『ロマンスX』 カトリーヌ・ブレイヤ(監督) /

SEXしてもしなくても、男は恨まれる。


週刊ポスト(2001/7/20)で"「性器モロ出し」仏映画の無修正映像が公開された"という見出しが躍ったせいだろうか。「ロマンスX」の上映館には、ふだん映画館で見かけない初老の男性の姿が目立ち、驚いた。

配給元であるプレノン・アッシュの篠原弘子社長は言う。「初日から年配のお客様が多くて、一番見てもらいたかった若い女の人とそのパートナーとなるべき男性は意外に動いてくれなかった・・・最近、映画が好きという人は多いけれど映画に何を求めているのかよくわからない」

恋人にSEXしてもらえないマリーの苦悩が延々と描かれる。愛し合いたい、抱かれたいという思いだけで頭がいっぱいになってしまう彼女は、恋人を問いつめ、自分を追いつめる。理想の愛ではなく現実的な執念をクローズアップし、煮詰めていく物語。17歳で初めて書いた小説が18禁になり、20代で初めて撮った作品が上映禁止になったという「筋金入り」の女性監督、カトリーヌ・ブレイヤ(50歳)の情念が血を流している作品だ。

「男に期待するな。体だけを求めろ。傷つけられたら復讐せよ」。この映画からは、こんなメッセージがきこえてくる。体を求めない男に苛立ち、体が目的の男を軽視するマリーは、どこへいくのか? セックスしてもしなくても恨まれちゃう男たちって、一体何だろう? だが、これこそが、「貞操観念の消失」と「セックスレス」が同時進行している現代の圧倒的なリアリティなのである。

マリーは恋人以外の男と寝る。縛られる。1人エッチをする。「いくらでなめさせて」というゆきずりの男の要求にまでこたえ、「これが私の求めていたことだ!」なんて思ったりもする。彼女のファンタジーは、見知らぬ男と寝ることなのだ。インターンにかわるがわる触診される産婦人科のシーンが、上半身と下半身に分断された売春宿の妄想へとつながる。しかし、マリーの悲劇は恋人を忘れられないこと。彼女は何度も泣くが、この女優、本当に泣いてるんじゃないだろうか、と思うほどリアルだ。 オーディションを勝ち抜いてこの役を得たそうだが、2週間で4キロ痩せてしまうほど過酷だったというハードコア撮影は痛々しく、長回しの映像の美しさとあいまって、フィクションを超えた切実な事件として胸に迫る。

真正面から撮った出産シーンに続くラストは、意味以上にリズム感が素晴らしい。長い長いトンネルを抜け出たような潔さに、監督自身もさぞかしすっきりしたのではないだろうか。この思い切りの良さ、したたかな開き直りは、あらゆる女性が潜在的にもつ怖さでもある。

悲劇の根源は「産む性」にあるのだというのがこの映画の出した答えだと思う。つまり、問題を内包するのは女で、それを解決するか泥沼にするかの鍵を握るのは男。SEXの有無とは関係なく「女をちゃんと愛せる男」が減るならば、マリーのような女は確実に増え続けるだろう。

前出の篠原弘子社長は、こうも言う。「1本の映画に出会って、『ああ、これで10年くらい生きていける』と思えるくらい幸せになったり、心の奥底にわだかまっていた澱のようなものを解き放ってくれたり(『ロマンスX』はこちらの例)、そういう体験をしながら映画が大切なものになっていくものだと思っていたのですが、なかなかどうして、世の中は思うようにならないものです。私も『千と千尋』も見たいし『猿の惑星』も楽しみ。でもゴダールの新作に"ヤラレ"て、恥ずかしながら涙を流す幸福もより多くの人に体験してもらいたいと切実に思っているのです」

