『テストトーン VOL.35』 さまざまなジャンルのアーティスト / 西麻布スーパーデラックス

先端は、無料です。


値上げの話題が多い中、心あるブランドは、無料の価値を知っている。

銀座メゾンエルメス10階のル・ステュディオでは、毎週土曜日に映画が上映され、予約さえすれば無料で見ることができる。現在の上映作品はロッセリーニの「インディア」(1959)で、イタリア語ではなくフランス語バージョンというのが残念だけど、お洒落して行く価値のあるプライベートシアターだ。

シャネルの「モバイルアート展」は、香港、東京が終わり、今後はNY、ロンドン、モスクワ、パリへとパビリオン(byザハ ハディド)が移動するが、シャネルバッグをテーマに20組のアーティスト(ブルー ノージズ、ダニエル ビュレン、デヴィット レヴィンソール、ファブリス イベール、レアンドロ エルリッヒ、イ ブル、ロリス チェッキーニ、マイケル リン、荒木経惟、ピエール&ジル、ソフィ カル、田尾創樹、スティーブン ショア、スボード グプタ、シルヴィ フルーリ、束芋、ヴィム デルヴォワイエ、楊 福東、オノ ヨーコ、Y.Z.カミ)が構築したインスタレーションツアーもまた無料。各自がヘッドフォンとMP3プレーヤーを装着し、ナレーションの指示と音楽に身を任せながら回遊するサウンドウォーク(byステファン クラスニャンスキ)は快適だけど、日本語のナレーションはやや鬱陶しかった。ただし、フランス語か英語を選べばジャンヌ・モローの声だったんだって! 彼女が終始耳もとでナビしてくれるのであれば、シャネルのバッグ1個くらい買ってもいい。

7月8日、西麻布のスーパーデラックスで「test tone vol.35―Festival of Alternate Tunings」というイベントが開かれた。これもまた無料。エルメスやシャネルのような予約も不要。ノーチケットで気まぐれに行けるライブっていい。飲み物は好きなだけ買えるわけだし。さまざまなアーティストが演奏する中、私はすごいバンドを見てしまった。いや、バンドじゃなくて、一夜限りのコラボレーション。

●山本達久 ・・・ノイズドラム
●L?K?O ・・・ターンテーブル
●大谷能生 ・・・サックス
●Cal Lyall ・・・ギター
●onnacodomo ・・・VJ

漢字と英語と記号とローマ字が混在する字面からして、全然バンドじゃないし、まとまってない。さて、この中で外国人は誰でしょう? 女性は誰でしょう? 電気系の楽器はいくつ? ドラムだけ「ノイズ」をつけてしまったけど、ほかのパートにも形容詞をつけたほうがいいかもしれない。音楽の最前線は、言葉が定まってなくて刺激的だ。

セッションは即興的だが緻密であり、調和していないが引きこもってもいなかった。楽器としてのパワーを感じるターンテーブルには新しい時代を確信したし、ドラムの爆発ぶりにもぶっとんだ。繊細にして大胆不敵なサックスは、アナログという言葉の語源が「自由」であることを思い出させた。と、思わずでたらめを書いてしまいたくなるほどだが、これらの音に一層ミスマッチなギターが加わり、奇跡的ともいえるキャッチーなノリの中に荒涼としたダイナミズムが生まれていたのである。いろんな素材が料理され、3面の壁いっぱいに映し出されるビジュアルパフォーマンスにもダイレクトなライブ感があり、風景が映るわけでもないのにロードムービーみたいだわと感動しているうちに演奏は終わってしまった。このセッションにはタイトルがなく、二度と聴くこともできない。書いておかないと忘れちゃうじゃん。

旅とロートレアモンの詩とサックスと物理学が荒削りにミックスされたジム・ジャームッシュの処女作「パーマネントバケーション」(1980)が最初に上映されたときも、こんな感じだったのだろうか? 
2008-07-13

『夜顔』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

サービスの純度。


「上品」は、どこからくるのだろう。たぶん、自然に生まれるものではなくて、どこかで誰かがつくるものなのだと思う。社会性にこだわり、外出着を選び、手にとるものを選び、口にする言葉を徹底的に選ぶ。そして、そんな上品が、別の上品を呼ぶ。

この映画には、ひとつの劇場と、ひとつのバーと、ふたつのホテルが登場する。主人公(ミシェル・ピコリ)が一人で演奏会を楽しんだり、バーマンと話しながら酒を飲んだり、コンシェルジュに女(ビュル・オジエ)のゆくえを尋ねたり、ギャルソンたちのサービスを受けながら女とフルコースの食事をしたりする。これらのシーンに登場するサービススタッフの上品さは、特筆すべきものだ。

