『ほとりの朔子』 深田晃司 (監督)

原発から逃げない人々。




「ほとりの朔子」は日本のバカンス映画だ。バカンスとは、夏の数週間を何人かの人とともに無計画にだらだら過ごす退屈な日々のこと。小さな非日常を繰り返す中で、無意味に笑ったり、ケンカしたり、誰かを好きになったり、失望したりしながら、最後にはうんざりして終わること。だけど帰り際には、泣きたくなること。疲れ果てて帰った場所は、もとの場所とは違って見えること。

大学受験に失敗した朔子(二階堂ふみ)の中途半端な心情は、プチ逃避としての2週間のバカンスにはうってつけだ。朔子が水に入った足もとに広がるほとりの波紋や健康的な夏のファッションが、所在なさを引き立てる。美しく知的な叔母、海希江(鶴田真由)のモテぶりも光っている。だが、ジャック・ロジェの「オルエットの方へ」のようなフランス的バカンスの抜け感はなく、海辺の町の閉塞感が色濃く感じられた。それは、退屈な町の濃密な色っぽさと言い換えてもいい。


朔子は、学校に通わず叔父の経営するラブホテルを手伝う孝司(太賀)に出会い、やがて彼が福島からの疎開者であることを知る。原発がテーマではないバカンス映画に「登場人物が何人かいたらサッカー好きが1人はいるでしょう」という感じの自然さで、原発の問題が立ち現れるのだ。朔子が孝司に寄せる気持ちは、同情ではなくモラトリアム同士の共感であり、ほのかな恋心にすぎない。これは、福島の問題がここまで日常に溶け込み、背景のひとつになってしまったという現実なのだ。もはや日本のどこで何を撮ったとしても、福島が何らかの形で、どこかに映ってしまうのかもしれない。


フランス的バカンスの抜け感はないものの、この映画の退屈とときめきの同居は新鮮だ。退屈とときめきは相反するものと思っていたし、恋愛はスピード感であるとも思わされていたけれど、実は退屈こそがときめきと近しいのだ。所在なさや逃避モードの波長が合ったとき、たぶん人は恋に落ちる。効率優先のランチ婚活なんかで恋愛が生まれる確率は低いだろう。


映画とともに現実に帰ると都知事選だ。津田大介さんのメルマガ「メディアの現場」は特別号外を連日発行し、多彩なジャンルの識者の原稿を掲載している。順番も毎回工夫されていておもしろい。合コンを盛り上げる幹事さんのようだ。


1 29日の「号外その7」は「脱原発を目指す側の人が宇都宮候補を支持すればいいのか、細川候補を支持すればいいのか、またそれを考えるうえで持っておきたいほかの視点は何かということにフォーカスして」コンパイルされた5本の原稿だった。映画と同様、都知事選に原発が映り込むのは必然だと思うけれど、最後の1本はアップリンク主宰の浅井隆さんの原稿だった。つまり都知事選に映画が映り込んでいた!


脱原発派の浅井さんは、フィンランドのオルキト島にある高レベル放射性廃棄物の最終地下処理場(通称オンカロ=隠し場所)を描いたドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」(マイケル・マドセン監督)を、震災前の2010年に買い付けていた。震災後の42日、東京で緊急公開されたこの映画は、連日多くの人々で溢れ、TV報道もされ、浅井さんは脱原発へと社会が変わる勢いを感じたという。だが、20117月の都知事選は261万票で石原知事が当選、201212月の都知事選では433万票で猪瀬知事が当選という結果になり、自分と考えの違う人に共鳴してもらうのは容易ではないことを思い知ったという。


しかし浅井さんは諦めない。昨年、小泉元首相がこの映画のTV版(55分)を見てオンカロを視察し、脱原発へと考えを改めたことを知り、一人でも多くの人に観てもらおうと、YouTubeでの無料配信に踏み切ったのだ。


「僕は、小泉政権時の郵政民営化、規制緩和など新自由主義といわれる大企業のための政策が格差社会を生み出したことは支持していない。だが、脱原発というシングルイシューで選挙を戦う小泉元首相が推すのが細川護煕候補というのなら、脱原発を実現するために細川候補に都知事になってもらいたい」


自分が買った映画を評価した人の志に1票!というのはとても明快だ。きれいごとでもなく、独善的でもなく、その原点は映画という仕事への愛であり信念なのだ。私もそんなふうに誰かを信頼し、投票してみたいなと思う。


