『ロックス』 サラ・ガヴロン (監督)

10代のバリエーションは、いつ奪われてしまうんだろう?





2021年英国アカデミー賞で「キャスティング賞」を受賞しただけあって、中心となる10代の女の子たちの生命力が、あまりにもすばらしい。

食欲旺盛で力があり余っているローティーンの女の子たちが最強だということは、コロナ禍の日本を舞台にした金原ひとみの連作小説『腹を空かせた勇者ども』『狩りをやめない賢者ども』を読めばわかるのだけど、この映画の舞台は、コロナ前のイースト・ロンドンだ。

新しい才能に贈られる「ライジング・スター賞」を受賞したブッキー・バークレイが演じたのは、ジャマイカとナイジェリアの血を引く15歳のロックスという女の子。

やさしそうだが心が弱くて何か問題を抱えているように見える母親と、恐竜と虫が大好きな幼い弟との平和な3人暮らしは一瞬しか描かれず、母親はわずかなお金を置いて家を出て行ってしまう。いつ戻ってくるのか、本当に戻ってくるのか、まったくわからないし、頼れる親戚もいない。ロックスは、弟を守りながら生きていくことができるのか?

かなりハードな状況を描いているし、しんみりするシーンもあるのだけど、この映画を貫くのは、10代の女の子たちの底抜けに明るいパワーであり、凄まじいケンカっぷりやコワレっぷりであり、その先の友情である。何よりも、説教くささを1ミリも感じさせずに、国籍や宗教や肌の色や体形が異なる女の子たちが、自然にわちゃわちゃ集まっているのがいい。これは間違いなくキャスティングのセンスなんだろうけど、このバリエーションの豊かさは、自分自身の子供時代を思わせるものだ。いや、誰にとってもそうなんじゃないだろうかと思えるくらい、この映画には、人間という生き物のベーシックな生態が描かれているのである。

問題山積みだったし、あまりに無謀だった子供時代。危険な子もいたし、実際に危険もあった子供時代。ロックスのような子もいたが、私は彼女を助けただろうか。私は、誰かに助けられただろうか。そもそも、誰かに助けを求めたり、求められたりしただろうか。映画のなかの彼女たちのように、そのときにできる、いちばんいい選択ができていたのだろうか。

思い出したくないような鈍い痛みと、まぶたの裏にまだうっすら残っているような気がする冗談みたいな光が、初めてロンドンを脱出した彼女たちのラストシーンと重なって、たまらない気持ちになる。ロックスの弟のエマニュエルが幸せでありますように。そして、彼女たちが本当の強さと幸せにつながる道を歩けますようにと、祈らずにいられない。

2021-8-25


『来る日も来る日も』 パオロ・ヴィルズィ (監督)

いつも一緒にいる人と過ごす。





東京iCDC専門家ボードが作成した「都民の皆様方へのお願い」の中に「いつもと違う年末・年始 5つの約束」というのがある。「いつも一緒にいる人と過ごす」は、その筆頭のお約束ごとだ。

今も毎日のように会社に通勤している人にとって、会社の同僚というのは「いつも一緒にいる人」なのだろう。一緒にランチに行ったり、ときどき飲みに行ったり、いろんなことを話したりするのだろう。いかにもそういう雰囲気の人たちを見かける。2人か3人か4人で男女ミックス。きっと、家族みたいな感じなんだろうなと思う。

だからRくんが、自分が所属するお店の人たちと、そんなふうに仲良くしているという話を聞いたとき、私はつい「お店の人は、家族みたいなものだもんね」と言ってしまったのだが、そうしたらRくんは「いや、家族とは全然ちがう」と即座に否定した。

そりゃそうだよね。「いつも一緒にいる会社の人」と「いつも一緒にいる家族」は、全然ちがうに決まってる。ただ、ふとしたきっかけで「いつも一緒にいる会社の人」と結婚すれば「いつも一緒にいる家族」になるだろうし、一緒に暮らし始めれば「いつも一緒にいる家族みたいな人」になるわけで、その可能性は少なくないのかも?「いつも一緒にいる人」は、他人との距離が求められる時代においては、それだけで特別な存在なのだから。

