『神さまのいる書店 まほろばの夏』 三萩せんや

この夏、つれていってほしい場所。




不器用で本が大好きな高校2年生ヨミは、夏休みも図書室に通おうと思っていたが、司書教諭のノリコ先生に「本へ、恩返ししてこない?」と言われる。夏の間のバイト先として「まほろ本」を扱う秘密の書店を紹介されるのだ。まほろ本とは、生き物の魂が宿った本。通常なら肉体に宿るはずの魂が本に宿ってしまったため、あるべき肉体の姿がホログラフィのように本にくっついている。子犬の魂が宿った本には子犬の姿が、イケメンの魂が宿った本にはイケメンの姿がセットになっている。まほろ本についた生き物は自在に動き、コミュニケーションできるが、ひどく破損すると死んでしまう。

つまりこれは、本のわかりやすい擬人化。ヨミは、まほろ本のサクヤに惹かれていく。無遠慮に毒舌を吐くサクヤと次第に心を通わせるプロセスは、ラブコメの王道だ。
「ただの好奇心かもしれない。彼が、世にも珍しいまほろ本の中の人だから。けれど彼のことが知りたい。その気持ちは、本物だ。彼の話が、聞きたい」
サクヤは、人間の姿をしているけれど触れることはできない。ヨミはやがて、そんな彼の本当の思いを知ることになる。

てらいのない文章。とぼけた味の会話。なつかしい夏の匂い。背後に巣くう寂しさ。この小説の、地に足のついた現実感は一体なんだろう。そして「心を手放しで人に晒すのは怖いことだ」という言葉。ありえないファンタジックな物語に、気づけばのめりこんでいた。

ダ・ヴィンチ「第2回  本の物語大賞」の受賞作だ(KADOKAWAより7月31日単行本発売)。著者自身が、本に対して恩返しをしたかったのだという。だから、本に命を吹き込む物語を書いた。その愛情の確かさは、ファンタジーなんかじゃない。

「その設定が浮かんできたのは、勤めている大学の図書館で、本の修復作業を教えてくれた上司が、本に対して『この子』って言い方をしているところからでした。『この子、ぼろぼろになって帰ってきたね』とか『この子、入院しないとね』とか、まるで人や動物のように本と向き合うその姿から、この物語の原型が生まれてきました」(『ダ・ヴィンチ』9月号著者インタビューより)

読後感はすーっと軽くて、あとから心地よい重さがついてくる。まるで本に魂が宿るみたいに。「まほろば屋書店」が忘れられなくて、最後の1行に泣きたくなる。ものの見方が変わると世界が変わるというシンプルなメッセージに心を打たれた。


2015-7-31

『LIVE SUPERNOVA 野音DX』 J-WAVE TOKYO REAL-EYES (プロデュース)

千代田区日比谷公園1-5




201567日、J-WAVEの番組「TOKYO REAL-EYES」がプロデュースする102回目のライヴ・イベントがおこなわれた。会場は、198484日の反核コンサートで10代の尾崎豊が7mの照明台から飛び降りて骨折するなど、数々の伝説をもつロックの殿堂、日比谷野外音楽堂。

軽装備で足を運べるアクセスの良さがうれしい。お天気がよく、風が肌に心地よい。飛ぶように売れていくビールが喉に心地よい。藤田琢己のMCが耳に心地よい。梅雨入りの前日、官庁街の森で楽しむ野外フェスは、お台場の海で楽しむスタンドアップパドル・サーフィンのようなもの? それとも、大手町の摩天楼で楽しむアマンスパのようなもの? 

出演バンドは「LEGO BIG MORL」「WHITE ASH」「SHERBETS」「The Birthday」。

LEGO BIG MORLの新曲『Strike a Bell』は、体を直撃する重低音と、大気に溶けてゆくディレイの効いた高温のミックスが完璧すぎてやばい。これほどストレスのない環境でこれほど耳あたりのいい音を聴いていたら思考が停止してしまう。

WHITE ASHのボーカル&ギター、のび太は、野音初ライブであることをアピール。あまりにフレッシュなパフォーマンスは、イギリスのインディーズバンドみたいに見えた。瞬間、私はイングランドのグラストンベリー・フェスの会場にいた。

