『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』モンテ・ヘルマン(監督)

どこへも行けない路は、どこにでも行ける路。



スタートすれば思いがけない形で走り出し、終わったあとは勝手に成長していく。どんな仕事もそういうものかもしれない。それこそが仕事の醍醐味なのだろう。人生は、自分の意志でコントロールできないロードムービーのようなものだ。

『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』は、映画撮影についての映画、いわゆるメタ映画だ。何をいまさら? でも、これはモンテ・ヘルマンの21年ぶりの監督作、ファン特別大サービス仕様。結果的に、使い古されたこのテーマがここまで斬新な映画として完成してしまったのだから、ひとつのことを徹底的に突きつめるというのはすごいなと思った。

映画を見ながら気づいたことは「映画は、撮っている人がいちばん楽しいんだ」ということ。監督と女優はローマで恋に落ち、撮影が始まれば他のスタッフが苦言を呈するほどの熱愛ぶりだ。キャスティングの過程で「ディカプリオでどうだろう」「スカーレット・ヨハンソンが乗り気だ」なんて皮肉なセリフも出てくるし。だけどロケの現場は幸せなことばかりじゃない。きなくさい人物も紛れ込んでいる。
人生のダークサイドを扱っているのに、楽しげでポップなノリなのは、それが映画だから。美しすぎるローマ・ロケ以外はロサンゼルスの香り満載で、タランティーノの映画を見ている気分だった。タランティーノこそが、モンテ・ヘルマンの追随者であるわけだけど。

映画監督のミッチェルは、映画『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』の製作をスタートする。ある事件を映画化するのだが、実際の事件と撮影中のシーンが入り交じり、さらに撮影現場では日々いろいろなことが起こるから、構造はマニアックで複雑怪奇。フレームの中には最後までカメラがあり、そのカメラで撮られた映像も、映画の中で使われるというわけだ。
「ROAD TO NOWHERE」と呼ばれる路はノースカロライナ州に現存する。その名の通り、どこへも行けない行き止まりのトンネルだ。墓地へ通じる路をつくるはずが途中で頓挫したのだという。映画は、この路のようにどこへも行けないまま終わり、私たちは現実にもどる。


最後に「For Laurie」というメッセージが現れ、この映画が女優のローリー・バードに捧げるものであることがわかる。1970年代の最も重要なカルト映画と評されるモンテ・ヘルマンの『断絶』の主演女優だ。当時この映画は興行的に失敗し、モンテ・ヘルマンと恋に落ちたローリーも、数年後に自殺してしまう。どんな残酷なシーンも所詮、映画の中のできごとなんだという構造を示すことで、モンテ・ヘルマンは自分と彼女を救ったのかもしれない。『断絶』の撮影現場につながる世界を描くことで、彼女を生き返らせたのかもしれない。墓地へ辿り着けない路は、死者を葬らずにすむ路でもあるのだから。
徹底した愛の映画だということは、終わり方をみればわかる。今も監督は孤独な部屋にいる気分なのだろう。だからこの終わりのない、終われないはずの映画は、唯一のカットに、きちんと着地できたのだと思う。

ビクトル・エリセをはじめとする「ぐっとくる映画」のダイレクトな引用はもちろん、個々のカットがいちいち「ぐっとくる映画」の片鱗を匂わせる。それがこの映画そのものであろうが、映画の中の映画であろうが、だんだんどっちでもよくなってくる。結局のところ現実は、完成したこの新しい1本の映画なのだ。
重要人物であるヴェルマの死について、監督はこんなふうに質問に答えている。
「当初、実在のヴェルマの死の場面を見せようと考えていたことは事実だ。しかし、映画はそのシーン抜きでもすでに十分長く、そのシーンを入れることで予算超過することがわかっていたので、そのシーンを捨てることにした。君の言うとおり、この”アクシデント”がミステリアスな雰囲気をさらに高めたはずだ」

映画監督って、自分勝手で楽しそうな仕事だな。でも、興行的に失敗したら大変だろうし、女優と恋に落ちるのもラクじゃなさそう。だから。観客としては、監督よりもっともっと自由な無責任さで、映画を楽しみ尽くしてしまいたいなと思ったりする。
2012-01-17

『ゴモラ』マッテオ・ガッローネ(監督)

悪い仕事で稼ぐのは、悪いこと?



『ゴモラ』は旧約聖書に登場する町。繁栄を極めたが、道徳的退廃により天に滅ぼされた商業都市だ。2008年、カンヌで審査員特別グランプリを受賞した作品だが、日本での公開はようやく今。かえって、いいタイミングだったかもしれない。今や日本のそこかしこが、この映画と同じ匂いを放ち始めていることに、私たちは気付いてしまったのだから。治安のいい国に住んでいてよかったなんて安心してる場合じゃない。

イタリア4大マフィアのひとつといわれる「カモッラ」についての映画だ。監督は「カモッラのメンバーの日常生活すべてを見せたかった」と言う。そこには批判的な視点やメッセージはない。丁寧な描写と事実に基づいた物語があるだけだ。俳優と素人を混在させ、カモッラに支配された町全体をドキュメンタリーのような手法で撮っているのだから、映画がカモッラ批判であれば、当然、町の協力は得られなかっただろう。