この映画は「いつも一緒にいる家族みたいな人」についての物語だ。彼がホテルの夜勤から帰ってくると、昼間の仕事をしている彼女は寝ているのだが、彼はそんな彼女のために毎朝「おめざ」をベッドに運ぶ。結婚はしていないが子どもが欲しくて不妊治療を始める2人は、最終的にどうなるのか?

穏やかな彼は、彼女が荒れている日も、こじらせている日も、いつだって精一杯のことをする。彼女にとっては悩みの種でしかない彼女の両親にも限りなく優しく接するし、彼女以上にエキセントリックな彼女の元カレにすら寛大に接するのだ。なんで一体そこまで?と思うが、理由は最後にわかる。彼は、彼女のことが大好きなのである。いや、そんなことは最初から明らかなのだが、恋愛において、出会い方というのは大事だなとつくづく思う。

古典文学を愛する不器用な彼氏を演じているのは、ルカ・マリネッリ。フランス映画ならヴァンサン・マケーニュが演じるような濃密なオタクキャラを、イタリアが誇る希代のイケメン俳優が演じているのだ。その愛おしい崩れぶりは、世界じゅうの女性たちを骨抜きにするだろう。

いつも一緒にいる2人は、すみずみまでわかりあう必要なんてない。いつも一緒にいられれば、来る日も来る日も幸せなのではないだろうか。彼にとっては「いつも一緒にいる人が幸せそうであること」が最大の幸せであり、彼女にとっては「いつも一緒にいる人が幸せそうな私を見て幸せそうであること」が最大の幸せなのである。

2020-12-29


『ミッドナイトスワン』 渋谷慶一郎 (作曲・演奏)

しずかな音と熱にアディクト。





デジタルとリアルの境界がなくなっている。いや、そんなはずはない。ひとつのイベントの中で、どちらかを選べるようになってきただけの話だ。来週のあの予定はどっちだっけ?と混乱することが、そろそろ増えてきた。

つまり世界は、デジタルとリアルに2分されたのではなく、2倍になった。つくり手側としては、忙しさが倍増したというわけだ。なんてこった!

東京都写真美術館で見たエキソニモの「UN-DEAD-LINK 2020」という作品は、スマホとグランドピアノで構成されていた。スマホ上の3Dシューティングゲーム内でキャラクターが死ぬと、自動演奏のグランドピアノが鳴る。この作品のおかげで、会場全体にグランドピアノの音が絶えず響きわたっていた。デジタルの死が、現実の死の音としてドラマチックに増幅されるのだ。

925日「渋谷慶一郎、初の無観客ピアノソロコンサート」を有料ライブ配信で視聴した。演奏場所はお茶の水のRittor Base。グランドピアノ(ベーゼンドルファー)の音は、何を増幅させたものだったんだろう? ほかにシンセサイザー(moog one)とエレクトリックピアノ(Waldorf Zarenbourg)という3台に囲まれたほの暗い空間に、演奏者がひとり。トークもないし、歌もないし、愛想笑いも、明るさもない。

映画『ミッドナイトスワン』の公開日だった。1週間でつくったという同映画のサウンドトラックのほか『告白』のサウンドトラック(バッハのピアノコンチェルト5番&ヘンデルのオンブラ・マイ・フ)なども演奏された。 

このしずかさは何? 世界から耳を塞ぎたいときも、聴いていたくなるような繊細さだ。

エンドクレジットには、たくさんの名前が並んだ。サウンド関係のほか、ライティング、カメラ、ヘアメイク……ライブで一度見たらもういいだろうと見る前は思っていたけれど、103日まで再生できるということで、別れを惜しむように何度も視聴してしまっている。