SHERBETSの『グレープジュース』の辺りから陽が落ち、いわゆるマジックアワーに突入。こんなにも不条理な世界に音楽が調和している奇跡。デストピアのダークファンタジーが炸裂し『Touch Your Shoulder(君の肩にふれて)』で即死。

夜はThe Birthdayがさらった。チバユウスケは、ミスしても空を指差し「さっき飛行機飛んでたよ。見てたら間違えちゃった」と余裕。「まだ、やってもいいんだってさ」とアンコールを2曲。『くそったれの世界』に『涙がこぼれそう』。

10年もライヴ・イベントをやっていると、こんなご褒美みたいな夜がある」
「ここから見える景色、絶景です。1人でも欠けていたらこの風景はなかった」

藤田琢己はそんなふうに言っていた。きれいごとみたいな言葉を、きれいごとではなく、観客に響かせてしまった。

2015-6-9

『Mommy』 グザヴィエ・ドラン (監督)

美しい中二病。



今、事務所でバイトしてくれている19歳の大学生Y子は、グザヴィエ・ドランの映画が好きだという。うれしい。
6年前、グザヴィエ・ドランは、自ら監督・脚本・主演したデビュー作「マイ・マザー」(原題:I killed my mother)を19歳で完成させたが、脚本を書いたのは17歳、大学中退直後だったという。すごい。
30数年前、大学を休学し、映画の現場で働いていた諏訪敦彦監督は、もはや大学で学ぶことなどないと思っていたが、初めて自分の映画を作ってみたところ、クリエイションにおける未知の跳躍を可能にするのは経験ではなく自由の探求であることに気付き、大学に戻ったという。おもしろい。
35年前、ジム・ジャームッシュが撮ったデビュー作「パーマネント・バケーション」は、ニューヨーク大学大学院映画学科の卒業制作だったという。かっこいい。
今、大学の映画学科に在籍しているXY子の同級生だが、往復4時間かかる通学時に、パソコンで映画を2本ずつ見ているという。うらやましい。

グザヴィエ・ドランは、映画と本に没頭した高校時代を経て、大学(ケベック州の大学基礎教養機関CEGEP)に入ったが、すべての文には主語と動詞があると主張する教師と議論になり、2か月で中退したのだった。「ぼくは彼女に言ったんだ。『先生、もしも偉大な作家がその種の規則を守っていたら、文学は存在しなかっただろうし、それを教えるあなたの仕事もなかっただろうね』と」(W magazine インタビューより)

彼の映画は、一瞬一瞬が月並みじゃない。諏訪監督がいうところの未知の跳躍? でも、扱っているテーマはごく普遍的だ。若くしてなぜ、世の中の成り立ちをそこまで理解しているのかと思うけれど、それは多分、誰よりも深く感じているから。既知の感覚をとことん突き詰め、濃密な映像や言葉へと爆発させるエネルギーの源泉は、大胆さではなく繊細さなのだろう。ぶっちぎりのファッションセンスで世のタブーを白日のもとにさらす才能は、成熟ではなく未熟さがもたらすものだ。わかりやすいのに意表を突かれ、ありふれた感覚に打ちのめされる。

Mommy」の見所のひとつは、主人公のスティーヴがスケートボードで公道を走り、自分をフレーミングしている正方形のスクリーンを両手で左右に押し広げる場面。この無邪気な爽快感は、スピルバーグの「E.T.」で自転車がふわっと宙に浮く名場面に通じる。スティーヴが聴いているのはオアシスの「ワンダーウォール」という王道ぶりだが、この曲は、スティーヴの亡き父親が編集したコンピレーション・アルバムの一曲という設定なのだ。

閉ざされた場所から開かれた場所へ。グザヴィエ・ドランの映画は、自分を否定されることへの強烈な恐怖がベースになっている。登場人物は、閉ざされた不自由な場所で、愛する人を肯定し、否定する。自分自身を肯定し、否定する。答えが出ないから、しつこく繰り返す。そんなふうにじたばたする日常の中で、偶然のような風景が見える。何もしなければ、出会えなかったものだ。答えは得られなくても、その瞬間の官能性こそが希望。解決できない問題こそが希望であるということだ。

