『夜顔』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

サービスの純度。


「上品」は、どこからくるのだろう。たぶん、自然に生まれるものではなくて、どこかで誰かがつくるものなのだと思う。社会性にこだわり、外出着を選び、手にとるものを選び、口にする言葉を徹底的に選ぶ。そして、そんな上品が、別の上品を呼ぶ。

この映画には、ひとつの劇場と、ひとつのバーと、ふたつのホテルが登場する。主人公(ミシェル・ピコリ)が一人で演奏会を楽しんだり、バーマンと話しながら酒を飲んだり、コンシェルジュに女(ビュル・オジエ)のゆくえを尋ねたり、ギャルソンたちのサービスを受けながら女とフルコースの食事をしたりする。これらのシーンに登場するサービススタッフの上品さは、特筆すべきものだ。

バーマンは、店の常連である2人の娼婦を「天使」といい、若くない娼婦は若い娼婦を「いい友達」といい、ギャルソンたちは、トラブルを起こした客についても、陰でネガティブなことを言う代わりに「面白い」「不思議」「変わっている」というニュアンスの言葉で尊重する。

人だけじゃない。主人公が女を追跡するパリの夜の美しさは比類ないし、グラス、シャンパン、燭台、プレゼントなどの小物をはじめ、アル中の主人公が身につけている服、かつて背徳的な人妻であった女が身につけている服、娼婦たちが身につけている服の選びぬかれた上質感。ほとんど一発撮りのようであり、しかも完璧であるとしかいいようのない70分だ。こんな緊張感あふれる映画は70分間で十分だし、物語なんてなくたっていい。これほど美しく凝縮されたリアリティのある画面を構築できるのは、今年100歳になるというオリヴェイラ監督だけではないだろうか。

この映画はルイス・ブニュエルの「昼顔」(1967年)の続編といえるオマージュ作品だが、オリヴェイラ監督は言う。「ブニュエルは私的なことと映画を混同しない人だった。彼は背徳的なテーマを描いても、セックスシーンは撮らなかった。私的なことだからだ。私も彼の考えに賛同する一人だ」

人間には裏表があって実は下品なのである、という杓子定規的なトーンの映画を見ると、がっかりする。下品なのはあなただ、と監督を指さしたくなる。

オリヴェイラ監督は、相変わらず、精力的に映画を撮り続けているようだ。ひとつのことを長く続けることによって、頑固さとは別の純度を手に入れることができるのだとしたら、世の中はなんて希望に満ちているんだろう。

映画のあと、それぞれ別の知人がやっているレストランとバーへ行った。今まで深く考えたことがなかったけれど「夜顔」を見たあとでは、どちらの店のコンセプトもサービスも、驚くほどピュアであることに気がついた。なんだか映画の続きのような気分になって、ああ、私のまわりにも上品な人たちがいるんだわ、と嬉しくなった。私が映画館で買ってきた「夜顔」のポストカードを渡すと、レストランのオーナーはフランス語のタイトルについて、バーのオーナーは主演男優についてコメントしてくれた。

ネガティブなことをネガティブに考えればいろいろあるのだろうけど、とりあえず、日々、ポジティブなことだけで頭の中をいっぱいにすることができる状況は何よりも幸せで、その要には「上品でピュアな人」の存在があることを強く思う。万が一、身近にそういう人が一人もいなくなっちゃったとしても、私たちは、オリヴェイラ監督の映画を見ればいい。


*2006年/フランス+ポルトガル合作/70分
*銀座テアトルシネマで上映中
2008-01-07

『ワサップ!』 ラリー・クラーク(監督) /

プラダを着ない天使たち。


サロンボーイ系とお兄系とパンク系がニアミスしたって、東京では「それが何か?」って感じだ。ファッションの違いは趣味の違いと認識されるだけで、深刻な生存競争につながることはない。だけど、移民の多いロサンゼルスのような都市では、ファッションが肌の色と同じように判断され、階級意識を浮き彫りにする。