100,000年後の安全」は、安全なレベルに達するまで10万年を要する放射性廃棄物についての映画だ。最終地下処理場であるオンカロは2100年に閉鎖され、半永久的に埋葬されるという。後生の人々が、オンカロを見つけて掘り起こすことだけは避けねばならないが、危険な場所であることを彼らにどうやって伝えるかが虚しく論議される。10万年後の人々は、人ですらないかもしれないのに。

映画は観客を「何らかの理由でオンカロの入り口に来てしまった子孫」に見立て、手紙のように語りかける。10万年後の状況に確信を持とうとすることの無意味さと傲慢さ。退屈もときめきもなく、ばかばかしいほど美しく静謐な映画だ。


2014-1-31

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』 ジム・ジャームッシュ (監督)

世界で最も美しいユニットは、こんな二人。




アダムとイヴはヴァンパイア(吸血鬼)の夫婦。30代のトム・ヒドルストン(187㎝)と50代のティルダ・スウィントン(180㎝)が演じている。光に弱いから明るい時は寝ていて夜にしか活動しないわけだが、それだけでシンパシーを感じる。アダムは古いモノを好む神経質なタイプで、イヴは新しいものを柔軟に取り入れるタイプ。ライフスタイルも身長も年齢差も役割分担も、イマドキな感じなのだ。

彼らはゾンビ(人間)たちの世界で身をひそめ、何世紀も生きてきたが、人間を襲いダイレクトに血を吸う前世紀の野蛮さはない。不死身のヴァンパイアといえども、汚染された血液を飲めば命はないのだから。彼らのデカダンスは、ゾンビたちにはマネできないレベルで洗練されている。早朝から陽の光を浴びて運動し、元気に朝食を食べる現代の高齢者とは対照的だ。

アダムは、名前を世に出さない伝説のカリスマミュージシャン。『彼女は嘘を愛しすぎてる』で佐藤健が演じた天才サウンドクリエイターのアキのように不機嫌でかっこよく、財政破綻でゴーストタウン化したデトロイトに住んでいる。一方イヴは、さっと本をなでるだけで読書できる能力をもち、ビートニクの聖地であるモロッコのタンジールで暮らす。彼らはスカイプで会話し(イヴはiPhone、アダムは古いテレビを使って!)、サングラスをかけてリュミエール航空の深夜のファーストクラスでヨーロッパを経由し、2つの都市を行き来する。

奇跡の歌声に出会うタンジールの街角や、夜のドライブで車窓に流れる廃墟寸前のデトロイトの街並みの美しさといったら。ガソリンまで手に入りにくくなった震災直後の日々、フロントガラスから目に焼き付けた、照度が落とされ閑散とした都内の光景を思い出し、泣けた。私があのとき見た非日常は、美しさでもあったのかと。

恍惚の表情で赤ワイン(上モノの血液)を味わい、レコードを聴き、チェスをし、尽きない昔話や量子力学についての議論をするふたり。ゾンビたちの中心地ロサンゼルスからやってくるイヴの妹(ミア・ワシコウスカ)の無茶ぶりが、彼らの憂鬱を際立たせる。アダムとイヴはヴァンパイアの中でも類い希な高尚さをもつマイノリティであり、汚染された世界のリトマス試験紙のようなものなのだ。血液を手に入れる闇のルートが閉ざされたとき、彼らはどうするか。絶望のはてに全財産を注ぎ込んで買うものは何か。それがラストシーンだ。生命の危機の場面で美学をどう貫くかってことだけど、貫けなければ自死せよと言わないところが圧倒的にステキ。これは優先順位の問題であり、死んでしまってはダメなのだ。

彼らにとって、最後まで守るべきは愛と音楽。私たちもゾンビになる前に、季節外れのベニテングダケが道端に生えてくる前に、ゾンビとは違うやり方で、志を同じくするヴァンパイアを見つけるべきだろう。最後に必要なものは何なのか、誰なのか。

癒しと絆にまみれた接続過剰なゾンビ的監視社会から眺めると、この映画の絶望と毒は果てしなく美しい。ヴァンパイアとは、究極のオトナの不良なのである。つまりジム・ジャームッシュ監督自身。この先何十年も、できれば転生して何世紀も、お洒落で笑える映画を撮ってほしい。それだけで世界の希望です。

2013-12-29

『かぐや姫の物語』 高畑勲(監督)

