『あの彼らの出会い』 ストローブ=ユイレ(監督) /


突き抜けた映画から、力の抜けた映画へ。

まだ暗い早朝、都内の最も美しい交差点のひとつを右折したら、目の前のクルマから火が出ているのが見えた。携帯を手にした男が駆け寄ってきて言った。「消火器、積んでませんか?」
消火器ならある。しかも、キャブからの火を消し止めたことだって。でも、パッケージを破って顔を上げると炎は増えており、小さな消火器で太刀打ちできないことは火を見るより明らかだった。流れてくる煙の匂いが、これ以上近寄るなと言っていた。ときどき爆発音がして、炎は街路樹よりも高く、サグラダ・ファミリアみたいな形になった。到着した消防車は、まぶしい光をいつまでも消しとめることができなかった。
私が映画監督だったら、これを撮っただろうか? ハリウッドの炎上シーンにはない「もうひとつの炎上シーン」を。

今年9月のヴェネチア映画祭で特別賞を受賞したストローブ=ユイレの新作「あの彼らの出会い」を思い出した。ユイレ(妻)が10月に亡くなったため、二人の新作は遺作となり、日本最終上映の日には、浅田彰氏の追悼講演と、パリ郊外で2005年10月27日に起きた事件(警察から身分証明書の提示を求められた移民の3少年が、追い詰められた末に変電所で感電死し、若者の暴動のきっかけとなった)の現場を二人が記録した12分のビデオ「EUROPA 2005 - 27 OCTOBRE」の特別上映が加わった。

ストローブ(夫)は「私はテロリストだ」と宣言した上で「アメリカの帝国主義的資本主義が存在する限り、世界のテロリストの数は十分ではない」というフォルティーニの言葉を引用した手紙をヴェネチア映画祭に託したという。

「あの彼らの出会い」は、パヴェーゼの対話詩を、素人っぽい俳優が2人ずつ忠実に再現(発声)するだけという、退屈きわまりない映画。だけど、ほかにはない「突き抜け感」のかっこよさに痺れる人は多いだろう。
「権力の神VS暴力の神」「酒の神VS穀物の神」「木の神VS森の神」「文芸の神VS古代ギリシャの詩人」「現代の狩人VS現代の狩人」の5つの対話を通じて、神々が人間との交流を始めた時代の話から、現代の人間がそのこと(=あの彼らの出会い)を思い出す話までが描かれているのだと推測するが、そんなことはどうでもいいかも。

しかるべき場所と人が選ばれ、ほとんど動きのないまま、しかるべき正確さで読まれるテキストは、あまりにもライブな自然という装置に囲まれて、ものすごくミニマルで、圧倒的にマキシマムな世界へとつながっていくのだ。

「昔の人は、ここではない場所で、パンでも喜びでも健康でもない、別のものを見つけた。海や畑に住む私たちは、パンや喜びや健康の代わりに、大切なものを失ってしまったのだ」

かつてヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞したミケランジェロ・アントニオーニの「女ともだち」(1955)の原作もパヴェーゼだが、こちらは、女の人生がテーマのお洒落な映画。男のせいで自殺する女がいれば、男を捨てて仕事を選ぶ女もいる。パヴェーゼは、たぶん、すごいのだ。アントニオーニが映画化すれば、お洒落にかっこいいし、ストローブ=ユイレが映画化すれば、正しくかっこいい。

だけど、正しい映画は、退屈すぎて眠くなる。まじめで正しい妻ユイレがいなくなり、これからは、夫のストローブ一人で、力の抜けた映画をつくってくれるかも。
妻亡きあとの、夫の脱力に期待だ。
2006-12-27

『アメリカ―非道の大陸』 多和田葉子 / 青土社


初めてアメリカと出会う人のように、旅ができたら。

あふれる情熱がほとばしってしまうくらい好きなことは、仕事にすべきだと思う。
好きなことは仕事にしたくない、お金にしたくないという考えもあるが、情熱のレベルが強すぎる場合は、とばっちりを他人にふりかけてしまい迷惑をかけることになる。はけぐちになった人に「私にそれを向けないで、それを仕事にしたらいいのに」と思われてしまう。仕事というのは、美しいはけ口であり口実なのだ。

ほとばしる情熱を仕事にすれば、それはお金になり、批判にさらされ、打ちのめされ、削られ、乾かされ、磨かれる。そのとき初めて、あふれる情熱がほとばしってしまうくらい好きなことはソリッドな輝きを放つのだ。
というようなことを、多和田葉子の文を読むと感じる。さまざまな国で彼女は自作を朗読している。戦慄のライブだ。彼女が放つ言葉は、特別なモードで共有され、記憶される。

ドイツに住みドイツ語と日本語で小説を書いている彼女が、アメリカに目を向けはじめた。妄想と現実が入り混じる旅ほど、孤独をリアルに映す鏡はない。個人的な妄想の入りこまない現実なんてないのだから、そこを正直にすくい取る彼女の旅は、面白すぎる。でも、そう感じるということは、つまらない別の旅があるってこと。それは不自由な旅、何も感じてはいけない旅、目の前の現実とは一見無関係な妄想を抱いてはいけない旅のことだ。

初めて海外に行ったときのことを思い出した。私が選んだのは西海岸だった。初めて乗った飛行機。初めて見た道路。初めて見たビーチ。初めて食べたビーフボウル。初めて話しかけられたビバリーヒルズ。そのときのアメリカが私のアメリカのはずなのに、記憶からは消えかけている。そのひとつひとつの感覚を「アメリカ-非道の大陸」は呼び覚ましてくれる。
初めての感覚を、人は、どこまで保つことができるのだろう?
2006-12-18

『ヤバいぜっ!デジタル日本―ハイブリッド・スタイルのススメ』 高城 剛 / 集英社


ヤバい男が語る、ヤバい日本。

メールを使って四半世紀、自分でサーバーを立ち上げて23年、年間移動距離は200日間で地球11.3周分、年間CD&DVD購入枚数は3000枚を超え、映像作家として世界中で撮影し、世界中で上映し、毎年夏はDJ・VJとして世界各国でプレイし、世界の多くの観客とライブで触れ合う男。それが高城剛だ。

煎茶道の家元である母を持ち、大学在学中のときからビデオアート作品やCMやビデオクリップをつくってきた彼は、だれよりもテクノロジーを駆使し、だれよりもテクノロジーを愛し、だれよりも世界中を移動し、だれよりも最先端の表現を見続けてきた。と本人が言っている。今も毎週1枚のペースでDVDをつくり、それらはプライベートシアターで友人たちに披露される。

国境を超えて愛をふりまく男が放つ言葉は、圧倒的な説得力をもつ。単純化しすぎたあらっぽい言い方も気になるけど「内容は大事だが二の次で、何よりクイックレスポンスが大事な世の中である」と彼自身が言い切り、それを体現しているのだから。
「どんなにすばらしいゲームより、彼氏からのメールが最重要コンテンツだ」
美少女ゲームをやるより出会い系サイトのほうが楽しい、という彼の指摘は鋭い。

日本がデジタル後進国に成り下がってしまった諸悪の根源は、「コピーはすべて悪いことである」という前提。コピー・コントロールCDの失敗や、デジタル放送の著作権管理システムを糾弾する彼だが、very badとvery coolの両方の意味をもたせた本書の「ヤバいぜっ!」というタイトルは希望に満ちている。今後、経済が日本を引っ張ることはないが、新しい流行文化が日本を変えていくだろうと彼は予測する。

「いまもっとも日本でスピードがあるのは、20代の女性だろう。流行から思考までハイスピードで彼女たちは動いている。かつ、姿勢が柔軟である。あとのほとんどの人々はスロー志向で硬質である」
うちの事務所には、彼の後輩にあたる女子大生が常時何人かいるけれど、彼女たちは全然ひと括りになんてできない。首根っこをつかんで揺さぶりたくなるほど何も知らない子もいれば、ストーカーにつきまとわれっぱなしのヤバい(very bad)子もいるし、ネットワークを駆使してさっさと海外に移住しちゃうヤバい(very cool)子もいる。

だが、彼にとって親和性が高いのは、20代の女の子であるというのはよくわかる。男は、彼にそれほど素直についてこないだろうから。男は、彼の並外れた体力とフットワークとコミュニケーション力と目立ちすぎる外見に嫉妬するだろうから。美食の王様、来栖けいの並外れた胃袋と舌とスリムな容姿と謎の経済力に嫉妬する男が多いのと同じ。出過ぎるクイは、同性から打たれちゃうのである。高城剛のような人が反感をもたれてしまう限り、日本はデジタル後進国のままかもしれない。

「なぜ、過去の市場を分析するマーケットコンサルタントを重視し、未来の市場を切り開くクリエイティブな人々を重視しない?」
彼の叫びはまっとうな叫び。広告業界ですら、DJやヤバいやクールにいくつもの意味があることなんて興味がないって人が多いんだから。こういう仕事をしながら、一体情報をどうやってシャットアウトしてるんですかと聞きたいくらいだ。

高城剛はここ数年、徹底的に身体を鍛えているという。3年目に入り、ますます鍛え上げており、何かが変わったことは確かだというのだから参ってしまう。
「僕が好きなものは、デジタルグッズでもインターネットでもなく、新しい可能性である。そのひとつが、自分の身体と脳である」だってさ。まじでヤバいね、この男。
2006-12-03