*1998年フランス映画 /東京・渋谷で公開中/8月4日~大阪・梅田で公開
2001-07-22

『A.I.』 スティーブン・スピルバーグ(監督) /

愛とは、同じ時代に死ぬこと。


同級生が亡くなった。彼女が好んだスマップの曲が、葬儀上のすみずみにまで絶え間なく流れ、花に埋もれた彼女の顔は、まるで白雪姫のよう。私は、笑ってるんだか泣いてるんだかよくわからないサイレント映画のような参列者たちを見回す。100年後には、おそらく全員が死んでいるのだろう。彼女はほんの少し、早かっただけなのだ。

「A.I.」を見た。映画には、お金のかかった映画とお金のかかっていない映画の2種類があるが、この映画はもちろん前者。平日なのに行列ができていて驚く。劇場の広さに驚く。冷房の強さに驚く。パンフレットの大きさに驚く。音響の迫力に驚く。ハリウッド系の大作映画を見るのは久しぶりなのだった。

愛という感情をインプットされたA.I.(人工知能)の子供、デイビッドと、彼のパートナーとなる旧式のスーパーロボット、テディ。彼らの「完璧ないたいけなさ」があざとすぎずに済んでいるのは、「A.I.」が、数千年にわたる技術の進化を軸に繰り広げられるクールで壮大な物語だからだ。

ある家庭にデイビッドが試験的にやってきて、捨てられるまでの話は、かなり面白い。感情をもったロボットが、日常生活でどこまで受け入れられ、どの辺が問題になってくるのかを丁寧にシミュレーションしてくれる。この映画、この部分だけでもよかったかも。

デイビッドの冒険が始まる第二章は、SFXのオンパレード。このあたりから私は眠くなってくる。まるで徹夜明けにディズニーランドに遊びにいったような気分だ。 「手に汗握る技術自慢のシーン」こそがハリウッド映画の真骨頂なのだろうが、おかげで、どの映画も画一的な印象に見えてしまう。かなり残酷な内容であるというのも、お決まりのパターンか。ファンタジーとはいえ、いや、ファンタジーだからこそ、暴力や差別意識への予定調和的な想像力が、私は怖い。

泣かせるための強引な設定も、気になるところ。この作品のキモとなるクローン再生技術については、「1回限り・しかも有効期間1日」というタイムリミットが説明されることで、ずいぶん白けてしまう。

とはいえ、ディズニーランドは楽しい。よくできている。永遠に死ぬことのない人形や動物や超人が「人間になりたい」と願う話はよくあるが、「A.I.」は、この定番化されたストーリーを美しくスクリーンに定着することに成功していると思う。 水に包まれた近未来と、さらに2000年後の氷に包まれた世界が、甘すぎるファンタジーを冷たく中和し、忘れがたいシーンとして脳裏に刻まれる。

たまたま同じ時代に生き、同じ時代に愛し合い、同じ時代に一緒に死んでいく偶然とは、なんとかけがえのない摂理だろう。誰もが恐れている死の概念を、限りなくやさしく描くラストシーンには、力づくで泣かされてしまう。

*2001年 アメリカ映画
2001-07-22

『ゲーム業界 危機一髪!!』 浅野耕一朗 / 翔泳社

こんな仕事、やめてやる!


ITビジネスを解説した「図解 そこが知りたい!」シリーズの1冊。 学習参考書っぽい装丁とはおよそ似合わない、リアルな語り口の本だ。制作現場のディレクターからみたゲーム業界の現状が、熱っぽく(どちらかといえば愚痴っぽく)暴かれ、テレビゲームというものをほとんどやったことのない私にも面白く読めた。創造の楽しさよりも資本の原理が優先され、短期間でヒット商品をつくらなければならない業界特有のストレスが、たたみかけるような文体から感じられる。

「何故ゲームをまだ作り続けるのか」
「まだまだ捨てたものではない」
「ゲームは『表現』か、どこまで『表現』になるのか」
「ゲームは『表現』それ自体を目的とした媒体ではない」
「ゲーム企画者の創造性、ゲーム技術者の創造性を擁護する」
「ゲーム制作者たちよ、胸を張ろう。映画や音楽、現代美術に対して抱いているコンプレックスから自由になろう」
・・・かなり自虐的なトーンである。ゲーム業界、大丈夫なの?

