『悪口』 上田岳弘 / 『群像』 8月号

人類が絶滅するかもしれない濃厚接触。





シアターコクーンで『太陽2068』(前川知大作、蜷川幸雄演出)を観たのは2014 年のことだ。描かれていたのは、バイオテロで拡散されたウイルスにより、人間が「ノクス」と「キュリオ」に二分された世界。ウイルスの抗体で進化し、若い肉体と知性を得た都市型人間が「ノクス(=夜)」で、感染を恐れ、ノクスから距離を置いて生きる旧人類が「キュリオ(=骨董品)」だった。

近未来のSFめいた設定が、わずか6年後の2020年にこれほどリアルに感じられるなんて、そのときは思ってもみなかった。もはや後戻りはできず、withウイルスの作品にしか現実味が感じられなくなっている。コロナ以前の小説も「キュリオ」として愛読していきたいけれど、いま読みたいのは、ウイルスと積極的に絡んでいく最前線の「ノクス小説」だ。

上田岳弘の短編『悪口』の主人公は、フリーのシステム開発者である。緊急事態宣言下の連休中、久しぶりに街に出て、恋人の十花(とうか)と会う。那須への旅行がキャンセルされた代わりに、都内のホテルで1泊することに決めたのだ。新型コロナウイルスが流行っていても人類は順調に増え続けており、六本木の外れのラブホテルは昼間から満室に近い。空いていた部屋は露天風呂付きで、二人はあれこれデリバリーを頼み、湯に浸かりながらスパークリングワインを飲む。

えー、何これ、楽しそうじゃん? だけどふいに現れる「悪口のレッスン」という言葉にざわっとする。バツイチの主人公は、やや世の中を舐めた感じの露悪的な男のようだ。自己評価の低い自信なさげな女が、ちょっとずつ自分に慣れていく様がたまらなく好き。彼は十花に「悪口」を言わせるように仕向け、健やかな世界を不快に思う気持ちを共有したいらしい。それは、二人で楽しむ恋愛頭脳プレイの甘やかなスパイスでもある。

悪口とは、口から体内に入りこんで悪さをするウイルスのようなものだろうか。どれだけの影響力や殺傷力をもつのだろうか。彼は、自信過剰なのか不遜で傲慢なのかよくわからない自分自身を、元妻や十花の辛辣なセリフによって知ろうとし、強いんだか弱いんだかよくわからない新型コロナウイルスの本当の力を、遺伝子の塩基配列コードの長さによって把握しようとする。

「僕にだって多くのことに切実さを覚える時期があった」と、彼は自虐的に回想していた。それは、さまざまな経験を重ね、鈍感になりつつある一人の男の、ほのかな焦りのようなものかもしれない。ウイルスによる人類の敗北の可能性を「たかが絶滅だろ?」とうそぶきながら、それでも持てる肉体とテクノロジーを駆使し、リアルな痛みの感覚にアクセスしようとする真摯さに、ロマンチックなオトコギを感じてしまった。

2020-7-26

『アンソーシャル ディスタンス』 金原ひとみ / 『新潮』 6月号

声が小さい人の、不謹慎な苦しみ。





緊急事態宣言が出される直前の東京における、大学生カップルの話だ。
「何か共通の使命を持つ生命体の最小ユニットのよう」な彼女と彼は、「弱々しすぎて、お互いに心配し合って、支え合っている」。
だけど、もともと神経質だった彼の母親は、コロナのせいでヒステリックになっていて、大事な息子が、メンヘラな彼女に振り回されることを快く思っていない。

息子を「正しい方向」に育てあげた神経質な母親!
無難な彼を「正しくない方向」へそそのかすメンヘラな彼女!
2人の女性に支配された男は、その2人をきっちり幸せにすることで自分も幸せになり、世界を幸せにすることもできるんだよ、というのが世の摂理だが、彼にはまだ、そこまでの理解も自覚もない。