『サナヨラ』 大森克己 / 愛育社


フレッシュな遺影たち。

写真集に出会った。買ってしまった。買わされてしまった。
表紙のアイスキャンディーと帯紙のカラーコーディネートにやられたのか。サナヨラというわけのわからないタイトルに魅せられたのか。大森克己という人間の魂に突き動かされたのか。

4年かけてつくられた写真集らしい(ロバート・フランクみたいに焼き直しばかり出してる人とはちょっと違った)、脈絡はないけれど完成度の高い写真が並んでいる。この誠実で丁寧な世界が、自分には必要だったんだと思う。分けてほしかったんだと思う。写真集が「必要」になるなんて、ヤバさ半分、うれしさ半分。

なぜ、写真には、人柄が出るのだろう。生き方が出るのだろう。どんなものを前にしても、今の彼が撮れば、きれいなっちゃうんだろうか? 電車の中で女性の足を盗み撮りした1枚も、手のひらにハチがいっぱい乗ってる1枚も。ホンマタカシでも平間至でもない、ストレートすぎる健全なまとまりだ。この人は、カメラマンである前に、人として人気があるんだろうなと思わせるような。心洗われるというよりは、普通に生きようぜって突きつけられるような。

フレッシュな遺影たち。そんな感じ。

彼自身によるあとがきで、フィンランドで出会ったという「サナヨラ」の意味が明らかになり、この言葉が断然、身近になった。
「とても誠実で、はじまりとおわりが同時にある。よろこびとかなしみのニュアンスがおおよそ半分づつで、笑いのスパイス少々。そして全然ハードコアじゃない。僕の新しいあいさつだ」

木枯らし1号が吹いた早朝の東京の空と光はありえないほど輝いていて、これならまだ大丈夫、と私は思った。
2006-11-12

『天使の卵』 富樫森(監督)・村山由佳(原作) /


奇跡のように映画化されたラブストーリー。

原作者の村山由佳さんは言う。
「持ち込まれた映画化・ドラマ化の企画は20や30ではきかなかったが、どういうわけかいつも最後の1ピースがうまくはまらなくて、実現にまでは至らなかった。でも、今回は初めから何かが違っていた」

原作もシナリオも、スタート地点に過ぎないのだ。
私は、映画を見終わってから、パンフレットに収録されていたシナリオを読んで驚いた。完成した映画とは、似て非なるものだったから。この映画が、現場でのキャストと演出の力、そして編集の力によって完成したことがわかる。

とくにセリフ。どんなシーンでも、的確すぎる言葉だけを、いきなりダイレクトに発するアユタ(市原隼人)の演技は驚愕に値する。誰が考えたんだ、こんなセリフ? もしかすると、市原隼人という俳優は、こんなふうに毎日を生きているのだろうか? 私も、他人に向かって発する言葉を、厳選しなくちゃと思った。セリフを厳選することで映画が変わるように、日常の言葉を厳選することで、人生はもっと美しくなるかもしれない。

教師役のナツキ(沢尻エリカ)を、冒頭からあんなにキラキラした印象に撮ったのは、誰のアイディア? 彼女の存在の輝きとナレーションこそがこの映画の生命で、死や病気や偶然を多用した甘いラブストーリーの欠点を、クールに払拭しきっている。
映画館ではスタッフが「沢尻エリカが絶賛したポップコーン」を売っていた。客席にまで一陣の風をもたらす沢尻エリカ! 彼女が、この映画の天使なのだ。

映画やドラマに脇役は存在しない。アユタ(市原隼人)とナツキ(沢尻エリカ)とハルヒ(小西真奈美)だけでなく、人物や風景や小道具はすべて主役である。そんな確信を抱かせるほど、この映画は1シーン1シーンに手抜きがなく、一言一言にリアリティがあり、そこに注ぎ込まれている集中力は半端じゃない。

アユタは、ナツキとつきあっていたが、ある日、ナツキの姉のハルヒに心変わりする。ひどい話だ。だけど、この三角関係、全員が純粋でまっすぐで正しいのだから参ってしまう。
アユタのような男は、ヤバイ。こんなふうに口説かれて、気持ちの動かない女はいないし、今は頼りにならなくても、未来をかけてしまうに決まってる。彼は、口説き方もすごいけど、ふり方もストレート。こんなふられ方は痛すぎるけど、ちょっと考えればいい男だってわかるから、絶対ファンになる。一瞬傷ついても一生は傷つかない。男は、こんなふうに女をふればいいのです。

ひとりだけ、純愛ではない長谷川(鈴木一真)という男が登場するが、ハルヒはアユタに「ごめんね、ああいうのを、かっこいいと思ってるのよ」と言い、両者を救う。修羅場でも、長谷川の去っていく姿は悪くない。最低なヤツなのに、心配になってちょっと追いかけてみたくなるような、そんな余韻を残す演出になっている。べたべたなシーンで泣かせるのではなく、ミニマムなシーンの集積から反響する余韻の美しさで泣かせる映画なのだ。

長回しの映像は心に残る。走るナツキ。移り変わる季節。京都の風景。
映画を見ているときは、演技やセリフに心を奪われてしまうから、それらは、あとから、美しい記憶のように、やってくる。
2006-11-01

『ストロベリーショートケイクス』 矢崎仁司(監督)・魚喃キリコ(原作) /


不器用な女たちを、あなたは抱きしめたいか?

里子(池脇千鶴):フリーター
ちひろ(中越典子):ОL
秋代(中村優子):デリヘル嬢
塔子(岩瀬塔子):イラストレーター

4人の女たちは、とってもリアルだ。「女の世界はこの4タイプで成り立っているんじゃないか?」と言いたいくらい。私は見終わった後、自分の言動が、4人の入り混じった、わけのわからない中途半端さに傾いているのに気がついて動揺した。

里子は文句なしに可愛いが、ちひろはぶりぶりだし、秋代はコワいし、塔子はイタい。里子以外はあまり近づきたくないタイプだ。しかし、4人全員が体を張った演技をしており、目が離せない。とくに塔子の存在感にはすごいものがあるなと思っていたら、彼女を演じている岩瀬塔子とは、原作者の魚喃 キリコさん本人であった。

4人の共通点は、失恋体験。この映画は、失恋が女にとってどれほどキツいものであり、どれほど重篤な影響をその後の人生に及ぼすかって話だ。女って、こんなにしんどい生き物なのか? 痛々しすぎる。監督は原作を読んで「4人を抱きしめたくなった」というが、本当だろうか。男はふつう、こういう女性特有のメンタリティなんかには興味がないんじゃないだろうか?

写真家の藤代冥砂は、この映画を見て「私は女の子の心変わりとか生活とかもやもやには興味がないけど、表情は目で追ってしまう」とコメントしている。正直な感想だと思った。さすが、世界の女たちとの赤裸々なSEXを撮り続けた旅の写真集「ライドライドライド」で「永遠の愛は知らないが、女の、気紛れな、一夜限りの優しさなら知っている」という名言を吐いた男である。

4人に言いたい。自分のことを大切にしてくれない人、愛してくれない人、尊重してくれない人に、1ミリでも執着してはいけない。それはもう、絶対にそうなのだ。そいつは、あなたにとって、ダメな男なのだ。そこを、女は間違えてしまう。何とか決着をつけたい、納得したい、いい思い出にしたいと願い、たとえ相手に愛や情のかけらもなくても「私が彼を愛しているからいいの」「私がいないと彼はダメなの」というような間違った母性を発揮してしまう。もったいないことだ。

しかもこの4人、仕事でもつらいことがふりかかる。仕事も恋愛もうまくいかなかったら、一体どうすればいいのでしょう、女は。

男たちの言動が、ひどすぎるのか? そうも言えるが、実はそうじゃない。彼女たちと関係する男たちは、無視していい。たいしたヤツは一人もいないから、傷つく必要はない。だが、50歳のときに里子を産み、今は養老院で暮らす里子ママ(72歳)の恋人である田所(70歳)と、里子がバイトする中華料理店のリー(30歳)の2人は、まともなことを言う。リーのつくるラーメンはマズそうだが、そんなことは欠点のうちに入らないだろう。いちばん健全で可愛い女、里子のまわりにだけ、いい男(ただし外国人と老人)がいるというのが、この映画の最大のリアリティだ。
2006-10-14

『山椒大夫』 溝口健二(監督) /


世界で最もマネされた日本映画。

9月5日付の朝日新聞には、「溝口健二没後50年プロジェクト」のために来日したスペインのビクトル・エリセ監督が、兵役中だった1964年、マドリードで「山椒大夫」を見たときのエピソードが掲載されていた。最後まで見ることは門限を破ることだったが「映画は懲罰を要求しているかのようでした。おかげで映画史上で最も美しいフィナーレを見ることができたのです」と監督は語る。 門限破りの懲罰とは、一晩中じゃがいもの皮をむくこと。彼は、頭の中で映像を思い返しつつ「人生を凌駕する映画がある」と悟ったという。