映画もサントラCDも大人気のようだ。とりわけCDジャケット写真の熱量はすごい。古いピアノの鍵盤に痛々しくつま先立ちする、赤いペティギュアの足。中国のファッションフォトグラファー「リン・チーペン a.k.a.No.223の過去作品だ。No.223というのは『恋する惑星』で金城武が演じていた警官223号のこと。どちらかといえば、このフォトグラファーの風貌は、警官663号(トニー・レオン)のほうに近いと思うのだけど。

 渋谷慶一郎のコメントにも、熱がこもっている。

「僕はコロナ禍に突入してから急増したオンラインによるライブ配信を一切やらなかった。特に承認欲求の延長のような中途半端な配信には一番興味が持てず、逆に今までやってきたピアノソロのコンサートのクオリティを維持、更新しつつ新しい試みが出来る機会を待っていた」

「マスタリングを終えた音源をいつものようにRittor Baseの國崎さんに送ると、即レスでこのアルバムのライブ配信をウチでやらないかという提案が戻ってきた。この誘いには乗ったほうがいいと直感的に思った。ここなら僕が今までピアノソロのコンサートでやってきた最高音質の追求と配信にカスタマイズされたバーチャルな音場、音響の生成のミックスが可能になる」

 「僕たちは無限に無数に離れているけど耳と目だけで繋がっている。グレン・グールドが見た夢の続きを見ることができるかもしれない」


2020-10-1

『ゲルハルト・リヒター・ペインティング』 コリーナ・ベルツ(監督)
『来訪(VISIT)』 ジャ・ジャンクー(監督)

パンデミックの中の、幸せ。





313日から臨時休館しているNYのメトロポリタン美術館が、ゲルハルト・リヒターの回顧展をオンラインで公開している。この回顧展は34日に始まったというから、現地ではまだ9日間しかリアル公開されていないことになる。再開の時期も未定であることからオンライン公開に踏み切ったのだろう。豊かなそのコンテンツの中に、3年以上の密着により作品制作のプロセスやプライベートな心情に迫った97分のドキュメンタリー映画『ゲルハルト・リヒター・ペインティング』(2010)があった。

リヒターの抽象画が36億円で落札されて話題になったのは2014年。この映画は、一連の抽象画シリーズが、こんな場所でこんなふうにつくられているのだという事実を、もったいぶらずに堂々と明かしている。こんな取材を許可したリヒターの人柄に加え、こんな面白い映画を世界中に無料公開してしまう美術館のサービスぶりに驚く。「アーティストとアトリエと作品は似ている」というのが個人的な感想で、それはすごく幸せなことのように思えた。

興奮が醒めない中、今度はジャ・ジャンクー監督が新作の短編『来訪(VISIT)』のオンライン無料公開を始めた。この作品は、ギリシャのテッサロニキ国際映画祭の短編映画プロジェクトとして制作された15本(8人のギリシャ人監督と7人の外国人監督が参加)のうちの1本で、このプロジェクトは、フランスの作家ジョルジュ・ペレックのエッセイ『さまざまな空間(Espèces d'espaces)』に触発され、自宅での撮影を条件としたものだ。

ジャ・ジャンクー監督の『来訪(VISIT)』は、現在進行形のCOVID-19 パンデミック下の世界を描いた4分間のフィクションで、スマホを使って1日で撮影されたという。登場人物は、監督、男性、アシスタント女性の3人。男性が監督の家にやって来て打ち合わせをする話だ。入口をノックした彼を、女性が赤外線体温計で検温し、監督は彼が握手のために差し出した手を避ける。打ち合わせに入った監督と男性は、パソコンに触る前に手の消毒をし、指を使って画像を閲覧した後は、石けんで手を洗う。映像は終始モノクロだが、洗面所に生けられた花と、監督が見上げる窓の外の風景だけがカラーになり、ほっとするような生命の息吹を伝える。

