『アクト・オブ・キリング』 ジョシュア・オッペンハイマー (監督)

映画をつくることは、驚くこと。




ブッシュ前大統領が描いた絵の展覧会がダラスで開かれている。引退後、動物などを描いていたが、地元の画家で大学教授のロジャー・ウィンターに「細部をとらえる力がある。世界の指導者たちを描いてみては?」とすすめられたという。こうして小泉元首相、プーチン大統領、メルケル首相など、彼が関わった人物の肖像画が生まれたのだから、アドバイザーの存在ってすごい。次の展覧会向けには「あなたが関わった世界の殺戮シーンを描いてみては?」とアドバイスしてみてはどうだろう。

『アクト・オブ・キリング(殺人の演技)』は、1965年インドネシアで起きた「残忍なクーデター」に報復する形でおこなわれた「大虐殺」にまつわるドキュメンタリー映画だ。スハルト将軍のもと、100万人希望の市民が「残忍な共産主義者」とみなされ虐殺された。

監督は1974年生まれのアメリカ人だが、インドネシア人の共同監督や協力者たちは、今も命の危険があり匿名だ。監督のモチベーションのひとつは、アメリカがインドネシア軍に死のリストを渡し、武器や資金援助をおこなっていたという事実。インドネシアで幼少時代を過ごしたオバマ大統領は地元のヒーローであり、あるシーンでさりげなく登場する。

監督は当初、虐殺の生存者を撮影していたため軍に阻止された。続行できたのは「加害者を撮影してください。きっと自慢げに語るはずですから」という生存者のアドバイスのおかげだ。国民的英雄である加害者たちは、例外なくオープンに殺人を語り、その行為を再現したがったという。監督は彼らに虐殺の再現映画を撮ってもらうことに決め、加害者たちは自分たちを若くかっこよく面白く見せるためのスタイリスト役はもちろん、被害者役まで積極的にこなし、出演した国営テレビでは映画づくりを得意げに語る。彼らにとって、映画は世界的に有名になるチャンスなのだ。

主役のアンワル・コンゴ(72才)は、監督が出会った41番目の加害者だった。20代のころ映画館でダフ屋をやっていた彼は、軍の要請で1000人近くを殺害。大好きなアメリカ映画の憧れのスターを気取り、独自の効率的な方法で殺ったのだと思い出を語る口調は、50年近くが経過した今も屈託がない。その発言の奇異さをどう解釈したらいいのだろう。自分をとりまく状況や価値観や法律が変われば、人はいつだって殺人を犯す可能性があり、その行為を賞賛されれば罪の意識は永遠に生まれないということだ。

この映画の真骨頂は、史実を伝えたことではなく、映画づくりの熱狂をとらえたことだと思う。命がけの撮影は、そこに関わる人を思いがけない地点に連れていく。残虐さこそがコンセプトなのに残虐すぎるという声があがったり、行為とは裏腹の身体反応があらわれたり、カットのタイミングが遅ければ拷問が果てしなくエスカレートしたり。「これは我々の脅威をPRする映像としてとっておいて、映画は撮り直そう」なんてクライアントが広告代理店に言うようなセリフも出てくる。

「できあがった結果に何らかの意味で自分でも驚くことがなければ、映画を作る意味なんてないと思うね。そうでなければ、結果がどうなるか最初からよく分かっていることのために1年も費やすことになる」とフレデリック・ワイズマンも言っている。

アンワルは、完成した映像の一部を幼い孫たちに見せようとする。「残虐すぎるのでは?」という監督のアドバイスにも「たかが映画だ」と、寝ている孫を起こすのだ。自分が被害者役で拷問され、ただならぬ恐怖を感じた場面を「じいちゃん、かわいそうだろ」という感じで。彼は俳優として体験した予想外の感覚を説明できずに、もて余していたのだろう。「被害者の気持ちがわかった」と言うアンワルに「被害者の恐怖はそんなものではなかったのでは?」と監督は冷静に切り返す。

天国をイメージした極彩色の女性たちの踊りやコントみたいな茶番劇のシーンは、虐殺を正当化し癒しを与えるプロパガンダ映像として、アンワルもことのほか気に入ったようだ。そのいかがわしさ、それっぽさに最初は辟易した私も、最後には、ほっとして笑いながら見ていた。だって残虐なシーンよりは、はるかにましだから。このように人は簡単に洗脳されるのかもしれない。残虐なシーンより怖いことだ。

世界で60以上の賞を受賞し、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた。インドネシアではネット上で無料公開され350万回以上ダウンロードされた。

2014-4-29

『チャパクア』 コンラッド・ルークス(監督) ロバート・フランク(撮影)

好きな世界と、思いのままに直結する。




洋服や靴の写真を撮るだけで、ブランドがわかるスマホ用アプリがある。デート相手の靴を撮影すれば、ジョンロブ20万円とか、H&M2990円とか、瞬時に表示されるのだろうか。

