『東京タワー』 リリー・フランキー / 扶桑社

「オトン」と「ボク」。


パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」が東京に進出した。
この店の主役は、肉や魚じゃない。お菓子のようにちまちましたスパイシーなアミューズ、とろけるような球形のバター、コース料理のように次々と登場するデザートのお皿・・・。
メインディッシュは夜景である。といってもそれは、宝石箱のような窓にトリミングされた、ブローチのような東京タワー。「厨房のピカソ」といわれるフランス人シェフのこだわりなのか、ここまで貴重品のように扱われる東京タワーも珍しい。

リリー・フランキーの小説「東京タワー」は、その窓と同じくらい、私にとってリアリティーのないものだった。

母というのはこうでなくちゃ、女というのはああでなくちゃという女性像を押しつけられる感じが強く、読んでいて苦しい。「ボク」にとっての踏み絵は「オカン」だ。「オカン」と相性がよくなければ「ボク」のテリトリーには入れない。

東京へ出てきた「ボク」が極貧の生活から這い上がり、徐々にまともになっていくのは、「ボク」が呼び寄せた「オカン」が「湯気と明かりのある生活」を実現し「ボクが家に居なくても友達や仕事相手がオカンと夕飯を食べているという状況」が珍しくなくなるほど、オカンのキャラクターが多くの人に愛されたからだ。
どこの誰がきても食事をふるまう「オカン」。こんな母親ってうらやましい。だが、この食事もまた踏み絵なのだ。

「お嬢様大学に通いながらゼミの紹介で出版社のアルバイトをしている女学生」が「ボク」のイラストを受け取りに来るが、「オカン」がすすめるお茶や食事にまるで手をつけない。その態度が遠慮ではなく「奇異であり迷惑」の表明と見極めた「ボク」は激しく憤り、彼女が帰ったあと、それを平らげてくれるアシスタントを呼び「マスコミ志望のヤリマンが残したもんだけど」と言うのであった。

この彼女のほか、「オカン」が亡くなった日に原稿の催促の電話をかけてきた女性編集者、そして「オカン」とうまくいかなかった父方の祖母、さらに「オカン」を幸せにしてやれなかった「オトン」に対しても「ボク」は厳しい。アパート暮らしを始めたころに通っていた別府の定食屋のおばさんがつくる、古い油のにおいがするおかずや具の少ないクリームシチューに対しても…。

この本の厚さは情の厚さであり、普通の男なら、きっと1行も書かずに心にしまっておくような内容だ。表現しない限り、他人に侵される心配もないのだから。だが「ボク」の場合は逆で、他人に侵されないようにするために、渾身の愛を臆面もなく綴った。守りのためのナイーブな攻撃性は、痛々しくもある。

「ボク」がそっくりなのは、「オカン」ではなく、実は「オトン」である。父親から受け継いだ恐るべきDNAを自覚し始めるとき、「ボク」の攻撃性は和らぐのかもしれない。「オトン」は、自分の母親と相性の悪かった「オカン」をテリトリー外に追いやった人。その不器用でカタクナな愛は、「ボク」が守り抜く「オカン」への愛と相似形を描く。

東京の人々に愛され、華やかな葬式に加えB倍ポスターまでつくってもらった「オカン」の魅力ってマジですごいなと思うけど、私は、あまり人には好かれそうもない「オトンの母親」のほうにリアリティーを感じる。老人介護施設にいる彼女を「オトン」と「ボク」が揃って見舞う風景は美しい。映画なら、いちばん残るシーンはここ。
父探しの物語は、まだ始まったばかりだ。
2006-01-16

『野ブタ。をプロデュース』 白岩玄 / 河出書房新社

内面のない男の子。


ドラマ「野ブタ。をプロデュース」が終わった。
まわりには「ドラマなんて見てない」「そのタイトルはどーかと思う」「KAT-TUNって何?」な人が多く、そのたびに私は「ドラマの中で『修二と彰』を演じたKAT-TUNの亀梨和也クンとNEWSの山下智久クンが歌うレトロな主題歌『青春アミーゴ』は今年初のミリオンセラーであり10代から40代まで幅広く売れている」とか「原作は文藝賞を受賞し芥川賞の候補にもなったステキな小説である」とか「1983年生まれの著者は『修二と彰』を足して2で割ったように見えなくもないジャニーズ系の男である」とか、たいして意味のないフォローをしたものだった。

