『あの彼らの出会い』 ストローブ=ユイレ(監督) /

突き抜けた映画から、力の抜けた映画へ。


まだ暗い早朝、都内の最も美しい交差点のひとつを右折したら、目の前のクルマから火が出ているのが見えた。携帯を手にした男が駆け寄ってきて言った。「消火器、積んでませんか?」
消火器ならある。しかも、キャブからの火を消し止めたことだって。でも、パッケージを破って顔を上げると炎は増えており、小さな消火器で太刀打ちできないことは火を見るより明らかだった。流れてくる煙の匂いが、これ以上近寄るなと言っていた。ときどき爆発音がして、炎は街路樹よりも高く、サグラダ・ファミリアみたいな形になった。到着した消防車は、まぶしい光をいつまでも消しとめることができなかった。
私が映画監督だったら、これを撮っただろうか? ハリウッドの炎上シーンにはない「もうひとつの炎上シーン」を。

今年9月のヴェネチア映画祭で特別賞を受賞したストローブ=ユイレの新作「あの彼らの出会い」を思い出した。ユイレ(妻)が10月に亡くなったため、二人の新作は遺作となり、日本最終上映の日には、浅田彰氏の追悼講演と、パリ郊外で2005年10月27日に起きた事件(警察から身分証明書の提示を求められた移民の3少年が、追い詰められた末に変電所で感電死し、若者の暴動のきっかけとなった)の現場を二人が記録した12分のビデオ「EUROPA 2005 - 27 OCTOBRE」の特別上映が加わった。

ストローブ(夫)は「私はテロリストだ」と宣言した上で「アメリカの帝国主義的資本主義が存在する限り、世界のテロリストの数は十分ではない」というフォルティーニの言葉を引用した手紙をヴェネチア映画祭に託したという。

「あの彼らの出会い」は、パヴェーゼの対話詩を、素人っぽい俳優が2人ずつ忠実に再現(発声)するだけという、退屈きわまりない映画。だけど、ほかにはない「突き抜け感」のかっこよさに痺れる人は多いだろう。
「権力の神VS暴力の神」「酒の神VS穀物の神」「木の神VS森の神」「文芸の神VS古代ギリシャの詩人」「現代の狩人VS現代の狩人」の5つの対話を通じて、神々が人間との交流を始めた時代の話から、現代の人間がそのこと(=あの彼らの出会い)を思い出す話までが描かれているのだと推測するが、そんなことはどうでもいいかも。

しかるべき場所と人が選ばれ、ほとんど動きのないまま、しかるべき正確さで読まれるテキストは、あまりにもライブな自然という装置に囲まれて、ものすごくミニマルで、圧倒的にマキシマムな世界へとつながっていくのだ。

「昔の人は、ここではない場所で、パンでも喜びでも健康でもない、別のものを見つけた。海や畑に住む私たちは、パンや喜びや健康の代わりに、大切なものを失ってしまったのだ」

かつてヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞したミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」(1955)の原作もパヴェーゼだが、こちらは、女の人生がテーマのお洒落な映画。男のせいで自殺する女がいれば、男を捨てて仕事を選ぶ女もいる。パヴェーゼは、たぶん、すごいのだ。アントニオーニが映画化すれば、お洒落にかっこいいし、ストローブ=ユイレが映画化すれば、正しくかっこいい。

だけど、正しい映画は、退屈すぎて眠くなる。まじめで正しい妻ユイレがいなくなり、これからは、夫のストローブ一人で、力の抜けた映画をつくってくれるかも。
妻亡きあとの、夫の脱力に期待だ。
2006-12-27

『アメリカ―非道の大陸』 多和田葉子 / 青土社

初めてアメリカと出会う人のように、旅ができたら。


あふれる情熱がほとばしってしまうくらい好きなことは、仕事にすべきだと思う。
好きなことは仕事にしたくない、お金にしたくないという考えもあるが、情熱のレベルが強すぎる場合は、とばっちりを他人にふりかけてしまい迷惑をかけることになる。はけぐちになった人に「私にそれを向けないで、それを仕事にしたらいいのに」と思われてしまう。仕事というのは、美しいはけ口であり口実なのだ。