「ワサップ!」の主役は、ロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らす7人のティーンエイジャーたち。全員がラティーノ(ラテンアメリカ系の移民)で、パンクで、スケボー好き。つまり、とっても目立つ存在だ。なぜなら、この街の主流は、黒人のヒップホッパーだから。タイトなジーンズとTシャツに身を包み、スケボーで登校する彼らは、ヒップホッパーたちに「ワサップ、ロッカーズ!」(ロッカーたち、元気か!)と絡まれ、「ちっちぇーTシャツ!」とバカにされるのである。

そう、この映画はファッション映画。地元でも仲間が殺されちゃったりする日々なのに、彼らはビバリーヒルズに足を伸ばす。さて、どうなるか? まずは警官に咎められ、一人が拉致される。次に、ビバリーヒルズ高校のお坊ちゃまたちに攻撃される。挙句の果てには、クリントイーストウッドみたいな映画監督に、銃を向けられる。

しかし、彼らを受け入れる人種もいる。ビバリーヒルズ高校の美人姉妹、有閑マダム、そして、彼女たちの使用人であるラティーノたち。女は、先入観なしで、男の「見た目の美しさ」を評価できるのである。とりわけ、ルックスのいいジョナサンとキコの二人はモテモテだ。

いちばん面白いのは、たまたま彼らが逃げる途中で紛れ込んだ中庭でのパーティーシーン。ジェレミー・スコット(実物)を始めとするセレブなファッションビープルたちもまた、彼らを一目で気に入る。ラティーノがスケボーでパンク。それだけで絵になるのである。浮いているのである。マイナーなのである。かっこいいのである。ラリー・クラークだって、そうやって、素人である彼らを街でスカウトしたのだろう。ファッションっていうのは、なんて危険なんだろう。それだけで、つかまったり、殺されたり、可愛がられたり、映画に出なきゃなんないはめになるのだから。

「ワサップ!」は、こうしてファッションの本質をえぐる。人種のるつぼの中でむきだしにされる、そのわかりやすい記号性と危険性を。肌の色と同じくらい自然で危険で面白いファッションに目をつけ、素人のティーンエイジャーに心を開かせ、リアルな演技をさせたラリー・クラークの手腕は、毎度のことながら、さすがなのだ。
2007-02-27

『ヘカテ』 ダニエル・シュミット(監督) /

1982年の、おしゃれなメロドラマ。


ダニエル・シュミットの回顧上映特集が、アテネフランセ文化センターに引き続き、ユーロスペースでレイトショー開催されている。

中でも「ヘカテ」は「最もファッショナブルな一篇」といわれるだけあって大盛況。日本初公開当時も話題になったようだが、今やその価値はさらに高騰している。北アフリカの風景も、1930~40年代という設定も、昔のクルマも、ディオールオムも、それだけで絵になっている。撮影監督はもちろんレナート・ベルタ。

砂漠の風景に重なる鮮烈なブルーのロゴ、謎の女に人生を狂わされていく外交官、反復される女の後ろ姿、寛大さと諦念の入り混じった滋味あふれるセリフを口にする上司、ふいにレコードを割る男、演劇的に決まりすぎな音楽とセリフと間合い……。でも、この映画で語られるのは、言葉はいつだって無意味だってこと。

モロッコの領事館に赴任した若いフランス人外交官(ベルナール・ジロドー)は、たいした仕事も出世も期待できない中、植民地のエキセントリックな倦怠が渦を巻くパーティで、テラスにたたずむアメリカ女(ローレン・ハットン)と出会う。これはもう、アラン・デュカスがプロデュースするモナコのレストランでイタリア人シェフによるエスニック料理に舌鼓を打つような美味快楽としかいいようがない。実際のところ、マニアックな男やおしゃれな女や知的な老人といった多彩な人種が、たった2回しか上映されない「ヘカテ」を味わうために、週末の夜9時過ぎ、渋谷のラブホテル街に足を運んだのだ。