私が本当に言いたかったのは、修二のキャラクターがいかに面白かったかってこと。自分の気持ちで動かない主人公、修二。要するに彼には「強い思い」がないのだ。現実へのイラだちや飢餓感とは無縁で、ちっともひねくれていない男。もしかしたら、原作を書いた著者にも「強い思い」なんてないんじゃないだろうか? と思ってしまうほど、それはリアルだ。

「変わりない生活はだらだらと続いていく。俺たちのだらだらぶりは多少時代のせいもあるはずだ。若者はいつだってその時代を如実に映している」

ただし必要以上に近づいてきて、内面に入ってこようとする奴に対してはビビりまくる修二。自分が実は冷たい人間なんじゃないかってことがバレちゃうからだ。ほとんどこの1点のみに怯えながら、人気者としての自分をプロデュースし、完璧に取り繕ってゆく修二。外見も育ちも要領も完璧に生まれついた男の子の、これは新しい悩みの物語なのか? コンプレックスがないことのコンプレックス。内面がないことの恐怖。だから今日も、修二は外側を着ぐるみで固めて学校へ行く。誰も入ってこれないように。

中身がないのに外見や口先がそれっぽくて、頭もよくて、根拠のない自信に満ちているって、どんな気分? 自分がプロデュースしたかっこいい自分。嘘でぬり固めた日常。だが、この小説には、そのことの底知れぬ空しさが描かれているわけではない。

「近過ぎたら熱いし、離れすぎたら寒い。丁度良いぬくいところ。そこにいたいと思うのはそんなに悪いことか?」

修二は、ださださの転校生をプロデュースし、人気者に仕立てる。プロデューサーってのは、客観的に人を見て、遠隔操作していくことだから、これは修二の得意技。だけど、相手は彼に感謝し、踏み込んでくる。そう、修二が苦手なのは、他人の心なのだ。その重さ。その深さ。そのまじめさ。そのうざったさ。やがて修二の冷たさは、思いがけないところで露呈してしまう。いったん着ぐるみがはがれると、何もかもうまくいかない。

「本当は、誰かが俺のことを見ていてくれないと、不安で死んでしまいそうだったんだ」

流暢な会話ができなくなり、しどろもどろになる修二はいとしい。丁度良い距離というのが、実はそれほど簡単には手に入らない、特権的なものだったことを彼は知る。

でも、そんな修二に対して、私は思う。
いつまでも冷たい、他人の気持ちなんてわからない修二でいてほしい。
弱みなんて見せない、表面的にかっこいい修二でいてほしい。
― この小説は、そんな思いにちゃんとこたえてくれる。

とりあえずラーメン食う。とりあえずマンガ読む。とりあえずテレビつける。悩みなんてなーんもないようにみえる。それが、男の子のあるべき姿なのだ。
2005-12-22

『平成マシンガンズ』 三並夏 / 河出書房新社

15歳のジレンマ。


「あたしも何故かこのマシンガンは人を殺さないような気がしていたから特に気にせず、浮かび上がった父や母、愛人や友達を適当に撃った。撃って何が起こるというわけではない、相手が死ぬわけではないし怪我もしないし心の傷も与えない」

なんて健康的な夢だろう。大人の作家なら、クールな視点や変化球で突き抜けようとするところだが、この小説はどこまでも王道。逃げないし、ひねてない。つまらない同級生やつまらない大人たちを過剰な自意識で見下しながらも、自分自身もまた相当つまらない人間であることがわかってしまっていて、それはどうしようもないことなのに、どうにかしようと思っている。

彼女のジレンマは「相手にダメージを与えないマシンガンで打ちまくる」というゲーム的なモチーフに結晶している。それは、手ごたえがないということではなく、自分自身だけにダメージを与えるという建設的な意味を含んでいる。

相手をなぐったり傷つけたりしてはいけないことになっている時代。なんとなくきれいに整備されている日々。生まれたとき既に1990年だった平成生まれの彼女は、何事もなかったかのような不自然さでアメリカナイズされた退屈な学校生活の中で「本能に従って自分の意思でしていること」はいじめだけと言う。

彼女たちの世代が可哀想ってわけじゃない。いつの時代も、子供たちの仕事は、大人たちに反抗することなんだから。だけど一体何に反抗すればいいかわからないのだとしたら、パワーがあり余るかも。いじめたり、いじめられたりを延々と繰り返すことで、かろうじてバランスをとっていくわけだ。

生々しいものは、とりあえずゲームの中にしかない。だからゲームで練習するしかない。この世に生まれ落ち、好きなことが見つかるまではゲームを続けてもいいし、ゲームを続けるしかないし、何なら一生ゲームに熱中したっていい。

