『ピアニスト』 ミヒャエル・ハネケ(監督) /

束縛はつらく、自由は痛い。


幼稚園から高校3年まで、クラシック・ピアノを習っていた。熱心な生徒ではなかった。「今日はレッスンなのに、ぜんぜん練習してない!どうしよう?」とあせる夢を今も見る。

大学では社会学を専攻し、マックス・ウェーバーのゼミをとった。熱心な学生ではなかった。が、西欧近代社会における音楽の合理化過程に着目した「音楽社会学」は眼からウロコ。美しいハーモニーをつくる純正律の代わりに、オクターブを12の音に均等に分けた平均律が選ばれた西欧では、精密な楽譜が発達し、作曲家と演奏家が分離し、調律を固定した鍵盤楽器が発展した。つまり、鍵盤楽器が奏でるのは、呪術性や神秘性が取り除かれた合理的な音楽なのだ。そんなこと、ピアノを習っていても知らなかった。

先生の選んだ曲を、楽譜に忠実に弾かなければならないという私のオブセッションは、この映画のモチーフである不自由さや束縛の象徴としてのピアノに通じる。私が今幸せなのは、ピアノを弾かなくていい生活をしているからかもしれません。

主役の中年女性エリカ(イザベル・ユペール )は、子供の頃から遊ぶことも許されず、徹底的な教育を受けたもののピアニストになれず、ウィーン国立音楽院でピアノ教授をしている。学生ワルター(ブノワ・マジメル)が、そんな彼女に恋をする。

途中までは、クラシカルな恋愛映画のよう。だが、エリカの「知られざる一面」が亀裂のように画面に侵入するにしたがい、映画自体の形式も壊れていく。このスリリングな同期性がすばらしい。映画は次第にピアノから離れ、平均律の呪縛から解き放たれたかのようなラストシーンは、無音だ。

アダルトショップ通い、のぞき行為、バスルームでの自傷行為など、歪んだセクシャリズムをほしいままにするエリカのプライベートタイム。未熟な嫉妬心、アブノーマルな要求など、恋愛においてもその異常性は遺憾なく発揮される。それらはあまりにも不器用で、目も当てられないほど。ただし、最後までエリカは美しい。長まわしに耐えうる驚異的な無表情が、観客を釘づけにする。

彼女の悲劇の原点は母親である。寂しさや嫉妬が入り組んだ老女の母性に、エリカはがんじがらめ。この母を監禁し、エリカから分離させたワルターは偉い。そう、この映画で、ただ一人健全な人間として描かれるワルターは、エリカのはちゃめちゃな性的願望に困惑しながらも、逃げることなく正面から彼女にぶつかっていくのだ。乱暴な初体験の後、「愛に傷ついても死ぬことはない」と言い残すワルター。自由とは、ときには死ぬ思いをしながら生きていかなくちゃならないってことなのだ。こんな残酷な真理を中年になってから学ぶなんて、エリカ、痛すぎ。だけど、この事件は、彼が言うように「お互いのせい」なのである。つまり、2人の間には恋愛コミニュケーショーンが成立しているってこと。ワルター、正しすぎ。

恋愛は、ちょっと間違えれば相手をこわしてしまう。そして、その力関係は、いつ逆転するかわからない。この映画もそうだ。この先、簡単じゃないだろうなってことは想像できるけれど、エリカは、とりあえず自由になったのだ。ピアノなんて、どうでもよくなっちゃったわけなのです。

監督は言う。「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さをのこすだけです」

*2001年 フランス=オーストリア合作
*カンヌ国際映画祭グランプリ受賞
*東京、神奈川で上映中。3月より札幌、京都、大阪、福岡で上映。
2002-02-28

『おしえてあげる-えっち作家になりたいアナタへ』 内藤みか / パラダイム

女は、飢えを満たすために、仕事する。


「昭和46年生まれ。性別、女。大学在学中に『愛液研究室』でデビュー。以来、一貫して官能小説を書き続けている。現在までに著書が十七冊。新聞、小説雑誌にも多数作品を発表中。インターネット絡みのエッチや、母乳の出るヒロインを描いた作品が得意…」これが著者の自己紹介だ。