私のイタリア語の先生はクレモナで生まれ、モーツァルトを愛し、大学で建築を教え、イタリアワインとバイクに目がないお洒落なエピキュリアンだが、日本に住むようになったきっかけは、なんと溝口健二の特集上映を見たことだという。先日、彼の手引きでシエナ派を代表する中世の世俗的な画家、ロレンツェッティのフレスコ画「よい政府とわるい政府の寓話(L’allegoria
del buono e cattivo governo)」を詳細に検証したのだが、そこにはまさに、映画「山椒大夫」の世界が展開されていた。

ジャン=マリ・ストローブはこの映画を「もっともマルクス主義的な映画」と言い、ジャン=リュック・ゴダールは、佐渡の海辺をパンするラストショットを自作に引用した。一体なぜ、これほどまでに外国人にウケるのか? 日本での人気ナンバーワン溝口映画は「雨月物語」のような気がするけど…。そう、「山椒大夫」はあまりにもマジすぎて、見る側にもつい力が入ってしまう。そのピュアな強度は、日本人の感性を通過してユニバーサルな領域に到達しているがゆえに「この映画がいちばん好き☆」だなんてビクトル・エリセ監督のように無邪気に言い放つことを難しくする。劇場では、水を打ったような静けさの中にすすり泣きの波紋が広がり、まさに安寿(香川京子)の美しい入水シーンそのものだ。パーフェクトに構築された演劇空間は、暗く悲しく残酷であるだけでなく、時にコメディの要素すら加わるのに、観客は笑うことができない。ジャンルを超越したすごいものを見ちゃったという気分になる。

説教でもなく、感動の押し売りでもなく、政治的なプロパガンダ映画でもない。北朝鮮の強制労働所のマル秘映像を見ているような極端な階級社会の描写が続くのに、これは、日本のエスノセントリズムを超えた世界のスタンダードになったのだ。溝口健二は、ひたすら美しい音楽を奏でるように、この映画を真剣に撮っている。楽しげなシーンがひとつだけあって、その変奏シーンがあとでもう一度出てくるのだが、見事な音楽的リフレインとしかいいようがない。

この映画のメッセージは2つある。「時間をかけること」と「血と信念をつらぬくこと」。環境にあわせてころころと器用に適応することが良しとされる今、圧倒的にたりないものかもしれない。


*「溝口健二の映画」連続上映中
*1954年 ヴェネチア映画祭 銀獅子賞受賞
2006-09-21

『Vintage '06 ヴィンテージ・シックス』 石田衣良,角田光代,重松清,篠田節子,藤田宜永,唯川恵 / 講談社


どのワインがいちばん美味しいか?

6人の直木賞作家が、ワインをテーマに短編小説を書いた。
各作家が選んだワインは以下の通りである。

石田衣良・・・岩の原ワイン
角田光代・・・トカイ・アスー・ヒツル1995・6プトニュス
重松清・・・シャトー・ベイシュヴェル1962
篠田節子・・・シュヴァリエ・モンラッシェ1990
藤田宜永・・・シャトー・オー・ブリオン1971
唯川恵・・・登美

いちばん美味しかったのは、角田光代だ。彼女の小説だけは、意味よりも前に味がある。他の人のワインは、意味ありきなのだ。この固定観念は何? ワインというのは格式があって気取ったものである、というようなイメージに縛られている。小説という自由な形式なのに、みんなワインが嫌いなんだろうか? まずはラベルがあって、うんちくや先入観があって、それから味がある。最初から結論がわかっているような感じで世界が広がらず、どこへも行けない。

角田光代の小説「トカイ行き」は、まず味があって、それから「トカイ」というラベルがあって、そこから物語が紡がれ、最終的に深い意味につながってゆく。想像力が無限に広がり、思いがけない地平に着地するのだ。要するに、彼女はお酒の魅力を知っている。たぶん酒好きで、酒飲みだ。ワインというテーマなど与えられたら、美味しそうなシチュエーションが無限に浮かぶのだろうし、その小説は、読者を別の場所へかっさらってくれる。これが小説だし、これがお酒だ。

「トカイ行き」の主人公である「私」は、8年つきあった新堂くんにふられ、仕事も辞めて出かけたハンガリー旅行で、神田均という日本人に出会う。

「なんとなく彼を好ましく思っている自分に気がついた。もちろんそれは恋ではないし、友だちになりたいという気持ちとも違う。うらやましい、というのがいちばん近かった。昨日会ったばかりの、どこへでも軽々と移動していくらしい男の子を、私はうらやましく思っていた。その軽々しい足取りを、ではなく、たぶん、彼の揺るぎなさみたいなものを」

ワインに接するときと同じだ。肩書きや名前や彼がなぜそこにいるかなどという理由は、あとからやってくる。こんな人と、旅先ですれちがって、うらやましく思えて、少しだけ自分の中にそれを分けてもらう。これ以上、素敵な体験があるだろうか?

旅とトカイ・アスーと神田均の魅力があいまって、甘い余韻にしびれてしまう。
2006-09-12

『サプリ(1~4)』 おかざき真里 / 祥伝社


月9広告代理店ドラマにおける伊東美咲と亀梨和也のリアリティ。

フジ月9ドラマ「サプリ」から目が離せない。
主役はCMプランナーの藤井(伊東美咲)とアルバイトのイシダ(亀梨和也)。ロケ地は東銀座のアサツーディ・ケイ本社。この手のオフィスラブものには以前から引っかかるものがあったが、うちの両親が出会ったのは、母が勤めていた丸の内の某社で、そのとき父は学生アルバイトだったのだと先日知った。マンマミア! 父のトレンディドラマ好きは、そういうことだったのか? 「サプリ」も見ているに違いないが、感想はこわくて聞けない。

「サプリ」には、外からの視点がある。イシダ(亀梨和也)は、アルバイトならではの、お気楽でちょっと鬱陶しくて、だけど新鮮な空気を運ぶ若者を好演しているし、フリーコピーライターの柚木(白石美帆)という個人的に見逃せないキャラも登場する。火花を飛ばしあう営業の田中(りょう)と制作の藤井(伊東美咲)の2ショットは<資生堂のモデル×2>にしか見えないけど、広告代理店にキャッチーな美女が多いのは事実。先日、電通本社で受付の女性たちを前にして、私と一緒にいたイシダ(亀梨和也)に似ていなくもないコピーライター志望のNは「全員エビちゃんに見える!」と叫んだくらいだ。

原作を読んだが、著者はかつて博報堂に勤めていたそう。このリアルは<広告代理店勤務>と<フリー>の両方を経験した<女>にしか描けないと思う。原作には、柚木が仕事を切られるシーンもある。「彼女、女の割に高いんだよねー料金。変にこだわるしさあ。使いづらいよなー」って。

仕事で疲弊して、毎日がいっぱいいっぱいで、考えること山積みで、それでも恋愛よりはラクで、とはいえ本当に大切なものが何かは年齢と共に問われていて、不倫や二股や三角関係や片思いやいろいろあるけど、救いというのは案外小さな部分にあって、どんなに忙しくてもそれだけは見落とさず、大事にしてつなげていくことが人生だっていう、そんなことを「サプリ」は気づかせてくれる。

「化粧品とか 服とか 流行とか おいしいものとか
武器はそろっているのに いっぱいあるのに
たったひとつ持ってないもの かわい気」

「このまま光速で働いたら 女以外の別の生き物になれそうな気がする
もしかしたら 私はそのために働いているんじゃないかしら」

「仕事がありがたいのは 他人とご飯が食べられることだ
あたり障りのない会話をする
おいしく食べるためにみんなで気を遣い合う
食事をキチンとエネルギーにする時間 大切なことだと思う」

「会社っていうのは『失敗を少なくする』というシステムだ
何事にもフォローする人がいてノウハウがある
その分個人の気持ちが置いていかれたとしたも
それが『みんなで仕事をする』ということです」

「仕事も私の一部なわけで
しかもそのウエイトがかなりの割合を占めている私は
それをはずされたとたんに途方にくれる」

「だって疲れた顔した女に仕事頼もうと思わないでしょ?
笑顔ひとつで仕事回るなら安いものよ」

藤井を見て思い出すのは、某広告代理店の先輩ディレクターS。彼女はいつも夜遅くまで会社にいるが、いきなり電話すると意外とあっさりつきあってくれる。で、限りなく飲める。理想のタイプはと聞くと「結婚してない人!」と即答する。運転しながら助手席の私と話しながら電話も受けながら資料をまさぐる彼女を見ていると、ひとつしか集中できない私は、組織のリーダーなんかには絶対なれなくて、だからフリーなんだなと納得したりする。Sは藤井に似ているけど、やっぱり違うから、私は今日も「私家版サプリ」を勝手に構築して、頭の中で楽しむのだった。
2006-8-21

『Isole(群島)』 アントニオ・タブッキ / Universale Economica


タブッキの海。

長かった梅雨が明け、小舟という名のオープンカーで海辺の町へ行った。
夏の陽射しは、サプリメントからは摂取できないヴィヴィッドな栄養素をチャージしてくれる。
ほてった肌をテラスで落ち着かせ、ジャコメッティの彫刻を思わせる細いグラスにビールを注ぐと、水平線の近くにキラキラと輝く島が見えた、ような気がした。
タブッキの短編をつれて行くだけで、そこはティレニア海になる。

