようぜって突きつけられるような。

フレッシュな遺影たち。そんな感じ。

彼自身によるあとがきで、フィンランドで出会ったという「サナヨラ」の意味が明らかになり、この言葉が断然、身近になった。
「とても誠実で、はじまりとおわりが同時にある。よろこびとかなしみのニュアンスがおおよそ半分づつで、笑いのスパイス少々。そして全然ハードコアじゃない。僕の新しいあいさつだ」

木枯らし1号が吹いた早朝の東京の空と光はありえないほど輝いていて、これならまだ大丈夫、と私は思った。
2006-11-12

『天使の卵』 富樫森(監督)・村山由佳(原作) /

奇跡のように映画化されたラブストーリー。


原作者の村山由佳さんは言う。
「持ち込まれた映画化・ドラマ化の企画は20や30ではきかなかったが、どういうわけかいつも最後の1ピースがうまくはまらなくて、実現にまでは至らなかった。でも、今回は初めから何かが違っていた」

原作もシナリオも、スタート地点に過ぎないのだ。
私は、映画を見終わってから、パンフレットに収録されていたシナリオを読んで驚いた。完成した映画とは、似て非なるものだったから。この映画が、現場でのキャストと演出の力、そして編集の力によって完成したことがわかる。

とくにセリフ。どんなシーンでも、的確すぎる言葉だけを、いきなりダイレクトに発するアユタ(市原隼人)の演技は驚愕に値する。誰が考えたんだ、こんなセリフ? もしかすると、市原隼人という俳優は、こんなふうに毎日を生きているのだろうか? 私も、他人に向かって発する言葉を、厳選しなくちゃと思った。セリフを厳選することで映画が変わるように、日常の言葉を厳選することで、人生はもっと美しくなるかもしれない。

教師役のナツキ(沢尻エリカ)を、冒頭からあんなにキラキラした印象に撮ったのは、誰のアイディア? 彼女の存在の輝きとナレーションこそがこの映画の生命で、死や病気や偶然を多用した甘いラブストーリーの欠点を、クールに払拭しきっている。
映画館ではスタッフが「沢尻エリカが絶賛したポップコーン」を売っていた。客席にまで一陣の風をもたらす沢尻エリカ! 彼女が、この映画の天使なのだ。

映画やドラマに脇役は存在しない。アユタ(市原隼人)とナツキ(沢尻エリカ)とハルヒ(小西真奈美)だけでなく、人物や風景や小道具はすべて主役である。そんな確信を抱かせるほど、この映画は1シーン1シーンに手抜きがなく、一言一言にリアリティがあり、そこに注ぎ込まれている集中力は半端じゃない。

アユタは、ナツキとつきあっていたが、ある日、ナツキの姉のハルヒに心変わりする。ひどい話だ。だけど、この三角関係、全員が純粋でまっすぐで正しいのだから参ってしまう。
アユタのような男は、ヤバイ。こんなふうに口説かれて、気持ちの動かない女はいないし、今は頼りにならなくても、未来をかけてしまうに決まってる。彼は、口説き方もすごいけど、ふり方もストレート。こんなふられ方は痛すぎるけど、ちょっと考えればいい男だってわかるから、絶対ファンになる。一瞬傷ついても一生は傷つかない。男は、こんなふうに女をふればいいのです。

ひとりだけ、純愛ではない長谷川(鈴木一真)という男が登場するが、ハルヒはアユタに「ごめんね、ああいうのを、かっこいいと思ってるのよ」と言い、両者を救う。修羅場でも、長谷川の去っていく姿は悪くない。最低なヤツなのに、心配になってちょっと追いかけてみたくなるような、そんな余韻を残す演出になっている。べたべたなシーンで泣かせるのではなく、ミニマムなシーンの集積から反響する余韻の美しさで泣かせる映画なのだ。

長回しの映像は心に残る。走るナツキ。移り変わる季節。京都の風景。
映画を見ているときは、演技やセリフに心を奪われてしまうから、それらは、あとから、美しい記憶のように、やってくる。
2006-11-01

『ストロベリーショートケイクス』 矢崎仁司(監督)・魚喃キリコ(原作) /

不器用な女たちを、あなたは抱きしめたいか?


里子(池脇千鶴):フリーター
ちひろ(中越典子):ОL
秋代(中村優子):デリヘル嬢
塔子(岩瀬塔子):イラストレーター

4人の女たちは、とってもリアルだ。「女の世界はこの4タイプで成り立っているんじゃないか?」と言いたいくらい。私は見終わった後、自分の言動が、4人の入り混じった、わけのわからない中途半端さに傾いているのに気がついて動揺した。

里子は文句なしに可愛いが、ちひろはぶりぶりだし、秋代はコワいし、塔子はイタい。里子以外はあまり近づきたくないタイプだ。しかし、4人全員が体を張った演技をしており、目が離せない。とくに塔子の存在感にはすごいものがあるなと思っていたら、彼女を演じている岩瀬塔子とは、原作者の魚喃 キリコさん本人であった。

4人の共通点は、失恋体験。この映画は、失恋が女にとってどれほどキツいものであり、どれほど重篤な影響をその後の人生に及ぼすかって話だ。女って、こんなにしんどい生き物なのか? 痛々しすぎる。監督は原作を読んで「4人を抱きしめたくなった」というが、本当だろうか。男はふつう、こういう女性特有のメンタリティなんかには興味がないんじゃないだろうか?