子供が保育園に行っている間にエロイ小説を1日20枚から30枚も書き連ね、時たま深夜にホストクラブに遊びに行くこと以外は普通の主婦。周囲に官能作家とバレてしまうと、奥様達との語り合い(貴重な取材)ができなくなるため、メディアには極力顔を出さない。

彼女が量産しているのは、男性向けの官能小説。かなりマニアックな分野だが「父からの"虐待"が、私がこういう職業に就いた遠因ではないかと思っている」とクールに語る。彼女の体験談を読むと「性的虐待を受けた子は、自分がされたことは間違っていなかったのだと思いたいがために、自ら性的な世界に足を踏み入れやすい」との説が真実味を帯びてくる。

「文章を書く仕事は、たとえそれが官能小説を書くことであっても、マイナスの体験を役立てることができる仕事なのだ」と彼女は言い切る。幼い頃から「いやらしい」「醜い」という形容詞を繰り返し父に浴びせられた結果、顔を出さずに済むセックス絡みのバイトをするようになった彼女は、大失恋をきっかけに書いた官能小説が認められてお金になったとき「いいしれない安堵感」を得たという。「"いやらしく"て"醜い"女の生きる道として、これほど格好な仕事はなかったはず」と。

幸せな恋をしている時はネタが浮かばなくて苦労した彼女も、現在は離婚した夫と腐れ縁で再同居しており「精神的に渇望状態にある。そのおかげでいい作品は書けてはいるが、私生活と小説とが同時に満たされるのはムリなのかもしれないな、と最近はあきらめ気味」だそう。「一生、この冷淡な彼と暮らしていき、その不満を小説にぶつけていくのかもしれないな」だって。 主婦の毎日は、苦行にも似たところがあるそうで「私はなるべくその辛さを身体や心に刻むようにしている。どうしてイヤなのか、どうしてこんなに子育てでキレそうになるのか…。自問自答しながら、毎日を過ごしている。それこそが、最高の人生修行でもあり、作家修行のような気がするから」という。

自分や友人を冷静に眺めることで「壊れずに済んでいる」のは、彼女の資質だと思う。だが、冷淡な元夫と再同居し、ネタ元であるとはいえ苦行を淡々と受け入れるスタンスには、どこかマゾ的な匂いを感じる。自らを積極的な渇望状態に置く生き方は、おそらく彼女の幼少時代に由来するのだろう。幼い頃に刻印された記憶を、生涯にわたって引きずるのが人間だ。解決できない悩みは、その人の生き方そのものになる。私は、それを不幸なことだとは思わない。むしろ一生の財産として受け止めたい、とこの本を読んで思った。

ただし、ぼんやりとした日常の飢えだけではプロにはなれない。彼女が抱えているのは、切実な飢えなのだ。離婚したり、主婦業をやめてみたところで解決するものではないと、彼女自身わかっているのだと思う。そう。切実に飢えていないのであれば、現実を何とかすればいい。小説を書く必要なんてない。

デビューのしかた、ペンネームのつけかた、男受けする官能小説のコツ、どのくらい儲かりどんなセクハラを受けるのか、女流官能作家の未来はどうかなど、内容は具体的。えっち作家になりたい人はもちろん、すべての女性にとって、天職に出会うとはどういうことかがわかり、仕事選びの参考になる。

*著者からメッセージをいただきました。Thank you!
2002-02-23

『猛スピードで母は』 長嶋有 / 文芸春秋2002年3月号

かっこいい母の息子はマザコンか?


現在bk1ランキング1位の「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)の中に、こんな記述がある。

「もしもあなたが いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに 信仰や信条、良心に従って なにかをし、ものが言えるなら そうではない48人より恵まれています」

誰かが、ほかの誰かよりも恵まれているなんて、第三者にどうやって決めることができるのだろう?
大雑把なたとえ話を断定形で語るのは、私たちに安っぽい優越感を与えてくれるため?
それとも、読み手にこれ以上考えることを止めさせるため?