ナポリを拠点とするカモッラは、3日に1人、30年で4000人もの命を奪っている暴力・犯罪組織だ。ドラッグ売買や武器の密輸、産業廃棄物の不法処理(汚染地域では発がん率が20%上昇)、不動産投資(ツインタワー再建にも彼らの資金が流入している)で多額の利益を得ているほか、建設、観光、アパレル、銀行など多くの事業に参入しているという。子供から老人まで、周辺住民はすべてカモッラに関わっており、日常シーンと殺戮シーンが同居している。

5つのエピソードがあるが、どの話もテーマは「仕事」である。悪事に手を染めるきっかけはどこにだってあり、就職はその入り口だ。モラルを破るのは簡単で、この町では、モラルに抵触しないで生きることのほうが難しいだろう。組織を裏切れば、命の保障などないのだから。

13才のお洒落な少年トトは、晴れて組織の一員となるが、対立組織との抗争に利用され、親友を欺かなければならなくなる。

大学を卒業したロベルトは、産業廃棄物の不法処理会社に就職する。高収入で安定した管理業務だが、現場の状況や被災者の姿を目の当たりにし、自分はこの仕事に向いていないと社長に切り出す。

仕立屋のパスクワーレは高級オートクチュールの下請けとして働き、搾取されているが、彼の腕を見込んだ中国人の縫製業者が「工場で技術指導をしてくれ」と近づいてくる。業者を訪ねると手料理で歓待されるが、車での移動時は危険なためトランクに押し込まれる。工場では拍手で迎えられ、堂々と実技を教えるパスクワーレ。妻と赤ん坊の待つ家に帰ると「マエストロと呼ばれたよ。スズキの料理が旨かった」と言い、破格の報酬を妻に渡すのである。

ほかに、組織の帳簿係をつとめる中年男の話と、組織に属さずにやんちゃな行動を繰り返す若者2人組の話が展開されるが、この2つのエピソードの顛末は悲惨である。

最も救いがあるのはパスクワーレの話だろう。最終的に彼は危険な目にあい、下請け会社の社長に命を助けられる。給料を上げるから仕事を続けろと言われるが彼は断る。最後のシーンでパスクワーレはトラック運転手をやっており、休憩時間にTVを見ている。小さな画面に、米国の女優スカーレット・ヨハンソンが彼の仕立てたドレスを着た姿が映し出されるのだ。

そのときの彼の表情が秀逸だ。どんな状況であろうと、ものをつくる行為の周辺には、美しい空気が漂う瞬間があるのだ。手に職があり、技術に誇りをもっていれば、必ずそれを正しくお金に換え、生きていけるはずだと信じたい。パスクワーレはトラックで走り去るが、彼はどこへ行くのだろう。

映像はリアル、音楽はポップ、デザインはソリッド。おぞましい効果音が流れる殺戮現場など、現実にはないということだ。エンディングテーマはマッシヴ・アタック。最前線のクリエーションが融合したこの映画に、希望を感じる。
2011-12-01

『サウダーヂ』富田克也(監督)

地方都市は、世界の最前線。



日本の地方都市には、まだ撮られていないもの、描かれていないことがいっぱいあるんだなと思った。東京にいると、いろいろあり過ぎて何だかよくわからないカオスだけど、地方都市はシンプルでナイーブな最前線。一人ひとりの行動が目立ち、それはそのまま隠しようのないドラマなのだ。

舞台は、監督の故郷である甲府。仕事がなくなっても「土方でもやればいいや」と思っていたという、その最後の砦としての土木作業の現場が、リーマンショック後の厳しい現状を映し出す。甲府のラッパーは、世の中への不満をそのまま言葉にのせ、過激な思想へ傾倒する。甲府でコミュニティをつくり生活しているタイ人やブラジル人の状況はさらに深刻だ。

39歳の監督は、映画専業ではなく、トラック運転手をやりながらこの作品を撮ったという。土方を演じたのは、監督の中学時代からの同級生。本物の土方(超かっこいい!)である彼は当初、監督にこう言った。「自分もふくめた現実の状況が余りにもキツすぎて、映画にするのはツライよ」。しかしその後、監督が現場に入り込み、改めて話し合った結果「やっぱりこれは撮らなきゃダメだろう」と口を開いたのも彼だった。監督は、仕事帰りの早朝の高速道路で、現場出勤前の彼と、携帯電話で熱い議論を交わしたそうだ。

ほかにも演技の素人を多数起用。つまりこの映画には、たくさんの本物が登場する。1年のリサーチ期間を経て(この間に撮影された映像は編集されドキュメンタリー映画になっている)寄付金を集め、週末しか時間がとれないため、撮影には2年かかった。かつての賑やかな商店街を再現したシーンは、現実のさびれた商店街で撮影されたが、かつての活気が戻ってきたと感激する人もいたらしい。いいシーンは本当にたくさんあるが、このシーンを見るだけでも価値がある。

お金がないとか、時間がないとか、無名の人しか使えないとか、そういう言い訳は、もう通用しない。やりたいことを、楽しみながらやり切ってしまったように見えるこの映画は、インディペンデントであることを、すべてアドバンテージに変換することに成功したのである。

2時間47分、スクリーンに釘付けにさせ、しかも笑いが尽きない。時間をかけた撮影から生まれたリアルが、リッチに注ぎ込まれているからだ。インディペンデントとは思えない波及の仕方で海外の映画祭にも招待され、共感を呼んでいる。ハンディは長所、ピンチはチャンス、アンチテーゼは自由への扉なのだと思う。
2011-11-02