『偶然にも最悪な少年』 グ・スーヨン(監督) /

必然的に風通しのいい映画。


グ・スーヨン監督はCMディレクターであり、原作本「偶然にも最悪な少年」の著者。
映画化を企画したのはピラミッドフィルムの原田雅弘。
脚本を担当したのはグ監督の弟でコピーライターの具光然(グ・ミツノリ)。

つまりこれ、バリバリにCM業界寄りの映画だ。監督、撮影部、照明部、スタイリスト、ヘアメイクはCMのスタッフで構成されている。とはいえ、それ以外はすべて映画のスタッフだから「映画界のシキタリ」には何度も泣かされたらしい。CMではタレントにいちばん気をつかうが、映画では「監督がとにかく天皇」なのだそう。

グ監督は言う。
「映画では役者たちを俳優部って呼ぶのも興味深かった…CMでタレントは役者というよりも、限りなくモデルに近いからね」
「監督は確かに絵を決める存在だけど、人間的に崇めるのはどっかおかしい…それで閉鎖的だったり、ヘンな緊張感があったり。でも、それって映画の発展を妨げてねぇか。そんなんじゃおもしろいモノはできないよ」

自殺した姉のナナコ(矢沢心)にまだ見ぬ祖国(韓国)を見せたいと思いついたビーボーイのヒデノリ(市原隼人)は、こわれかけた女子高生の由美(中島美嘉)を巻き込み、チーマーのタロー(池内博之)のボロいマーク�に死体をのせ、4人で東京から博多へ向かう。この単純なストーリーに私はしびれ、期待した。

公開2日目の最終回上映にして7人しか観客のいない品プリシネマではさすがに不安にかられたものの、4人のしょうもない日常が描かれ、ナナコが自殺し、ヒデノリが街をさまようあたりから映画は動き出した。音は浅井健一(SHERBETS)の「Black Jenny」。これはもはやナンニ・モレッティの「親愛なる日記」でパゾリーニが殺された伝説の海岸にヴェスパが辿り着く長回しのバックに流れるキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」と同じくらい有無を言わせない。このシーンだけで映画が成立してしまうのである。

その後はピュアなロード・ムービーだ。死体はどんどん腐るし、お金は調達するしかない。ヒデノリが醸すペラペラな空気感と、媚びも屈託もない由美の存在感が、中味のない言葉や力のない笑いやありがちな心の病いにアクチュアルな輝きを与える。万引きしてもカツアゲしても人を刺しても、特別には悪くない。動物以上、大人以下。そしてKISS。勢いで密航。すべてが自然現象にしか見えない異常さこそが現代のリアル。成長物語にもなってないし、何かが成就するわけでもないけれど、意外とタフで普通な日常が続いていくんだろうってことはわかる。こういう日本の行く末をまじに突き詰めるか、おちゃらけるかの二者択一を迫られるが日本映画のシキタリなのだとしたら、そうではないものをこの映画は見せてくれた。イライラとヘラヘラの間に、こんなにも等身大な道が開けていたとは―

死体に話しかけたり、鼻歌まじりに着替えさせたり、死化粧したりの中島美嘉がいい。CMスタッフによる衣装、メイク、照明、演出が冴え、4人とも演技をしていないように見える。少なくとも「俳優部」の役者には見えない。

「GO」よりも希薄、「ユリイカ」よりも気楽、モンテ・ヘルマンの「断絶」とサム・ペキンパーの「ガルシアの首」とラリー・クラークの「ブリー」を足して3で割って渋谷系にした高品質なB級映画。最悪なんかじゃない。渋谷東映で見れば満席だったはず。きっと。

*全国各地で上映中
2003-09-25

『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 本広克行(監督) /

踊る大組織。


オープンしたばかりのルイ・ヴィトン六本木ヒルズ店の混雑ぶりはただごとではなかったが、そのほぼ正面に位置するヴァージンシネマズ六本木のプレミアスクリーンはがらがらだった。

動員数が既に1000万人を突破したというこの映画をたった10人程度で鑑賞するのは寂しすぎる―と私が感じたのは、満席の大劇場で見た5年前の前作を思い出したからだった。その時は、上映中に携帯の着メロが4種類くらい鳴った。しんとしたシーンでオーソドックスな着信音がステップトーンで音量を上げながら場内に響きわたった時は、本気で演出の一部かと勘違いしたものだ。映画を観ているというよりは、大勢でわいわいテレビを見ているような雰囲気が新鮮だった。

しかし、寂しさを感じた本当の理由は、この映画が組織をテーマにした作品だからだと思う。

本店(警視庁)vs所轄(湾岸署)という図式がメインディッシュであることは相変わらずだが、今回は、そういう「軍隊みたいな組織」に対抗する集団が現れる。

だからといって、組織のもつ根本的な問題が追及されるということはなく、逆にメリットや楽しさが強調されるばかりだ。組織内における上層部への不満は具体的にアピールされるものの、組織外追放(リストラ)の深刻なリアリティは描かれないし、本気で組織を恨んでいるはずの人間が吐き出すセリフにも迫力はない。つまり、この映画においては、警察という組織内の内輪もめのほうが圧倒的に面白いのだ。進化し続けるお台場という街を舞台に、情報(警視庁)vs現場(湾岸署)の対立の構図が冴える。