「知識の民主化を装った大規模な思考破壊工作」という言葉を私は思い出す。蓮見重彦が以前「ソフィーの世界」(日本放送出版協会)を評し、そう書いていた。


芥川賞受賞作「猛スピードで母は」の主人公「慎」は、第三者にどう思われようが、恵まれている。そのことが主観的に書かれているからだ。母子家庭、いじめ、母の恋愛、失恋、祖母の死、祖父の看病など、ある意味でハードな経験を重ねる慎だが、男勝りでかっこよくて知的な母のもとに生まれたおかげで、ぜんぜん動じないよっていう話。控えめながら圧倒的な優越感に貫かれている。

状況への決定権や選択権のない不安定な小学生時代がナイーブに表現されるが、約20年前を回想するというスタイルだから、痛みは穏やかだし悪人も出てこない。安全圏から過去を反芻する気持ちのいい小説なのだ。どんなできごとも等質であり、水が流れるように淡々と描かれていく。

「母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。PKの瞬間のゴールキーパーを。PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ」

慎の母親自慢は、こんなふうに、子離れできない現代の母親への批判にもなっている。この親子は考え方が似ており、慎自身も、母と母の恋人によって置き去りにされそうになったとき、状況をきちんと受け入れるのだ。ほどよい距離をクールに保つ母と息子の姿は、教育的で示唆に富んでいる。

この小説を村上龍はこう選評していた。
「状況をサバイバルしようと無自覚に努力する母と子を描いた」
「一人で子どもを産み、一人で子どもを育てている多くの女性が、この作品によって勇気を得るだろう」
「社会に必要とされる小説だ」

一方、石原慎太郎の選評は冷たい。
「こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか」

積極的に人の心をつかんで揺さぶっちゃうような小説ではなく、必要な人がそこから勝手に学んだり考えたりする、道徳の教科書のような作品なのだと思う。

ただ、いくら距離を保っているとはいえ、小学校高学年の息子が、自分の母親をこんなにも容認し、自慢し、かしずくっていうのはどうよ? マザコン度はかえって高いような気がするのだが。
慎は20年後(つまり現在)、母親の運転手にでもなっていそうで、ちょっとこわい。
2002-02-22

『愛の誕生』 フィリップ・ガレル(監督) /

すごい映画は、さえない男に光をあてる。


この映画でいちばんすごいのは、カメラだ。このカメラマンが撮れば、どんな俳優でも、どんなストーリーでもいいんじゃないの? そんなふうに思ってしまうほどみずみずしいモノクロ映画。見えないほど真っ暗な黒と、まぶしいほど明るい白のコントラスト。「勝手にしやがれ」(1959)以来、ゴダールとトリュフォーの作品に欠かせない存在となったラウル・クタールが撮っている。センス全開!

主役のポールは、監督自身のように見える。家族と愛人の間をさまよい、どちらも思い通りにならず、苛立って妻や息子に怒鳴り散らす情けない男。赤ん坊が生まれても、愛人と寝ていても、居場所が定まらず、誰のことも幸せにできない中途半端な悪循環が、疲れた中年男をさらに疲れさせていく。それは、彼が目の前の状況を愛せないことの不幸だ。愛人にふられ、別の若い女の前で「これまでいろんな女と寝た」とか「はじめて(生理の)血がきれいだと思った」などと、妙にロマンチックな世界に入るポール。寒い!

だからといって、現実に充足しきっている中年というのも、たぶん、ものすごくつまらないはずで、男が美しく歳をとるのは大変だと思う。

「フィリップ・ガレルは息をするように映画をつくる」とゴダールは言ったそうだが、悩める自分を主役に託し、脇役の友人と対比させ、一緒にローマへ旅立つという設定はリリカル。友人を演じるのは「大人は判ってくれない」(1959)以来、ヌーヴェルヴァーグのアイドルとなったジャン=ピエール・レオーで、この映画では50歳近い年齢になっている。理屈っぽく自己中心的なせいで妻に逃げられてしまう作家という、ポールと同じくらい情けない役柄だが、妻に男ができたと知り、一途に嫉妬する姿はそれほど悪くない。さすが、いくつになってもジャン=ピエール・レオーはチャーミング!

