『フォーエヴァー・モーツァルト』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /


めくってみる。走ってみる。挫折してみる。

ゴダールの映画を見ると、ボルヘスの「伝奇集」プロローグを思い出す。
「長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労多くして功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすこと」

ゴダールは、1つの短編で世界を語りつくしてしまうボルヘスのように、1ショット1ショットに膨大な情報をエネルギッシュに詰め込む。一瞬も見逃すことができないけれど、一瞬だけ見ても満足できる。とっても燃費がいいのだ。

「フォーエヴァー・モーツァルト」には、一応のストーリーがあり、映画の企画から上映までの話になっている。そして、それは、いちいちうまくいかず、雇われ監督はこんなふうにつぶやく。
「映画で途方もなく悲しいのはこういう時だ。無限の可能性がありながら、根本で放棄した痕跡」

だけど、一箇所だけ、うまくいくシーンがある。「ウィ」と女優が言うだけのテイクを600回以上繰り返すシーンだ。やけになった女優は走り出し、一緒にカメラも走り出す。浜辺に倒れ込んだところで、女優は最後の「ウィ」を言うのだが、このとき、雇われ監督は、オリヴェイラの美しい言葉を引用する。
「私は映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる。壮麗な徴たちの飽和」

「勝手にしやがれ」(1959)や「ワンプラスワン」(1968)のラストを思わせるみずみずしさだ。大切なのは、とりあえずやってみること。動くこと。前に進むこと。

映画のラストはモーツァルトの演奏会で、最終的に残るのは楽譜をめくる音のみ。ゴダールは、フィルムがカタカタまわる音で「映画史」(1988-98)を表現したが、この映画では、パサッパサッという紙の音で「音楽史」を表現したのだろうか。譜めくりの音はやたらと速く、まるで、この映画自体のテンポの速さと節操のなさを表しているかのよう。モーツァルトの楽譜をめくっても、映画のシナリオをめくっても、ただの白い紙をめくっても、だいたい同じ音がするはずなのだから、やっぱり、大切なのは、めくり続けること。音が出なくても演奏をやめないこと。

人は、「自分がやらないこと」に関しては、口だけで大きなことを言うことができる。映画を撮らない限りは映画を罵倒することができるし、俳優にならない限りは彼らを揶揄することができる。会社経営をしない限りは経営者を大声で批判できる。それは「やらないでいることの強み」だ。

子供が堂々と正論を言えるのは、まだ何もやったことがないからだが、大人になっても何もやらないでいれば、いつまでも「自分ならうまくできる」という幻想を抱くことができる。やらないでいる限り、子供のころからの夢はこわれない。夢をこわしたくないから、自分の能力がないことがわかってしまうのがこわいから、いつまでもやらないでいる。

いったん楽譜をめくり始めれば、夢は消えるだろう。うまくいかないことばかりのはずだ。
恐ろしいが、幸せなことだと思う。
「やらないでいることの強み」という幻想を捨てること。それが自由への第一歩なのだとゴダールは教えてくれる。

*1996年 仏・スイス・独合作
*渋谷ユーロスペースで上映中
2002-07-27

DREAM―RUMIKO流 夢の持ち方、叶え方』 RUMIKO / マガジンハウス


くちびるに刻印されたシミュレーショニズム。

「恐れることはない。とにかく『盗め』。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ」
(椹木野衣「シミュレーショニズム」洋泉社1991)

そんな時代から10年以上が経過した今も、サンプリングやカットアップやリミックス、あるいは盗作やコピーやまねっこは、ますます加速しているように見える。そこには歴史的な概念がなく「もと」をたどることに意味がない。ピカビアと横尾忠則は同列で、ビートルズと奥田民夫も同列なのだ。

先日、代官山の某ショップに「穴空き部分とヒップポケット部分にヴィトンのモノグラムがついたusedのリーバイス501」があるという情報を得た。浜崎あゆみがデニム持込でオーダーしたものと同デザインで、グッチバージョンもあるという。これって一体何なのか? 「リーバイス」「リーバイス501をusedにした人」「ルイヴィトン」「浜崎あゆみ」「ショップのデザイナー」の5者コラボレーション作品?