どうやら、大丈夫ではないらしい。携帯電話が普及し、1、2分の暇を埋めたいという欲望が新たに開発された結果、単純なゲームのみが求められるようになり、ゲームの質ひいてはクリエイターの質が落ち、やがてゲーム産業は行き詰まるだろうという救いのないメカニズムが、わかりやすくチャート化されていたりする。

たとえば、「プレイステーション2」にしても、もはやゲーム機ではなく、家庭用デジタルコンテンツの総合端末なのだ。映像や音楽など、デジタルに変換できるコンテンツをすべて取り込んで再生できるため、ゲームにこだわる理由は何もない。じゃあ、ゲーム機はなくなってしまうのか? 著者は任天堂の「ゲームキューブ」(9月14日発売)がゲーム制作者の未来を分けると断言する。これが失敗に終われば、ゲームは携帯やDVDプレーヤーやパソコンなどにくっついてくるオマケとしての地位に転落するのであると。

「いつのまにか、名実ともにゲームに真正面から取り組むマシンは、『ゲームキューブ』だけになってしまった。すべては『ゲームキューブ』の行方にかかっている。ゲームキューブが失敗することは、あってはならない」。
・・・そ、そうなの? 思わず手に汗握ってしまう!

「ゲーム業界は現在、間違いなく過当競争に追い込まれつつある。過当競争というのは関係者全員が不幸になる仕組みだ。極限まで下げられた原価をなお下げさせられて、しかもクオリティを下げてはならないのだから。いきおいやっつけたような仕事になり、できあがったものは、見た人までも痛々しい気持ちになる製品だったりする。もし自分がいる場所が過当競争に巻き込まれたら、とっとと逃げ出すに限る」。
・・・ちょ、ちょっと待って! 要するに、転職をすすめてるわけ? 実際、著者は親切にも、ゲームクリエイターのスキルはほかの仕事にも広く生かせるはずと、さまざまな具体例をあげているのだ。

しかし、著者自身は、ゲームクリエイターをやめるつもりでこの本を書き出したものの、ぜんぶ書いちゃってすっきりした、というようなことを「あとがき」で述べている。すっかり吹っ切れて、この仕事は辞めないような気がしているのだそう。
「『書く』という行為は不思議なものだと思う」と彼は述懐するのだ。あー、よかった。なんだかほっとした。

著者は、かようにも読者を振り回す。まるで、この本自体がゲームのよう。
なにしろ、タイトルが「危機一髪!!」である。やられたー

*著者からメッセージをいただきました。THANK YOU!
2003-07-17

『ゆっくり歩け、空を見ろ』 そのまんま東 / 新潮社

子供は、誰に殴られるべき?


別冊宝島「腐っても『文学』!?」に、そのまんま東のインタビュー(by大月隆寛)が載っていた。坪内逍遥や五木寛之が好きで、現在、早稲田大学第二文学部で文芸を専攻する彼は、父親に一度も殴られたことがないことを引け目に感じており、殴ってもらうために「たけし軍団」に入ったそう。

「男の子は、母への恋慕から、心の中で父を殺し、父を超えた時、真の『男』になるらしい。エディプスコンプレックスというやつである。僕は、そういう大切な作業を省略して今日まで生きてきた」。
謹慎の憂き目にあった98年の「淫行騒動」で、彼がもっとも迷惑をかけたのは8歳の息子。奇しくも、彼が実の父親と別れたのも8歳の時だった。「あの時、父は僕に悪いと思ったのか」という問いが彼の中でふくらみ、かくして父親探しの旅がはじまる。

文体といい、テーマといい、純文学とはこういうものだ、というような紋切り型の表現は新鮮なほど。何かに似ていると思ったら、たけしの映画だ。彼は、実の父親「北村」と、師匠「北野」の血を両方受け継いでいるのだろう。

