『ボクが教えるほんとのイタリア』 アレッサンドロ・ジェレヴィーニ / 新潮社

KISSのしかた、ビデの使い方。


「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見ようと思って恵比寿ガーデンプレイスに行ったが、終日満席とのこと。
アメリカが好きな人も、アメリカが嫌いな人も、マリリン・マンソンが好きな人も、皆この映画を見に行こうとしているのだから(推測)、当然かもしれない。

というわけで、今日はアメリカのことは忘れ、イタリアのことを考えることにした。

Elio’s Caffeで冷たい飲み物と冷たいデザートを食べた。とても美味しかったが、映画が見れなかったこともあり、その前にちょっとつらいことがあったこともあり、なんだか心も身体も冷たくなってしまった。だからホットワインを追加した。

ドゥマゴのホットワインより、オーバカナルのホットワインより、シチリア島で飲んだホットワインより、美味しい。
あー、来てよかった。何かがダメになってしまった場合、それ以上の体験を得るために、それはダメになったのではないかと信じることも人生の醍醐味のひとつである。たとえ、1杯のホットワインのためだったとしても・・・。

Elio’s Caffeのスタッフは楽しそうだ。イタリア語がとびかっている。こういう店でアルバイトしたら前向きな日々が過ごせそう。日本人ばかりなのにイタリア語で声をかけあう意味不明なリストランテも多いけれど、ここは、スタッフも客もイタリア人率が高い。「今日はワインがよく出たねー」とのこと。

本書には、巻末に「エスプレッソチェック」というのがついていて、スタバやドトールを含む東京の40店舗をカップ5つ満点で採点している。「5つカップ」の店は5店舗だけだが、そのひとつにElio’s Caffeも入っている。

著者は、日本人のOLが「ワインが好きなのでイタリア語の勉強を始めた」と言うのをきいて驚いたという。イタリア人は、酒好きということを人前であまり告白しないらしい。ワインは値段が安かったりすることもあり、お洒落なイメージではないのだ。「酒好きである」ことは人間の一種の弱点なのだと・・・。たしかに、「ワンカップ酒が好きで日本語の勉強を始めた」というイタリア人の女の子がいたら、びっくりするかもしれません。

こういうことが知りたかったんだ、という潜在的な好奇心をくすぐるイタリア文化ガイドだ。
たとえば、今まで誰にもきけなかった「イタリアのホテルに必ずあるビデ」の本当の使い方・使われ方。性別にかかわらず、好きなように使えばいいんだってことがわかり、世界が広がった。自由ってすばらしい。
それから、挨拶としてのKISSはどんな気持ちで、どんなふうにすればいいのかってこと。不快なKISSもあるのだとわかり、溜飲が下がる思いがした。つまり、不快と感じてもいいということなのだ。安心した。自由ってすばらしい。

フィレンツェやサルディーニャが舞台となっているのに悪趣味な好奇心をくすぐるだけの映画「ハンニバル」とは対照的な本である。
2003-01-28

『白夜(ニュープリント修復版)』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

ミステリアスな男は、現実的な男よりカッコいいか?





1年後に戻ると約束した恋人を橋の上で待ち続けるナタリアと、そんな彼女に惹かれるマリオ(マルチェッロ・マストロヤンニ)。ドストエフスキー原作、3日間の物語だ。

運河の街を再現した幻想的なスタジオで繰り広げられるおとぎ話は、すべてが嘘っぽい。ナタリアとマリオの出会いからしてインチキくさいナンパだし。だが、「出会い方なんてどうだっていい」というマリオのセリフから、次第に映画はリアリティを獲得してゆく。セットのうそっぽさ、設定の不自然さ、男女の出会いの安直さに自らつっこみを入れ、乗り越えてしまうのだ。ヴィスコンティは言う。「この映画はリアリズムのある映画であり、しかし同時に、夢の中をさまようような可能性も残したかった」

ミニマムな制約の中での現実的なコミュニケーションが面白い。人はどのように他人に先入観を抱いたり、距離を縮めたり、理解しあったり、友達になったり、万が一には好きになっちゃったりするのか? 普通の女と娼婦を、男はどう区別するのか? ただすれちがうだけの他人とのコミュニケーションこそが大切なのだと、この映画は気付かせてくれる。日々すれちがう他人に対して無神経な人に、いい出会いなんてありえないのだ。これ、重要なことである。

おとぎ話度が最も強烈なのは、ナタリアと恋人の出会いと別れの回想シーン。彼女の話があまりに現実ばなれしていることから、マリオは「おとぎ話を信じるな。現実を見ろ」と言う。正論だ。だって彼女は、恋人の職業も知らないし、恋人が1年間、彼女を置いてどこかへ行かなければならない理由すらも聞いていないのだから。ナタリアが一目ぼれで恋に堕ちた理由は、彼がハンサムであるからという以外に思いつかない。そんな彼女にマリオは自らの願望をしのばせつつ「彼は戻らないよ。僕は男だからわかる」と言い切る。

3日目の夜になっても、恋人は橋の上に現れない。ナタリアは「1年間愛し続けた私を、彼はこんなふうに裏切ったんだわ」と強気のセリフを初めて口にし、マリオは狂喜乱舞。が、雪の中、夢みたいな夜を2人で過ごした後、彼女の恋人は現れる。そして、彼女はあっさりと彼の元へ舞い戻ってしまうのである。呆れてしまうようなこのエンディングは、今見ても斬新。

ミステリアスな男は有利である。映画を観ている私たちだって、ナタリアの恋人については、ほとんど何も知らないのだから。こんな男が1年後にちゃんと戻ってきたら、3日前に軽いナンパで出会った男が太刀打ちできるわけがない。マリオはといえば、下宿先で女主人に起こされる朝の風景から、橋の上の娼婦についていっちゃうシーンまで、スクリーン上で暴かれてしまっているのだから、もはやダメダメである。

しかし、言うまでもなく、マストロヤンニ演じるマリオは素晴らしい。「よくわからないけどかっこよさげな男」より、「すべてをさらけだしてあっさりふられちゃう男」のほうが、観客にとっては「いい男」に決まっているのだ。つまり、この映画は2つの意味でハッピーエンドである。ナタリアはわけのわからない恋人とうまくいった。そして、いい男が一人、まだスクリーン上に残っている。

娼婦(クララ・カラマイ)の存在感も忘れ難い。「私だって誰にも頼らないで生きてるんだよ」というセリフは目からうろこであった。ナタリアのような普通の女は男に頼って生き、橋の上の娼婦は男に頼らずに生きているのである。

*1957年 イタリア・フランス合作
*ヴェネツィア映画祭銀獅子賞受賞
*シネ・リーブル池袋で1月10日までモーニングショー上映中
2003-01-09