美女と醜女の人生は、どれだけ違うのか。




「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーにつられて見に行った。え、竹取物語ってそういう話だっけ?と思った。まんまと引っかかったというわけだ。日本最古の物語も、コピー次第で時代にコミットする。

溝口か黒沢かっていう大胆にして繊細な絵づくりを、最前線のジブリアニメが実現してしまった。四季折々の自然をはじめ、日本古来のファッションやカルチャーが、スーパー・カルチャーであるアニメによって世界に発信されるのだと思うと興奮する。制作費50億というのが気になるが、この映画が、かぐや姫を財宝でくどく男たちみたいにならないことを願う。

竹取物語をベースに、かぐや姫の心情を強調したリアルファンタジーに仕立てあげた。あこがれだったはずの地上は理不尽なことに満ちており、傷つくことも悩むこともない天の暮らしのようにはいかない。幼い頃は楽しいけれど、成長するにつれ美貌目当ての面倒な男たちが現れ、自由に行動することもままならなくなる。

これ、人間もだいたい同じだ。悩みのない子供時代に戻りたいと、多くの大人が言っている。
月に戻ったかぐや姫は、幸か不幸か地上の記憶をなくし、でも、なぜかあの「わらべ唄」だけは覚えていて、口ずさむたびに意味もわからないまま涙を流すのだろうというところまでが想像できる。

よく似た映画を見た。越谷オサムの恋愛ファンタジーを『ソラニン』『僕等がいた』で知られる三木孝浩監督が映画化した『陽だまりの彼女』。ヒロインの真緒(上野樹里)は、異なる世界からやってきたかぐや姫といっていい。わらべ唄のかわりに、ビーチボーイズの『素敵じゃないか』が繰り返し流れ、真緒が姿を消したあと、その曲を聴いた浩介(松本潤)は、真緒の記憶をなくしたというのに美しい涙を流すのである。

『かぐや姫の物語』のコピーは「姫の犯した罪と罰」。
『陽だまりの彼女』のコピーは「最初で最後の恋(うそ)だった」。
どちらも、地上で欲望をかなえようとする罪深い女の話なのである。別の世界に帰ることが前提で、別れることがわかっていながら恋をし、地上で生きたいと願う。だけどだんだん、いろんなことを経験し、疲弊し、タイムリミットが迫ってくるというお話。それは子供時代や青春の終わりということで、しとやかな化粧を強要され、エネルギーを奪われていく。

あらゆる出会いにつきまとう別れの運命。それは誰のせいでもなく、世の中はそういうふうにできている。だからせめて、美しい女は、タイムリミットをできるだけ先延ばしにして、罪も罰も恋(うそ)もまるごと引き受けて、できるだけ輝いて、勇敢かつ奔放につまらない男たちを翻弄し、あさっての方向を夢見てほほえむお姫さまであればいい。2つの映画のヒロインのように。

条件は、身軽であることだ。どちらの映画のお姫さまも、かけまわることが許されない地上で、ぎりぎりまでかけまわっていた。ジャングルジムに一瞬でかけのぼる真緒。桜の樹の下でぐるぐるまわるかぐや姫、窓からジャンプして子供を助ける真緒。十二単を脱ぎ捨てて野山をかけぬけるかぐや姫。まさにザ・ファンタジーだった。

鬱陶しい現実から逃避するために、身軽さは必要なのだ。今だって、多くの女がダイエットし、身体を鍛えている。いつでも、どこからでも逃げられるように備えているのだ。
美しくないお姫さまにおいては、どれほどスペシャルな能力をもっていればいいのかと考えさせられる映画でもある。実写(陽だまりの彼女)であれば演じる生身の人間に多様な解釈が成り立つが、アニメ(かぐや姫の物語)は残酷だ。美女は美女に、そうでないものはそうでないものに描かれていることがわかってしまう。つくり手の美意識や好みがわかりやすく現れすぎてしまうことが、エンタテインメントとしてのアニメの限界だ。

『陽だまりの彼女』で唯一、真緒に再会する元同級生役の女だけが、ステレオタイプな悪役の演技をしていた。彼女が真緒に罵声を浴びせるシーンは明らかに浮いていたが、この映画が現実離れしたファンタジーであることをアニメ的な直球で表現したのだろう。ただし、この女を演じたのは、実際には可愛らしい女優(森桃子)である。「ファンタジックな醜女を演じても現実の世界では可愛い」というあたりが、実写の深い力なのだと思った。

