「僕は修道院で育った。ディニス神父の息子かと聞かれると答えに窮した。皆には姓があったが僕はただのジョアンだった」
美しい少年の語りが誘う19世紀のミステリー。彼には訪問者も贈り物もない。なぜだ? 幼い頃、誰もが感じていたはずの「原点としての違和感」について考えさせられる。
ジョアンの場合は母探しと父探しが始まる。シンプルな話だ。ただしこの映画は、時間の流れも人間関係も入り組んでいる。事実は幻想のようだし、サブストーリーがいくつもあるし、重要な人物の名前まで変わってしまうのだから。わかりにくいというよりは、わかりやすくつくろうとしていない映画。「記憶というカオスに忠実な映画」といっていい。人はたぶん、ものごとをこんなふうに記憶している。
彼の両親は何者で、過去に何があったのか。心あたたまる話でないことは確かで、ウソでしょうっていう「できすぎた感」もある。でも、それは偶然でなく必然。運命的な巡りあわせにまつわる大河ロマンなのだ。休憩をはさんで上映される4時間半という長さは、スクリーンの中でゆっくり遊ぶためにある。情愛と嫉妬にまみれた貴族たちの復讐劇も、子どもの視点に入ってしまえば、映像に身をまかせるだけで心地いい。
ジョアンが大切にしている紙のミニチュア劇場がぎこちなく動き出すとき、現実と空想の区別がつかなかった子ども時代を思い出す。修道院の中の「入ってはいけない部屋」に彼が入ってしまうエピソードもお約束だ。ジョアンは神父に叱られ部屋に閉じ込められそうになるが、悪かったと戻ってきた神父は「せっかくだから話そう」と、そこにある不可思議なものたちの説明を始めるのだった。ここ、笑うとこ。
大人たちはゆったりとした時間の中で「続きを聞きたいかね?それとも明日にするかい?」といわんばかりに、とっておきの秘密を語りかける。このもったいぶり方は、先を読みたくてたまらないのにいつまでも終わらないでほしいと願った、幼い頃の読書体験そのものだ。
最大のミステリーは、時間だと思う。すべての時間が過去、現在、未来の順に流れるとは限らない。夢の世界がそうだ。人が死の間際に見るのは現在進行形の夢ではなく、いちばん幸せだったときの夢かもしれない。誰もが原点の記憶に還るのだと思うと落ち着く。映画が示唆するように、いじめられ、気を失うように眠っていたベッドに戻るのかもしれない。いじめられ、気を失うことは不幸ではないのだ。
姓もなく、訪問者も贈り物もなかった幼い日の違和感は、ジョアンの永遠の原点。その後の人生は、美しいおまけのようなものだろうか。
現実と空想の混濁から始まる人生が、もう一度そこへ戻っていくのだとしたら。こんな映画と一緒に、終わりのない世界を生きてみたい。フラゴナールのロココな風俗画を思わせる軽薄さと麗しさの中、時空を行き来する感覚に浸っていると、自分もスクリーンの中に入って、お茶くらい飲んでみたいなと思ったりする。