『来る日も来る日も』 パオロ・ヴィルズィ (監督)

いつも一緒にいる人と過ごす。





東京iCDC専門家ボードが作成した「都民の皆様方へのお願い」の中に「いつもと違う年末・年始 5つの約束」というのがある。「いつも一緒にいる人と過ごす」は、その筆頭のお約束ごとだ。

今も毎日のように会社に通勤している人にとって、会社の同僚というのは「いつも一緒にいる人」なのだろう。一緒にランチに行ったり、ときどき飲みに行ったり、いろんなことを話したりするのだろう。いかにもそういう雰囲気の人たちを見かける。2人か3人か4人で男女ミックス。きっと、家族みたいな感じなんだろうなと思う。

だからRくんが、自分が所属するお店の人たちと、そんなふうに仲良くしているという話を聞いたとき、私はつい「お店の人は、家族みたいなものだもんね」と言ってしまったのだが、そうしたらRくんは「いや、家族とは全然ちがう」と即座に否定した。

そりゃそうだよね。「いつも一緒にいる会社の人」と「いつも一緒にいる家族」は、全然ちがうに決まってる。ただ、ふとしたきっかけで「いつも一緒にいる会社の人」と結婚すれば「いつも一緒にいる家族」になるだろうし、一緒に暮らし始めれば「いつも一緒にいる家族みたいな人」になるわけで、その可能性は少なくないのかも?「いつも一緒にいる人」は、他人との距離が求められる時代においては、それだけで特別な存在なのだから。

この映画は「いつも一緒にいる家族みたいな人」についての物語だ。彼がホテルの夜勤から帰ってくると、昼間の仕事をしている彼女は寝ているのだが、彼はそんな彼女のために毎朝「おめざ」をベッドに運ぶ。結婚はしていないが子どもが欲しくて不妊治療を始める2人は、最終的にどうなるのか?

穏やかな彼は、彼女が荒れている日も、こじらせている日も、いつだって精一杯のことをする。彼女にとっては悩みの種でしかない彼女の両親にも限りなく優しく接するし、彼女以上にエキセントリックな彼女の元カレにすら寛大に接するのだ。なんで一体そこまで?と思うが、理由は最後にわかる。彼は、彼女のことが大好きなのである。いや、そんなことは最初から明らかなのだが、恋愛において、出会い方というのは大事だなとつくづく思う。

古典文学を愛する不器用な彼氏を演じているのは、ルカ・マリネッリ。フランス映画ならヴァンサン・マケーニュが演じるような濃密なオタクキャラを、イタリアが誇る希代のイケメン俳優が演じているのだ。その愛おしい崩れぶりは、世界じゅうの女性たちを骨抜きにするだろう。

いつも一緒にいる2人は、すみずみまでわかりあう必要なんてない。いつも一緒にいられれば、来る日も来る日も幸せなのではないだろうか。彼にとっては「いつも一緒にいる人が幸せそうであること」が最大の幸せであり、彼女にとっては「いつも一緒にいる人が幸せそうな私を見て幸せそうであること」が最大の幸せなのである。

2020-12-29


『ミッドナイトスワン』 渋谷慶一郎 (作曲・演奏)

しずかな音と熱にアディクト。





デジタルとリアルの境界がなくなっている。いや、そんなはずはない。ひとつのイベントの中で、どちらかを選べるようになってきただけの話だ。来週のあの予定はどっちだっけ?と混乱することが、そろそろ増えてきた。

つまり世界は、デジタルとリアルに2分されたのではなく、2倍になった。つくり手側としては、忙しさが倍増したというわけだ。なんてこった!

