『69 sixty nine』 村上龍(原作)・李相日(監督) /


地方出身の男が、女と世界を救う?

「経済力もお嫁さんもない地方都市の無名の十七歳だったら、誰だって同じ思いを持っている。選別されて、家畜になるかならないかの瀬戸際にいるのだから、当然だ」
-「69」より

女を幸せにするのは、地方出身の男である。というのは嘘ではなく、私の個人的な考えだ。
1969年の佐世保について1987年に書かれた小説が、2004年の今、映画になった。

村上龍は、どこへ行くのだろう。洗練されることなく文化の最前線を突っ走ってほしいものだが、一方で、彼ほど政治家に向いている人はいないとも思う。「長崎生まれ、武蔵野美術大学中退」という肩書きは「東京生まれ、一ツ橋大学卒業」の田中康夫を超える武器となるだろう。

「69」の主人公ケンは、佐世保時代の村上龍だ。こんなに世の中の見えている高校生は、私が通っていたマザコンばかりの東京の高校には、1人もいなかった。重要なことに早く気付くためには、中心を外側から眺める見通しのいい場所にいなきゃダメなのだ。そんなわけで、東大に入る人数だけはやたらと多い私の高校は全滅だったが、中学には「69」におけるケンのような男子が1人だけいた。東京だが海に近かったせいだと思う。彼はいつも、海の向こうの町や文化を見ていた。

世の中の見えていなかった私は、14歳のとき、彼をリュウと名付け、原稿用紙5枚のふざけた作文を書き、賞金をもらった。それから10年後、相変わらず世の中は見えていなかったものの書くことを仕事として選んだ遠因にリュウの存在があったことは確かだが、同じ時期、彼は留学先の米国で銃に撃たれ死んでしまった。彼が何を愛し、どう生きようとしていたのかは知らないが、とにかく日本は、村上龍ばりの貴重な人材を1人失ったのだと私は思った。

映画版「69」は、原作とはずいぶん違う。1969年の風俗が、面白おかしくサンプリングされているだけなのだ。

「恐れることはない。とにかく『盗め』。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ」
-椹木野衣「シミュレーショニズム」(1991)より

雑多な要素のつめこみ過ぎでまとまりに欠ける映画だが、ケンを演じる妻夫木くんの日焼けしたランニング姿のまばゆさが、すべてを貫いている。楽しんで生きろというのが「69」の唯一のメッセージであり、楽しむってことは、実は相当エゴイスティックなことだから、まばゆさは残酷さでもある。ダサイ奴、馬鹿な奴、醜い奴を切り捨てる若いリーダーシップの残酷な輝きを、映画は切り取った。

「楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。(中略)だが、いつの時代にあっても、教師や刑事という権力の手先は手強いものだ。彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである。わたしはその戦いを今も続けている。退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう」
-「69」あとがきより

村上龍は、今も戦っている。だが、脚本を書いた宮藤官九郎は戦っていない。小説の暗い結末を、あまりにも明るく処理してしまった。つまり、戦わずに楽しく生きられる世代がようやく登場したってことなのか? 鮮やかなラストのおかげで、まとまりのなさは払拭され、楽しい嘘をつくことの意味がくっきりと浮き彫りになった。楽しい嘘たちが、原作を、軽やかに超えてしまったように見えるのだ。
2004-07-28

『下妻物語』 嶽本野ばら(原作)・中島哲也(監督) / 


下妻が世界とつながっている理由、もしくは「ジャージ」と「お洒落なジャージ」の違いについて。 

茨城県・下妻を舞台にした映画が、世界で公開される。
カンヌ映画祭のマーケット試写会にて「カミカゼ・ガールズ」という英訳で上映されたところオファーが殺到し、米国、イタリア、スペイン、ドイツ、オランダ、ベルギー、チェコ、中国、韓国、タイなどで上映が決まったという。

下妻ってどこよ? ヤンキーとロリータの友情? 極端すぎて、どこにも共感できるスキなんてないじゃん。予告編を見てそう思った私は浅はかだった。

世界の共感を得るのは、グローバリズムなどではなくローカリズムに決まってる。中島哲也監督はサッポロ黒ラベルの温泉卓球編などで知られるCMディレクターであるからして、絵づくりがいちいち決まっているし、編集やCGにも妥協がない。土屋アンナの体当たり演技は、それだけでヤンキー精神全開...時々お仕事でご一緒する機会があるけれど、こんなに姉御肌でカッコイイ20歳女子を私はほかに知りません。

下妻物語は、優れたファッション・マーケティング映画でもある。深田恭子演じるロリータの桃子と土屋アンナ演じるヤンキーのイチゴという両極な二人だが、お洒落に没頭する女の子の気持ちを的確に言い当てている。代官山を舞台にフツーの流行を見せたって、説得力のあるファッション映画は撮れないだろう。桃子の住む下妻には巨大なジャスコがあるのに、どうして休みのたびに何時間もかけて代官山まで来てロリロリのお洋服を買わなきゃなんないのか。そもそも桃子はどんな家に育ち、どういう経緯で下妻に住み、いかにロココの精神を身にまとうに至ったのか。ファッションを語るには、ここんとこが最も重要なのだ。

しかもこの2人、スジが通っていてかっこいい。互いに信念を持っているからこそ、見た目の違い、主義の違いを超えて認め合える。友だちって必要なのか? 学校って行くべきなのか? 仕事ってするべきなのか? 借りって返すべきなのか? ほんと、ためになる映画だけど、もちろん現実にはこんなスジの通った女子高校生など存在しないはず。2人の生き方は、原作者、嶽本野ばら氏の「ハードボイルドじゃなきゃ乙女じゃない」という美学のイコンなのである。

「人のものでも好きならば取ってしまえば良いのです。どんな反則技を使おうと、狙った獲物は手に入れなければなりません。我儘は乙女の天敵です。自分さえ幸せになればいいじゃん」

「酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富なレディになることなんて私は望みはしません。酸っぱいものは食べたくない、甘いものだけでお腹をいっぱいにして私は生きていくのです」

「こいつは、何時も一人で立ってるんだよ。誰にも流されず、自分のルールだけに忠実に生きてやがるんだよ。群れなきゃ歩くことも出来ないあんたらと、格が違うんだよ」

「心の痛みを紛らわす安易な手段を憶えてしまったら、きっと人は何か大切なものを損なってしまうのです」

原作には、桃子とイチゴを橋渡しするブランドとして、HONDAとのWネームを展開しているシンイチロウ・アラカワの服が出てくる。「ヤンキーのままでもいいから、少しはイチゴをお洒落にしたい。本人も気付かぬうちに、私好みにカスタムしていきたい」というのが桃子の思惑なのだ。

私は、ロリ服も特攻服も着たことがないしHONDAのバイクにも今のところ乗っていないけど、シンイチロウ・アラカワは好きだ。ここの服を着てると「HONDAの仕事してんの?それってノベルティ?」と言われがちなのが難点ですが、乙女のカリスマなんていわれる嶽本野ばら氏に自分が影響され、カスタマイズされそうになる理由がようやくわかった気が…。
2004-07-13