地元の名士であり不動産業を営む酒乱の父を「気絶するくらい臭い」「ぶざま」と罵倒しながらも、彼は父に関する豊かな思い出やドラマチックなエピソードを得々と語る。サーカスを呼んで自宅で乱痴気騒ぎをしたり、妾である彼の母親と気が触れたようにセックスしたり。妾の子である彼とは微妙な距離感があるものの、「やはり僕の中には、北村のどうしようもない淫蕩の血が流れているのだ」という言葉すらも自慢に聞こえるほど。

一方、北村と別れたあとに母が再婚した「北村や僕とは全く真反対の性質」の新しい父に対してはどうだろう。
「人の人生が一本の映画というなら、とても映画にはなりそうに無かった。始めから終わりまで全て同じシーンの繰り返しなのだ。ただ歩いているだけの映画。科白もない。そんな映画誰も観ないだろうし、もし観たとしても退屈で眠ってしまうに違いない。退屈な平行線。平行線的恋愛。スポンサーだってつかない。スポンサーのつかない人生。しかし彼にはスポンサーなんかいらないのだ。というのも、彼自身は退屈していないし、眠りもしない。ただひたすら平板的に歩き続けるのだ。山も登らないし、谷も下らない。勿論振り返りもしない。たとえ振り返っても全部同じシーンなのだから。きっと彼は我慢していたのだ。様々な感情や出来事の量を、人が生きるのに必要最小限以下の量にセーブしていたのだ。それでよく今日まで生きてこれたものだ。もっと感服するのは彼はそのことに今でも大方満足しているということだった。全く信じられない。とうてい僕のような人間には出来そうもない。だからいつも彼に敬意を抱いている」。

ここまで畳み掛けるように「普通の人」を悪く書いた文を、私は読んだことがない。この父は、母親をようやく幸せにしてくれた男であるというのに。「敬意」と書かれているが、これは明らかに「敵意」だろう。この男を見ていると、彼は自分の中に流れる「北村の血」を強烈に意識せざるを得ないのだ。

だが、妾をつくり、その妾からも愛想をつかされた北村に比べると、彼自身はどこか中途半端。彼の妻は「風俗店に出入りした事実より、このような騒ぎになったことで子供達に及ぶ影響を懸念し、僕に対する怒りを顕わにした」というが、淫行とは、妻に女としてちゃんと怒ってもらえない程度の些細な不祥事なのである。単に運が悪かった芸人である彼もまた、息子を殴れないのだろうか。芸人の徒弟制度も崩壊しているらしいし、これからの男の子は、一体誰に殴られればいいの?
2001-07-13

『偶然の祝福』 小川洋子 / 角川書店

純文学は、読まなくても面白い。


純文学とエンターテインメント小説の違いは、自由度の違いだと思う。途中で寝たり、読みとばしたり、勝手に想像したりといった行為が許される(ような気がする)のが純文学。書き手が自由に書いているのだから、読み手も自由に読めばいい、というような懐の広さを感じる。ルールがないから、どう解釈したっていい。

現実には、読みにくくて退屈な純文学が多いが、「そこには自由なことが書かれているんだ」と想像するだけで、なんだか楽しい。一冊もちゃんと読んだことがないのに、新作がたまに出たりすると「嬉しい」とつい思ってしまう作家がいる。たとえ頁をめくることはなくても、その作家の本を買うことで、自由の存続に一票を投じたいような気持ちになるのだ。

「偶然の祝福」はとても読みやすいけれど、これは、まぎれもない純文学である。だって、いきなりこんな書き出しだ。「真夜中過ぎ、寝室兼仕事部屋で小説を書いていると、時折自分がひどく傲慢で、醜く、滑稽な人間に思えてどうしようもなくなることがある。(中略)私はいつだって、上手に小説を書くことができないのだから」