自分が発した「いちばん大事な言葉」を、大切な人は聞いていないかもしれない。大切な人が発した「いちばん大事な言葉」を、自分は聞き逃すかもしれない。それでも大丈夫。

デビュー作「マイ・マザー」(2009)は、母親に対する16歳の少年の視点が中心だったけれど、「Mommy」(2014)は、15歳の少年に対する母親の視点が中心になっていた。急激な進化は、切なくもある。ハリウッドへ進出しても、閉ざされた場所から開かれた場所を希求する思春期の感覚で、「美しい中二病」的な映画を撮り続けてほしいと思うから。

2015-5-6

『さらば、愛の言葉よ』 ジャン=リュック・ゴダール (監督)

方法なんてものはない。作業があるだけだ。ジャン=リュック・ゴダール



村上春樹が読者の質問に答えて書いていた。「正直言いまして、ゴダールって若いときに見るべき映画ですね。そう思います」。そうなのか? 村上春樹としては、ゴダールの映画は成熟していないが僕の小説は成熟している、と言いたいのかもしれない。

たしかにゴダールの映画はいまだに成熟していない、と新作を見てよくわかった。一方、最近の村上春樹の小説はハードボイルドさが薄れ、理由を突き詰めているような気がする。

昨年出た村上春樹の短編集『女のいない男たち』は、浮気する女たちのせいで傷つく男たちがテーマになっていた。ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』のベースも人妻と独身男がおりなす物語ではあったが、女はなぜ簡単に二股をかけるのか?と糾弾する勢いの村上春樹に比べ、ゴダールはそんなことはどうでもよくて、大事なのは犬であるというのが結論だ。サルトルの『存在と無』、デリダの『動物ゆえに我あり』などが引用され、人間批判が展開される。

たとえば「登場人物って嫌い」と女が言う。
人は世の中に登場した瞬間から、他人に意味づけされる。その結果、他人の言葉はわかるが自分の言葉がわからない状態になる。登場人物とは、自分の言葉を失った人間のことなのだ。

たとえば「自由な生き物は干渉しあわない。手にした自由が互いを隔てるのだ」という言葉が愛犬ロクシ−の動画に重ねられる。
不自由な人間は、自由を求めて不毛に争い合うというわけだ。

たとえば、子供をつくろうと男に言われた女が「犬ならいいわ」と答える。
これほど未成熟な映画があるだろうか。ゴダールに理由なんてない。あるのはロクシ−への愛と3Dへの好奇心のみだ。

ゴダールの映画を3Dで見る日が来るとは思わなかった。しかも気分としては『勝手にしやがれ』を3Dで見ているような、3Dカメラが初めて街に出て自由に動き出した歴史的瞬間を目撃しているような。『Stand by me ドラえもん』によって昔のドラえもんの記憶までが3Dに塗り替えられてしまったように、84歳のゴダールは3Dと一気に仲良くなってしまった。

スムーズで見やすいわけではない。3Dが立体感をリアルに見せる技術だとすれば、ゴダールの3Dは真逆で、過剰な実験を繰り返す。左右のずらし方を極端にして見えづらくし、挙げ句の果てには、左右の眼に異なった画像を映し出す。奥行き表現への挑戦も半端ではなく、画面は絶えず斜めに切り取られ、ついにはシャワーをカメラに向かって吹きつける。3Dの意味がなさそうなものさえ、あえて撮ってしまうのも痛快。

面白そうなものは、とりあえずすべて撮ってみた感じ。裸のロクシ−、裸の男女、四季の水や自然の比類ない美しさ。そして暴かれたのは3Dの滑稽さで、もっともらしいものに対する強烈な一撃だ。要するに誰かがつくった3Dシステムを解体し、自分でゼロから試している。既成のシステムに無自覚に乗っかって作品を発信することは、まさに自分の言葉を失った、他人の物語の登場人物のような状態をさすのかもしれない。

69分という短さの理由は、ひとつは目が疲れるから。もうひとつは、左右2倍楽しめるから。音楽の耳あたりはよくて、不滅のアレグレットといわれる映画音楽の定番、ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章やチャイコフスキーのスラブ行進曲のイントロ部分が繰り返し使われる。

『さらば、愛の言葉よ』はゴダールらし過ぎるタイトルなので、いっそのこと『こんにちは、ワンちゃん』とでもすれば、間違って見に来る人が殺到するかも。

2015-2-2