周囲に流れている音楽が何かを教えてくれるShazamというアプリは私も使っている。空気を測定するような感覚で精度も高く、その曲が入ったジャケットデザインが綺麗にストックされる。音は商品なんだ、と改めて思ったりする。そうやって、あらゆる言葉やイメージが検索できるようになって、検索できないモノやヒトの価値は高まるばかりなのかもしれない。少なくとも、検索をしなくていい時間の価値は高まっている。

映画館が価値ある場所なのは、携帯電話の使用を、画面を光らせることも含めて禁じているからだ。音楽のライブではマナーモードにするだけだし、ふだん私が携帯を完全オフにするのは映画を見るときだけ。映画を見るのは、携帯をオフにするためかもしれないな。オーディトリウム渋谷の「ビートニク映画祭」は、そんな現実逃避感をいっそう加速させるものだった。

ビートとは、1950年代〜60年代半ばのアメリカ文学界を中心に、常識や道徳に反抗した「打ちのめされた世代」。ビートニクのニクには、1957年ソ連が打ち上げてアメリカに衝撃を与えた世界初の人工衛星「スプートニク」に由来する、卑下のニュアンスがあるらしい。

上映された7本の映画のうち、特筆すべきはロバート・フランクが撮影したコンラッド・ルークスのデビュー作「チャパクア」(1966)だ。コンラッド・ルークスの2作めにして今のところ最後の作品である「シッダールタ」(1787)もよかったし、ロバート・フランクが監督した「キャンディ・マウンテン」(1987)の素晴らしさは言うまでもない。

20代前半のボブ・ディランが浅井健一のように見えてしまう「ドント・ルック・バック」(1967)や、47歳で亡くなったジャック・ケルアックってこんなにヤバイ男だったのかと驚愕する「ジャック・ケルアック  キング・オブ・ザ・ビート」(1985)は言葉からのアプローチが面白く、ビートとはナイーブで饒舌なイケメンのことだったのねと膝を打つ。ケルアックは映画の中で「ビートとは何?」と聞かれて「Sympathetic(共鳴すること)」とめちゃくちゃかっこよく答えていたし、ケルアックの死を伝えるニュース映像では「ビートは、ボヘミアンとヒッピーをつないだ」とあっさり説明していたけれど。

ケルアックはインタビュー番組のスタジオで、7年間の旅をタイプライターのロール紙に3週間で書き上げたという自作「On the road(路上)」のエピローグを、緩急をつけて詩のように朗読していた。以下は朗読の最終部分。

"Nobody knows what's going to happen to anybody besides the forlorn rags of growing old, I think of Dean Moriarty,  I even think of Old Dean Moriarty the father we never found. I think of Dean Moriarty.  I think of Dean Moriarty."
(誰に何が起こるかなんて、誰にもわからない。見捨てられたボロのように老いていくこと以外は。僕は友人のディーン・モリアーティのことを考える。そして、僕らが見つけることができなかった、もう一人のディーン・モリアーティである父親のことも。僕はディーン・モリアーティのことを考える。ディーン・モリアーティ、のことを。)

最後の文はアドリブで繰り返し、感動的にしめくくった。もはや俳優レベル。映画は終わり、場内にはすすり泣きが広がったので、再び驚いた!

本題は「チャパクア」だ。コンラッド・ルークスの自伝でドラッグ映画の金字塔。薬物中毒の男(監督)がフランスのサナトリウムに収容されるが、催眠療法の過程で幻覚をみる。希有な体験を自ら演じ、実験的に記録したものなのだ。ストーリーの大枠以外は、錯乱したイメージを衝動的につなげた無茶苦茶な映画だけど、ロバート・フランクのカメラは、どの瞬間を切り取っても言葉を失うかっこよさ。音楽や女優にも心をつかまれる。

この自由奔放さは何だろう。コンラッド・ルークスは某有名化粧品会社の御曹司らしいから、交友関係を生かしたセレブなキャスティングが可能で、制作費の心配もなかったのだろう。終盤、自分を見るもうひとりの自分の視点が出現するが、CGなしのダイナミックな動線には度肝をぬかれる。アンダーグラウンドな匂いを発しながらメジャーな完成度を備え、ヴェネチア映画祭では銀獅子賞を受賞した。

アメリカと西洋と東洋、多様な世界とダイレクトにつながるこの映画は、緩衝剤を排除した、光と音の直接言語。わかりやすさを拒む一方、これほど無意識に体に響く、刺激的なわかりやすさはない。ふだん目にするものの多くが、漠然と私たちを疲弊させる理由がわかる。かっこ悪いから、まわりくどいから、ピュアじゃないから、疲れるんだ。