東京都写真美術館で見たエキソニモの「UN-DEAD-LINK 2020」という作品は、スマホとグランドピアノで構成されていた。スマホ上の3Dシューティングゲーム内でキャラクターが死ぬと、自動演奏のグランドピアノが鳴る。この作品のおかげで、会場全体にグランドピアノの音が絶えず響きわたっていた。デジタルの死が、現実の死の音としてドラマチックに増幅されるのだ。

925日「渋谷慶一郎、初の無観客ピアノソロコンサート」を有料ライブ配信で視聴した。演奏場所はお茶の水のRittor Base。グランドピアノ(ベーゼンドルファー)の音は、何を増幅させたものだったんだろう? ほかにシンセサイザー(moog one)とエレクトリックピアノ(Waldorf Zarenbourg)という3台に囲まれたほの暗い空間に、演奏者がひとり。トークもないし、歌もないし、愛想笑いも、明るさもない。

映画『ミッドナイトスワン』の公開日だった。1週間でつくったという同映画のサウンドトラックのほか『告白』のサウンドトラック(バッハのピアノコンチェルト5番&ヘンデルのオンブラ・マイ・フ)なども演奏された。 

このしずかさは何? 世界から耳を塞ぎたいときも、聴いていたくなるような繊細さだ。

エンドクレジットには、たくさんの名前が並んだ。サウンド関係のほか、ライティング、カメラ、ヘアメイク……ライブで一度見たらもういいだろうと見る前は思っていたけれど、103日まで再生できるということで、別れを惜しむように何度も視聴してしまっている。

映画もサントラCDも大人気のようだ。とりわけCDジャケット写真の熱量はすごい。古いピアノの鍵盤に痛々しくつま先立ちする、赤いペティギュアの足。中国のファッションフォトグラファー「リン・チーペン a.k.a.No.223の過去作品だ。No.223というのは『恋する惑星』で金城武が演じていた警官223号のこと。どちらかといえば、このフォトグラファーの風貌は、警官663号(トニー・レオン)のほうに近いと思うのだけど。

 渋谷慶一郎のコメントにも、熱がこもっている。

「僕はコロナ禍に突入してから急増したオンラインによるライブ配信を一切やらなかった。特に承認欲求の延長のような中途半端な配信には一番興味が持てず、逆に今までやってきたピアノソロのコンサートのクオリティを維持、更新しつつ新しい試みが出来る機会を待っていた」

「マスタリングを終えた音源をいつものようにRittor Baseの國崎さんに送ると、即レスでこのアルバムのライブ配信をウチでやらないかという提案が戻ってきた。この誘いには乗ったほうがいいと直感的に思った。ここなら僕が今までピアノソロのコンサートでやってきた最高音質の追求と配信にカスタマイズされたバーチャルな音場、音響の生成のミックスが可能になる」

 「僕たちは無限に無数に離れているけど耳と目だけで繋がっている。グレン・グールドが見た夢の続きを見ることができるかもしれない」


2020-10-1

『悪口』 上田岳弘 / 『群像』 8月号

人類が絶滅するかもしれない濃厚接触。





シアターコクーンで『太陽2068』(前川知大作、蜷川幸雄演出)を観たのは2014 年のことだ。描かれていたのは、バイオテロで拡散されたウイルスにより、人間が「ノクス」と「キュリオ」に二分された世界。ウイルスの抗体で進化し、若い肉体と知性を得た都市型人間が「ノクス(=夜)」で、感染を恐れ、ノクスから距離を置いて生きる旧人類が「キュリオ(=骨董品)」だった。

近未来のSFめいた設定が、わずか6年後の2020年にこれほどリアルに感じられるなんて、そのときは思ってもみなかった。もはや後戻りはできず、withウイルスの作品にしか現実味が感じられなくなっている。コロナ以前の小説も「キュリオ」として愛読していきたいけれど、いま読みたいのは、ウイルスと積極的に絡んでいく最前線の「ノクス小説」だ。

上田岳弘の短編『悪口』の主人公は、フリーのシステム開発者である。緊急事態宣言下の連休中、久しぶりに街に出て、恋人の十花(とうか)と会う。那須への旅行がキャンセルされた代わりに、都内のホテルで1泊することに決めたのだ。新型コロナウイルスが流行っていても人類は順調に増え続けており、六本木の外れのラブホテルは昼間から満室に近い。空いていた部屋は露天風呂付きで、二人はあれこれデリバリーを頼み、湯に浸かりながらスパークリングワインを飲む。