私は今から、傲慢で醜く滑稽な人間の書いた下手な小説を読もうとしているんだ・・・・・それだけでもう、この本の世界に引き込まれてしまう。つかみはオッケー。普遍性や時代性やコストパフォーマンスとはほとんど関係のない、ごく個人的な贅沢としての読書の時間が始まる。

過去の記憶と想像が入り混じる、童話のような連作短編集だ。心臓に穴があいている絨毯屋の娘、嘔吐袋をコレクションするおばさん、左腕が下ろせなくなった水泳選手の弟、なくしものを必ず取り戻すお手伝いさん、無数のポケットに「私」のすべての著書を入れて持ち歩く男などが登場するが、どの短編にも、現実や夢や思い出や作り話の合間に、必ず「小説を書こうとしている私」があらわれる。

「長編小説を書いている時、私はなぜか自分が時計工場にいるような錯覚に陥る。(中略)いつしか世界そのものが、自分の手に収まっているのを感じる。世界が私の掌で鼓動している。私の身体はこんなに弱々しく、世界の片隅に追いやられているというのに」

弱いのに強く、醜いのに美しく、傲慢なのに誠意があり、儲からないのに自由。純文学の魅力は、そういうものかもしれない。とりわけ、小川洋子の小説がそうだ。書くことを楽しんでいる感じがビシビシ伝わってきて、それだけで、やっぱり嬉しくなってしまう。
2001-07-13

『カラビニエ』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

チープでリアルな殺戮と笑い。


戯曲「兵士たち」の映画化にあたり、ロッセリーニがシナリオ案をテープ録音し、ゴダールが監督した1963年の映画。冒頭に引用されるのはボルヘスの言葉だ。「進展すればするほど私は単純さに向かう・・・」

映画館へ向かう途中、iモードで上映時間を確認すると、「ミリタリーファッションの人は200円引き」とあった。たまたま「ちょっとだけミリタリーっぽい服」を着ていた私は、入り口で「この服、ミリタリー色なんですけど」と言ってみたい衝動にかられ、実際、拍子抜けするほどすんなりと200円引きで「カラビニエ」を見ることができたのだった。

この手の割引制度って、一体何なんだろう?「ノー・フューチャー」では、ギター持参なら200円引きだったし、「バッファロー'66」は赤い靴と銀の靴のカップル割引があった。「オール・アバウト・マイ・マザー」は母子割引、7月14日よりロードショーの「白夜の時を越えて」にいたっては、双子なら1人500円で見れるという。

単なるお遊びなんだろうけど、今回の「ミリタリー企画」は、アバウトさが映画の内容に妙にハマっていた。だって、監督のコメントによると、カラビニエ(カービン銃の兵士)の軍服は「帝政ロシア将校の軍帽」「イタリアの鉄道の車掌の上衣」「ユーゴのパルチザンの長靴」などの混ぜ合わせ。この作品は、現実の戦闘シーンのフィルムを引用しながらも、メインはどっかその辺の広場で撮ったという印象の、キッチュな「戦争ごっこ映画」なのだ。

「愉しみはTVの彼方に」(中央公論社)の中で、金井美恵子は言う。「『カラビニエ』を見たら、自分たちにでも映画が撮れそうだと信じる人々があらわれることに、何の不思議もない、ということがわかるだろう。カメラマンと何人かの出演者(もちろん素人でいい)と、なにより"ゴダールがいれば"、無謀にも、映画は撮れるのだ」。
「カラビニエ」と「パール・ハーバー」(見てないけど)の違いは、まるで「iモードゲーム」と「プレステ」(やったことないけど)の違いのよう。「リアリズムとは、真の事物がいかにあるかではなく、事物が真にいかにあるかということである」というゴダールの言葉は、冒頭のボルヘス的な世界観につながっている。お金をかければリアルな体裁の映画は撮れるだろうが、リアルな中身が宿るとは限らない。