2013-12-09

『父の秘密』 マイケル・フランコ(監督)

父親はやっかいだ。




久々に胸のすくような映画をみた。カンヌの「ある視点」部門グランプリに輝き、アカデミー賞外国語映画賞メキシコ代表にも選ばれた『父の秘密』。いろんなものを見過ぎて何も見たくないって時にも、いやそんな時にこそ釘づけになってしまうストイックさ。浄化の力。

数か月前に見た『ジンジャーの朝〜さよなら、わたしが愛した世界』と共通点があった。ロンドンとメキシコシティという違いはあるが、2つの映画はどちらも、高校生の娘と父親をめぐる話なのだ。

高校時代、父親が単身赴任していたことを思い出した。近くて遠い距離。それはステキな解放感だった。私たちは文通していた。手紙上の父親は『ジンジャーの朝』の父親のように自由でかっこいい男であるかのように思えたし、『父の秘密』のアレハンドラの父親のような孤独感が垣間見られることもあった。私はジンジャーやアレハンドラと同様、父親に心配をかけたり面倒なことになったりしないよう細心の注意を払った。離れていたから、手紙にきれいごとばかり書くのは簡単だった。文通は、美しい現実逃避だ。

ジンジャーとアレハンドラは、親世代が眉をひそめる不良行為にも手を染めるが、同世代なら問題なく共感できるレベル。何よりも彼女たちは、苦境に立たされても美しく毅然としている。ただひとつ問題なのは、どちらの父親も娘の近くにいすぎるってこと。仲はいいし頼りにもなるが、はっきりいってしまえば、彼らは諸悪の根源。しかも原因はどちらも「妻の不在」。妻にコントロールされていない男は、何をしでかすかわからないのである。

ジンジャーの父親は、知的でセクシーでナイーブな自由人。しかし妻とはうまくいかず、ジンジャーの親友と関係をもってしまうのだからダメすぎる。父親というものは、男として魅力的すぎないほうがいいのだ。父親のような活動家を目指すことで、なんとかバランスを保っていたジンジャーが追い詰められて爆発するときの演技(byエル・ファニング)は驚異的。やがて彼女は、文章を書くことで世を受け入れ、他人を受け入れ、自分を受け入れる。

一方、アレハンドラの父親は、海辺の高級リゾートでシェフをやっていたが、妻を亡くし、娘と2人でメキシコシティに引っ越してくる。アレハンドラは、傷心の父親を気遣い、自分のことを心配させないように注意しているので、父親は、娘の学校での状況に気付かない。彼女が酔った勢いでボーイフレンドと関係をもったときの動画が学校中にばらまかれたことから、壮絶ないじめが始まったというのに。それは臨海学校でピークに達し、アレハンドラは海で行方不明になる。すべてを知った父親は、ある行動に出る。妻の死以来、どこか上の空だった彼が、突然生気を吹き返すのだ。それはそうだろう。妻だけでなく娘まで失うなんて、正気でいられるわけがない。

動画をばらまかれた上に、繰り返し辱めを受ける娘。それを知った父親がとる、とんでもない行動。救いなんてないし、なんて悲惨なの? でもこれは「悲惨な物語」ではないのだ。娘もボーイフレンドも父親も死ぬかもしれないが、死なないかもしれない。最悪のシーンを描いたわけじゃない。淡々と固定カメラの長回しで映し出される状況は、各自の真意を説明しない。誰がどういう意図で動画をばらまいたのか。ボーイフレンドは彼女をどう思っていたのか。父親は娘が海でどうなったと思ったのか。映画に必要なのはハッピーエンドではなく、可能性を想像させることではないだろうか。事実とは、簡単に説明できるものでも、万人が等しく共有できるものでもないのだから。

説明よりも大事なこと。たとえばアレハンドラ(by テッサ・イア)の態度。いじめられる側が、こんなに普通にちゃんとしている映画があっただろうか。何が起こっても、品格を保って生きればいい。怖れることはない。壮絶なシーンですらそう思える。「どうしてこの映画が、そんなふうに見えるのか」を考えることには意味があるだろう。現実逃避の場があることは重要だ。ジンジャーにとっては詩や手紙だったが、アレハンドラにとっては海。近所のプールで泳いだり、それでもダメなときは生まれ育った海へ逃避行する力のある彼女は、大丈夫だって思えた。