試写室で映画を見る二人が、お茶を飲むときだけマスクを外す所作は生々しく、彼らが見ている過去の映像は、不気味なほどの迫力だった。目下、人々がおかれている状況が異常なのか、過去のほうが異常だったのか、わからなくなってくる。監督の家には『山河ノスタルジア』(2015)や『帰れない二人』(2018)のポスターが飾られていたが、たった4分の短編の中にも、これらの長編のエッセンスを感じることができた。

この映画、数か月前ならシュールなSFに見えたと思うし、今だってそう見える。だが、全体を貫くトーンは、既にどこかノスタルジックなのだ。そう、打ち合わせをすることも、お茶を飲むことも、映画を見ることも……。くらくらするような試写室の光の中で、私は考える。私たちはこれから、進化していくのだろうか、退化していくのだろうか、それとも、何も変わらないのだろうか。そうしてようやく、これはパンデミックにおける滑稽な日常、つまり、小さな幸せの瞬間をとらえた映画なのだと気がついた。

2020-4-29

『冬時間のパリ』 オリヴィエ・アサイヤス(監督)

過渡期の雑談って、こんなにおいしい。





おいしいものを食べて、飲んで、しゃべる。年末の飲食店は、尋常ではない活気にあふれている。ところでみんな、何をしゃべっているのだろう?

パリを舞台にした、食事とワインと恋愛と雑談のマリアージュ映画を見た。はじめのシーンは出版社で、2人の男(老舗出版社の幹部でもある編集者とヴァンサン・マケーニュ演じるアラフォーの小説家)が話をしている。その後、場所を変え、ランチを食べながら会話を続ける2人。

ロケ地はマルグリット・デュラスが通っていたというパリ6区のビストロで、編集者はリブロースとサラダ、小説家はテリーヌとヒラメのアイオリソースを注文する。だが結局のところ、小説家の新作は、編集者の意向でボツになったのだと、あとになってわかる。理由は、古くさくて悪趣味だから(笑)。彼が得意とする私小説は、自身の恋愛をネタにするため、炎上しやすくもある。

もちろん彼の私小説のファンも多いようで、ジュリエット・ヴィノシュ演じる編集者の妻などは、ぐっとくるような文学的理由で擁護する(実はこの2人、秘密の関係を結んでいるのだが)。また、編集者は編集者で、社内のデジタル担当の若い女性と不倫している。

恋愛映画というよりは、出版界の危機をベースにした「過渡期のお仕事映画」であるところがオリヴィエ・アサイヤスの特筆すべきユニークさといえるだろう。編集者と私小説作家をはじめ、それぞれマンネリな女優だったり問題を起こす政治家の秘書だったりブログが人気の流行作家だったりする彼らは、パートナーや友人や仕事相手や不倫相手と、パリの自宅やカフェ、マヨルカ島の別荘で集う。ワインや食事を楽しみながら、とりとめのない議論を繰り広げるのである。

とりわけ面白いのが、クレバーかつセクシーなデジタル担当者。危機に瀕した出版社を改革すべく引き抜かれた彼女が語るドライなビジョンは、希望に満ちたいかがわしさというべきものか。彼女と編集者は、ベッドを共にしながらも、仕事の話ばかりしている。

反面、私小説作家の日常は、かなりウエットだ。本屋でのトークイベントは、少人数でアットホームな雰囲気なのに、読者からの質問は痛烈。ラジオの生放送に至っては沈黙してしまい「では、(小説の問題の場面で上映されている)ミヒャエル・ハネケの『白いリボン』のあらすじを紹介してください」なんて言われてしまう。

キーワードは、ヴィスコンティの『山猫』(1963)に登場する「変化しないための変化」というニュアンスの言葉。現状維持を望むなら変化が必要であり、そのまま何もしなければ退化するだけということ。この真理だけは、いつの時代も変わらないのかもしれない。

何をやめ、何を始め、何を再接続するか。それはもはや戦略などではなく、生きる喜びそのものだと思う。

2019-12-31