ただし客観的に見れば、彼は十分によくやっている。母親を傷つけることはしないし、彼女のことは素直に幸せにしたいと思っているのだから。
投げやりな彼女のカマカケに応答する彼の真面目さはステキだし、そんな彼を物足りなく思う彼女の残酷さもステキだ。痴話ゲンカもここまでくれば上等で、しまいには、彼女はこんなことを言う。
「何があっても死ぬことなんか考えないようなガサツで図太いコロナみたいな奴になって、ワクチンで絶滅させられたい。人々に恨まれて人類の知恵と努力によって淘汰されたい」。

言ってることのバカらしさを、やってることのバカらしさでエスカレートさせていくハッピーな2人。まるごとの大切な何かを力ずくで思い出させてくれる、アクチュアルなブラックコメディだ。こういう日常をテロというのかな。たわいない想像力が、ずばぬけて輝いている。

金原ひとみはこの小説について、インタビューでこう語っている。
「私は声が小さい人の側にいたいし、自分自身もそうだと感じています」
「不謹慎と思われるかもしれませんが、この苦しみは言葉にする意味のあるものだと思いました」

世の中に甘美な希望のようなものがあるとしたら、それはたぶん、声の小ささや、不謹慎さや、ナイーブな苦しみの方向にあるのだろう。

2020-5-28

『ゲルハルト・リヒター・ペインティング』 コリーナ・ベルツ(監督)
『来訪(VISIT)』 ジャ・ジャンクー(監督)

パンデミックの中の、幸せ。





313日から臨時休館しているNYのメトロポリタン美術館が、ゲルハルト・リヒターの回顧展をオンラインで公開している。この回顧展は34日に始まったというから、現地ではまだ9日間しかリアル公開されていないことになる。再開の時期も未定であることからオンライン公開に踏み切ったのだろう。豊かなそのコンテンツの中に、3年以上の密着により作品制作のプロセスやプライベートな心情に迫った97分のドキュメンタリー映画『ゲルハルト・リヒター・ペインティング』(2010)があった。

リヒターの抽象画が36億円で落札されて話題になったのは2014年。この映画は、一連の抽象画シリーズが、こんな場所でこんなふうにつくられているのだという事実を、もったいぶらずに堂々と明かしている。こんな取材を許可したリヒターの人柄に加え、こんな面白い映画を世界中に無料公開してしまう美術館のサービスぶりに驚く。「アーティストとアトリエと作品は似ている」というのが個人的な感想で、それはすごく幸せなことのように思えた。

興奮が醒めない中、今度はジャ・ジャンクー監督が新作の短編『来訪(VISIT)』のオンライン無料公開を始めた。この作品は、ギリシャのテッサロニキ国際映画祭の短編映画プロジェクトとして制作された15本(8人のギリシャ人監督と7人の外国人監督が参加)のうちの1本で、このプロジェクトは、フランスの作家ジョルジュ・ペレックのエッセイ『さまざまな空間(Espèces d'espaces)』に触発され、自宅での撮影を条件としたものだ。

ジャ・ジャンクー監督の『来訪(VISIT)』は、現在進行形のCOVID-19 パンデミック下の世界を描いた4分間のフィクションで、スマホを使って1日で撮影されたという。登場人物は、監督、男性、アシスタント女性の3人。男性が監督の家にやって来て打ち合わせをする話だ。入口をノックした彼を、女性が赤外線体温計で検温し、監督は彼が握手のために差し出した手を避ける。打ち合わせに入った監督と男性は、パソコンに触る前に手の消毒をし、指を使って画像を閲覧した後は、石けんで手を洗う。映像は終始モノクロだが、洗面所に生けられた花と、監督が見上げる窓の外の風景だけがカラーになり、ほっとするような生命の息吹を伝える。