2本の映画の後味はずいぶん違うが、父親のダメさは共通している。やさしくて柔軟な父親は壊滅的に女にだらしないし、猪突猛進型の父親は壊滅的な復讐をする。早い話が、浮気男とストーカー男。2人とも娘への配慮はない。離れて暮らすべきですね。

2013-11-15

『熱波』 ミゲル・ゴメス(監督)

人生は、2部構成の美しい熱。




ポルトガルの俊英、と注目されているミゲル・ゴメス監督のデビュー作『自分に見合った顔』(2004)を見た。日本初公開だって。それはそうだろう。極彩色のミュージカル版パーマネント・バケーションにヨス・ステリングのイリュージョニストをまぶしたような悪趣味なはじけ方に、ショックで熱が出そうになった。

第1部「学芸会」は、子供たちが演じる白雪姫をベースに、ウクレレでハイホーを演奏し毒リンゴを食べて倒れるカウボーイ姿の主人公を描く。30才の誕生日、彼が鏡に映った自分の顔をのぞきこむシーンから第2部の「はしか」が始まる。そこからは、彼のために集まった7人の男たちが営む変態チックな共同生活が延々と続くが、要するに<はしかにかかった30才の男(白雪姫)が、7人の男に自分の顔を投影する物語>ってこと? 7人の1人、テキサスという男の<目隠しされた顔>が、その象徴だ。

ゴダールの失敗作を見ているみたい。これ以上の悪夢があるだろうか。っていうか、なぜこれが立ち見なわけ? 目隠しされた男のせい? 2部構成のおかげ? 第1部がミュージカル風のリアル寓話で、第2部が妄想。その切れ目のなさは確かに心地いい。主人公は鏡をのぞき、妄想の世界に入っていく。人生を2ステップで理解すれば、何でもできるのではないかと思った。なだらかな踏み台があれば、どんなディープな世界にもそのまま飛び込んでいけるかもしれないなと。

数日後に見た新作の『熱波』(2012)も2部構成。こちらは<昔の愛人の葬儀に呼ばれた老人が、若き日のアフリカでの情事を回想する物語>だ。原題は『TABU』で、ムルナウの同名の2部構成映画へのトリビュートであることがわかる。デビュー作との最大の違いは、全編モノクロであること。第1部「失われた楽園」(現代のリスボン)から第2部「楽園」(1960年代のポルトガル領モザンビーク)への入り方がスムーズだ。デビュー作では「はしか」で寝込んでいた妄想時間が、新作では「楽園」の回想時間になったというわけだ。

老人ホームに入居しているベントゥーラを、昔の愛人アウロラの葬儀にクルマで連れ出したのは、ピラールという初老の女性。彼女が第1部の主人公であり、笑わない演技が光る女優、テレーザ・マドルーガが演じている。ピラールはアウロラの葬儀の後、ベントゥーラをお茶に誘い、結果としてアフリカ時代の話を引き出すのだが、なぜ彼女にそんなことができたのか。あまり楽しそうには見えない日々の中でも、ピラールは他人のために祈り、淡々と鋭敏に生きている。隣家に住むアウロラとアフリカ系のメイドから頼られ、社会活動に参加し、映画館へ通い、男友達に口説かれる。男友達から贈られた絵は礼儀として居間に飾り、隣家のメイドの誕生日には手作りのケーキとシャンパンを届け、ホームステイをドタキャンし彼氏とリスボンで過ごす学生にすら英語で語りかけおみやげを渡す。そんなピラールが、アウロラの禁断の秘密を受け取る役に選ばれたのは、自然の流れといえるだろう。

第2部はベントゥーラが語る楽園の日々。ロネッツの「Be My Baby」のポップな旋律がいざなう1960年代の記憶だ。リスボンの冬の数日間の重さとは対照的に、12月も1月も2月も3月も変わらぬ暑さで思考を剥奪するモザンビークの歳月がサイレント映画のように流れていく。

若き日のベントゥーラはジェノヴァを追われ、友人とともにアフリカに流れついた遊び人。投げやりな人生でありながら、アウロラのことだけは最後まで守りきる。その辺の遊び人の不倫とは格が違ういい話なのだ。演じているのはポルトガルが世界に誇るイケメン俳優、カルロト・コッタ。『自分に見合った顔』では目隠しされたテキサスを演じていた。

キャスティングと音楽、テーマモチーフであるワニが『熱波』の鍵。あとは、ボルトガルの歴史と、笑えない笑いの要素。『自分に見合った顔』では、大人になりきれない主人公が、30才の誕生日にガールフレンドから巨大なワニのぬいぐるみをプレゼントされていたっけ。