「Isole」の主人公は、トスカーナの島で刑務所の看守をしている。その日は、年金生活前の最後の仕事の日。手術が必要な男の囚人を、本土の病院に連れていくのが彼の任務だ。彼にとっても囚人にとっても、別の意味で、これが最後の旅となるだろう。船の時間はゆっくりと流れ、彼はオレンジの皮をむく。北に住む娘に宛てて、心の中で手紙を書くのだった。

仕事とプライベート、過去と未来、現実と空想が自在に入り混じって、オレンジの皮とともに海面へ消えてゆく。娘のマリア・アッスンタとその夫ジャンアンドレアのこと、彼らのもとへ行くつもりはないこと、これまでの自分の人生のこと、亡くなった妻のこと、明日からの年金生活のこと、そして、目の前の囚人のこと。

彼の想像は具体的だ。チンチラウサギを飼う計画については、飼育方法にまで話が及ぶし、これから食べるランチについては、カッチュッコ(リヴォルノ地方の魚介スープ)から始まり、メバル、ズッキーニのフリット、マチェドニア、チェリー、コーヒーまでテーブルに並ぶ。

正午前に着いた港では、犬がけだるくしっぽを振り、Tシャツを着た4人の若者がジュークボックスのそばでふざけている。ラモーナという懐かしい歌がリバイバルし、トラットリアはまだ閉まっている。彼は、赤いニスが剥げかかったポストに、囚人から託された手紙を投函する。手紙の宛名はリーザとあるが、彼は囚人の名をおぼえていない。

それらすべてが、小さな点のような群島のイメージに結晶する。
強い陽射しが水平線をきらめかせ、島が見えなくなるとき、彼の孤独はくっきりとするのだ。
タブッキの真骨頂は、海の描写だと思う。
手紙、音楽、そして、おいしそうな食べものも欠かせない。


*Piccoli equivoci senza importanza (1985)に収録
2006-08-02

『わらの男』 ピエトロ・ジェルミ(監督) /


男には、愛人以前に友人が必要だ。

W杯の決勝で、マテラッツィはジダンに何と言ったのだろう?
「娼婦の息子!」(figlio di puttana)と中傷したという説があるが、この言葉の意味は伊和辞典を引いても「こんちくしょう」であり、単なる悪態にすぎない。ジダンは以前ユヴェントスに所属していたからイタリア語は堪能なはずだが、ユヴェの本拠地である北のピエモンテ州とマテラッツィの出身地である南のプーリア州では、言葉もカルチャーも雲泥の差。南イタリアには、トマト、黒オリーブ、ケッパー、アンチョビを使った「娼婦風スパゲッティ」(spaghetti alla puttanesca)というのがあるくらいだ。

しかし、マテラッツィが「わらの男!」(uomo di paglia)と言ったのだとしたら?
この言葉はT.S.エリオットの詩「The Hollow Men」(うつろな男たち・1925年)に出てくる「Headpiece filled with straw」(わらのつまった頭)に由来するそうで、英語でもフランス語でもイタリア語でも、わらの男といえば、中身のないつまらない男という意味である。男にとって、これほど致命的な中傷の言葉はないんじゃないだろうか。どこまで掘り下げても実態のないわらのイメージの恐ろしさに比べると、「娼婦の息子」という言い方は出自がはっきりしていて、ほめ言葉にすら感じられる。

「わらの男」(1957)は、結論がタイトルになっているような映画だが、本当に救いがない。監督自身が演じる主人公の男は、妻子が不在の期間に、同じアパートに住む美人だがちょっと影のある22歳の女に手を出してしまう。妻子が戻ってきたとき、彼は女と別れようとするが、女は取り乱し始める。こうして彼の生活は破滅へと突き進む。

もともと家庭を捨てる気などない「わらの男」の中に、女への「面倒だな」という気持ちが生まれるあたりが面白い。いかにもありがちな不倫ストーリーだが、1957年の映画であり、ディティールはあまりにみずみずしい。男のずるさ、女の未熟さ、妻の怖さ、口説いた側ではなく口説かれた側が壊れてしまうという理不尽さ。恋愛の残酷な本質がつまっていて、身につまされる。

諸悪の根源は「わらの男」にあるが、つきあう相手の選び方もまずかった。相手が成熟したものわかりのいい女なら、違う展開になっていたはず。でも、それじゃあ、ぜんぜん面白くない! わらの男は、自分がわらであることにすら気づかないだろう。この映画は、若く美しい女の未熟さによって、もう若くはない男のダメさを際立たせたことに意味がある。

「わらの男」に唯一救いがあるとすれば、それは男友達だ。彼は、わらの男を客観的に見ており、心配そうに不倫の協力をし、破綻したときも見捨てない。この友人のおかげで、わらの男は、かろうじて生き延びているのかも。そう、わらでできているような男は、互いに助け合わなければいけない。誰かの友達であるとき、男は、わらの男ではなくなるのだ。

イタリアでは同じ頃、もっとすごい破滅映画「さすらい」(1957)がミケランジェロ・アントニオーニによって撮られた。ソフトなタイトルと思いきや、原題は「叫び」。それこそ、元も子もない結論そのままのタイトルだ。破滅に向かって一直線のストーリーは鮮やかすぎる。
「さすらい」の主人公には男友達がいないから、それは、真の破滅となるのである。
2006-07-25

『ジダン-神が愛した男』 ダグラス・ゴードン&フィリップ・パレーノ(監督) /


サッカー × アート = 見たことのない肖像。

2005年4月23日のレアル・マドリード対ビジャレアル戦。
ヨーロッパで初めて使用される高解像度カメラを含む17台のカメラがジダンを追った。
監督は、現代美術の分野で活躍する2人の映像アーティスト。この映画をジャンル分けするなら、商業映画でもなく、スポーツドキュメンタリーでもなく、ファンのための映画でもない。まだ誰もやったことのないことに挑戦した実験映画だ。

準備に1年、製作に1年を費やし、カンヌ国際映画祭に出品。日本では話題になりそうもなかったのに、W杯決勝の「頭突き事件」がタイムリーなプロモーションとなった。この映画(試合)の結末も、たまたま「ジダンのレッドカード退場」だったのだから。

上映時間が95分で、終盤に退場ときいて、試合の流れをリアルタイムで撮ったドキュメンタリーを想像した。ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズのライブを撮った「ストップ・メイキング・センス」のようなものを期待して劇場へ行ったのだ。仕事で映像制作を請け負うことになり、参考にしたかったということもある。

ジダン本人は、映画の話を最初は断ったものの「これまでに一度もこういう作品が作られた事が無い」ことに関心をもち、2人の監督に会ったという。完成後、ジダンはこう言っている。
「僕はあんな顔をしていたんだね。普段目にする写真やテレビでは、あの集中力や緊迫感までは感じられない」
「今言えるのは、これは衝撃的な映画だという事。誰もが気に入るかどうかは分からないけれど、それはすぐに分かる事だね。力強い作品だという事は確かだよ。重要なのは、聞いたこともない音を聞くことができて、見たこともない映像を見ることができる、という事。テレビで見慣れている試合など足下にも及ばないよ」

テレビのサッカー中継のわかりやすさというのは驚異的だ。この映画は、ボールを追わずジダンを追うから、試合の流れがよくわからない。ボールは何度もジダンのもとに来るし、彼は見事なパスを出す。ベッカムが彼に抱きつき、ロナウドや他のチームメートとのやりとりもある。レッドカードが突きつけられ、退場する時の観客の反応は、彼を英雄扱いしているみたい。だけど、ジダンが見ているものは、基本的に映し出されない。ジダンを見つめるカメラばかりなのだ。

そのことによって、そしてジダンの寡黙さや、身軽とはいえない彫像のような雰囲気も手伝って、内にこもった、スポーツらしからぬ「肖像映画」になっている。他のメンバーや観客を、流れる背景としてしかとらえないことで、チームプレーであるはずのサッカーが孤独な営みに見える。テレビの映像がゲームなら、この映画はサッカーそのものに肉薄したといっていい。

「美術手帖」8月号によると、2人の監督は「実生活を記録するベストな方法は、主観的な視点を無限に増やすことだ」というパゾリーニの言葉をヒントにしたという。17人のカメラマンが、ひとりのプレーヤーを主観的に追うことで「サッカー生活」の実像に近づいた。

主観的な視点を増やすことは、ドキュメンタリーから遠ざかることを意味するんじゃないだろうか? とても広告的な実験だと思う。編集にかけた時間と作り込みの凄さは、半端じゃないはず。ジダンの息遣いまで聞こえるような臨場感ある音づくりやナレーションもそうだし、ハーフタイムには、その日に起きた世界情勢の映像が流れる。音楽は、今年のフジロックにも出演するイギリスのロックバンド、モグワイの書き下ろしだ。


*2006年フランス=アイスランド
*シネカノン有楽町で上映中
2006-07-18

『F1ビジネス-もう一つの自動車戦争』 田中詔一 / 角川書店


カネと政治にまみれても、ピュアであり続ける方法。

昨年のアメリカGPでは、ミシュランタイヤを使用している7チームがレースを欠場し、ブリジストン3チーム、6台のみでレースがおこなわれた。観客の怒りはどれほどのものだったろう? そして、そこにはどんな政治的対立構造があったのか? 

