『ジグマー・ポルケ展 ― 不思議の国のアリス』 上野の森美術館 /

みずみずしい毒。


ゲルハルト・リヒター、アンゼルム・キーファーらとともに現代ドイツを代表する画家、ジグマー・ポルケ。日本での個展は今回が初めてだ。「日本におけるドイツ年」ということでようやく実現したわけだが、お金を出したのは日本側。ドイツのいかなる公的機関の助成も受けていないという。「ゲルハルト・リヒター展」(川村記念美術館11/3~)は、デュッセルドルフの州がバックアップしているというのに!

だから、今回のポルケ展は「すべてをカバーできていません。ドイツ人たちがまったく協力的でなかった点は強調しておいてください。オープニングなどになればどうせ彼らはやって来て、自分の手柄のように振る舞うでしょう」(美術手帖11月号インタビューより)ということなのだ。

「不思議の国のアリス」は1971年の作品タイトルで、既成のプリント生地を悪趣味に組み合わせ(2種類の水玉+サッカーのイラストプリント!)、その上にアリスと芋虫と毒キノコ、そしてアリスとは何の関係もないバレーボール選手が落書きのように描かれている。たちの悪い冗談のようだが、いつまでも見ていたい絵だ。なぜ、この作品がポルケ展のサブタイトルに?と考える間もなく、私は既に、自分がアリスの視点でポルケ展を見ていたことに気付く。

ポルケの絵は大きい。これは想定外のことだった。本の中でしか見たことのなかった絵たちが目の前に立ちはだかった瞬間、私は毒キノコを口にしたのである。

大きさも色も、本の中の印象とはまるで違い、別の作品集を見ると、またもや違う。とりわけ紫の顔料を使った3部作「否定的価値」(1982)と、血を思わせる天然の朱砂(水銀と硫黄の化合物)を使った4部作「朱砂」(2005)については、印刷物と実物はまったくの別物!としかいいようがない。2つの作品群は驚くほどフレッシュで、ところどころが濡れたように光っている。会場の温度が上がると、どろどろに溶け出すのかも…。そう、これらは、毒をもりこむように化学変化を想定した色。魔術的な意味を画材にこめるポルケが、錬金術師とよばれる所以である。

21世紀における絵画の意義と役割について、ポルケは控え目に語る。
「絵画があるということはいいことだ、と言っておきましょう。(中略)社会は絵画を必要としていません。社会が求めているのは映像であり、それは今日では機械的に、写真の技術で、フィルムその他によって創り出すことができます。絵画にもう何も啓蒙的なものはありません」

だが、こんなセリフを真に受けてはいけない。真実はいつだって作品の中にあり、実物をみれば一目瞭然なのだから。図録にも収まらず、公的機関のサポート枠にも収まらないポルケは、これからも世の中をあざむき続けるだろう。


*上野の森美術館で開催中(10/30まで)
*国立国際美術館で巡回展(2006年4/18~6/11)
2005-10-28

『アワーミュージック』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

説教をやめたゴダール。


「地獄」と「天国」の間に「サラエボ」がある。とてもわかりやすい3部構成だ。
サラエボ編にはゴダール自身が出てきて、映画についての講義までする。だが、ほとんどの学生は退屈そうだ。「デジタルカメラは映画を救えますか?」と質問されたゴダールは何も答えないし、学生の一人であるオルガの死を知ったときも、ゴダールは何も言わない。

代わりに、パンフレットには、ゴダールのこんな言葉が紹介されている。

「昔は小さなデジタルカメラは存在しなかったけれど、こうした道具があるためにいっそうこの仕事は難しくなっているということです。誰でもデジタルカメラを買ってそこにある木を撮影することはできる。でもそれが映画になるわけではない。絵筆さえあれば誰でも画家になれるわけではないのと同じです。でもなぜかあの小さなカメラを買って技術的なことを一通り把握すると、これで映画が撮れると思ってしまうらしい」

「カンヌで観客に見せるためには英語の字幕をつけなければならない。私は最初は拒否したんです。なぜ英語字幕なのでしょう。(中略)英語字幕をつけることで、人は映画そのものを見なくなってしまう。観客は字幕を読み、時々顔を上げて画面にブラッド・ピットがいるかどうか確認するわけですが、この映画にはブラッド・ピットはいないので、途方に暮れてしまうのです」

「ところで、16対9という、日本発で世界中で採用されつつある画面サイズは、あなた方の目の形から来ているのでしょうか?日本人は世界を横長に見ているということでしょうか。(中略)わたしは棺や蛇のような横長サイズよりクレジットカードの形のほうがまだしも好きです」


