イタリアの新教皇フランシスコはアルゼンチン出身だが、彼の父親はイタリア出身のイタリア人。移民の家系で鉄道員だった父親は、フランシスコが生まれる8年前の1928年、21歳にしてジェノヴァ港から「幸運を求めて」大西洋を渡り、ブエノスアイレスへ向かったという。それはどんな旅だったのだろう。
人は何のために海を渡るのか考えてみる。遊ぶため? 任務を果たすため? 自分探しのため? よりよい仕事に就くため? 迫害を逃れて生きのびるため? この映画では、遊ぶための旅と生きのびるための旅が対比される。
シチリアとチュニジアの間に浮かぶ小さな島、リノーサ島。その海は美しい観光地としての海であり、難民が流れつく海でもある。映画のプロモーションに使われているのは、レジャーボートから次々と海へ飛び込む人々の歓喜のシーンだが、映画を見終わったあと、そのシーンは、難民ボートから次々と海へ飛び込む人々の必死のシーンと重なる。
父親を海で亡くした20歳のフィリッポは、祖父が細々と続ける漁師を継ぎたいけれど、島の漁業は衰退するばかり。夏のバカンスの間、フィリッポと母親は3人組の観光客に家を貸し出すことに成功するが、自分たちはその間ガレージ暮らしだ。
島の産業と難民の問題に迫るシリアスな映画。とはいえ海は美しいし、母親も美しいし、マザコンのフィリッポは可愛いってとこがイタリア的。彼がお気楽な同世代3人を連れ歩く観光ガイドっぷりは、嬉しくなるほどリアルな夏のひとこまだし。フィリッポは島や家のネガティブな状況を隠しつつ、暑いとか疲れたとかいう彼らをなだめつつ、挑発的な女の子に対してだけは何としてもカッコつけなければならないのだ。海を愛し祖父を愛しママを愛し、だけど男になりたいし外の世界も知りたいフィリッポ!
祖父が難民ボートから違法に救助し、一家がかくまう女性さえも美しい。だが、この女性を演じたのは、2009年夏、リノーサ島に近いランペドゥーサ島に漂着した本物の難民だという。ボートには80人が乗っていたが生存者は彼女を含む3人だけ。彼女は奇跡的に生きのびたイタリアの地で、女優に起用されたというわけだ。それは彼女の望む人生だったのだろうか。
シチリアの漁民一家の過酷な日々を撮ったヴィスコンティの「揺れる大地」(1948)を意識した作品であることは間違いない。「揺れる大地」=La terra tremaに対し、この映画の原題はTerrafermaつまり「揺れない大地」なのだから。ヴィスコンティは本物の漁師たちを起用し、クリアレーゼは本物の難民を起用した。
旅先における観光客の正しい態度ってどういうものだろう。ネガティブな面は見ないふりをしてお膳立てを楽しむこと? 現地の人と恋に落ちて自分の国へ連れてきたりすること?
フィリッポはどんな男になるのか考えてみる。「揺れる大地」(1948)の続編として「若者のすべて」(1960)があるように、この映画の続編を待ちたいと思う。