バーマンは、店の常連である2人の娼婦を「天使」といい、若くない娼婦は若い娼婦を「いい友達」といい、ギャルソンたちは、トラブルを起こした客についても、陰でネガティブなことを言う代わりに「面白い」「不思議」「変わっている」というニュアンスの言葉で尊重する。

人だけじゃない。主人公が女を追跡するパリの夜の美しさは比類ないし、グラス、シャンパン、燭台、プレゼントなどの小物をはじめ、アル中の主人公が身につけている服、かつて背徳的な人妻であった女が身につけている服、娼婦たちが身につけている服の選びぬかれた上質感。ほとんど一発撮りのようであり、しかも完璧であるとしかいいようのない70分だ。こんな緊張感あふれる映画は70分間で十分だし、物語なんてなくたっていい。これほど美しく凝縮されたリアリティのある画面を構築できるのは、今年100歳になるというオリヴェイラ監督だけではないだろうか。

この映画はルイス・ブニュエルの「昼顔」(1967年)の続編といえるオマージュ作品だが、オリヴェイラ監督は言う。「ブニュエルは私的なことと映画を混同しない人だった。彼は背徳的なテーマを描いても、セックスシーンは撮らなかった。私的なことだからだ。私も彼の考えに賛同する一人だ」

人間には裏表があって実は下品なのである、という杓子定規的なトーンの映画を見ると、がっかりする。下品なのはあなただ、と監督を指さしたくなる。

オリヴェイラ監督は、相変わらず、精力的に映画を撮り続けているようだ。ひとつのことを長く続けることによって、頑固さとは別の純度を手に入れることができるのだとしたら、世の中はなんて希望に満ちているんだろう。

映画のあと、それぞれ別の知人がやっているレストランとバーへ行った。今まで深く考えたことがなかったけれど「夜顔」を見たあとでは、どちらの店のコンセプトもサービスも、驚くほどピュアであることに気がついた。なんだか映画の続きのような気分になって、ああ、私のまわりにも上品な人たちがいるんだわ、と嬉しくなった。私が映画館で買ってきた「夜顔」のポストカードを渡すと、レストランのオーナーはフランス語のタイトルについて、バーのオーナーは主演男優についてコメントしてくれた。

ネガティブなことをネガティブに考えればいろいろあるのだろうけど、とりあえず、日々、ポジティブなことだけで頭の中をいっぱいにすることができる状況は何よりも幸せで、その要には「上品でピュアな人」の存在があることを強く思う。万が一、身近にそういう人が一人もいなくなっちゃったとしても、私たちは、オリヴェイラ監督の映画を見ればいい。


*2006年/フランス+ポルトガル合作/70分
*銀座テアトルシネマで上映中
2008-01-07

『ワサップ!』 ラリー・クラーク(監督) /

プラダを着ない天使たち。


サロンボーイ系とお兄系とパンク系がニアミスしたって、東京では「それが何か?」って感じだ。ファッションの違いは趣味の違いと認識されるだけで、深刻な生存競争につながることはない。だけど、移民の多いロサンゼルスのような都市では、ファッションが肌の色と同じように判断され、階級意識を浮き彫りにする。

「ワサップ!」の主役は、ロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らす7人のティーンエイジャーたち。全員がラティーノ(ラテンアメリカ系の移民)で、パンクで、スケボー好き。つまり、とっても目立つ存在だ。なぜなら、この街の主流は、黒人のヒップホッパーだから。タイトなジーンズとTシャツに身を包み、スケボーで登校する彼らは、ヒップホッパーたちに「ワサップ、ロッカーズ!」(ロッカーたち、元気か!)と絡まれ、「ちっちぇーTシャツ!」とバカにされるのである。

そう、この映画はファッション映画。地元でも仲間が殺されちゃったりする日々なのに、彼らはビバリーヒルズに足を伸ばす。さて、どうなるか? まずは警官に咎められ、一人が拉致される。次に、ビバリーヒルズ高校のお坊ちゃまたちに攻撃される。挙句の果てには、クリントイーストウッドみたいな映画監督に、銃を向けられる。

しかし、彼らを受け入れる人種もいる。ビバリーヒルズ高校の美人姉妹、有閑マダム、そして、彼女たちの使用人であるラティーノたち。女は、先入観なしで、男の「見た目の美しさ」を評価できるのである。とりわけ、ルックスのいいジョナサンとキコの二人はモテモテだ。

