『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』 村上龍 / 文藝春秋

女よ飛び出せ、とおじさまはアドバイスする。


ナシやブドウやサクランボが畑から盗まれる事件が相次いでいるらしい。何百個、何千個という単位だそうだから、組織的で悪質な犯罪に違いないし、農家にしてみれば相当な被害だろう。被害者の一人はインタビューに答え、こんなふうに語っていた。
「せっかく育てたのに、残念です…」
商売上の打撃を嘆くのでもなく、犯人への怒りをあらわにするのでもなく、淡々と。
まずは、自分がつくった商品に対する思いがあふれ出る。愛のある仕事は強いなと思った。

「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」は、仕事の強度に関する短編集だ。

「どこにでもある場所」とは、コンビニや居酒屋や公園やカラオケルームや披露宴会場や駅前や空港。これらの場所で、「どこにもいないわたし」たちが、一瞬のうちに実に多くのことを考える。ありふれた場所にいても、希望を持ち続ける勇気が必要ということだ。そうでなければ、私たちは、これらの場所に押しつぶされてしまうだろう。ありふれた場所に流されず、ありふれた他者に依存せず、そこから飛び出す唯一の方法。それは、自分を浄化する内なる衝動に耳を傾けることだ。言い換えれば「一日二十時間没頭できる何か」を見つけること。安直な他者との関係は、永遠でも絶対でもなく思い通りになるわけでもないが、内なる衝動はシンプルでクリアで世界を変える強度をもつ。村上龍は、これらの小説の中に「他人と共有することのできない個別の希望」を書き込みたかったという。

「コンビニ」は、音響スタジオで働く「ぼく」がサンディエゴに留学を決める話。この仕事が好きなのだと「ぼく」が実感するくだりが美しい。「おれはだまされていた」が口癖の兄は、かつて「ぼく」にこうアドバイスをした。「本当の支えになるものは自分自身の考え方しかない。いろんなところに行ったり、いろんな本を読んだり、音楽を聴いたりしないと自分自身の考え方は手に入らない。そういうことをおれは何もやってこなかったし、今から始めようとしてももう遅いんだ」と。自分自身はダメダメなのに、弟を圧倒的に正しく導く兄。ありえない。まるでポジティブな亡霊のような存在だ。そんな兄の働くスナックに「ぼく」がサンディエゴ行きの報告へ行くと、兄はシャンペンをおごってくれるのである。ファンタジーだ。

「居酒屋」という短編も留学がテーマだ。居酒屋とはこんな場所である。「誰もが自分の食べたいものを食べていて、無理をしていない。等身大という言葉があるが、居酒屋は常に等身大で、期待を大きく上回ることはないが、期待を大きく裏切ることもない。だが、居酒屋には他人というニュアンスを感じる人間がいない」。要するに、居酒屋にいる限り、人は進歩することはできないということだ。一緒にいると境界が曖昧になってしまうようなつまらない恋人と中野の居酒屋へ行くよりは、西麻布でホステスをしろと村上龍は言っているのである。まじ? 実際、「わたし」が西麻布でホステスをしていた時に来た男が「わたし」の人生にくさびを打ち込む。つまりその男は、その辺のおやじとは違う、見識ある「おじさま」であったということだろう。「一日に二十時間、絵を描き続けても飽きない人間が、画家だ」と男は言い、「わたし」は20年ぶりに絵を描きはじめる。

ほとんどの短編に、この手のアドバイザー的な「おじさま」が登場する。こういう存在になることは、「おじさま」の究極のロマンであることだろう。若い世代や女を描いているように見える本書は、「おじさま」にとっての救いの物語でもある。
2003-08-21

『熊座の淡き星影』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

時間と空間のロードムービー。


ジュネーブのホテルで、ニューヨークへ帰国することになった夫婦のお別れパーティが開かれている。翌朝、夫婦はまず、妻の故郷であるトスカーナの城塞都市ヴォルテッラへ向かう。スイスから一気にイタリアを南下するのだ。クルマはBMWのオープンカー。1965年の作品だ。

こんなブラボーなイントロを持ってこられたら、それだけでもう、涙が出てしまう。映画のタイトルが出るころには、既に満たされた気持ちだった。

もちろん映画の本題はそこからで、ヴォルテッラにある妻の実家を舞台にドラマが展開してゆくのだが、私たちは、アメリカ人の夫の視点で、ごく自然に、博物館のように謎めいた屋敷の内部へ入り込むことができる。

だから、やっぱり重要なのはイントロだ。スイスで通訳をつとめる聡明な妻が、イタリアの実家でどう変化するのか。アメリカ人の夫は、そんな妻をどう見守るのか。よそ者の視点がきわだつ。この映画は、ほとんどが屋敷の内部で撮られたにも関わらず、完璧な旅の物語なのだ。

早くここから抜け出し、妻と一緒にニューヨークへ帰ることを願う夫は、過去にとらわれた彼女を救うべく、怪しすぎる人物関係をとりもつ努力までする。ついにぶちきれて義弟を殴ってしまう晩餐会のシーンですら、彼はまっとうだ。「やっぱ、アメリカ人は血の気が多いよね」などと早合点してはいけない。

義弟は、屋敷の周辺の廃墟を案内したり、姉の過去におわせたりしながら、彼に言う。「田舎は、どこでも同じだ」と。イタリア人がアメリカ人に向かって、そう言うのである。
イタリア映画であるにもかかわらず、クルマがBMWだったり、食前に飲む酒がスコッチだったりするのが上流階級らしい。パゾリーニとは全然ちがう。地方都市の名門という迷宮が、新たな歴史的苦悩を紡いでゆく。

ラストシーンは屋敷の中庭。妻の父親の彫像の除幕式がおこなわれており、その輪に、ある人物が加わるところで映画は終わる。この終わり方も秀逸だ。葬式のようでいて、それは、確かな始まり。何かが終わるのではなく、続くのだ。歴史はこうやって変化が加えられ、良くも悪くも継承されていく。イタリアの歴史と文化の深淵をのぞき見る思いがした。

―熊座の淡き星影よ
私にはとても信じられない
父の庭園の上にきらめくお前たちに
こうして再び会えるとは
幼い日を過ごしたこの館の
喜びの終焉を見たこの窓辺で
きらめくお前たちと
こうして語り合えるとは―
(ジャコモ・レオパルディ「追憶」より)

単なるミステリーでもなく、単なる近親相姦の話でもない。ポランスキーとトリュフォーとキェシロフスキーとゴダールを、この1作に見る。そして、もとをたどれば、これは溝口健二なのではないかと思うのだった。やっぱすごいよ、雨月物語って。

美味しいレストランに行くと、ついほかの美味しいレストランの話とか、ほかの美味しいものの話になったりするものだ。いい映画をみれば、ほかのいい映画のことを全部思い出してしまう。

*1965年 イタリア映画

*ヴァネチア国際映画祭金獅子賞受賞
*シネ・リーブル池袋にて上映
2003-08-05