7月16日付けの「i-critique」で浅田彰は、江國香織が「心に響いたこの1行」(週刊新潮7/18号)でモームの「お菓子と麦酒」(新潮文庫)を引用したことについて書いていた。浅田彰は、江國香織のフランス語のルビの間違いとともに、その1行が実はマラルメの有名なソネットの出だしの1行であることを指摘。「少なくともこれがマラルメの引用であることぐらいは知っていないと、そもそもモームの意図の理解さえおぼつかないだろう。その程度の初歩的な知識もない人間、あえて反時代的なポーズとしてモームの古臭い小説を取り上げるというより、その『小説の力』に素直に感動してしまうような人間が、『作家』として通用してしまい、その文章が、センター試験の国語の問題に出てしまう。現在のわれわれの文化は、そんな末期的状況にあるのだ」と結んでいる。

モームがマラルメを引用し、それを江國香織が「モームのオリジナル文」として紹介する。
あゆがリーバイスとヴィトンを引用し、それをショップが「あゆデザイン」として売る。
この2つ、似てない? 現代は、フットワークの軽いDJがアーティストと呼ばれる時代なのである。

さて、RUMIKOは、化粧品業界のDJというべきメイクアップ アーティストだ。彼女のオリジナルブランド「RMK」は、世界の化粧品のリミックスであるように見える。そして、そのことが、女の子の気持ちをぐっとつかむ。モデル撮影に立ち会う時など、ヘアメイクの人のメイクボックスを覗くと、RMKの化粧品が入っている率は相当高い。

NYでいかに自分を売り込んだか、どんなカメラマンと仕事をしてきたかという話よりも、彼女が高校時代、ツイギーの仮装をするために、つけまつ毛を手作りしたという話が印象的だ。メイクアップアドバイスのページも、身近なお姉さんの提案のようなときめきがある。料理のレシピでいえば「今日つくってみよう」と思わせてしまうセンス。

本書の初版本(¥1,300)には「限定リップグロス交換券」がついている。RMKのショップで私にそれを手渡してくれたスタッフは、とても嬉しそうで、私はRUMIKOファンから贈り物を受け取った気分になった。

リップグロスの容器には「Kiss」とあるのみでRMKのロゴがない。もしもこれがシャネルの限定リップグロスなら、シャネルのロゴは不可欠なはずで、少なくともロゴがなければファンは納得しないだろう。私は、唇の形にデザインされたリップグロスを自分の唇にコピーしながら、RUMIKOはやはりDJなのだ、と思った。
2002-07-22

『男気万字固め』 吉田豪 /


オトコギは、デリケート。

吉田豪による、男気あふれる5人のロングインタビュー。
彼は取材相手のエピソードを本人よりも熟知&リスペクトしているため、この本は、自慢の友人を第三者に紹介する時のような至福の突っ込みと「ダハハハ!」というイノセントな笑いに満ちている。

5人の顔ぶれは山城新伍、ガッツ石松、張本勲、小林亜星、さいとう・たかをという濃厚さ。私は彼らに関しても男気に関しても詳しくなく、どれも似た内容なのだろうとタカをくくっていたところ、それぞれが異質の輝きを放つ「珠玉の男気コレクション」に仕立てられていた。男気とは、男気あふれる男の数だけあるのだ!

結論としては、恋人にするならさいとう・たかを、結婚するなら張本勲、友達としておつきあいするなら断然ガッツ石松である。個人的な趣味ですが。

さいとう・たかをの理屈っぽい体育会系な生き方には痺れた。小学生のころ、なぜ1+1が2なのかと考えているうちに「そんなもの2と解釈するのはおかしい」と思い至るのだが「それは理屈っぽさじゃなくて、自分では素直さだと思っています」だってさ。茶色い紙にしか絵が描けなかった中学時代は、白い紙を手に入れるため進駐軍の倉庫を襲撃したというし、「(いまは)子供なんか信号が赤だったら車通らなくてもじっと止まってるでしょ。あれは知恵がなくなっていく形ですよね」なんていう。私はルールを守らない男が好きなんだ、とこの本を読んで気付いてしまった。