脚本家の君塚良一は、ずっとフリーでやってきた人だという。つまり、これは、会社組織に属したことのない人が客観的な取材にもとづいてつくったお話なのだ。大変なことも多そうだけど一人でいるよりは心強いし楽しそうだよなという視点、上からの命令が絶対の中でロマンを持ち続けている人が組織を支えているんだよなという視点が、この作品を貫いていると思う。

織田裕二も深津絵里も水野美紀も柳葉敏郎もユースケ・サンタマリアも小泉孝太郎も、皆、これがいちばんハマリ役なんじゃないか?と感じさせるような輝き方で、それぞれのキャラクターを演じている。スタッフの頑張りや旺盛なサービス心も伝わってきて、この映画自体が理想的な組織の産物であるかのように見えてくる。

で、さらに、クレジットの中に知っている名前や企業名を発見したりするものだから、平日のこんな時間にワインを飲みながら映画なんか見てないで仕事しなくちゃ!という痛い気分にさせられるのであった。

*全国各地で上映中
2003-09-16

『10話』 アッバス・キアロスタミ(監督) /

これは、ドキュメンタリーじゃない。


女がテヘランの街を車で走り、固定されたデジタル・ビデオが車内を撮影する。監督やスタッフは同乗していない。嘘みたいにシンプルな手法の「隠し撮り風映画」だ。

彼女の息子、姉、老女、娼婦らが助手席に乗り込み、会話を交わす。「10話」から始まるからラストが「1話」。カウントダウンによって期待が高まり、オチもあるから、ちっともドキュメンタリーらしくはない。手法に関しては究極のミニマリズムなのに、監督の意図がムンムンだ。

息子を除き、助手席に座るのはすべて女。しかもほとんどが「うまくいっていない女」。彼女自身は、アートなお仕事をするバツイチの自立した美人である。

これがイランの現実?そうなのかもしれない。だけど、もっと何かあるはずでしょう、日本の女が驚くようなきらめく細部が。この映画に登場するのは、オーソドックスな話ばかりなのだ。女は失恋するとなかなか立ち直れなかったり、髪を剃っちゃったり、娼婦になっちゃったり・・・驚きがないのがこの映画の驚きで、上から見下したようなおやじっぽい視線を、主役の彼女に代弁させている感じが不快。ゴダールみたいに監督自身がぐちぐち説教する映画のほうがタチがいい。

救いは、彼女の息子が10話中4話に登場すること。彼の元気な表情が映ると、それだけでほっとする。母との会話にうんざりして外に飛び出しちゃったりする彼だが、実のところ、この映画の説教くささに耐えられないのだと思う。それを素直に暴いてしまう唯一の存在。結果的にこの映画は、子供の使い方が圧倒的にうまいキアロスタミらしい作品になっているし、やたらと作り込みの目立つイラン映画らしい作品でもある。

さて、私はその後、ドキュメンタリーのお手本のような映画を見てしまった。フレデリック・ワイズマンの「DV―ドメスティック・バイオレンス」である。夫の暴力に耐えかねた女が駆け込むDV保護施設を中心にカメラが回され、演出も脚本もナレーションもない。必要な情報はすべて自然な形で語られる。職員も被害者も真剣だ。被害者の女たちが、カメラを気にせずに語るなんてありえないだろうと普通は思うし、撮影許可が下りないだろうとも想像する。でも、できるのだ。

「私は普通の体験をドキュメントすることに興味がある。家庭内暴力がありふれた人間の行動である以上、映画の題材にふさわしいと思った」とワイズマンは言う。そこには感動も共感も押し付けがましさもなく、自分の存在を消すことのセンスが際立つ。重要なのは、監督が現場から消えることではなく、いながらにして存在感を消すこと…。

ワイズマンは、山形ドキュメンタリー映画祭の機関誌「documentary box」で、アメリカの国道1号線をひたすら南下する至高のドキュメンタリー・ロードムービー「ルート1」を撮った故ロバート・クレーマーと対談している。「我々は見えない存在になりたいんだ」とクレーマーが言い、ワイズマンが「その通りだ」と頷く。

そしてこうも言う。「できあがった結果に何らかの意味で自分でも驚くことがなければ、映画を作る意味なんてないと思うね。そうでなければ、結果がどうなるか最初からよく分かっていることのために1年も費やすことになる」

●「10話」 (アッバス・キアロスタミ)
2002年/フランス・イラン/94分/ユーロスペースで上映中
●「DV―ドメスティック・バイオレンス」 (フレデリック・ワイズマン)
2001年/アメリカ/195分/アテネフランセで上映中
●「ルート1」 (ロバート・クレーマー)
1989年/USAフランス/255分/アテネフランセで上映中
2003-09-09