土曜日はどうするのと息子にきかれ、わからないと答える水曜日のポール。家族の3日後も決められないそんな彼が、ラストシーンでは未来を語る。私を愛している証拠を見せてと若い女に言われ、子供を産んでもいいよと答えるのだ。が、その言葉はあまりにも軽すぎる。生まれたばかりの赤ん坊がいるくせに、なんということを言うんでしょうこの男は。「キスしてほしいだけなのに」ってあっさり言われてしまうポールは、目の前の状況を愛せと彼女に教えられたのだろう。幸せとは、過去でも未来でもないのだと。

とにかく、ひたすらさえない男の話だけれど、ポールが教会の前で友人を待ったり、海岸で見知らぬ女と会話したり、乳母車を押して街を歩いたり、そのほかにも、パジャマ姿の息子がパパと何度も叫ぶアパートの窓や、唐突にあらわれるイタリア国境の風景が、映画を見終わって時間がたてばたつほどに美しくよみがえり、私を痺れさせる。さえない男のさえない人生の、あちこちが光っていたことに気づくのだ。ストーリーも俳優もあっさり飛び越えてしまうなんて。まったく、映画を撮るってこういうことなの?

*1993年 フランス-スイス合作
*銀座テアトルシネマにて2/15までレイトショー上映中
2002-02-15

『肩ごしの恋人』 唯川 恵 / マガジンハウス

嘘っぽさが今っぽい。


るり子の3回目の結婚式に出席する、親友の萌。
るり子の夫となる男は、萌の元カレである。
萌は、結婚式が終わると、るり子の元カレ(既婚・初対面)とホテルに直行する。

萌とるり子は、こんなふうに平気で男を共有したり略奪しあったりするばかりか、互いにこう考えている。
「るり子が寝た男だと思うと、どこか安心するのだった」(萌)
「親友の恋人、というのはそれだけで十分に盛り上がる恋愛の要素を含んでいたし、何より信用できた」(るり子)

また、結婚に関しては、こう。
「今日から彼らは夫婦だ。これからは世間公認のセックスをするようになるわけだ。それはそれですごく恥ずかしいことだ」(萌)
「結婚式を済ますと、何だかみんなに『今日から大っぴらにセックスします』と宣言したような気分になり、急にしゅるしゅると体中から空気が抜けてぼんやりしてしまう」(るり子)

新宿2丁目を歩く時は、こんな感じ。
「男が自分のタイプだったりすると、ちょっと残念に思う。ああ、もったいない、女も悪くないのに」(萌)
「ここにいる男たちは、本当に、女の子よりも男が好きなんだろうか。それを思うと、もったいなくてため息が出てしまいそうだ」(るり子)

「肩ごしの恋人」は、双子のような萌とるり子の視点から交互に描かれる小説だが、驚くべきことに、2人は対照的なキャラということになっている。
「るり子はいつまでたってもわがままで傲慢で自惚れの固まりみたいな女だ」(萌)
「萌はいつだって律儀だ。小さい時からるり子と違って、自分の在り方にちゃんとルールを持とうとしている」(るり子)

しかし、いかに説明されようが、客観的に見れば「似たもの同士やん!」と突っ込みたくなる2人であることは間違いない。2人ともトウがたっていて、説教くさくて、世の中こんなもんだという諦めに似たステレオタイプな考え方をする。ストーリーは軽く、リアリティよりもネタ重視。どこかで聞いたことのあるような予定調和的なエピソードのサンプリングが延々と続く。

以上のようなことを差し引くと、この小説には何が残るのか? 最後まで楽しく読めた理由は、軽さとリアリティのなさが「今っぽい」と思えたから。自分の人生を、希薄なネタとしてドラマのように演じたり語ったりする彼女たちの姿は、どこか身近なものとして感じられる。実際、私自身が「信じられない!」と叫びたくなるようなリアリティのない行動をとる人間は、仲間うちにも、たくさんいるわけで。

そう、「仲間うち」というのがポイントだ。「私」と「リアリティのない人」の差は、決して大きなものではない。だって、それは「仲間うち」の話なのだから。萌とるり子みたいに、同じ穴のムジナであるに決まっている。そんなことを思い知らされるコワイ小説だ。