ショックで熱が出そうになったデビュー作も、『熱波』のおかげで美しい記憶になりつつある。この監督の登場で、もう、大昔の映画のほうが今の映画より断然いいなんて思わなくてすむかな。いつの時代も、その時代のクリエイターが、その時代を生きる人のために、過去を新しい形で継承していく。

2013-08-03

『三姉妹 雲南の子』 ワン・ビン(監督)

ドラマは、撮影対象の中にある。




さまざまな映画祭で大賞やグランプリをとり、国際的に高い評価を得ているワン・ビン監督。特集上映でドキュメンタリー作品3本を見た。中国からすごい人が現れたなと思う。

さびれた工場地帯を結ぶ鉄道と、その周辺に生きる人々を撮った「鉄路」(2003)は、9時間に及ぶ3部作「鉄西区」のPart3。きれいな暮らしではないが、食事時には湯気が満ちるアジアの原風景から目が離せない。監督は撮影対象の環境を尊重し、話しかけたり空気を乱したり都合よく切り取ったりしない。適切な距離を保ち、息を潜めるように撮ることで、撮られる側にも見る側にも安心感が生まれ、自由に解釈できる特別な世界が生まれるようだ。父親の拘留にショックを受けた息子が、長い沈黙の後、写真の束を取り出し訥々と話し始める時に、「ちょっといいですか?」とそれを奪い取って11枚別カットで撮り直したりしないのである。ナイーブさの塊であるような息子が大切にしているものは何なのかが、そのままの形で伝わってくる。

「鳳鳴(フォンミン)中国の記憶」(2007)は、元新聞記者の74歳の女性が自宅で半生を語る約3時間の作品。彼女の体験のひとつひとつが、空や星の輝きまで伴って見えるよう。監督が控えめに声をかけるのは、暗くなり過ぎた部屋に電気をつけてもらう時のみ。ドラマチックに盛り上げる演出は必要ない。ドラマは彼女の中にあるからだ。家路を行く彼女の後ろ姿から始まり、執筆する後ろ姿で終わる構成も冴えている。

「三姉妹〜雲南の子」(2012)は、雲南省の高地の村で撮影された約2時間半の作品。ジャガイモを育て、わずかな家畜とともに人々が暮らす、中国で最も貧しい地域のひとつだ。
10才、6才、4才の三姉妹の母親は家を出て行き、出稼ぎ中の父親も、たまにしか帰らない。妹たちの面倒をみる長女は、学校に通うのも難しいが、ここに映っているのは圧倒的な貧しさだろうか。そうは思えない。貧しさとは比較であり、監督は豊かさと比べて同情するためでなく、理解するために三姉妹を撮っているからだ。父親と次女、三女がバスで町へ行くシーンで、初めて村の人以外のスタイルや持ち物が映り、現代の映画であることを思い出す。「鉄路」では、鉄道が道路を横切るとき、町の人々やクルマが映っていた。だけど、カメラはそっちを追わない。何かを撮ることは、何かを撮らないことであるという事実を刻み込むのみだ。

ワン・ビン監督の映画に登場する女性は、困難な状況においても別の星に住んでいるような強さを携えている。たとえば「三姉妹」の長女は、10才にして周囲への甘えや期待が希薄に見え、湿った家の中よりも、高地の開かれた風景が似合う。下界を眺める切れ長の視線とありあわせの服のリアリティは、どんなファッション写真もかなわない。父親にも次女にも三女にも似ていない彼女は、家を出た母親のDNA を受け継いでいるに違いない。

長女は男友達に「あんたの家に遊びにいっていい?」と聞く。「なんで?」とそっけない反応をする彼は、彼女と似た境遇にあり、女性に何かを与えようという余裕は感じられない。生きることに必死である父親と祖父だって似たようなもの。彼女はそろそろ村を出るべきなのだろう。チャンスが早く訪れることを願うばかりだ。

長女はぼろぼろの靴を脱ぎ、火で乾かしながら、病的な足のふやけ度を自分と比べたがる次女に言う。「そんなことを競っても、意味ないよ」。本当にそうだと思う。競うべきは足の速さや美しさであり、知識の豊かさだ。彼女は、これからの人生で直面することになる、さらに過酷な世界を予感しており、そこに踏み込んでいく覚悟を決めているのだろう。

2013-07-02