写真家の藤代冥砂は、この映画を見て「私は女の子の心変わりとか生活とかもやもやには興味がないけど、表情は目で追ってしまう」とコメントしている。正直な感想だと思った。さすが、世界の女たちとの赤裸々なSEXを撮り続けた旅の写真集「ライドライドライド」で「永遠の愛は知らないが、女の、気紛れな、一夜限りの優しさなら知っている」という名言を吐いた男である。

4人に言いたい。自分のことを大切にしてくれない人、愛してくれない人、尊重してくれない人に、1ミリでも執着してはいけない。それはもう、絶対にそうなのだ。そいつは、あなたにとって、ダメな男なのだ。そこを、女は間違えてしまう。何とか決着をつけたい、納得したい、いい思い出にしたいと願い、たとえ相手に愛や情のかけらもなくても「私が彼を愛しているからいいの」「私がいないと彼はダメなの」というような間違った母性を発揮してしまう。もったいないことだ。

しかもこの4人、仕事でもつらいことがふりかかる。仕事も恋愛もうまくいかなかったら、一体どうすればいいのでしょう、女は。

男たちの言動が、ひどすぎるのか? そうも言えるが、実はそうじゃない。彼女たちと関係する男たちは、無視していい。たいしたヤツは一人もいないから、傷つく必要はない。だが、50歳のときに里子を産み、今は養老院で暮らす里子ママ(72歳)の恋人である田所(70歳)と、里子がバイトする中華料理店のリー(30歳)の2人は、まともなことを言う。リーのつくるラーメンはマズそうだが、そんなことは欠点のうちに入らないだろう。いちばん健全で可愛い女、里子のまわりにだけ、いい男(ただし外国人と老人)がいるというのが、この映画の最大のリアリティだ。
2006-10-14

『山椒大夫』 溝口健二(監督) /

世界で最もマネされた日本映画。


9月5日付の朝日新聞には、「溝口健二没後50年プロジェクト」のために来日したスペインのビクトル・エリセ監督が、兵役中だった1964年、マドリードで「山椒大夫」を見たときのエピソードが掲載されていた。最後まで見ることは門限を破ることだったが「映画は懲罰を要求しているかのようでした。おかげで映画史上で最も美しいフィナーレを見ることができたのです」と監督は語る。 門限破りの懲罰とは、一晩中じゃがいもの皮をむくこと。彼は、頭の中で映像を思い返しつつ「人生を凌駕する映画がある」と悟ったという。

私のイタリア語の先生はクレモナで生まれ、モーツァルトを愛し、大学で建築を教え、イタリアワインとバイクに目がないお洒落なエピキュリアンだが、日本に住むようになったきっかけは、なんと溝口健二の特集上映を見たことだという。先日、彼の手引きでシエナ派を代表する中世の世俗的な画家、ロレンツェッティのフレスコ画「よい政府とわるい政府の寓話(L’allegoria
del buono e cattivo governo)」を詳細に検証したのだが、そこにはまさに、映画「山椒大夫」の世界が展開されていた。

ジャン=マリ・ストローブはこの映画を「もっともマルクス主義的な映画」と言い、ジャン=リュック・ゴダールは、佐渡の海辺をパンするラストショットを自作に引用した。一体なぜ、これほどまでに外国人にウケるのか? 日本での人気ナンバーワン溝口映画は「雨月物語」のような気がするけど…。そう、「山椒大夫」はあまりにもマジすぎて、見る側にもつい力が入ってしまう。そのピュアな強度は、日本人の感性を通過してユニバーサルな領域に到達しているがゆえに「この映画がいちばん好き☆」だなんてビクトル・エリセ監督のように無邪気に言い放つことを難しくする。劇場では、水を打ったような静けさの中にすすり泣きの波紋が広がり、まさに安寿(香川京子)の美しい入水シーンそのものだ。パーフェクトに構築された演劇空間は、暗く悲しく残酷であるだけでなく、時にコメディの要素すら加わるのに、観客は笑うことができない。ジャンルを超越したすごいものを見ちゃったという気分になる。

説教でもなく、感動の押し売りでもなく、政治的なプロパガンダ映画でもない。北朝鮮の強制労働所のマル秘映像を見ているような極端な階級社会の描写が続くのに、これは、日本のエスノセントリズムを超えた世界のスタンダードになったのだ。溝口健二は、ひたすら美しい音楽を奏でるように、この映画を真剣に撮っている。楽しげなシーンがひとつだけあって、その変奏シーンがあとでもう一度出てくるのだが、見事な音楽的リフレインとしかいいようがない。

この映画のメッセージは2つある。「時間をかけること」と「血と信念をつらぬくこと」。環境にあわせてころころと器用に適応することが良しとされる今、圧倒的にたりないものかもしれない。


*「溝口健二の映画」連続上映中
*1954年 ヴェネチア映画祭 銀獅子賞受賞
2006-09-21