萌もるり子も、とっかえひっかえ男と寝る自由な女みたいに見えるけれど、ベースには漠然とした被害者意識がある。彼女たちは、相手との関係を深めるのがこわいのだ。男が好きなのに、つきあう目的は自分のプライドを満たすことでしかないから、結局は相手を遠ざけてしまう。まるで憂さ晴らしのような恋愛。

一方、男たちは、優柔不断で流されやすくて屈託がない。汚れないし傷つかないし悩まない。そんな彼らを、彼女たちは距離を置きながら肯定している。近づきながら否定するのでは決してなく、男を深く理解しようなんてヤボなこと、最初から考えないのだ。そんなことを始めたら、傷ついてしまうに決まっているから。

男に関しては手つかずの、少女小説なのだと思う。
2002-04-13

『インストール』 綿矢りさ / 河出書房新社

彼女が大人の女性にイラだつ理由。


携帯電話に届くジャンクメールを「迷惑メール」と呼ぶのは無神経だと思う。いったい何が誰にとって迷惑なのか? 迷惑とは受け手の感受性であり、あなたの迷惑と私の迷惑は違うのだ。歓迎する人がいるから送り手がいるのであり、結果的にそのシステムは儲かっている。儲かっているけれど非難の声が多く不都合も出てきたから「迷惑メール」という人類共通の敵を曖昧に想定して「戦います!」なんて宣言している。これは明らかにシステム自体の欠陥なのに。

大人は、かくも迷惑なシステムや、そのほかにもいろいろ残酷な落とし穴をつくっておきながら、そこに未成年がハマったりすると、鬼の首をとったように大騒ぎする。

・・・でも、それほど心配する必要ないかも。現役高校生によって書かれたこの小説に登場する未成年の真っ当さに、私はほっとした。

小学生のかずよしは、古いコンピュータを拾うが、その理由として「お金がどうとかじゃないです、なんていうのかなあジャンクのコンピューターを使って押入れでぼろもうけ、そういうのに憧れたからでしょうか」なんていう。かずよしと共謀し「押入れ」という情緒的なシェルターの中で風俗チャット業を始める女子高生の朝子もまた、豊かで退屈で不自由で希望のない未成年期を何とかやりすごすために四苦八苦している。結末は最初から見えているし、彼らにもわかっているが、他にやるべきことがないのだから仕方ない。大人から与えられた味気ない世界に、本能的に知る限りのわずかな情緒を加え、少しでもいいものに仕立てようとする切実な行為。そこから彼らは大切なことを学んじゃったりもするのだから泣けてくる。コンビニのお惣菜で味覚をきたえ、栄養を摂取するしかないっていうような。

高校時代というのは、大人が羨むほどいいものではないと私は思うし、高校生のときは、もっとそう思っていた。26歳の風俗嬢の代わりにチャットを体験する朝子は「やはり女子高生というのはブランドらしい」と自覚しながらもそれを喜ばず、26歳を「おばはん」という客に憤慨する。たとえ今が旬といわれても、未来に希望がもてなければ虚しいだけなのだ。

朝子は、会話が途切れた後の沈黙を恐れ、 自分の母の屈折したアプローチにびびり、かずよしの母の不器用さに露骨な嫌悪感を示す。ここまでナーバスに大人の女性を糾弾する理由は、自らの内面にも同種の要素が巣食っていることに気付きはじめているからだ。母親という人種に対する生理的違和感と、それを超えて幸せにならねばという焦りは、父親不在、恋人不在の現実をほのめかす。朝子が信頼するのは、母でもなく、母と離婚した父でもない。パソコンを買ってくれた亡き祖父と、仕事を紹介してくれたかずよしと、説教してくれる同級生の光一という実用的な3人だけである。

かずよしの母が立ち去った後、「お礼」として朝子が思いつくのは、鍋の中に中途半端に残っていたなめこ汁を食べ切ってあげるという、拍子抜けするほど素直なアプローチ。だが、冷えたお椀を手にベランダのコンクリートに座る朝子の姿は、普通のコミニュケーションを得ることの絶望的な難しさを予感させる。