HRD(ホンダ・レーシング・ディベロップメント)の社長として、1チーム100人が毎週のように海外出張し「超高額(高級とは限らない!)ホテルでの連泊」を繰り返す「F1サーカス」を仕切ってきた著者によって、カネと政治にまみれた究極のブランドビジネスの実像が明かされる。

著者は当初、コース裏のガレージで違和感を覚えたという。
「自チームの車が故障や事故でリタイヤすると、何十人ものスタッフが一斉に店じまいをはじめたのだ。レースはまだ戦われている最中なのに、である。彼らの仕事は、誰がこのレースで勝つかを見ることではない。自分達のドライバーをいかに速く走らせるかが、役割なのだ。だから受け持ちのドライバーがリタイヤしてしまえば、他チームの勝敗など関係ない」

今年のモナコGPでは、リタイヤしたキミ・ライコネンが、海岸線をとぼとぼ歩く姿が俯瞰で映し出された。それは映画のような光景だった。彼はピットまで歩くのだろうか? カメラはすぐにサーキットに戻り、次に彼が映し出されたのはヨットの中。レースはまだ戦われている最中なのにクルージングですか! しかし、北欧のアイスマンと呼ばれる彼の放心したような無表情は変わらぬまま。まるで「水の中のナイフ」(1962年byポランスキー)の1シーンみたいで、私は少しだけキミ・ライコネンのファンになった。

7月2日のアメリカGPでも、キミ・ライコネンはチームメイトに追突され、あっけなくリタイヤ。この事故は8台がからむ多重クラッシュとなり、ニック・ハイドフェルドのマシンなんてクルクルと宙を舞い、何度も横転。だけど無傷だってさ。すごい。私は、これを見るためにF1を見ている。いかに人間の能力は、スピードの限界に挑みつつ危険を克服できるのか? そこんとこを限りなく信じたいのだ。レース中に死傷事故を起こすようなクルマには、興味がない。

アメリカGPの結果は、フェラーリのワンツーフィニッシュに加え、フィジケラ(ルノー)、トゥルーリ(トヨタ)、リウィッツィ(トロ・ロッソ)という3人のイタリア人ドライバーがすべて入賞という「ビバ☆イタリア」状態であった。これはやはり、W杯でアズーリたちが、カテナチオにしてカッティーボな素晴らしすぎるプレイを披露し続けているせいにちがいない。

できれば、イタリア車にはイタリア人ドライバーに乗ってほしいものだが、なかなかそうはいかないのだろう。「トップ争いのできるドライバーは世界中でせいぜい10人程度しかおらず、有力チームがその少ないパイを奪い合う構図」なのだから。しかし、だからこそ、選ばれし者たちの戦いは面白い。カネと政治にまみれ、怒りにぶち切れることもしょっちゅうだろうが、ほとんどのドライバーは、サーキットを走るのがとにかく楽しくてたまらない、という顔をしているからだ。

ただしキミ・ライコネンだけは、いつも無表情!
昨日、公式HPで引退を表明したナカタと通じるものがあるかもしれない。F1ドライバーもサッカー選手も、ラテン系の人種ばかりではないのである。

「・・・それは、傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった。これまでは、周りのいろんな状況からそれを守る為 ある時はまるで感情が無いかのように無機的に、またある時には敢えて無愛想に振舞った・・・」(nakata.netより)
2006-07-04

『インディアナ、インディアナ』 レアード・ハント(著)柴田元幸(訳) / 朝日新聞社


映像のような言葉にまみれる快楽。

「インディアナはアメリカで最高の州だよ、とシャンクスは言い、いまこうしてるとそれほどよくも思えないけどなとノアは言って、どうしてそう思うのと訊いた。
どうしてインディアナがアメリカで最高の州か?
そう。
シャンクスは肩をすくめた。
さあなあ。故郷だからな。ここから出られるわけじゃなし。だいいち、いい名前じゃないか、そうだろ?
インディアナ、とノアは言った。
インディアナ、とシャンクスも言った。
焚き火が消え、また燃えた。コウモリだろうか、何かが木々のあいだを抜けていくのが見えた。そういえばこんなのあったな、とシャンクスは言って、髪にコウモリがいるインディアナの女性をめぐる歌を歌いだしたが、じきにやめた」
(「インディアナ、インディアナ」より)

そうなのだ。この本はタイトルがいい。インディアナというのはいい名前なのだ。さらに、柴田元幸が惚れ込み、ポール・オースターが絶賛しているというのだから、この本を読まずにすませる理由なんてない。

私が思い出した現実の光景がふたつある。
ひとつめは、病院から出てきた少女。彼女は声をふりしぼるように、同じようなことを繰り返しわめきちらしていた。「こいつらは私を殺そうとしてるんだよ!」 彼女の腕は、ふたりの女性によって両側から支えていた。おそらく母親と祖母だろう、彼女自身も逃げようとはしていなかった。3人はごく普通に歩いており、彼女のわめきだけが場違いだった。
ふたつめは、終電のまったりした静寂をつんざくように泣き出した乳児。母親に抱かれているのだろうが、いつまでも泣き止まない。疲れた大人ばかりに見える車内で、乳児の泣き声だけが場違いだった。

どちらも、忘れていたものを思い出させるような光景だった。現実と正反対の世界。つまり、現実にたりないもの。少女も乳児も、正直なんだと思った。たぶん、ものすごく不幸なわけではないのだが、わめきたいからわめき、泣きたいから泣いている。周囲の状況に配慮なんかせずに。

「インディアナ、インディアナ」も、そういう現実にたりないもので、できている。それは、ふだん目にすることのない世界だ。時間と空間が交錯し、記憶と夢と目の前の風景が一緒くたになっている。ピカソのようなダリのようなカフカのような。

そうだ、いちばん近いのは映画だ。ニルヴァーナのヴォーカル、カート・コバーンの自殺直前の姿を描写した「ラストデイズ」(2005)。
ガス・ヴァン・サントによって撮られたこの映画は、主人公(マイケル・ピット)が森をさまよい、川で泳ぐ野性的なシーンから始まり、家にやってくる友達やセールスマンやレコード会社の重役とのやりとりや一人での演奏シーン、そしてラストの死のシーンにいたるまで、あまりに趣味っぽい。こんな個人的な趣味のみで撮られたような映画は、いつまでもだらだら見ていたい。

「インディアナ、インディアナ」も同じような印象を残す。「ラストデイズ」が現実の死からインスパイアされた作品であるように、強烈な体験がもとになっているのだと思う。この手の強さと怖さと美しさは、単なる妄想の中からは、生まれない。

進歩とか成長とか老化とかいう、現実的な時間感覚とはかけ離れている。「インディアナ、インディアナ」は最初から「死のようなもの」と隣り合わせだからだ。それなのに「不幸」からは遠く、記憶の順序はばらばらで脈絡がない。要するに、この小説の言葉は、言葉などではなく、趣味的に写し撮られた映像なのだ。
2006-06-22

『夜よ、こんにちは』 マルコ・ベロッキオ(監督) /


少女漫画のように美しい政治映画。

何時に人とすれ違っても「こんにちは」と言ってしまう。
お昼前後には「おはよう」なのか「こんにちは」なのか、深夜から早朝にかけては「こんばんは」なのか「おはよう」なのか、とっさの判断が難しいからだ。馬鹿のひとつ覚えみたいに「こんにちは」と決めてしまえば悩む必要がない。
いずれにしても、深夜から早朝にかけては「おはようございます」または「こんばんは」と相手から返されて(直されて)恥ずかしい思いをするわけですが。

というわけで「夜よ、こんにちは(Buongiorno,Notte)」というタイトルに特別なものを感じなかった私だが、監督はエミリー・ディキンソンの詩“Good Morning-Midnight”にヒントを得たそうだ。どうせなら「夜よ、おはよう」にすればよかったのにと一瞬思ったが、この映画には「おはよう」は爽やかすぎて似合わないし、そもそもイタリア語には「おはよう」という言葉がない。朝から午後4時ごろまで“Buongiorno”で通せてしまうのだから、夢のような快適さだ。


「夜よ、こんにちは」は、1978年ローマで起きた「モロ元首相 誘拐暗殺事件」に新しい解釈を与える映画。人間の希望というのはパーソナルな部分にしかないのだという、イデオロギーを超越した「場所」を提示してくれる。それは想像力といってもいい。非力だが、無限の可能性をひらくかもしれない扉だ。

若く美しいのにお洒落もせず、図書館で地味に働くキアラ。彼女に向かって同僚の男は言う。「もっと服装を変えたらよくなるのに」「この仕事で満足してるの?」と。まるで少女漫画のような設定だ。キアラは極左武装集団のメンバーだが、ごく普通の生活者を装い、周囲の目を欺きながら仲間の男たちをサポートしている。

彼らが共同生活を営み、元首相を監禁するアジトは、新婚夫婦などが住むローマの素敵なアパート。その一室が改造され、監禁という仕事がおこなわれている。陰鬱な室内のシーンが多いが、光あふれるベランダ、ネコ、カナリア、上階に住む住人、その赤ん坊などが、外の空気を運び、キアラがメンバーと一緒に新婚夫婦を装って物件を下見するオープニングから、ある人物がそこから出ていくラストシーンまで目が離せない。