試写室で映画を見る二人が、お茶を飲むときだけマスクを外す所作は生々しく、彼らが見ている過去の映像は、不気味なほどの迫力だった。目下、人々がおかれている状況が異常なのか、過去のほうが異常だったのか、わからなくなってくる。監督の家には『山河ノスタルジア』(2015)や『帰れない二人』(2018)のポスターが飾られていたが、たった4分の短編の中にも、これらの長編のエッセンスを感じることができた。

この映画、数か月前ならシュールなSFに見えたと思うし、今だってそう見える。だが、全体を貫くトーンは、既にどこかノスタルジックなのだ。そう、打ち合わせをすることも、お茶を飲むことも、映画を見ることも……。くらくらするような試写室の光の中で、私は考える。私たちはこれから、進化していくのだろうか、退化していくのだろうか、それとも、何も変わらないのだろうか。そうしてようやく、これはパンデミックにおける滑稽な日常、つまり、小さな幸せの瞬間をとらえた映画なのだと気がついた。

2020-4-29

『冬時間のパリ』 オリヴィエ・アサイヤス(監督)

過渡期の雑談って、こんなにおいしい。





おいしいものを食べて、飲んで、しゃべる。年末の飲食店は、尋常ではない活気にあふれている。ところでみんな、何をしゃべっているのだろう?

パリを舞台にした、食事とワインと恋愛と雑談のマリアージュ映画を見た。はじめのシーンは出版社で、2人の男(老舗出版社の幹部でもある編集者とヴァンサン・マケーニュ演じるアラフォーの小説家)が話をしている。その後、場所を変え、ランチを食べながら会話を続ける2人。

ロケ地はマルグリット・デュラスが通っていたというパリ6区のビストロで、編集者はリブロースとサラダ、小説家はテリーヌとヒラメのアイオリソースを注文する。だが結局のところ、小説家の新作は、編集者の意向でボツになったのだと、あとになってわかる。理由は、古くさくて悪趣味だから(笑)。彼が得意とする私小説は、自身の恋愛をネタにするため、炎上しやすくもある。

もちろん彼の私小説のファンも多いようで、ジュリエット・ヴィノシュ演じる編集者の妻などは、ぐっとくるような文学的理由で擁護する(実はこの2人、秘密の関係を結んでいるのだが)。また、編集者は編集者で、社内のデジタル担当の若い女性と不倫している。

恋愛映画というよりは、出版界の危機をベースにした「過渡期のお仕事映画」であるところがオリヴィエ・アサイヤスの特筆すべきユニークさといえるだろう。編集者と私小説作家をはじめ、それぞれマンネリな女優だったり問題を起こす政治家の秘書だったりブログが人気の流行作家だったりする彼らは、パートナーや友人や仕事相手や不倫相手と、パリの自宅やカフェ、マヨルカ島の別荘で集う。ワインや食事を楽しみながら、とりとめのない議論を繰り広げるのである。

とりわけ面白いのが、クレバーかつセクシーなデジタル担当者。危機に瀕した出版社を改革すべく引き抜かれた彼女が語るドライなビジョンは、希望に満ちたいかがわしさというべきものか。彼女と編集者は、ベッドを共にしながらも、仕事の話ばかりしている。

反面、私小説作家の日常は、かなりウエットだ。本屋でのトークイベントは、少人数でアットホームな雰囲気なのに、読者からの質問は痛烈。ラジオの生放送に至っては沈黙してしまい「では、(小説の問題の場面で上映されている)ミヒャエル・ハネケの『白いリボン』のあらすじを紹介してください」なんて言われてしまう。

キーワードは、ヴィスコンティの『山猫』(1963)に登場する「変化しないための変化」というニュアンスの言葉。現状維持を望むなら変化が必要であり、そのまま何もしなければ退化するだけということ。この真理だけは、いつの時代も変わらないのかもしれない。

何をやめ、何を始め、何を再接続するか。それはもはや戦略などではなく、生きる喜びそのものだと思う。

2019-12-31