そう、そのくらい、ゲームは子供にとって必要不可欠。もしもゲームが手に入らなければ、夢にゲームが出てきちゃうだけの話だ。夢にはいつも、現実にたりないものが登場して、私たちを満たしてくれる。だからせめて、大人の妄想がつくったゲームから選ぶのではなく、オリジナルな妄想を夢の中に構築したいもの。彼女はそれをやった。だから小説になった。思考停止状態からの、正面からの脱却を試みた。

「討つべき標的を知りたいと思った。闘うべき敵の正体を知りたいと思った」

まずは、世の中をまんべんなく撃ってみる。
そして、自分自身に跳ね返ってくるダメージを感じてみる。
やがて彼女は、本当に撃つべき相手のみを、正確に狙い始めるだろう。怖い!楽しみ!
2005-11-29

『春の雪』 行定勲(監督)/三島由紀夫(原作) /

三島由紀夫(80)の魂はどこに?


三島由紀夫の遺作「豊饒の海」。その第1巻である「春の雪」を読み直しながら、これはレオパルディだ、と思った。たまたまイタリア的悲観主義に関する本を読んだばかりだったので、三島由紀夫とレオパルディが結びついたのだ。

「彼(レオパルディ)の思想を簡単にまとめると、自然を超越するもの(神など)は存在しない。したがって、人間が置かれた状況(身体的、物質的な制限/制約も含め)から逃げられることはあり得ない。そして、人間の状況/環境である自然は、善良で優しいものではなく、邪悪な性質を持つか、それとも、少なくともニュートラルなもので、人間の苦に対しては冷淡で無関心である」 -「イタリア的『南』の魅力」ファビオ・ランベッリ(講談社選書メチエ)より

だけどまさか「春の雪」の終盤に、レオパルディの名がダイレクトに登場するなんて気づかなかった。学習院の校庭外れの草地で「美しい侯爵の息子」である主人公の清顕(きよあき)が、お化けと呼ばれる「醜い侯爵の息子」に初めて話しかける場面。

「いつも何を読んでるの」
と美しい侯爵の息子がたずねた。
「いや……」
と醜い侯爵の息子は本を引いて背後に隠したが、清顕はレオパルジという名の背文字を目に留めた。素早く隠すときに、表紙の金の箔捺(はくお)しは、一瞬、枯草のあいだに弱い金の反映を縫った。

「豊穣の海」全4巻の伏線ともいえる唐突なこの場面は、映画「春の雪」には出てこない。映画を見るだけでは、三島由紀夫のため息が出るような美文とその恐るべき読みやすさに度肝を抜かれることもないし、清顕の豊かすぎる想像力がもたらす屈折したお坊ちゃまぶり-喪失を恐れるがゆえの傲慢さや天真爛漫な残酷さといったきらめくような魅力-も圧倒的にたりない。

だけど、映画「69 sixty nine」における妻夫木くんに清顕との共通点を見出し、今回抜擢したのであろう(あくまで想像ですが)行定監督のセンスはさすがだと思う。個人的には、窪塚くんが演じる清顕も、ぜひ見てみたいところだけど。

映画「春の雪」は後半、禁じられた恋という制約の中、ようやく王道を駆け上がり、転げ落ちる段階になって、主演の2人(妻夫木聡&竹内結子)の魅力が増した。地位や伝統や着物は、乱れてこそ美しいのである。

清顕の周囲は、それぞれの政治力で動く鈍感な大人ばかりだが、中でも「咲いたあとで花弁を引きちぎるためにだけ、丹念に花を育てようとする人間のいることを、清顕は学んだ」と原作で表現される蓼科のユニークな人物造型を、大楠道代がうまく表現していたのが面白かった。

特筆すべきは、月修寺門跡を演じた若尾文子で、もうすぐ72歳の誕生日を迎えるというのはうそでしょう?の美しさである。三島由紀夫と若尾文子は、かつて「からっ風野郎」(1960)という増村保造監督のヤクザ映画で共演したというのも驚きだが、三島由紀夫がいま生きていれば80歳。この映画にだって、きっと出演していたに違いない。

いい作品は、作者の死後も、あらゆる世代によって真剣に受け継がれるのだなと思う。
若尾文子の高貴な京都弁、そして、ラストに流れる宇多田ヒカルの「BE MY LAST」が、この作品に魂を吹き込んだ。
2005-11-07