人質を監禁することは、ペットを飼うこととは違う。彼らは覆面をして人質と会話し、要求をきき、自分たちと同じ食べ物を与え、残せば自分たちが食べたりもする。人質のほうも、くつ下のたたみ方で、彼らの中に女がいることを理解する。元首相が監禁されたという大ニュースはテレビに映し出されるが、人質と共同生活する現場の人間は、淡々とした日々の中で、外の世界にはない何かをオリのように蓄積していく。生活とはそういうものだろう。そのオリをていねいにすくいとり、ピンク・フロイドとシューベルトを効かせながら結実させたラストが素晴らしい。

プロレタリア革命を目指す左翼組織の話なのに、左でも右でもない、ポジティブな前向きの力に貫かれている。
それは、映画という表現形式がもつ、美しい特性であるにちがいない。


*2003年 イタリア映画
*ユーロスペースで上映中
2006-06-02

『ブロークン・フラワーズ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /


25年たっても変わらない男。

これは僕の物語の一部だ
僕のすべては説明できない
物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
(「パーマネント・バケーション」より)

ジム・ジャームッシュの最高傑作といったら、彼がニューヨーク大学大学院映画学科の卒業製作として撮った「パーマネント・バケーション」(1980)に決まってる。と私は思うのだが、最新作「ブロークン・フラワーズ」(2005)を見て確信した。ジャームッシュの映画は、いまだにどこへも行けない。25年前のパーマネントバケーションのままだ。

中年男が身に覚えのない息子探しの旅に出る物語、という意味ではヴィム・ヴェンダースの「アメリカ、家族のいる風景」(2005)とそっくりだが、アプローチは似て非なるもの。「アメリカ、家族のいる風景」が男の夢やロマンを全部説明し、全員の気持ちに決着をつけ、元の場所へ戻っていくのに対し「ブロークン・フラワーズ」は何も決着をつけず、元の場所へも戻れない。

ビル・マーレイ演じる「ブロークン・フラワーズ」の主人公ドン・ジョンストンは「パーマネントバケーション」の主人公アリー(16歳)の40年後の姿かもしれない。どちらの男も一人身で、一緒に暮らしている女とも別れ、ちょっとだけおかしな人たちと場当たり的な交流をもつ。まったく進歩していない。

・・・
他人は結局 他人だ
今僕が語ってる物語は―
「そこ」から「ここ」
いや「ここ」から「ここ」への話だ
(「パーマネント・バケーション」より)

「ブロークン・フラワーズ」に登場する、ちょっとだけおかしな人たち。それが「20年前につきあった女たち」であることが唯一、主人公の成熟をうかがわせるわけだが、ジャームッシュの描写する女たちの姿は本当にリアルに面白く、現代のアメリカの最前線の病を写し取っている。

昔の女を訪ね歩くというギャグのような設定でありながら、いかにも自然で、音楽や小物のセンスも、相変わらず弾けている。たとえばドン・ジョンストンがこんな馬鹿げた旅に出ることを決めた心理は、彼の表情とシャンパンと音楽だけで表現されるのだった。

20年も昔の男から突然の訪問を受けたとき、女たちはどんな反応を示すのか? 次の家はどんな家で、どんな女で、どんな生活をしており、どんな扱いを受けるのか? 楽しみでたまらない。そして、ありがちな息子探しの物語を強烈に皮肉り、どこにも着地しないエンディング。

こんなお洒落な映画をいつまでも撮っている男って、かっこ悪すぎる。
そんな男を好きだと思ってしまう自分もまた、かっこ悪すぎるのだが。

・・・
去ると いた時より そこが懐かしく思える
いうなれば僕は旅人だ
僕の旅は ― 終わりのない休暇(permanent vacation)だ
(「パーマネント・バケーション」より)


*2005年アメリカ映画
*カンヌ映画祭 グランプリ受賞
2006-05-12

『文盲―アゴタ・クリストフ自伝』 アゴタ・クリストフ(著)/堀茂樹(訳) / 白水社


書くことは、戦うことだった。

なぜ、こんなシンプルな文体に力が宿るのか? 不気味なほど冷徹な意志はどこからくるのか? ハンガリーの作家、アゴタ・クリストフを世界的に有名にした「悪童日記」三部作を貫く感覚は、自分の身近からはどう転んでも生まれてきそうもない種類のものだった。

そして今、彼女の自伝ともいえる「文盲」によって、長年の疑問がとけた。

言葉を知り尽くし、美辞麗句を並べたてることは、想像力のじゃまにしかならない。作家に必要な資質とは、形容詞をたくさん知っていることでもないし、高等教育を受けていることでもない。「知らないこと」と「強いられること」が、彼女の意志を強固にし、読み書きへの熱意を切実にした。母語からドイツ語、ドイツ語からロシア語、ロシア語からフランス語へと、何度も言葉を捨てざるを得なかった運命が、真理を志向させたのだろう。彼女は、決してマスターすることのない「敵語」の違和感を永久に引き受けることを自らに課し「文盲者の挑戦」を続けようと決めたのだ。

彼女の生きるモチベーションは、戦いだ。したがって「革命と逃走の日々の高揚」を失った亡命先のスイスでの労働生活は、砂漠でしかない。言葉が通じないことが砂漠だったわけじゃなく、変化や驚きのない、判で押したような時計工場での労働生活そのものが砂漠だったのだと思う。彼女のアイデンティティは、読み書き以前に「歴史を画することになるかもしれない何かに参加しているのだという、そんな印象を抱き得た日々」だった。

アゴタ・クリストフのこのようなメンタリティは、同じハンガリー出身の女性監督、フェケテ・イボヤの映画に見い出すことができる。社会主義崩壊後、民族と言語と情報が交差する都市の熱狂を描いた「カフェ・ブタペスト」。あるいは、切実に何かを探し、移動し、サバイバルを繰り返す男のアイデンティティ・クライシスをテーマにした「チコ」。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるラストシーンは、まさに砂漠だ。

だが、もともと砂漠のような環境で生まれ育ち、その平穏さを愛している私は、アゴタ・クリストフの「敵語」という感覚を共有できない。平和と順応がスタンダードである私たちの日々は、革命と逃走をスタンダードとするアグレッシブな日常からはもっとも遠いのだ。「敵語」で書かれ、日本語で届けられた彼女の文章は衝撃的だが、それらが共感といえるようなヤワな次元に至ることはない。

アゴタ・クリストフは、世界的な作家になったことで、砂漠から脱出できたのだろうか?現代のフランス語圏での生活は「革命と逃走の日々の高揚」をますます遠ざけんじゃないだろうか? 彼女は今もフランス語を「敵語」と意識しているだろうか?

「悪童日記」三部作を凌駕する作品が、その後、ひとつも発表されていないという事実が、戦いという最大のモチベーションを失いつつある彼女の現状を、物語っているような気がしてならない。
2006-04-25

『スモールトーク』 絲山秋子 / 二玄社


彼女がクルマや男と別れる理由。

「イッツ・オンリー・トーク」に登場するランチア・イプシロンにピンときた「NAVI」の編集部が著者の絲山秋子さんに連絡をとリ、毎回異なるクルマが登場するエンスーな短編小説の連載が始まった。それをまとめたのが本書である。

TVRタスカン、ジャガーXJ8、クライスラー クロスファイア、サーブ9-3カブリオレ、アストンマーチン ヴァンキッシュ、アルファロメオ アルファGTという6台のラインナップに加え、著者がどれほどクルマ好きかが手にとるようにわかる6本のエッセイ(最高!)、そして巻末には徳大寺有恒氏との対談(話がかみあってないよ)も収録されている。

短編といっても、ぜんぶがつながっていて、絵を描いている主人公ゆうこと、学生時代の元カレである音楽プロデューサーの物語だ。「沖で待つ」が「同期入社愛」なら、こちらは「腐れ縁愛」。もうぜんぜん愛なんて逆さに振ってもありえない馴れ合いだけのすさみきった関係にぬくもりや成果を見出すことの馬鹿らしさと笑えるニュアンスを、とてもうまく描いている。

それにしても、この男の魅力のなさはどうよ。魅力的なのは何といってもクルマのほうで、ゆうこはクルマの吸引力によってデートを重ねるのである。といってもミーハーなのではなくスーパーマニアック。真性のクルマ好きであるゆうこは、工業製品であるクルマを、不完全な生き物として欠点も含めて包容する。男との別れよりも、彼女自身が所有するアルファ145との別れのほうが、だんぜん切ない。

ふたりの共通の友人である肇がプリウスを買うエピソードも面白い。肇は、ゆうこにプリウスをけなしてほしくてたまらなくて「ゆうこちゃんはプリウス、絶対嫌いだろうな」なんて言う。

「肇はプリウスを買うことで、禿と偽善と家族サービスと洗車奴隷を一手に引き受けたというわけだ。偉くてありがたくて恐れ入る」

ある種のドイツ車やプリウスや冷蔵庫みたいなクルマがどうしてつまんないかっていうと、ある種のドイツ車みたいな男やプリウスみたいな男や冷蔵庫みたいなクルマみたいな男がつまんないからだ。ということが、この小説からはびしびし伝わってくる。駐車場に入れてスロットからキーを抜くと女の声で「お疲れさまでした」なんて言うプリウスと「ゆうこちゃんはプリウス、絶対嫌いだろうな」なんて言う男とはそっくりなわけだ。