ほとばしる情熱を仕事にすれば、それはお金になり、批判にさらされ、打ちのめされ、削られ、乾かされ、磨かれる。そのとき初めて、あふれる情熱がほとばしってしまうくらい好きなことはソリッドな輝きを放つのだ。
というようなことを、多和田葉子の文を読むと感じる。さまざまな国で彼女は自作を朗読している。戦慄のライブだ。彼女が放つ言葉は、特別なモードで共有され、記憶される。

ドイツに住みドイツ語と日本語で小説を書いている彼女が、アメリカに目を向けはじめた。妄想と現実が入り混じる旅ほど、孤独をリアルに映す鏡はない。個人的な妄想の入りこまない現実なんてないのだから、そこを正直にすくい取る彼女の旅は、面白すぎる。でも、そう感じるということは、つまらない別の旅があるってこと。それは不自由な旅、何も感じてはいけない旅、目の前の現実とは一見無関係な妄想を抱いてはいけない旅のことだ。

初めて海外に行ったときのことを思い出した。私が選んだのは西海岸だった。初めて乗った飛行機。初めて見た道路。初めて見たビーチ。初めて食べたビーフボウル。初めて話しかけられたビバリーヒルズ。そのときのアメリカが私のアメリカのはずなのに、記憶からは消えかけている。そのひとつひとつの感覚を「アメリカ-非道の大陸」は呼び覚ましてくれる。
初めての感覚を、人は、どこまで保つことができるのだろう?
2006-12-18

『ヤバいぜっ!デジタル日本―ハイブリッド・スタイルのススメ』 高城 剛 / 集英社

ヤバい男が語る、ヤバい日本。


メールを使って四半世紀、自分でサーバーを立ち上げて23年、年間移動距離は200日間で地球11.3周分、年間CD&DVD購入枚数は3000枚を超え、映像作家として世界中で撮影し、世界中で上映し、毎年夏はDJ・VJとして世界各国でプレイし、世界の多くの観客とライブで触れ合う男。それが高城剛だ。

煎茶道の家元である母を持ち、大学在学中のときからビデオアート作品やCMやビデオクリップをつくってきた彼は、だれよりもテクノロジーを駆使し、だれよりもテクノロジーを愛し、だれよりも世界中を移動し、だれよりも最先端の表現を見続けてきた。と本人が言っている。今も毎週1枚のペースでDVDをつくり、それらはプライベートシアターで友人たちに披露される。

国境を超えて愛をふりまく男が放つ言葉は、圧倒的な説得力をもつ。単純化しすぎたあらっぽい言い方も気になるけど「内容は大事だが二の次で、何よりクイックレスポンスが大事な世の中である」と彼自身が言い切り、それを体現しているのだから。
「どんなにすばらしいゲームより、彼氏からのメールが最重要コンテンツだ」
美少女ゲームをやるより出会い系サイトのほうが楽しい、という彼の指摘は鋭い。

日本がデジタル後進国に成り下がってしまった諸悪の根源は、「コピーはすべて悪いことである」という前提。コピー・コントロールCDの失敗や、デジタル放送の著作権管理システムを糾弾する彼だが、very badとvery coolの両方の意味をもたせた本書の「ヤバいぜっ!」というタイトルは希望に満ちている。今後、経済が日本を引っ張ることはないが、新しい流行文化が日本を変えていくだろうと彼は予測する。

「いまもっとも日本でスピードがあるのは、20代の女性だろう。流行から思考までハイスピードで彼女たちは動いている。かつ、姿勢が柔軟である。あとのほとんどの人々はスロー志向で硬質である」
うちの事務所には、彼の後輩にあたる女子大生が常時何人かいるけれど、彼女たちは全然ひと括りになんてできない。首根っこをつかんで揺さぶりたくなるほど何も知らない子もいれば、ストーカーにつきまとわれっぱなしのヤバい(very bad)子もいるし、ネットワークを駆使してさっさと海外に移住しちゃうヤバい(very cool)子もいる。