取材時の雰囲気や原稿チェックの量など、舞台裏や後日談を暴いているのが面白い。大物漫才師へのインタビューは「武勇伝や下ネタ、ついでにボクのツッコミも削除するという大幅な原稿チェックが入ってしまった」ため掲載を断念したというし、雑誌連載時に大好評だった某大物インタビューは、本人の希望で単行本への採録許可が下りなかったそう。この2人って誰?という疑惑は、水道橋博士が解消してくれた。

「語り下ろし取材の"暴走戦車"西川のりお編は、本人の希望で収録出来なかった。これは俺も気になって、テレビ局の楽屋で、のりおさんにこの話を振って見た。『師匠、どうしてあのインタビューをボツにしたんですか?』『いや、あのインタビューは誘導が多すぎるよ。あの取材、アイツの知っている結論を言わせるためにやってるみたいやろ』と。しかし、のりお師匠には悪いが、まさにそこが吉田豪の聞き手としての真骨頂であるのだ。自分が答えを知っているアンサーを引き出すため、古本を漁り、言葉を駆使して本人に検証する~この方法論に於いて、吉田豪は並々ならぬ達人なのである。さらに連載時に驚愕した"百獣の王"畑・ムツゴロウ・正憲編が、諸事情によりムリダロウと、不掲載になった。掲載号を読み返すと、本人が『なんでそこまで知っているの?この取材は最高に嬉しいね~』と上機嫌で乗りに乗りまくって答えた、名作中の名作である。しかし、畑氏も、さすがに冷めて読み返してみると、パブリックイメージと差がありすぎ、度が過ぎたと思ったのであろう」< 水道橋博士の「本と誠」>より

某男気系ライターは、吉田豪がパンクラスを徹底してヤユし続けていたことから「彼の印税収入には協力しない(キッパリ)」と言っていたが、男気の世界とは、ものすごくデリケートなバランスの上に成り立っているものなんだなと思う。

No sunshine but has some shadow.(影を生まない日差しなし)という諺もあるように、敵をつくらない笑いなんて面白くないし、波乱のない愛なんて信じられない! この本は、吉田豪を含む6人の男気が織り成す「愛と情熱と演技」が楽しめる。
2002-07-15

『孤高』 フィリップ・ガレル(監督) /


女の顔は、30代で差が出るみたい。

音のないモノクロフィルム。客席は水を打ったように静か。
「お腹が鳴ってしまったらどうしよう」などと心配しながら見るレイトショーは苦痛。食事をしてから見ればよかったなと後悔したけれど、こんな映画、食後に見たら80分間熟睡してしまう!

タイトルもクレジットもない。これは、フィリップ・ガレルのプライベートフィルム(1974年)なのだ。映っているものの殆どは、2人の女優ニコとジーン・セバーグの表情のアップ。「裸体よりも顔のほうが裸だ」というようなことを以前アラーキーは言っていたが、まさに顔フェチの映画。人の顔だけをこんなに凝視してもいいものだろうか?と不安になるくらいに。

2人の女優と監督の関係とか、ジーン・セバーグを取り巻く政治的状況とか、背景はいろいろあるようだけど、ひとまず、ストーリーはないといっていい。注目すべきは、2人の女優が同い年だという事実で、2人とも30代半ばである。30代半ば? うっそー! ジーン・セバーグ、かなり老けている。それに比べてニコ、かなり若い。実際、ジーン・セバーグは5年後に亡くなるのだが・・・。

フィリップ・ガレルは、10年間ニコと暮らす中で、彼女の出演する映画を7本撮り、すべて商業的には失敗したという。そんな映画が今、日本で上映されるって不思議。

ジーン・セバーグが自殺をはかろうとするシーンで目が覚めた。映像で目が覚めるなんて、面白い。無音の映画のよさは、映像に集中できること。セリフがあれば字幕がほしくなるし、字幕があれば、いろんなことが気になって、映像の何割かは見逃してしまうことになるから。

したがって「無音の映画体験は貴重だし、発見がある」というふうにもいえるのだけど、個人的には、7月10日に発売された「ヴェルヴェット アンダーグラウンド&ニコ」のデラックス・エディション アルバムをずっと流してくれたら、どんなに素敵な時間になったことだろう!と思った。ついでにシャンパン&カシューナッツ付きっていうのはどう?「ニコとジーン・セバーグとシャンパンの夕べ」。これで¥2500だったら、私は行く。