ゴルククラブが収納できて、家族が収納できて、こわれなくて、安心できて、変な目でみられない身の丈サイズのクルマ。でもちょっとだけ見栄を張れる感じ。そういう妥協的観点から多くのクルマは選ばれており、現代の道路はいつも、あきらめに似た気分で渋滞している。昔の映画の中にしか、洗練はないのだろうか。世の中の進化が、妥協の積み重ねでしかないのだとしたら、コワイ。

「新しい車に次々搭載される機能はこの喪失感に何の救いも与えない。神経を逆なでするようなばかばかしい小細工はこれからも続くだろう」
2006-04-06

『ないものねだり』 中谷 美紀 / マガジンハウス


期間限定の、ホンキ。

中谷美紀に「シミ、本気で治したい。」と言わせたから、エスエス製薬のハイチオールCはヒット商品になったのだと思う。タレント広告というのは安直なニュアンスが生まれやすく、制作側の立場としては「なるべくやりたくないなあ」というのが本音でもあるけれど、彼女を起用した広告なら、私もぜひやってみたい。本気のコピーが書けそうだから。

「アンアン」の連載をまとめたこの本も、タレント本というカテゴリーを遥かに超え、プロのエッセイ集としての読み応えをそなえたものだった。

彼女は、女優らしく茶道や日本舞踊を習う一方、沖縄やタイやインドを旅し、春にはお弁当をつくって友人たちと花見に興じる。食事を何よりも大切に考え、ロケ弁に一喜一憂し、質の高さで定評のあるマガジンハウスの社員食堂にまで足を運ぶ。
フットワーク軽く、豊かに生活を楽しむ彼女の姿には、凡人のあくせく感がない。世に蔓延している「ステップアップ」の呪縛から解き放たれているのだ。それもそのはず、女優というのは、これ以上ステップアップしようのない雲の上の職業。彼女はその中でも仕事を厳選し、綺麗なイメージを保っている稀有な存在ではないだろうか。

何かを選ぶことは何かを捨てること。自分が捨ててきたものに思いをはせる時、それは「ないものねだり」になる。地上に根を下ろす人は空を見上げて「ないものねだり」をするが、彼女の場合は逆。「短ければ2週間、長くても3か月ほどで終わってしまう撮影現場を次から次へと渡り歩き、暇を持て余しては旅をする暮らし」を選んだ彼女にとっては、「地に足のついた暮らし」こそが欠けているのである。

彼女が繰り返し本気で書いているのは、「絶えずいろいろな役が自分のなかを通り過ぎては消えていく女優の孤独」について。それは、受身の美学でもある。受身とは消極性ではなく、大きな流れに身をゆだねること。他人の目を信頼し、プロフェッショナルでありながら柔軟であること。与えられた仕事に全力を尽くし、女優の仕事がなくなったらどうしようかと楽しげに思いをはせる彼女は、非常に職人的だ。

「共に過ごした時間の全てを彼への想いで満たし、一瞬たりとも離れたくないとさえ思えた。映画の撮影であることすら忘れかけていた頃に、例に漏れず別れの日はやって来た。いつもと同じように撮影を終え、いつもと同じように散り散りに部屋に戻った後の喪失感は、まるで自分の一部をもぎ取られたかのようだった」

これは「母親になった日々」と題された項の、痛すぎる一節。擬似的な世界に本気で入り込める資質こそが、プロの女優ということなのだろう。しかし、求められているのは「本物っぽいホンキ」であり「本物のホンキ」ではない。そんな微妙な調整、心の中でできるはずがない。スタッフや相手役以上に仕事にのめり込んでしまった時は、どうすればいいんだ?
彼女がやっているように、仕事と仕事の合間には、別の旅に出るしかないだろう。無理にでもそうしなければ、自分の一部をもぎとられた感覚のまま、ベッドにつっぷして動けなくなってしまうにちがいない。

それでも、懲りずにそんな繰り返しをする。
嘘だとわかっていても、終わりの日がわかっていても、本気になる。
仕事でも恋愛でも、本気で集中できる期間限定の日々は、美しい。
2006-03-22

『LP MAGAZINE numero2/Spring Summer 06』 / LA PERLA


表参道 VS モンテナポレオーネ通り。

取材を兼ねて、秋冬コレクション開催中のミラノへ行った。モデルやファッション関係者も多いビジネスの雰囲気は楽しいが、そのうちふと思う。これじゃあ東京にいるのと大して変わらない?

ブランド店が並ぶモンテナポレオーネ通りを歩いても、なんだか表参道を歩いているみたい。今や有名ブランドの多くが表参道近辺に進出し、店を構えているからだ。だけど、圧倒的に違うのは建物。石造りの古い建物が続くモンテナポレオーネ通りには、それだけでシックな風格が感じられる。

一方、表参道はといえば、統一感のない建物が無秩序に並び、我こそが目立て!という感じ。新しい建物が次々にできるから、目立てる期間は短く、エスキス表参道なんて、まだ4年ちょっとなのに解体してしまった。この中のいくつかのブランドは表参道ヒルズに移ったことになるわけだが、来年は、ここにどんな目新しいビルができるんだろう?

だが、東京とミラノの本質的な違いは建物じゃない。世界一のブランド輸入都市、東京とは異なり、ミラノの店はほとんどが自国ブランドで、レストランもカフェもブティックもイタリアン。自国の文化で埋め尽くされているというわけだ。

中心街に近い、流行りのレストランを予約してみたものの、場所がわからなくなってしまった。仕事帰りっぽいミラネーゼに聞いたら「この店をどうして知ったの!? ここは超おいしいわよ。一緒に来て」と案内してくれた。
最近、表参道近辺にもアジア方面からの旅行者が多く、私もよく店の場所を聞かれる。でも「この店をどうして知ったの!?」と驚いたりはしない。プラダもコルソコモもレクレルールも輸入ブランドであり、アジアからのお客様にとっても私にとっても、それらは同じ「異国文化」なのだ。もしも骨董品屋や蕎麦屋の場所を聞かれたら、私だって「この店をどうして知ったの!?」と思わず聞き返してしまうかも。

「LP MAGAZINE」は、イタリアのランジェリーブランドLA PERLAが発行している伊英 2か国語併記の雑誌だ。最新号は高級感のあるシルバーの装丁。春夏ランジェリーの紹介やショーのバックステージ、自社製品のハンドメイドへのこだわりやインテリアに関する記事なんかもある。

中でも興味深いのが、イタリアで暮らすことを選んだ日本人女性アーティストへのインタビュー。イチグチケイコ(漫画家)、スズキミオ(インテリアデザイナー)、スナガワマユミ(シェフ)、オガタルリエ(ソプラノ歌手)の4人に「日本へ持って帰りたいおみやげは何か?」「忘れられない日本の記憶は何か?」などと聞いている。

「日本へ持って帰りたいおみやげ」として彼女たちが挙げたのは、長い休暇、ゆっくり楽しむ食事、安くて美味しい肉や野菜、太陽、活気、温かいイルミネーション、社交場としてのバール、エスプレッソマシーン、生ハム、ワイン、パルミジャーノレジャーノ、など。
一方、「忘れられない日本の記憶」としては、四季、花、温泉、桜、新緑、紅葉、新幹線、効率的なサービス、時間厳守、ストがないこと、など。
イタリアのよさは、ゆとりと活気と食文化。日本のよさは、四季折々の自然の美しさと便利さ。そんなふうにまとめられるだろうか。

イタリア在住35年のソプラノ歌手、オガタルリエさんが「忘れられない日本の記憶」のひとつとして「セミの声」を挙げているのを見て気がついた。
表参道にはけやき並木があり、そのせいで、夏にはセミが鳴く。これらは、石造りの建物が並ぶばかりのモンテナポレオーネ通りには、ないものだ。

表参道ヒルズを低層にし、けやき並木を生かすことを何よりも優先した安藤忠雄は、正しいのだ。
2006-03-10

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 青山真治(監督) /


役に立たない音を、出してみたい!

ギターを手にした浅野忠信が、4つの巨大なスピーカーを据えた草原で爆音を轟かせるシーンを見て、ヴィンセント・ギャロが白い砂漠をバイクで疾走する「ブラウン・バニー」の印象的なシーンを思い出した。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由は、似ているのだと思う。

人間を自殺に至らしめる「レミング病」のウィルスが世界中に蔓延しつつある2015年。「浅野忠信と中原昌也のユニットが演奏する音楽に、発病を抑える効果がある」という事実がつきとめられる。

職人的な2人が、海やスタジオで黙々と作業したり、岡田茉莉子のペンションで食事したりする日常の風景は気持ちいい。演奏以前の「音づくりの原点」の描写はそれだけで楽しくて、ちょっとしたセリフすらも邪魔に感じてしまうくらいだ。近未来という設定や富豪一族の盛衰、回想シーンなどの説明的な要素も、うっとうしい。

結局、彼らの音はレミング病にきくのだろうか? 「本気の自殺」と「病気の自殺」はどう違うのか? ・・・んなことも、どーでもいい。理屈っぽいことは抜きに、ただただ開放的なロケーションと音楽を心ゆくまで楽しみたいのですが、ダメですか?