だが、彼にとって親和性が高いのは、20代の女の子であるというのはよくわかる。男は、彼にそれほど素直についてこないだろうから。男は、彼の並外れた体力とフットワークとコミュニケーション力と目立ちすぎる外見に嫉妬するだろうから。美食の王様、来栖けいの並外れた胃袋と舌とスリムな容姿と謎の経済力に嫉妬する男が多いのと同じ。出過ぎるクイは、同性から打たれちゃうのである。高城剛のような人が反感をもたれてしまう限り、日本はデジタル後進国のままかもしれない。

「なぜ、過去の市場を分析するマーケットコンサルタントを重視し、未来の市場を切り開くクリエイティブな人々を重視しない?」
彼の叫びはまっとうな叫び。広告業界ですら、DJやヤバいやクールにいくつもの意味があることなんて興味がないって人が多いんだから。こういう仕事をしながら、一体情報をどうやってシャットアウトしてるんですかと聞きたいくらいだ。

高城剛はここ数年、徹底的に身体を鍛えているという。3年目に入り、ますます鍛え上げており、何かが変わったことは確かだというのだから参ってしまう。
「僕が好きなものは、デジタルグッズでもインターネットでもなく、新しい可能性である。そのひとつが、自分の身体と脳である」だってさ。まじでヤバいね、この男。
2006-12-03

『サナヨラ』 大森克己 / 愛育社

フレッシュな遺影たち。


写真集に出会った。買ってしまった。買わされてしまった。
表紙のアイスキャンディーと帯紙のカラーコーディネートにやられたのか。サナヨラというわけのわからないタイトルに魅せられたのか。大森克己という人間の魂に突き動かされたのか。

4年かけてつくられた写真集らしい(ロバート・フランクみたいに焼き直しばかり出してる人とはちょっと違った)、脈絡はないけれど完成度の高い写真が並んでいる。この誠実で丁寧な世界が、自分には必要だったんだと思う。分けてほしかったんだと思う。写真集が「必要」になるなんて、ヤバさ半分、うれしさ半分。

なぜ、写真には、人柄が出るのだろう。生き方が出るのだろう。どんなものを前にしても、今の彼が撮れば、きれいなっちゃうんだろうか? 電車の中で女性の足を盗み撮りした1枚も、手のひらにハチがいっぱい乗ってる1枚も。ホンマタカシでも平間至でもない、ストレートすぎる健全なまとまりだ。この人は、カメラマンである前に、人として人気があるんだろうなと思わせるような。心洗われるというよりは、普通に生きようぜって突きつけられるような。

フレッシュな遺影たち。そんな感じ。

彼自身によるあとがきで、フィンランドで出会ったという「サナヨラ」の意味が明らかになり、この言葉が断然、身近になった。
「とても誠実で、はじまりとおわりが同時にある。よろこびとかなしみのニュアンスがおおよそ半分づつで、笑いのスパイス少々。そして全然ハードコアじゃない。僕の新しいあいさつだ」

木枯らし1号が吹いた早朝の東京の空と光はありえないほど輝いていて、これならまだ大丈夫、と私は思った。
2006-11-12

『天使の卵』 富樫森(監督)・村山由佳(原作) /

奇跡のように映画化されたラブストーリー。


原作者の村山由佳さんは言う。
「持ち込まれた映画化・ドラマ化の企画は20や30ではきかなかったが、どういうわけかいつも最後の1ピースがうまくはまらなくて、実現にまでは至らなかった。でも、今回は初めから何かが違っていた」

原作もシナリオも、スタート地点に過ぎないのだ。
私は、映画を見終わってから、パンフレットに収録されていたシナリオを読んで驚いた。完成した映画とは、似て非なるものだったから。この映画が、現場でのキャストと演出の力、そして編集の力によって完成したことがわかる。

とくにセリフ。どんなシーンでも、的確すぎる言葉だけを、いきなりダイレクトに発するアユタ(市原隼人)の演技は驚愕に値する。誰が考えたんだ、こんなセリフ? もしかすると、市原隼人という俳優は、こんなふうに毎日を生きているのだろうか? 私も、他人に向かって発する言葉を、厳選しなくちゃと思った。セリフを厳選することで映画が変わるように、日常の言葉を厳選することで、人生はもっと美しくなるかもしれない。