この映画でゴダールが描く「天国」は、しっとりとした場所だが、楽園のイメージからはほど遠い。これが天国なのだとしたら、ゴダールはこれまで、天国ばかりを撮ってきたことになる。

「地獄」は各種戦争映像のモンタージュだ。ゴダールは自分でもしばしば戦争を描いているけれど、それは天国との違いがわからないようなヘナヘナでファッショナブルな戦争であり、お金をかけないキッチュな戦争だ。ゴダールは、地獄を撮ったことがないのだと思った。そして、それこそがゴダールを見るべき理由なのだ。

ゴダール以外の多くの映画は、多かれ少なかれ、地獄あるいは地獄を思わせる通俗的な概念にまみれていて、それが見る側を疲れさせる。映画よりも現実の風景を見たほうがマシなのではないか?という考えを捨て切れないのである。

だが、ゴダールの映画は、現実の予定をキャンセルしてでも見る価値がある。そこには、地獄がないからだ。広告看板とは逆の、心洗われるみずみずしさ。お金儲けのことばかりを毎日考えなければならないような人は、絶対見に来たほうがいいんじゃないだろうか?などと余計なことを思いつつ客席を見まわすと、あまりそういうことを考えていないように見える、幸せそうな人ばかりだった。

「天国」のラストシーンは美しい。「よく晴れた日だった。遠くまで見える。でも、オルガのいる所までは見えない」というナレーションが、「気狂いピエロ」(1965)のラストで引用される「見つけたぞ。何を? 永遠を」というランボーの詩に重なった。


*2004年 フランス=スイス 80分
*シャンテ・シネで上映中
2005-10-20

『アミービック』 金原ひとみ / 集英社

六本木ヒルズは醜悪か?


仕事場に向かう路地の正面に、派手なビルが見える。その形は意外と知られていないようで、「あれは何?」とこの2年間、何度も聞かれた。「六本木ヒルズの森タワー」と答えると、その後の反応は2通りだ。
a「そうなんだ!」(やや肯定的)
b「そうなのー」(やや否定的)

根津美術館から見えるその建物を「醜悪だ」と評する人もいる。芝浦で仕事をしているクレバーな幼なじみに「六本木ヒルズってどう思う?」と聞いてみたら「ごめん、行ったことない」とあっさり言われてしまった。「六本木ヒルズだけじゃなくて、汐留も丸の内もお台場も…」と。私だって仕事上の必要がなければ行かないかもしれないな。私はたまたまドメスティックな仕事をしており、彼女はグローバルな仕事をしている。その違いだ。

六本木ヒルズという場所にリアリティを与えてくれた、金原ひとみのアミービックな感覚には、そんなわけで、とても共感する。

「さっきタクシーを降りた時に目に入り、気になっていたコートを、やっぱりもう一度ちゃんと見てみようと思いながらヴィトンに向かった。黒いベルベットのコートを羽織り、腰元のベルトを締めると、それはぴちりと私の体にフィットした。じゃあこれを。何故だろう。何故買ってしまったのだろう。これで、今年に入って六枚目だ」

無感動にお金を落とせる場所。それが、六本木ヒルズの美しい定義かもしれない。「アミービック」は「私」が六本木ヒルズに足を向けてしまう理由をめぐる物語だ。「パティシエ」という言葉が冗談のように連発され、私たちを暴力的に取り巻く「おいしいお菓子」にまつわる定義を一蹴してくれる。「幸せな女はお菓子をつくる」というのはウソだし、「愛をこめてつくるお菓子はおいしい」というのもウソだし、「女はお菓子が好き」というのも大ウソなのだ。

「どうして私は始めてのお菓子作りでこんなにも完璧な代物を作り上げる事が出来るのだろう。何故私には出来ない事がないのだろう。何故私は嫌いな物に関しても天才なのだろう。もしかしたら私に出来ない事などないのではないだろうか。しかしそれにしても全く見ていると吐き気がする。全く、こんなもの世界上に存在すべきではない」


美しさとは、過激である。飲み物と漬け物とサプリメントで生きる「私」は、過激に美しい。それは、気にくわないものを徹底的に拒否する、過剰な全能感によって達成される。言い換えれば、ストレスをまともに感じることすらできず、不都合なことはすべて記憶から無意識に抹消されるほどの病的さだ。

こんなにも不健康で美しくてパーフェクトな女が、どこから生まれるのかといえば、無神経に二股かけるような冴えない普通の男から生まれる。女の過激さは、男の鈍感さの産物であり、女は鈍感な男とつきあうだけで、どんどん美しくなれたりするのである。すごい真理。すごい集中力。ありえない勘違い!

女がどれほどヤバイ状態になったら、男は気付くのだろうか?
2005-10-03