ウィルスに感染しなくたって、先進国では多くの人が自殺する。死を選ばなければならないほど不幸な人が多いともいえるけど、自由に死を選べるほど幸福な人が多いともいえる。誰がいつ病気や事故で死ぬかわからないのと同じくらい、誰がいつ自殺するかはわからないし、その本当の理由や感想なんて想像できない。生きている人を観察したって、その人が今幸せかどうかなんて判別できないわけだし、他人が決めつけるほど失礼なことはないだろう。

誰かが死んだとき、近くにいる人は、必要以上にがっかりしたりせず、自分の仕事をまっとうしろ! そういう職業映画なのだと思う。浅野忠信は、恋人に加え、仕事のパートナーまで自殺で失うが、このことが既に「音楽で人の命なんか救えない」と証明しているようなものだ。

パートナーの遺影は、パソコンのモニターに映し出される動画。浅野忠信は、死後も作業を続ける彼の姿を見て笑う。岡田茉莉子は、何十年もかけてようやく美味しいスープがつくれるようになり、客なんて来なくてもペンションの営業を続けていく。生きている人は、生きている限り、淡々と生き続ける。

誰かを救うために演奏するのではなく、したいからする。音のききめは、天に訊け!
むしろ音楽は、死者のために演奏されるべきで、誰かが死んだら、生きている人が「もっと生きる」しかない。すべての音はレクイエムであり、すべての表現は、先人へのリスペクトからスタートするはずだ。 この映画から思い出されるのは、ギャロの「ブラウン・バニー」だけじゃない。小津の「秋日和」、ヴィスコンティの「異邦人」、アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」、ロバート・フランクの「キャンディ・マウンテン」、ヴェンダースの「ことの次第」・・・。

先人や先輩をリスペクトし、影響を受けまくる映画監督、青山真治の真骨頂。
敬愛する人々の声をききつつ、自分の音を奏でるこの映画は、「役に立つこと」や「元をとること」ばかりを目指す商業主義的な表現への、痛烈な皮肉でもあるのだろう。

非常識なくらい大きな音を出すというだけで、価値がある。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由と、映画を撮る理由は、似ているのかもしれない。
2006-02-14

『ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」』 マーティン・スコセッシ(監督) /


帰るための旅や、目的地をめざす旅は、つまらない。

ボブ・ディランの映画なんていっぱいあるのに、なんで今さら? しかも3時間半!
だが、ちらっと目にしたモノクロのスチール写真は、公開中のほかの映画と比べると素晴らしすぎて、劇場に足を運ばずに済ますわけにはいかなかった。

現在のボブ・ディランの語りをベースに、アメリカとボブ・ディランの60年代くらいまでを検証するこの映画は、回顧的ではなく現在進行形。音楽がどうやって受け継がれていくかに焦点をあてたものだった。彼はフォークやロックの創始者というわけじゃなく、継承者の一人に過ぎない。それは、ごく普通の若者の軌跡のように見えた。ロックとは素直さ。かっこよさとは純度。そう断言したくなる理由は、彼の原点がバンドではなくソロだからだ。

昔の映像はもちろん、現在のボブ・ディランのかっこよさといったらどうよ? 彼は今もノー・ディレクション・ホーム、道の途中なのだ。「たいした野心があったわけじゃないが、自分のホームを見つけたかった」というような、みずみずしい言葉にあふれた10時間におよぶインタビューは、長年の友人が撮ったものという。D.A.ペネベイカーの「ドント・ルック・バック」(1967)のほか、アンディ・ウォーホルやジョナス・メカスによる映像も登場し、イタリア系アメリカ人監督、マーティン・スコセッシのセンスが光る。

監督はインタビューの中で「今、世の中で起きているあまりにもたくさんのことによって自分自身を吸い取られるな」「ただ人が話をしているだけで、すばらしいロードムービーになりえるんだ」と言っていたが、ボブ・ディランが普通に話しているだけで、観客は心洗われてしまうのだから参っちゃう。人はこんなふうにしゃべればいいし、こんなふうに生きればいい。でも、それが難しいから、彼の発言のひとつひとつにクギづけになる。私たちの体はふだん、紋切り型のカサカサした安っぽい言葉に埋もれ、血が出そうになっているんじゃないだろうか。

ポリティカルソングの旗手として喝采を浴びたボブ・ディランがエレキギターを手にしただけで、ライブはブーイングの嵐。「商業的なポップミュージックじゃなくてフォークを聴きにきたんだ」と怒るファン。「この曲はどういう意味なのか?」と迫るマスメディア。しかし、今となってはジャンルなんてどうでもいいし、彼の詩に「意味」なんてない。ビート詩人アレン・ギンズバーグが「激しい雨」を聴いて自分もずぶ濡れになったと語るシーンや「ライク・ア・ローリング・ストーン」は50番まで歌詞があったという事実にこそ意味がある。ボブ・ディランは7年連続でノーベル文学賞候補になっているらしいけど、その理由がわかる気がした。

ファンは勝手だとか、マスコミは馬鹿だとかそういうことじゃなくて、通りすぎる景色というのは、自分とは関係ないことがあまりにも多い。困惑しながらも、そんな状況に対処するボブ・ディランの姿にはしびれてしまうけれど、心奪われるものだけに影響を受けていれば前を見失うことはない。インチキなものに取り囲まれていても、取り込まれないで生きることは可能なのだと、彼は、全力で示した。

How does it feel どんな気分?
To be on your own ひとりぼっちで
With no direction home 帰る場所もなく
Like a complete unknown だれにも知られず
Like a rolling stone? 転がる石のように生きるのは


*シアター・イメージフォーラム、シアターN渋谷、吉祥寺バウスシアターで上映中
2006-01-26

『東京タワー』 リリー・フランキー / 扶桑社


「オトン」と「ボク」。

パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」が東京に進出した。
この店の主役は、肉や魚じゃない。お菓子のようにちまちましたスパイシーなアミューズ、とろけるような球形のバター、コース料理のように次々と登場するデザートのお皿・・・。
メインディッシュは夜景である。といってもそれは、宝石箱のような窓にトリミングされた、ブローチのような東京タワー。「厨房のピカソ」といわれるフランス人シェフのこだわりなのか、ここまで貴重品のように扱われる東京タワーも珍しい。

リリー・フランキーの小説「東京タワー」は、その窓と同じくらい、私にとってリアリティーのないものだった。

母というのはこうでなくちゃ、女というのはああでなくちゃという女性像を押しつけられる感じが強く、読んでいて苦しい。「ボク」にとっての踏み絵は「オカン」だ。「オカン」と相性がよくなければ「ボク」のテリトリーには入れない。

東京へ出てきた「ボク」が極貧の生活から這い上がり、徐々にまともになっていくのは、「ボク」が呼び寄せた「オカン」が「湯気と明かりのある生活」を実現し「ボクが家に居なくても友達や仕事相手がオカンと夕飯を食べているという状況」が珍しくなくなるほど、オカンのキャラクターが多くの人に愛されたからだ。
どこの誰がきても食事をふるまう「オカン」。こんな母親ってうらやましい。だが、この食事もまた踏み絵なのだ。

「お嬢様大学に通いながらゼミの紹介で出版社のアルバイトをしている女学生」が「ボク」のイラストを受け取りに来るが、「オカン」がすすめるお茶や食事にまるで手をつけない。その態度が遠慮ではなく「奇異であり迷惑」の表明と見極めた「ボク」は激しく憤り、彼女が帰ったあと、それを平らげてくれるアシスタントを呼び「マスコミ志望のヤリマンが残したもんだけど」と言うのであった。

この彼女のほか、「オカン」が亡くなった日に原稿の催促の電話をかけてきた女性編集者、そして「オカン」とうまくいかなかった父方の祖母、さらに「オカン」を幸せにしてやれなかった「オトン」に対しても「ボク」は厳しい。アパート暮らしを始めたころに通っていた別府の定食屋のおばさんがつくる、古い油のにおいがするおかずや具の少ないクリームシチューに対しても…。

この本の厚さは情の厚さであり、普通の男なら、きっと1行も書かずに心にしまっておくような内容だ。表現しない限り、他人に侵される心配もないのだから。だが「ボク」の場合は逆で、他人に侵されないようにするために、渾身の愛を臆面もなく綴った。守りのためのナイーブな攻撃性は、痛々しくもある。

「ボク」がそっくりなのは、「オカン」ではなく、実は「オトン」である。父親から受け継いだ恐るべきDNAを自覚し始めるとき、「ボク」の攻撃性は和らぐのかもしれない。「オトン」は、自分の母親と相性の悪かった「オカン」をテリトリー外に追いやった人。その不器用でカタクナな愛は、「ボク」が守り抜く「オカン」への愛と相似形を描く。

東京の人々に愛され、華やかな葬式に加えB倍ポスターまでつくってもらった「オカン」の魅力ってマジですごいなと思うけど、私は、あまり人には好かれそうもない「オトンの母親」のほうにリアリティーを感じる。老人介護施設にいる彼女を「オトン」と「ボク」が揃って見舞う風景は美しい。映画なら、いちばん残るシーンはここ。
父探しの物語は、まだ始まったばかりだ。
2006-01-16