教師役のナツキ(沢尻エリカ)を、冒頭からあんなにキラキラした印象に撮ったのは、誰のアイディア? 彼女の存在の輝きとナレーションこそがこの映画の生命で、死や病気や偶然を多用した甘いラブストーリーの欠点を、クールに払拭しきっている。
映画館ではスタッフが「沢尻エリカが絶賛したポップコーン」を売っていた。客席にまで一陣の風をもたらす沢尻エリカ! 彼女が、この映画の天使なのだ。

映画やドラマに脇役は存在しない。アユタ(市原隼人)とナツキ(沢尻エリカ)とハルヒ(小西真奈美)だけでなく、人物や風景や小道具はすべて主役である。そんな確信を抱かせるほど、この映画は1シーン1シーンに手抜きがなく、一言一言にリアリティがあり、そこに注ぎ込まれている集中力は半端じゃない。

アユタは、ナツキとつきあっていたが、ある日、ナツキの姉のハルヒに心変わりする。ひどい話だ。だけど、この三角関係、全員が純粋でまっすぐで正しいのだから参ってしまう。
アユタのような男は、ヤバイ。こんなふうに口説かれて、気持ちの動かない女はいないし、今は頼りにならなくても、未来をかけてしまうに決まってる。彼は、口説き方もすごいけど、ふり方もストレート。こんなふられ方は痛すぎるけど、ちょっと考えればいい男だってわかるから、絶対ファンになる。一瞬傷ついても一生は傷つかない。男は、こんなふうに女をふればいいのです。

ひとりだけ、純愛ではない長谷川(鈴木一真)という男が登場するが、ハルヒはアユタに「ごめんね、ああいうのを、かっこいいと思ってるのよ」と言い、両者を救う。修羅場でも、長谷川の去っていく姿は悪くない。最低なヤツなのに、心配になってちょっと追いかけてみたくなるような、そんな余韻を残す演出になっている。べたべたなシーンで泣かせるのではなく、ミニマムなシーンの集積から反響する余韻の美しさで泣かせる映画なのだ。

長回しの映像は心に残る。走るナツキ。移り変わる季節。京都の風景。
映画を見ているときは、演技やセリフに心を奪われてしまうから、それらは、あとから、美しい記憶のように、やってくる。
2006-11-01

『ストロベリーショートケイクス』 矢崎仁司(監督)・魚喃キリコ(原作) /

不器用な女たちを、あなたは抱きしめたいか?


里子(池脇千鶴):フリーター
ちひろ(中越典子):ОL
秋代(中村優子):デリヘル嬢
塔子(岩瀬塔子):イラストレーター

4人の女たちは、とってもリアルだ。「女の世界はこの4タイプで成り立っているんじゃないか?」と言いたいくらい。私は見終わった後、自分の言動が、4人の入り混じった、わけのわからない中途半端さに傾いているのに気がついて動揺した。

里子は文句なしに可愛いが、ちひろはぶりぶりだし、秋代はコワいし、塔子はイタい。里子以外はあまり近づきたくないタイプだ。しかし、4人全員が体を張った演技をしており、目が離せない。とくに塔子の存在感にはすごいものがあるなと思っていたら、彼女を演じている岩瀬塔子とは、原作者の魚喃 キリコさん本人であった。

4人の共通点は、失恋体験。この映画は、失恋が女にとってどれほどキツいものであり、どれほど重篤な影響をその後の人生に及ぼすかって話だ。女って、こんなにしんどい生き物なのか? 痛々しすぎる。監督は原作を読んで「4人を抱きしめたくなった」というが、本当だろうか。男はふつう、こういう女性特有のメンタリティなんかには興味がないんじゃないだろうか?

写真家の藤代冥砂は、この映画を見て「私は女の子の心変わりとか生活とかもやもやには興味がないけど、表情は目で追ってしまう」とコメントしている。正直な感想だと思った。さすが、世界の女たちとの赤裸々なSEXを撮り続けた旅の写真集「ライドライドライド」で「永遠の愛は知らないが、女の、気紛れな、一夜限りの優しさなら知っている」という名言を吐いた男である。

4人に言いたい。自分のことを大切にしてくれない人、愛してくれない人、尊重してくれない人に、1ミリでも執着してはいけない。それはもう、絶対にそうなのだ。そいつは、あなたにとって、ダメな男なのだ。そこを、女は間違えてしまう。何とか決着をつけたい、納得したい、いい思い出にしたいと願い、たとえ相手に愛や情のかけらもなくても「私が彼を愛しているからいいの」「私がいないと彼はダメなの」というような間違った母性を発揮してしまう。もったいないことだ。