えー、何これ、楽しそうじゃん? だけどふいに現れる「悪口のレッスン」という言葉にざわっとする。バツイチの主人公は、やや世の中を舐めた感じの露悪的な男のようだ。自己評価の低い自信なさげな女が、ちょっとずつ自分に慣れていく様がたまらなく好き。彼は十花に「悪口」を言わせるように仕向け、健やかな世界を不快に思う気持ちを共有したいらしい。それは、二人で楽しむ恋愛頭脳プレイの甘やかなスパイスでもある。

悪口とは、口から体内に入りこんで悪さをするウイルスのようなものだろうか。どれだけの影響力や殺傷力をもつのだろうか。彼は、自信過剰なのか不遜で傲慢なのかよくわからない自分自身を、元妻や十花の辛辣なセリフによって知ろうとし、強いんだか弱いんだかよくわからない新型コロナウイルスの本当の力を、遺伝子の塩基配列コードの長さによって把握しようとする。

「僕にだって多くのことに切実さを覚える時期があった」と、彼は自虐的に回想していた。それは、さまざまな経験を重ね、鈍感になりつつある一人の男の、ほのかな焦りのようなものかもしれない。ウイルスによる人類の敗北の可能性を「たかが絶滅だろ?」とうそぶきながら、それでも持てる肉体とテクノロジーを駆使し、リアルな痛みの感覚にアクセスしようとする真摯さに、ロマンチックなオトコギを感じてしまった。

2020-7-26

『アンソーシャル ディスタンス』 金原ひとみ / 『新潮』 6月号

声が小さい人の、不謹慎な苦しみ。





緊急事態宣言が出される直前の東京における、大学生カップルの話だ。
「何か共通の使命を持つ生命体の最小ユニットのよう」な彼女と彼は、「弱々しすぎて、お互いに心配し合って、支え合っている」。
だけど、もともと神経質だった彼の母親は、コロナのせいでヒステリックになっていて、大事な息子が、メンヘラな彼女に振り回されることを快く思っていない。

息子を「正しい方向」に育てあげた神経質な母親!
無難な彼を「正しくない方向」へそそのかすメンヘラな彼女!
2人の女性に支配された男は、その2人をきっちり幸せにすることで自分も幸せになり、世界を幸せにすることもできるんだよ、というのが世の摂理だが、彼にはまだ、そこまでの理解も自覚もない。

ただし客観的に見れば、彼は十分によくやっている。母親を傷つけることはしないし、彼女のことは素直に幸せにしたいと思っているのだから。
投げやりな彼女のカマカケに応答する彼の真面目さはステキだし、そんな彼を物足りなく思う彼女の残酷さもステキだ。痴話ゲンカもここまでくれば上等で、しまいには、彼女はこんなことを言う。
「何があっても死ぬことなんか考えないようなガサツで図太いコロナみたいな奴になって、ワクチンで絶滅させられたい。人々に恨まれて人類の知恵と努力によって淘汰されたい」。

言ってることのバカらしさを、やってることのバカらしさでエスカレートさせていくハッピーな2人。まるごとの大切な何かを力ずくで思い出させてくれる、アクチュアルなブラックコメディだ。こういう日常をテロというのかな。たわいない想像力が、ずばぬけて輝いている。

金原ひとみはこの小説について、インタビューでこう語っている。
「私は声が小さい人の側にいたいし、自分自身もそうだと感じています」
「不謹慎と思われるかもしれませんが、この苦しみは言葉にする意味のあるものだと思いました」

世の中に甘美な希望のようなものがあるとしたら、それはたぶん、声の小ささや、不謹慎さや、ナイーブな苦しみの方向にあるのだろう。

2020-5-28