今はなき渋谷の五島プラネタリウムでは、週末だけ、解説を少なくして星空と音楽を心ゆくまで堪能させてくれる「星と音楽の夕べ」というのをやっていた。映画館にも、そんなスペシャルな夕べがほしい。

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中
2002-07-14

『作家・文学者のみたワールドカップ』 野坂昭如・高橋源一郎・星野智幸・野崎歓・関川夏央・藤野千夜ほか / 文学界8月号


W杯の消化不良に、効くのはどれ?

島田雅彦(観戦記)、長嶋有(俳句)、吉本隆明(インタビュー)の3人を除き、以下の14人がエッセイで個性を競っている。

●車谷長吉「空騒ぎ」
「(中田英寿は)実に凶暴そうな、人相の悪い人である。なぜこういう男を広告・宣伝に使うのか」「もう金輪際、キリンビールは飲まない」など企業、資本、広告への「愚痴とぼやき」(by野坂昭如)のオンパレード。

●松尾スズキ「わっしょいわっしょい。がんばれ日本」
「勝っても負けても盛り上がれるんなら、別にサッカーやってなくても盛り上がれるんじゃねえか。つうか盛り上がって行こうよ」

●庄野潤三「ワールドカップ印象記」
妻、長男、次男、孫まで登場し、サッカーより家族。

●保坂和志「天は味方した者にしか試練を与えない」
「これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ」

●坪内祐三「非国民の見たワールドカップ」
非国民を気取っていた著者も、いざW杯が始まると徐々に雰囲気に巻き込まれていく。が、「筋金入りの非国民」ナンシー関の死で、再び転向する。

●金石範「W杯のナショナリズム」
「サッカーの勝利に沸く熱狂的な歓声やアクションが即ナショナリズムではないと思う。そこにはいろんな"国"があり、かつて帝国主義国家だった大国もあれば、旧植民地の小国―発展途上国もある」

●陣野俊史「セネガルの『生活』」
フランス文学者らしい、セネガルの勝利に焦点をあてた考察。

●玄月「もっとひねくれろ、日本人サポーター」
韓国がイタリアに勝った直後、新宿・大久保のコリアタウン(著者が韓国人と知られていない場所)でのリアルな反応を取材。

●藤野千夜「ナマW杯の記憶」
サウジアラビアファンの著者は「くじ運はないけれど一日中ずっと電話をかけつづけるだけの暇はあった」ため3試合のチケットを手に入れ、くじ運のいい知人のおかげでもう2試合手に入れたそう。もっともハッピーな観戦記。

●関川夏央「様々な幻想―ワールドカップ決勝戦」
スタジアムでの観戦風景が短編小説風に仕立てられている。面白い。

●野崎歓「蕩尽の果て」
「アルナーチャラム」というインド・タミル語映画の話から始まり、W杯の眩惑的な魔術に言及しつつ「ハレが最終的にケを圧倒するということはありえない」と語る正統派エッセイ。気持ちいい。

●星野智幸「Don't cry for Argentina,」
「自分の存在をアルゼンチンのフットボールに賭けようとした」と言いつつ「私の態度にはどこかねじれたものがあり、そのねじれは日本のナショナリズムの現れ方に根ざしているということも、気づいている」。自分の存在をイタリアのフットボールに賭けようとした私としては、個人的に共感。

●高橋源一郎「2002 FIFAワールドカップと三浦雅士さん」
話をそらし続ける著者だが、日本におけるW杯の気分を的確に伝えている。

●野坂昭如「サッカーからサッカへ」
「サッカーに、まったく興味がない」という著者の文は、ほかの13人(+3人)と比べて格段に歯切れがよく、プロフェッショナル。読み手が求めているのは、主張の正しさよりも主張の明快さなのだ。
「控えのキーパーだけじゃなく、なんだか人相のよくない、表現大袈裟、鬱屈している感じのプレイヤー皆さん、作家に向いてるんじゃないか。監督は編集者。Wカップも捨てたもんじゃない、観客数万、これが本を買ってくれりゃ、こりゃ、いいぜ。村上龍は判っている、えらい」
2002-07-09