上映作品のひとつ、ピーター・ホワイトヘッドの「スウィンギング・ロンドン1」(1967)では、20代前半のミック・ジャガーが「他人に求められることをやりたくない」というようなことを言っていた。自分が求めることをやり、嫌われても認められたら最高だ、と。

2014-4-2

『家族の灯り』 マノエル・ド・オリヴェイラ (監督)

男のウソがとりあえず輝くとき。




贅沢にしてシンプル、この上なく洗練された映画ばかり撮り続けている105歳のマノエル・ド・オリヴェイラ監督は、なぜ貧困についての映画を撮らないのかと問われ、ポルトガルの作家による戯曲「ジェボと影」を思い出し、映画化を決めたという。「家族の灯り」という日本語タイトルのコンサバ度合いとは真逆の、アグレッシブな作品である。

印象的な港のシーンから始まるが、ほとんどの舞台はテーブルのある部屋とそこから見える路地のみ。バロック絵画のような計算された絵づくりと、そこで繰り広げられるシーンの緻密さから目が離せない。8年前に失踪した息子ジョアンの帰りを待つ会計士の父ジェボ、母ドロテイア、息子の妻ソフィア。父と息子の妻はジョアンが泥棒であることを知っているが、息子を溺愛する母には隠している。母は、息子の消息について曖昧なことしか言わない父にうんざりし、息子の妻にも、あんたのせいで息子はとつらく当たる。息子を愛しているのは自分だけという思いを深めていくのだ。

ジョアンは笑っちゃうほど唐突に帰ってきて、そんな家族をかき乱す。父と母が友人を招きコーヒーを飲みながら繰り返すおしゃべりに呆れ、挑発するのである。「父さんのような人間は、生まれた時から負け犬だ」「あんたらは全員、生き埋めにされた状態にいるんだ」と貧しさへの諦念をなじり「魂をもった犯罪者もいれば、もたない善人もいる」と志ある悪の世界を肯定する。ジョアンを演じているのはオリヴェイラ監督の孫。これは監督から孫への、負け犬になるなよというメッセージであるにちがいない。

何にせよ、撮影監督レナート・ベルタがとらえる貧困生活の陰影は美しすぎる。母を演じたイタリアの大女優クラウディア・カルディナーレや、母の友人を演じたフランスの大女優ジャンヌ・モローらが繰り広げるおしゃべりなんて、華やかさ以外の何物でもないわけだし!とはいえ一見優雅な老人たちの停滞が、過去の遺産にすがるしかないヨーロッパの成熟という病の正体であることも確かだろう。オリヴェイラ監督は、そのことを孫世代に鋭く糾弾させるのだ。ジョアンは父が取引先から預かっていた金を盗み、再び逃亡する。一緒に逃げようと妻を誘うが拒否される。妻はジョアンではなく、ジョアンの父を選ぶのである。ジョアンに追いつけないとわかり、引き返す時の彼女の表情は見逃せない。

ジョアンが金を盗んだことは、またもや母だけが知らないことになっているが、母親というものは、息子の犯罪を知ったとしても否定してかばうもの。彼女は気付かないふりをしているだけだろう。要するにジョアンは家族の期待の星。彼が金を持って逃げたことは、何も持たないで逃げるよりもましかもしれない。彼らは悪党に、社会と闘う資金を提供したようなものだ。こんな息子、こんな夫を心の中にもつスリルの共有は、貧しく単調な日々における生き甲斐でもあろう。不安を抱きつつ、彼の革命に期待しているのだ。

盗まれた金はどうするか? 取引先は裕福だから許してもらえるのではとジョアンの妻は言うが、父は否定する。誠実に生きてきたふりをしてきたが、同情で雇われている屈辱的な人生だったことを息子の妻に打ち明けるのだ。男がここまで弱みを見せるのは愛の告白と同じ。ふたりの共犯関係は妖しすぎるけれど、情けなかった父はなんだか急に生き生きしてきて、オレに全部任せろなんて言い始めるではないか。

警察がやってきて、暗かった部屋にさっと光がさす。自分が盗んだと嘘をつくことで、父の立ち位置は、光に満ちた場所になるのである。

だがその姿はどこか滑稽で、カラヴァッジョの絵みたいなリアリズム的ストップモーションで映画は終わる。何も知らないことになっている母の驚きの顔。それは自分のために事実を隠し通し、息子の罪をかぶった夫への、はじめての称賛のまなざしかもしれない。

2014-2-24

『ほとりの朔子』 深田晃司 (監督)

原発から逃げない人々。




「ほとりの朔子」は日本のバカンス映画だ。バカンスとは、夏の数週間を何人かの人とともに無計画にだらだら過ごす退屈な日々のこと。小さな非日常を繰り返す中で、無意味に笑ったり、ケンカしたり、誰かを好きになったり、失望したりしながら、最後にはうんざりして終わること。だけど帰り際には、泣きたくなること。疲れ果てて帰った場所は、もとの場所とは違って見えること。