徴兵される兄弟の弟が、初めて映画を見るシーンの初々しい描写はロッセリーニっぽい。彼は走ってくる機関車の映像にのけぞり、入浴する美女のバスタブを覗こうと立ち上がる。挙句の果てにバスタブに飛び込もうとしてスクリーンを引き裂いてしまうのだが、それが単なるコントで終わらない理由は、剥き出しになった壁面に映画が映り続ける様子が、リアルな驚きを含んでいるからだろう。3人の兵士が氷った川をつるつるすべりながら下るシーンにも、ばっかじゃないの!と思わず笑ってしまう。

戦争における非情な暴力をミニマルな視点で描きつつ、兵士という存在の馬鹿らしさ、情けなさ、人間らしさに迫った傑作だ。とりわけ、兄弟がセクシーな母と妹に、キッチュな「戦利品」を次々に披露するクライマックスは、そのシーン自体のキッチュさとともに忘れがたい。

ゴダールの映画らしく、当時のファッションやクルマ、2人の女優(プログレッシブ・ロックの頂点をきわめたカトリーヌ・リベイロ&2年後にエマニュエル・ベアールを産むことになるジュヌヴィエーヴ・ガレア)の魅力も楽しめる。女は意外とちゃっかりしており、男は意外と情けないという図式は、いつの時代も変わらないのか?

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中
2001-07-10

『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』 福田和也 / PHP

心が躍る哲学。


タイトルのセンスがいい。「ひと月百冊読み、三百枚書くための方法」だったら読まなかっただろう。本書はそっけない実用書ではなく、エピキュリアン的哲学の本なのだ。最低でも6時間は眠り、内外を飛び回り、大学で講義し、ゼミの指導をし、レポートを採点し、学生と飲み、友人との溜まり場に週3回は顔を出し、何回に一度かはへべれけになるという福田和也の、筆記具やノートの中身の写真まで付いている。

書く上での困難に何度も直面したあげく、著者はある決意をするのだが、そのときのエピソードに関連して、親友である人気シェフの話が出てくる。汗まみれで厨房に立つ忙しい日々に少し飽き、しんどいと愚痴ったとき、シェフの母上はこう言ったという。「世間には、志を得ないで、その力を発揮できない人がたくさんいるのに、恵まれて存分に働ける機会を得ていながら、しんどいとは何事か。男と生まれて、その限界まで働かずに、何の甲斐があるのか」。 ブラボー! 強い父親がいないから子供が犯罪に走る、というようなことが最近よく言われているが、賢い母親がいればオッケーなんじゃないだろうか。母上の言葉は、息子の親友の本の読者である女の私にまで届き、襟を正させるのだ。私もがんばります、お母さん。

エピキュリアンの基本は、アナログ指向である。著者はインターネットを利用するものの、本は書店で買うのがいいと言い、古本屋街の楽しさを語る。翻訳物を読むときには気に入った箇所だけでも原文にあたることを薦め、資料だけではなく現地に行くことの重要性を説く。要は、体を使うことを忘れちゃいけないってことなんだろうな。楽な方法が、必ずしも楽しさにつながっているわけではないのだ。しかし、だからといって、私がインターネットで買う本の数が減る気配はないのだが…。本書でも紹介されている古書の検索エンジン「スーパー源氏」は本当に便利。先日、私はある本を探していて、原宿のブックオフに行ったものの当然なく、神保町まで足を伸ばす気力もなく、これで検索したら、青森の「林語堂」にあるとわかり、4日後には手にすることができた。これってすごい。
http://www.murasakishikibu.co.jp/oldbook/index.html
青森に行く機会があったら、ぜひ「林語堂」に寄ってみようと思う。