いちばん面白いのは、たまたま彼らが逃げる途中で紛れ込んだ中庭でのパーティーシーン。ジェレミー・スコット(実物)を始めとするセレブなファッションビープルたちもまた、彼らを一目で気に入る。ラティーノがスケボーでパンク。それだけで絵になるのである。浮いているのである。マイナーなのである。かっこいいのである。ラリー・クラークだって、そうやって、素人である彼らを街でスカウトしたのだろう。ファッションっていうのは、なんて危険なんだろう。それだけで、つかまったり、殺されたり、可愛がられたり、映画に出なきゃなんないはめになるのだから。

「ワサップ!」は、こうしてファッションの本質をえぐる。人種のるつぼの中でむきだしにされる、そのわかりやすい記号性と危険性を。肌の色と同じくらい自然で危険で面白いファッションに目をつけ、素人のティーンエイジャーに心を開かせ、リアルな演技をさせたラリー・クラークの手腕は、毎度のことながら、さすがなのだ。
2007-02-27

『ヘカテ』 ダニエル・シュミット(監督) /

1982年の、おしゃれなメロドラマ。


ダニエル・シュミットの回顧上映特集が、アテネフランセ文化センターに引き続き、ユーロスペースでレイトショー開催されている。

中でも「ヘカテ」は「最もファッショナブルな一篇」といわれるだけあって大盛況。日本初公開当時も話題になったようだが、今やその価値はさらに高騰している。北アフリカの風景も、1930~40年代という設定も、昔のクルマも、ディオールオムも、それだけで絵になっている。撮影監督はもちろんレナート・ベルタ。

砂漠の風景に重なる鮮烈なブルーのロゴ、謎の女に人生を狂わされていく外交官、反復される女の後ろ姿、寛大さと諦念の入り混じった滋味あふれるセリフを口にする上司、ふいにレコードを割る男、演劇的に決まりすぎな音楽とセリフと間合い……。でも、この映画で語られるのは、言葉はいつだって無意味だってこと。

モロッコの領事館に赴任した若いフランス人外交官(ベルナール・ジロドー)は、たいした仕事も出世も期待できない中、植民地のエキセントリックな倦怠が渦を巻くパーティで、テラスにたたずむアメリカ女(ローレン・ハットン)と出会う。これはもう、アラン・デュカスがプロデュースするモナコのレストランでイタリア人シェフによるエスニック料理に舌鼓を打つような美味快楽としかいいようがない。実際のところ、マニアックな男やおしゃれな女や知的な老人といった多彩な人種が、たった2回しか上映されない「ヘカテ」を味わうために、週末の夜9時過ぎ、渋谷のラブホテル街に足を運んだのだ。

魔性の女に翻弄される男の話だが、男から見て女がどう見えるのかを、非常に洗練された形で描いている。普通、女のことは、ありえないほどきれいに描くか、どろどろと醜く描くかのどちらかなのに、この監督はどちらでもない。女のことをよく知っているのに、わからないふりができてしまうダニエル・シュミットという男は、正しく女性をリスペクトし、幸せにすることができた人であるはずで、この映画を見れば、魔性の女になって男を狂わせるにはどうしたらいいかがわかる。簡単なことだ。もし、そうありたいと望むのであれば。

映画は回想形式であり、男は結局のところ出世する。女のせいで死んじゃったり殺しちゃったりダメになったりしないのだ。すごくいい話じゃん。このポジティブさ、育ちのよさが、ダニエル・シュミットのセンスのよさだ。フェリーニの「道」なんかとは、格が違うのである。

蓮實重彦の「光をめぐって-映画インタビュー集」(筑摩書房)の中で、ダニエル・シュミットは「映画とは、1秒ごとに24回くり返される現実だ」というゴダールの言葉を受けて、自分はこう言い直したいと語った。
「映画とは、1秒ごとに24回くり返される嘘だ」
そして、こうも言った。
「映画とは、可能な限りの操作によって捏造されるもの」

そう、メロドラマは嘘のかたまりだ。ダニエル・シュミットは、自覚的に、とことん嘘をつく方向で、本質をあらわにする。
2007-02-06

『恋人たちの失われた革命』 フィリップ・ガレル(監督) /

ダメな男は、美しい?


