内面のない男の子。
ドラマ「野ブタ。をプロデュース」が終わった。
まわりには「ドラマなんて見てない」「そのタイトルはどーかと思う」「KAT-TUNって何?」な人が多く、そのたびに私は「ドラマの中で『修二と彰』を演じたKAT-TUNの亀梨和也クンとNEWSの山下智久クンが歌うレトロな主題歌『青春アミーゴ』は今年初のミリオンセラーであり10代から40代まで幅広く売れている」とか「原作は文藝賞を受賞し芥川賞の候補にもなったステキな小説である」とか「1983年生まれの著者は『修二と彰』を足して2で割ったように見えなくもないジャニーズ系の男である」とか、たいして意味のないフォローをしたものだった。
私が本当に言いたかったのは、修二のキャラクターがいかに面白かったかってこと。自分の気持ちで動かない主人公、修二。要するに彼には「強い思い」がないのだ。現実へのイラだちや飢餓感とは無縁で、ちっともひねくれていない男。もしかしたら、原作を書いた著者にも「強い思い」なんてないんじゃないだろうか? と思ってしまうほど、それはリアルだ。
「変わりない生活はだらだらと続いていく。俺たちのだらだらぶりは多少時代のせいもあるはずだ。若者はいつだってその時代を如実に映している」
ただし必要以上に近づいてきて、内面に入ってこようとする奴に対してはビビりまくる修二。自分が実は冷たい人間なんじゃないかってことがバレちゃうからだ。ほとんどこの1点のみに怯えながら、人気者としての自分をプロデュースし、完璧に取り繕ってゆく修二。外見も育ちも要領も完璧に生まれついた男の子の、これは新しい悩みの物語なのか? コンプレックスがないことのコンプレックス。内面がないことの恐怖。だから今日も、修二は外側を着ぐるみで固めて学校へ行く。誰も入ってこれないように。
中身がないのに外見や口先がそれっぽくて、頭もよくて、根拠のない自信に満ちているって、どんな気分? 自分がプロデュースしたかっこいい自分。嘘でぬり固めた日常。だが、この小説には、そのことの底知れぬ空しさが描かれているわけではない。
「近過ぎたら熱いし、離れすぎたら寒い。丁度良いぬくいところ。そこにいたいと思うのはそんなに悪いことか?」
修二は、ださださの転校生をプロデュースし、人気者に仕立てる。プロデューサーってのは、客観的に人を見て、遠隔操作していくことだから、これは修二の得意技。だけど、相手は彼に感謝し、踏み込んでくる。そう、修二が苦手なのは、他人の心なのだ。その重さ。その深さ。そのまじめさ。そのうざったさ。やがて修二の冷たさは、思いがけないところで露呈してしまう。いったん着ぐるみがはがれると、何もかもうまくいかない。
「本当は、誰かが俺のことを見ていてくれないと、不安で死んでしまいそうだったんだ」
流暢な会話ができなくなり、しどろもどろになる修二はいとしい。丁度良い距離というのが、実はそれほど簡単には手に入らない、特権的なものだったことを彼は知る。
でも、そんな修二に対して、私は思う。
いつまでも冷たい、他人の気持ちなんてわからない修二でいてほしい。
弱みなんて見せない、表面的にかっこいい修二でいてほしい。
― この小説は、そんな思いにちゃんとこたえてくれる。
とりあえずラーメン食う。とりあえずマンガ読む。とりあえずテレビつける。悩みなんてなーんもないようにみえる。それが、男の子のあるべき姿なのだ。
2005-12-22