著者にとって、テレビは情報価値がゼロであるばかりでなく、書くことの邪魔であり時間の無駄でしかないという。「テレビというメディアの性質の中に、基本的な問題として、視聴者を受身にすること、受身にした上での、ある種の反射的な反応をつくるという性質があるからです。(中略)『情報』を得るというのは、けして受動的な行為ではないのです。むしろ、高度の自発性、能動性が要求される行為である。あるいは、その能動性こそが、情報獲得の効率を確保するのです」。まったく同感! だからといって、私がテレビを見なくなるわけではないのだが…。また、著者は「ヘラルド・トリビューン」を読む愉しみについてこう語る。「中東和平の決裂、といった事件があると、高名な記者たちの、それぞれ観点や解釈にこだわる解説、論説が、見開き両面にずらっと並ぶ壮観さは、なかなかのものであり、それを見るだけで、私のような文字に生きる者は、心が躍ります」。

物を書く人が「心が躍ること」について書いた文を読むことほど、心躍ることはない。著者の批評や思想に関しては「うっそー!」とびっくりすることもしばしばだが、どんな場合にも、読んでいて心が躍る。生きることを心から楽しんでいる人だからだと思う。
2001-07-06

『恋するために生まれた』 江國香織・辻仁成 / 幻冬舎

もりあがらない二人。


「私ね、ずいぶん長いこと、男の人と寝るたびに、どうしたらいいか分からなかった。初めてではないにもかかわらず、恋が違うということは、初めてと同じで、学習しようがないでしょう」(江國香織)

「いつか、ふっとどこかへ行ってしまいそうな危なっかしさを持っていながら、わざと束縛されるのを喜ぶフリをしてみせるような狡猾な女性がいい。なんと贅沢な要望でしょう。こんな男、僕が女性なら、願い下げです」
(辻仁成)

初々しい語り口で大胆なことを言う江國と、ナルシシズム炸裂の辻。本書は、まるでメールのやりとりのようなゆるい文章で綴られた二人の往復書簡だ。辻は江國を「僕にとっては非常に珍しい真実の友の一人」「本当に稀なくらい素晴らしい間柄」と表現するが、江國はもう少し現実的。「端的に言えば、辻さんは女好きで、私は男好きなの。たぶん。で、本を書くことにしちゃったんだな」。

テーマは終始恋愛についてだが、二人の接点は意外と少なく、しかし、だからといって喧嘩になるわけでもないという非常に中途半端なテキスト。辻は江國に対し、「君が何かを言うと、僕はただ、うんうん、と微笑みながら聞いてしまう」「可愛い。なかなか言えませんね。すごい!おそれいりました。つくづく君って、かっこいい」「だからあなたはいつまでもチャーミングなんだと思います。でも」というふうに、とりあえず「年上の男」的な余裕を見せながら言いたいことを言うスタイルを貫く。一方の江國も、「こんな言い方をするなんて、辻さんはやさしい人だなあ」「辻さんの底知れぬパワーというのは、すごい。私の場合は―」「その通り! 私は辻さんの、こういう文章力を敬愛します。ただ」など、ひととおりの尊敬のまなざしを注いだ上で反論する。

辻が江國に嫌われるのは、愛のないセックスについて語るとき。「いいセックスと悪いセックス?それは一体どういうの?辻さんはときどきわからないことを言う」「恋愛抜きでセックスをしたことがないので、私にはわからないのです」ときっぱり言い放つ江國だが、このテーマも、残念ながら、それ以上突き詰められることはない。

辻が、二人の初デートについて語るくだりがある。「僕はまだ結婚していた頃でしたから、二人にはそれぞれお互いにパートナーがいました。でも、知り合ってすぐにデートをしたのです。男とか女だとかに区切られない爽やかなデートでした」。これに対して江國は、「なぜ恋愛関係にならないのか?(中略)私は自分が守られたいほうだから、恋をしないんじゃないかなあ。それに、やっぱりVERY BESTになりたいから、相手にとって」と言っている。

「男好きな女」と「女好きな男」がデートして、互いに好きだったら普通、恋に落ちるんじゃないかなー。文脈から判断するに、辻は江國のハートに火をつけるほどの存在ではなかったようだ。それにしても「男とか女だとかに区切られない爽やかなデート」って一体何なのか? 作家なら、そこんとこを、きちんと突き詰めて表現してほしかった。
2001-07-03