大学受験に失敗した朔子(二階堂ふみ)の中途半端な心情は、プチ逃避としての2週間のバカンスにはうってつけだ。朔子が水に入った足もとに広がるほとりの波紋や健康的な夏のファッションが、所在なさを引き立てる。美しく知的な叔母、海希江(鶴田真由)のモテぶりも光っている。だが、ジャック・ロジェの「オルエットの方へ」のようなフランス的バカンスの抜け感はなく、海辺の町の閉塞感が色濃く感じられた。それは、退屈な町の濃密な色っぽさと言い換えてもいい。


朔子は、学校に通わず叔父の経営するラブホテルを手伝う孝司(太賀)に出会い、やがて彼が福島からの疎開者であることを知る。原発がテーマではないバカンス映画に「登場人物が何人かいたらサッカー好きが1人はいるでしょう」という感じの自然さで、原発の問題が立ち現れるのだ。朔子が孝司に寄せる気持ちは、同情ではなくモラトリアム同士の共感であり、ほのかな恋心にすぎない。これは、福島の問題がここまで日常に溶け込み、背景のひとつになってしまったという現実なのだ。もはや日本のどこで何を撮ったとしても、福島が何らかの形で、どこかに映ってしまうのかもしれない。


フランス的バカンスの抜け感はないものの、この映画の退屈とときめきの同居は新鮮だ。退屈とときめきは相反するものと思っていたし、恋愛はスピード感であるとも思わされていたけれど、実は退屈こそがときめきと近しいのだ。所在なさや逃避モードの波長が合ったとき、たぶん人は恋に落ちる。効率優先のランチ婚活なんかで恋愛が生まれる確率は低いだろう。


映画とともに現実に帰ると都知事選だ。津田大介さんのメルマガ「メディアの現場」は特別号外を連日発行し、多彩なジャンルの識者の原稿を掲載している。順番も毎回工夫されていておもしろい。合コンを盛り上げる幹事さんのようだ。


1 29日の「号外その7」は「脱原発を目指す側の人が宇都宮候補を支持すればいいのか、細川候補を支持すればいいのか、またそれを考えるうえで持っておきたいほかの視点は何かということにフォーカスして」コンパイルされた5本の原稿だった。映画と同様、都知事選に原発が映り込むのは必然だと思うけれど、最後の1本はアップリンク主宰の浅井隆さんの原稿だった。つまり都知事選に映画が映り込んでいた!


脱原発派の浅井さんは、フィンランドのオルキト島にある高レベル放射性廃棄物の最終地下処理場(通称オンカロ=隠し場所)を描いたドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」(マイケル・マドセン監督)を、震災前の2010年に買い付けていた。震災後の42日、東京で緊急公開されたこの映画は、連日多くの人々で溢れ、TV報道もされ、浅井さんは脱原発へと社会が変わる勢いを感じたという。だが、20117月の都知事選は261万票で石原知事が当選、201212月の都知事選では433万票で猪瀬知事が当選という結果になり、自分と考えの違う人に共鳴してもらうのは容易ではないことを思い知ったという。


しかし浅井さんは諦めない。昨年、小泉元首相がこの映画のTV版(55分)を見てオンカロを視察し、脱原発へと考えを改めたことを知り、一人でも多くの人に観てもらおうと、YouTubeでの無料配信に踏み切ったのだ。


「僕は、小泉政権時の郵政民営化、規制緩和など新自由主義といわれる大企業のための政策が格差社会を生み出したことは支持していない。だが、脱原発というシングルイシューで選挙を戦う小泉元首相が推すのが細川護煕候補というのなら、脱原発を実現するために細川候補に都知事になってもらいたい」


自分が買った映画を評価した人の志に1票!というのはとても明快だ。きれいごとでもなく、独善的でもなく、その原点は映画という仕事への愛であり信念なのだ。私もそんなふうに誰かを信頼し、投票してみたいなと思う。


100,000年後の安全」は、安全なレベルに達するまで10万年を要する放射性廃棄物についての映画だ。最終地下処理場であるオンカロは2100年に閉鎖され、半永久的に埋葬されるという。後生の人々が、オンカロを見つけて掘り起こすことだけは避けねばならないが、危険な場所であることを彼らにどうやって伝えるかが虚しく論議される。10万年後の人々は、人ですらないかもしれないのに。

映画は観客を「何らかの理由でオンカロの入り口に来てしまった子孫」に見立て、手紙のように語りかける。10万年後の状況に確信を持とうとすることの無意味さと傲慢さ。退屈もときめきもなく、ばかばかしいほど美しく静謐な映画だ。


2014-1-31