今さらなぜ、1968年の五月革命の話なんて撮るのか。フィリップ・ガレルは、当時のパリの風俗を完璧なモノクロのコントラストで再現した。ひとつひとつのシーンがビクトル・エリセばりの完成度で、しかも3時間という長さなのだから、あきれ果ててしまう。

主役のフランソワを演じたルイ・ガレルは、監督の息子。つまりこれは、1968年に20歳だった監督自身を、ようやく20歳になった美しい息子に演じさせたナルシス的デカダンス映画なのだ。
ヴィスコンティがヘルムート・バーガーを超越的な美しさで撮った4時間の大作「ルートヴィヒ」(1973)や、カート・コバーンの自殺直前の数日を描いたガス・ヴァン・サントの「ラスト・デイズ」(2005)にそっくり。闘争の退屈さを延々と映すシーンは、アモス・ギタイの「キプールの記憶」(2000)の倦怠そのもの。

たとえ醜い俳優でも信じられない映像美で魅せてしまう監督のことだから、フランソワの存在感は非の打ちどころがない。途中、フルでかかるニコの曲とキンクスの曲もめちゃくちゃかっこよくて、映画で音楽を使うならこういうふうに使うべきという最高のお手本だ。フランソワとリリーが恋に落ちるシーンだって、恋に落ちるってこんな感じ以外ありえないでしょうという不滅の説得力がある。さすが、ニコと長年暮らし、ジーン・セバーグやカトリーヌ・ドヌーブにも惚れられた監督、ただものじゃない。

だけど、だからこそ、フランソワがふられるプロセスは、さらにリアル度増量。彼の美しさは圧倒的だけど、フィリップ・ガレルの映画だからして、当然、ダメ男なのだった。ダメなものはダメなまま描き、うそっぽい希望を混ぜたりしないところが素晴らしい。

フランソワに似たタイプの友達が、かつて私にもいた。救いのないこの映画は、救いのない結末を迎えてしまった彼のことを思わせる。

フィリップ・ガレルは、この映画を撮ることで、20歳のころの自分に決着をつけることができただろうか。そう簡単にはいかないはず。監督は、ダメな男の映画を作り続け、私もまた、このような美しい映画を繰り返し見てしまうのだろう。現実に救いがない以上、救いのある映画なんて見たくない。救いがなく、結論が出ない映画を求めているのだ。フィリップ・ガレルがもう何十年もこういう映画を撮っているという事実にのみ、私は救われる。
2007-01-21

『ウェブ人間論』 梅田 望夫,平野 啓一郎 / 新潮社

「ナイーブ(無邪気)」VS「デリケート(繊細)」。


ビジネスとテクノロジーの世界に住む1960年生まれの梅田氏と、文学の世界に生きる1975年生まれの平野氏。ふたりの対談が浮き彫りにするのは、世代によるインターネット観の違いではなく、世代を超えた「理系 VS 文系」の差異だ。「理系 VS 文系」は、「ナイーブ VS デリケート」「ポジティブ VS センシティブ」「自由人 VS 理想人」「動物的 VS 植物的」などと言いかえることができるかもしれない。

「嫌なことでストレスをためてしまうよりは、避けていきたい」(梅田)
「現実が嫌な時には、改善する努力をすべきじゃないか」(平野)

ネットの世界にどっぶりつかっている梅田氏は「情報の量は質に変化する」と考え、ネットの進化が個人にとっていい方向に向かっていると考える。<プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神>ならぬ<シリコンバレーの倫理とオープンソースの精神>の善意を唱えるのだが、平野氏はいささか懐疑的だ。

「オープンソースに関しては、トータルにみて、やっぱり資本主義には飲み込まれてない」(梅田)
「僕は凡人だから、つい、人間って、そんなにいい人たちばっかりだろうかと考えてしまいますが(笑)」(平野)

「『よし、朝から十時間勉強して読んで書こう』なんていっても、途中で飽きちゃうんだけど、ネットでつながっているといろんな刺激があるから、気がつくと八時間経っていて、昔よりもずいぶん脳みそを使ってる」(梅田)
「ネットには何故飽きないかというと、自分で情報を取捨選択しているからなんでしょう。本は、面白くない箇所もありますから、途中でイヤになることもあるけれど、実はそここそが、肝だったりする。良くも悪くも、情報をリニアな流れの中で摂取するしかない。ネットはどうしても、面白いところだけをパパッと見ていく感じでしょう?それで確かに、刺激はありますけど、なんとなく血肉になりきれない」(平野)

人類がこれまで夢みてきた世界とは、「どこでもドア」のような「NOTリニアな世界」だったんだと思う。目の前のストレスを回避し、自分にぴったりのユートピアを瞬時に見つけ、サバイバルできるような。その一部が今、インターネットで実現できるようになったのだとすれば素晴らしいことだけど、すべての人がそれを志向したら「ストレスフルな現実」はどうなっちゃうのか。個人のナイーブなサバイバルが、目の前のセンシティブな人や集団や環境を傷つけることだってあるだろう。