『銭金(ぜにかね)について』 車谷長吉 / 朝日新聞社



命がけのウソに、翻弄されたい。

1945年生まれ。慶応義塾大学を卒業し、広告代理店に勤め、25歳で小説を書き始め、28歳で失業し、30歳で実家に帰り、すぐに飛び出し、住所不定の9年間をすごし、38歳で東京に出て、再び小説を書き始め、46歳で「鹽壺の匙」を書き上げ、48歳で詩人の高橋順子と結婚…。

「高橋順子は私にとってミューズ(文学・藝術の神。美の女神)であった。平成二年の大晦日に思い切ってこの人を訪うて行ってからは、物を書く上で、私には運が向いて来て、次ぎ次ぎに文学賞を受賞した」

著者は、本書にも収録されている高橋順子の詩「木肌がすこしあたたかいとき」に感嘆し、出し抜けに彼女のアパートを訪ねたという。これだけなら単なるストーカー行為だが、本書には「貧乏好きの男と結婚してしまった わたしも貧乏が似合う女なのだろう」という一文から始まる彼女の詩「貧乏な椅子」も収録されており、結果的にはこのストーカー行為、正しかったのねと納得できる。

だが、結婚によって運が向いてきたというのは本当だろうか。賞なんてとらないほうがよかったのでは? 尻ぬぐいしてくれる「嫁はん」なんていないほうがいいのでは? なぜなら著者は、商業主義のワールドカップに象徴される銭金崇拝社会を批判し「反時代精神こそ文士の基本にあるべきもの」と考える人だからだ。ただし、著者が指針とする「少し貧乏」という生き方は潔さに欠け、本気で銭金蔑視を貫き「反時代的な痩せ我慢」をしているとは思えないのも事実。過去の苦労を語れば語るほど、それは時代に迎合した立身出世物語にしか聞こえない。

「私は原則としてズボンの前を閉めない。こういう男と付き合うのは、さぞや大変だろうな、と思う」と嫁はんを気遣う部分の「原則として」も潔くない。状況によって閉めたり閉めなかったりするのなら、普通の人じゃん! つまり著者は、繊細で礼儀正しい世捨て人なのであり、彼の大胆さは、小説という虚構の中でこそ発揮されるのだと思う。

著者は、自ら大スキャンダルを起こし、その顛末を作品にした私小説作家、島崎藤村を批判する。事実べったりで「虚点」をもたない小説には異和感を覚えると。

「虚点」とは何か。彼は自作「鹽壺の匙」の一節を引用する。親から家を出された曽祖父が、空腹になると背中に背負った炭俵の炭を食べたという箇所だ。前後の話は事実だが「背中の炭を喰いながら」というのだけは嘘だったというのである。

私は驚いた。「鹽壺の匙」で私が覚えているのは、この部分だけだったからだ。私の中では、炭を見るたびにその味を思い出すほどリアルな感覚となっている。

読書体験とは、こういうことなんだと思う。彼にとっての嘘が、私にとっての本当になること。簡単にいえば騙されたってことなのだが、記憶に残る小説と残らない小説の違いは、著者が自分自身を変えたり欺いたりできるくらいの嘘をついているかどうかということだ。小さな嘘は小手先でいくらでも書けるけれど、「命懸けの嘘」は心の中に飢えがなければ決して書けない。彼は「鹽壺の匙」を書いたとき、何かに強烈に飢えていたのだと思う。命懸けの嘘は、小説の枠を突き破る。

「人にとって大事なものは過去と虚栄である。いまかえりみれば、三十歳の時、東京で無一物になってからは、私は捨て身で生きてきた。とは言うても、絶えず世捨人として生きたいと願いながら、半分しか捨て得なかった恨みはある。いつこの命を捨てるか。それが私の最大の命題である」

嫁はんと幸せに生きる男は、もはや命以外に捨てるものがないのだろうか。
一読者としては、過去と虚栄を捨て、命懸けの嘘をついてほしいと勝手に思う。
2002-07-01