しかもこの4人、仕事でもつらいことがふりかかる。仕事も恋愛もうまくいかなかったら、一体どうすればいいのでしょう、女は。

男たちの言動が、ひどすぎるのか? そうも言えるが、実はそうじゃない。彼女たちと関係する男たちは、無視していい。たいしたヤツは一人もいないから、傷つく必要はない。だが、50歳のときに里子を産み、今は養老院で暮らす里子ママ(72歳)の恋人である田所(70歳)と、里子がバイトする中華料理店のリー(30歳)の2人は、まともなことを言う。リーのつくるラーメンはマズそうだが、そんなことは欠点のうちに入らないだろう。いちばん健全で可愛い女、里子のまわりにだけ、いい男(ただし外国人と老人)がいるというのが、この映画の最大のリアリティだ。
2006-10-14

『山椒大夫』 溝口健二(監督) /

世界で最もマネされた日本映画。


9月5日付の朝日新聞には、「溝口健二没後50年プロジェクト」のために来日したスペインのビクトル・エリセ監督が、兵役中だった1964年、マドリードで「山椒大夫」を見たときのエピソードが掲載されていた。最後まで見ることは門限を破ることだったが「映画は懲罰を要求しているかのようでした。おかげで映画史上で最も美しいフィナーレを見ることができたのです」と監督は語る。 門限破りの懲罰とは、一晩中じゃがいもの皮をむくこと。彼は、頭の中で映像を思い返しつつ「人生を凌駕する映画がある」と悟ったという。

私のイタリア語の先生はクレモナで生まれ、モーツァルトを愛し、大学で建築を教え、イタリアワインとバイクに目がないお洒落なエピキュリアンだが、日本に住むようになったきっかけは、なんと溝口健二の特集上映を見たことだという。先日、彼の手引きでシエナ派を代表する中世の世俗的な画家、ロレンツェッティのフレスコ画「よい政府とわるい政府の寓話(L’allegoria
del buono e cattivo governo)」を詳細に検証したのだが、そこにはまさに、映画「山椒大夫」の世界が展開されていた。

ジャン=マリ・ストローブはこの映画を「もっともマルクス主義的な映画」と言い、ジャン=リュック・ゴダールは、佐渡の海辺をパンするラストショットを自作に引用した。一体なぜ、これほどまでに外国人にウケるのか? 日本での人気ナンバーワン溝口映画は「雨月物語」のような気がするけど…。そう、「山椒大夫」はあまりにもマジすぎて、見る側にもつい力が入ってしまう。そのピュアな強度は、日本人の感性を通過してユニバーサルな領域に到達しているがゆえに「この映画がいちばん好き☆」だなんてビクトル・エリセ監督のように無邪気に言い放つことを難しくする。劇場では、水を打ったような静けさの中にすすり泣きの波紋が広がり、まさに安寿(香川京子)の美しい入水シーンそのものだ。パーフェクトに構築された演劇空間は、暗く悲しく残酷であるだけでなく、時にコメディの要素すら加わるのに、観客は笑うことができない。ジャンルを超越したすごいものを見ちゃったという気分になる。

説教でもなく、感動の押し売りでもなく、政治的なプロパガンダ映画でもない。北朝鮮の強制労働所のマル秘映像を見ているような極端な階級社会の描写が続くのに、これは、日本のエスノセントリズムを超えた世界のスタンダードになったのだ。溝口健二は、ひたすら美しい音楽を奏でるように、この映画を真剣に撮っている。楽しげなシーンがひとつだけあって、その変奏シーンがあとでもう一度出てくるのだが、見事な音楽的リフレインとしかいいようがない。

この映画のメッセージは2つある。「時間をかけること」と「血と信念をつらぬくこと」。環境にあわせてころころと器用に適応することが良しとされる今、圧倒的にたりないものかもしれない。


*「溝口健二の映画」連続上映中
*1954年 ヴェネチア映画祭 銀獅子賞受賞
2006-09-21