スピードは速くなり、あきらめも早くなる。ひとりの人間が、ひとつのことを根気よくリニアにやりとげることは不毛なんだろうか。私たちは、多くの仕事を並行してこなせるようになり、多くの人と並行してつきあえるようになった。簡単にポイ捨てできる<おためし>みたいなつきあいの集積は、本質を見る目を養うだろうか? 無数のおためしは、自分自身をやせほそらせ、ペラペラのサンプルにしてしまうのではないか。

だけど、サンプルにはメリットもあって、自分の分身を風船にくくり付けてばらまくことができる。ひとつの場所にしばられて動けない人、動きたくない人にも、なんらかの可能性や想像の楽しみを広げてくれるのだ。
2007-01-11

『あの彼らの出会い』 ストローブ=ユイレ(監督) /

突き抜けた映画から、力の抜けた映画へ。


まだ暗い早朝、都内の最も美しい交差点のひとつを右折したら、目の前のクルマから火が出ているのが見えた。携帯を手にした男が駆け寄ってきて言った。「消火器、積んでませんか?」
消火器ならある。しかも、キャブからの火を消し止めたことだって。でも、パッケージを破って顔を上げると炎は増えており、小さな消火器で太刀打ちできないことは火を見るより明らかだった。流れてくる煙の匂いが、これ以上近寄るなと言っていた。ときどき爆発音がして、炎は街路樹よりも高く、サグラダ・ファミリアみたいな形になった。到着した消防車は、まぶしい光をいつまでも消しとめることができなかった。
私が映画監督だったら、これを撮っただろうか? ハリウッドの炎上シーンにはない「もうひとつの炎上シーン」を。

今年9月のヴェネチア映画祭で特別賞を受賞したストローブ=ユイレの新作「あの彼らの出会い」を思い出した。ユイレ(妻)が10月に亡くなったため、二人の新作は遺作となり、日本最終上映の日には、浅田彰氏の追悼講演と、パリ郊外で2005年10月27日に起きた事件(警察から身分証明書の提示を求められた移民の3少年が、追い詰められた末に変電所で感電死し、若者の暴動のきっかけとなった)の現場を二人が記録した12分のビデオ「EUROPA 2005 - 27 OCTOBRE」の特別上映が加わった。

ストローブ(夫)は「私はテロリストだ」と宣言した上で「アメリカの帝国主義的資本主義が存在する限り、世界のテロリストの数は十分ではない」というフォルティーニの言葉を引用した手紙をヴェネチア映画祭に託したという。

「あの彼らの出会い」は、パヴェーゼの対話詩を、素人っぽい俳優が2人ずつ忠実に再現(発声)するだけという、退屈きわまりない映画。だけど、ほかにはない「突き抜け感」のかっこよさに痺れる人は多いだろう。
「権力の神VS暴力の神」「酒の神VS穀物の神」「木の神VS森の神」「文芸の神VS古代ギリシャの詩人」「現代の狩人VS現代の狩人」の5つの対話を通じて、神々が人間との交流を始めた時代の話から、現代の人間がそのこと(=あの彼らの出会い)を思い出す話までが描かれているのだと推測するが、そんなことはどうでもいいかも。

しかるべき場所と人が選ばれ、ほとんど動きのないまま、しかるべき正確さで読まれるテキストは、あまりにもライブな自然という装置に囲まれて、ものすごくミニマルで、圧倒的にマキシマムな世界へとつながっていくのだ。

「昔の人は、ここではない場所で、パンでも喜びでも健康でもない、別のものを見つけた。海や畑に住む私たちは、パンや喜びや健康の代わりに、大切なものを失ってしまったのだ」

かつてヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞したミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」(1955)の原作もパヴェーゼだが、こちらは、女の人生がテーマのお洒落な映画。男のせいで自殺する女がいれば、男を捨てて仕事を選ぶ女もいる。パヴェーゼは、たぶん、すごいのだ。アントニオーニが映画化すれば、お洒落にかっこいいし、ストローブ=ユイレが映画化すれば、正しくかっこいい。

だけど、正しい映画は、退屈すぎて眠くなる。まじめで正しい妻ユイレがいなくなり、これからは、夫のストローブ一人で、力の抜けた映画をつくってくれるかも。
妻亡きあとの、夫の脱力に期待だ。
2006-12-27