魔性の女に翻弄される男の話だが、男から見て女がどう見えるのかを、非常に洗練された形で描いている。普通、女のことは、ありえないほどきれいに描くか、どろどろと醜く描くかのどちらかなのに、この監督はどちらでもない。女のことをよく知っているのに、わからないふりができてしまうダニエル・シュミットという男は、正しく女性をリスペクトし、幸せにすることができた人であるはずで、この映画を見れば、魔性の女になって男を狂わせるにはどうしたらいいかがわかる。簡単なことだ。もし、そうありたいと望むのであれば。

映画は回想形式であり、男は結局のところ出世する。女のせいで死んじゃったり殺しちゃったりダメになったりしないのだ。すごくいい話じゃん。このポジティブさ、育ちのよさが、ダニエル・シュミットのセンスのよさだ。フェリーニの「道」なんかとは、格が違うのである。

蓮實重彦の「光をめぐって-映画インタビュー集」(筑摩書房)の中で、ダニエル・シュミットは「映画とは、1秒ごとに24回くり返される現実だ」というゴダールの言葉を受けて、自分はこう言い直したいと語った。
「映画とは、1秒ごとに24回くり返される嘘だ」
そして、こうも言った。
「映画とは、可能な限りの操作によって捏造されるもの」

そう、メロドラマは嘘のかたまりだ。ダニエル・シュミットは、自覚的に、とことん嘘をつく方向で、本質をあらわにする。
2007-02-06

『恋人たちの失われた革命』 フィリップ・ガレル(監督) /

ダメな男は、美しい?


今さらなぜ、1968年の五月革命の話なんて撮るのか。フィリップ・ガレルは、当時のパリの風俗を完璧なモノクロのコントラストで再現した。ひとつひとつのシーンがビクトル・エリセばりの完成度で、しかも3時間という長さなのだから、あきれ果ててしまう。

主役のフランソワを演じたルイ・ガレルは、監督の息子。つまりこれは、1968年に20歳だった監督自身を、ようやく20歳になった美しい息子に演じさせたナルシス的デカダンス映画なのだ。
ヴィスコンティがヘルムート・バーガーを超越的な美しさで撮った4時間の大作「ルートヴィヒ」(1973)や、カート・コバーンの自殺直前の数日を描いたガス・ヴァン・サントの「ラスト・デイズ」(2005)にそっくり。闘争の退屈さを延々と映すシーンは、アモス・ギタイの「キプールの記憶」(2000)の倦怠そのもの。

たとえ醜い俳優でも信じられない映像美で魅せてしまう監督のことだから、フランソワの存在感は非の打ちどころがない。途中、フルでかかるニコの曲とキンクスの曲もめちゃくちゃかっこよくて、映画で音楽を使うならこういうふうに使うべきという最高のお手本だ。フランソワとリリーが恋に落ちるシーンだって、恋に落ちるってこんな感じ以外ありえないでしょうという不滅の説得力がある。さすが、ニコと長年暮らし、ジーン・セバーグやカトリーヌ・ドヌーブにも惚れられた監督、ただものじゃない。

だけど、だからこそ、フランソワがふられるプロセスは、さらにリアル度増量。彼の美しさは圧倒的だけど、フィリップ・ガレルの映画だからして、当然、ダメ男なのだった。ダメなものはダメなまま描き、うそっぽい希望を混ぜたりしないところが素晴らしい。

フランソワに似たタイプの友達が、かつて私にもいた。救いのないこの映画は、救いのない結末を迎えてしまった彼のことを思わせる。

フィリップ・ガレルは、この映画を撮ることで、20歳のころの自分に決着をつけることができただろうか。そう簡単にはいかないはず。監督は、ダメな男の映画を作り続け、私もまた、このような美しい映画を繰り返し見てしまうのだろう。現実に救いがない以上、救いのある映画なんて見たくない。救いがなく、結論が出ない映画を求めているのだ。フィリップ・ガレルがもう何十年もこういう映画を撮っているという事実にのみ、私は救われる。
2007-01-21