興味津々だった風俗嬢も、実は普通の母親であり、特殊な人々で構成されているように見えた風俗チャットも、ふたを開ければ普通の人間の集まりだった。バーチャルな世界は、いつだってリアルな世界の合わせ鏡に過ぎないことを朝子は理解する。屈折のない人生なんて、不器用でない生き方なんて、本当はどこにも存在しないのだ。
2002-02-09

『神の道化師、フランチェスコ』 ロベルト・ロッセリーニ(監督) /

ロッセリーニはコントだ。


「イタリア映画大回顧」(東京国立近代美術館フィルムセンターで開催中)で上映された1950年の映画。13世紀の伝説の聖人フランチェスコと修道士たちの生活が、オムニバス形式で繰り広げられる。

お金をかけず、プロの俳優を使わず、啓蒙しようという意図すら感じられず、だからこそ永遠に古びないという見本のような作品。溝口健二の「雨月物語」(1953)も、パゾリーニの「奇跡の丘」(1964)も、トリュフォーの「恋愛日記」(1977)も、ぜーんぶこの中に入っている、と私は思った。粗末な家やシンプルな花鳥風月を背景に織りなされる日常の微笑ましさと、聖人を俗人として描いたカラバッジョのような過激さと・・・
つまり、どう解釈していいのかわからない混乱の心地よさ!

修道士の中で最も目立つのは、ちょっと間抜けな食事係の男。彼はある日、病に倒れた友のためにスープをつくるが、まずいといわれてしまう。「脂ののったトンソクが食いたい」と病人にリクエストされた彼は、「善行」と称して他人の飼育する豚の足を斬り、叱られる。当然のことながら、彼の「善行」を飼い主は許してくれないのだ。こんな他愛のない話が相当おもしろい。

同じ修道士が、あるとき自分も布教に行きたいと考え、皆の2週間分の食事を一度につくるという話も忘れられない。まずは大きな鍋を手に入れるのだが、彼は、その鍋を丘の上から転がして運ぶ。大鍋と競争するように丘を駆け下りてくる彼の姿とひたむきな表情は、おかしさを超えた新鮮な光景として脳裏に焼きつく。

そんな努力の甲斐あって、めでたく布教にいくことを許された彼は、遊牧民の村へ出向くが、散々こらしめられた末に殺されそうになる。ただし、「言葉より態度だ」という聖フランチェスコの教えを守り、ずっと馬鹿みたいなうす笑いを浮かべ続けていたおかげで助かるのだ。やったね!

修道士たちを束ねている聖フランチェスコは、もちろん「尊敬すべき人物」として描かれてはいるものの、何かというと、すぐ口を押さえて泣く。なぜ? 泣いてごまかしているとしか思えない動作で、そんなところにも私は笑ってしまった。ほとんどの人が、真剣に見ていたみたいだけど・・・

もっとも単純でインパクトのあるエピソードは、聖フランチェスコが林の中で、らい病の男と出会う話である。杖をつき、よたよたと歩く男を見かけたフランチェスコは、やはり口を押さえて泣き、男を必死に追いかける。フランチェスコは男を助けたいのだ。しかし、男はひたすら歩き続ける。やがて追いついたフランチェスコは、男の肩を抱き、頬ずりする。男はそれをことさらに拒むことはしないが、フランチェスコの体を振りほどくと、再び同じペースで歩き出す。

要するに、フランチェスコの行為は意味をなさないのである。男は、しばらく歩いてから一度だけフランチェスコを振り返り、「何なのこいつ?」というような目でギロっとにらむ。フランチェスコは絶望し、「おお神よ!」とか何とか叫びながら野原に倒れこむ。2人のやりとりは、最小限のセットの中で演じられるコントのようだ。

フランチェスコが倒れた野原を引き気味でとらえたカメラが、ゆっくりと上昇し、空をとらえる。フランチェスコは負けたのだ。聖人も無力だってことなのか。だが、フランチェスコの魂は、いつの日か天国にいくだろうということを、この映像が語ってもいる。

微笑ましくて過激。笑えるし泣ける。真剣に見る人もいればギャグとして見る奴もいる。
すぐれた作品は、時代を超えてさまざまな解釈を許してくれるのだ。おお神よ!
2002-02-08