『天気の子』 新海誠 (監督)

私たちは、くるった世界の中で、愛を信じ続けることができるのか?





91日 母からのバトン』(樹木希林・内田也哉子/ポプラ社)を読み、18歳以下の自殺者数が、91日に突出して多いことを知った。これは、2015年に内閣府が発表した過去40年間の累計データによるものだ。

昨年の91日は土曜で、今年は日曜だった。そんなことは何の解決にもならない? いや、夏休みが1日でものびることで得られる精神的余裕、そして91日という「プレッシャーな初日」を回避できる解放感は小さくないはず、と自らの経験を鑑みて思う。実際、91日の昨夜、映画割引デーということもあり、何人かの子供たちが六本木の映画館で楽しそうに過ごしているのを見た。来年からは祝日になればいいのにと『天気の子』の晴れ女のように祈るばかりだ。

『天気の子』は、累計観客動員数800万人を超え、興行収入は107億円を突破。日本映画の100億円突破は、同じく新海監督の『君の名は。』以来3年ぶりという。

しかもこの映画は『君の名は。』よりも圧倒的にわかりやすい。時間や場所を激しく行き来することもないし、性別の入れ替わりもないからだ。16歳の家出少年が出会う東京の風景を、リアルかつ全方位的に描くことに成功しているし、そこには、きれいごとではない猥雑な東京、キケンな東京、古くさい東京も含まれている。殺伐とした都市と、ドラマチックな大気現象の鮮やかなコントラストが、音楽とともにダイレクトに感情をゆさぶるのだ。

今後、140の国と地域で公開されるらしい。天気をコントロールするのは、かくも難しいのだから、来年オリンピックを見にくる人が、東京の猛暑や大雨や数々のハプニングを、少しでもロマンチックに感じてくれればいいなと、またもや祈る。

2019-9-2

『メランコリック』 田中征爾 (監督)

バリアフリーの果ての幸せ?





東大を出たのに実家でニート生活を送るコミュ障気味の和彦は、ある夜たまたま行った銭湯で高校の同窓女子に遭遇し、彼女のすすめもあって「銭湯でバイト」をはじめる。恋の予感とともに始まったバイト生活は順調に思われたが、銭湯のダークな一面(夜は死体処理場として使われている!)を知ってしまった和彦は……

設定としては、殺し屋専用のレストランを舞台にした蜷川美花の『ダイナー』のようでもあり、展開としては、強盗たちの心理戦を描いたタランティーノの『レザボア・ドッグス』のようでもある。インディーズ系の底知れぬパワーという意味では、冨田克也の『サウダーヂ』や上田慎一郎の『カメラを止めるな!』のようでもある。

だけど、この映画はとびきり新鮮で。
描いているのは、バリアフリーな現代だ。
親と子、先輩と後輩、日本人と外国人、飲める人と飲めない人、学歴がある人とない人、働いている人と無職の人、社会的な人と反社会的な人

何気なく幸せな家族、何気なく幸せな恋愛、何気なく幸せなバイト。
そんな完全なる予定調和な日常の延長に、殺人がある。
これは、私たちの日常そのものではないか。
殺人から目をそむけさえすれば、何気ない幸せで人生を満たすことができるのだ。

俳優たちの演技の巧みさとユーモア、そして、きっちりと伏線が回収されるストーリー。
至福の釘付け体験の、あげくの果てのラストシーンとナレーションに、ふと我に返る。
これ、マジなの? ギャグなの?

和彦とともにバイトを始める松本のキャラが最高すぎる。
彼が次々と見せる意外な一面に、惚れない女子はいないだろう。

2019-8-7

『エリック・クラプトン 12小節の人生』 リリー・フィニー・ザナック (監督)
『ボヘミアン・ラプソディ』 ブライアン・シンガー (監督)

エリック・クラプトンの母と、フレディ・マーキュリーの母。





『エリック・クラプトン 12小節の人生』で描かれたエリック・クラプトン(1945-)の人生は、波乱に満ちたものだ。本人と関係者のナレーションにより、その細部が生々しく暴かれるドキュメンタリー(記録)映画である。見どころのひとつは、ジョージー・ハリスンから妻のパティ・ボイドを奪った有名な事件だが、その経緯はぐちゃぐちゃで、かっこよくもなく、美しくもない。パティを奪えなかった年月は長く、最終的に奪ってからも愛をまっとうできたわけではない空しさ。この事実が残したギフトは、彼が思いを注ぎ込んだ『いとしのレイラ』という曲だけのように思える。

不幸の原点は、母親に拒絶されたことだという。私生児であった彼は祖母に育てられ、実の母は、実の父とは別の男と結婚して家庭をつくり、彼の存在を否定するのである。このトラウマにより、彼は他人の幸せをうらやみ、他人のものを奪おうとするわけだが、母に受け入れられなかった原体験により、なかなか女性を幸せにすることができないというストーリー。救いは、そんな彼の生き方が、彼を拒絶した母(あるいは顔も知らない父)の生き方に似ているであろうことなのかもしれない。

エリック・クラプトンは、ちゃらんぽらんな人のようにも見えるが、ギターとブルースに関しては明らかに真摯である。一途な情熱は楽曲に詰め込まれており、彼自身が自分の曲に救われ、いまだに生き長らえているという奇跡。つまり現実よりも曲が美しい。本物のアーティストではないだろうか。

『ボヘミアン・ラプソディ』で描かれたフレディ・マーキュリー(1946-1991)の人生も、波乱に満ちたものだ。俳優がすべてを演じるバイオグラフィー(伝記)映画であり、その再現力は半端ない。細部を忠実に再現すればするほど、フレディ・マーキュリーの「再現不能なオーラ」の不在が際立ってしまうのが残念だが、音はオリジナルだから感動は薄れないという仕組みなのだ。

フレディ・マーキュリーの両親はインド系の移民。彼はロックスターになるためにインド名の「ファルーク・バルサラ」を捨て「フレディ・マーキュリー」を名乗る。バンド名も「スマイル」から英国を象徴する「クイーン」へ。そんな彼を見守る母を演じたインドの女優の存在感が光っていた。1985713日、伝説のライヴエイドで『ボヘミアン・ラプソディ』を歌うクライマックスで、彼の家族はテレビでその姿を見ているのだが、「ママー、たった今、人を殺してしまった」という歌詞の部分で映し出される何ともいえない母の表情が、この映画のいちばんの見どころというか、笑いどころかもしれない。

フレディ・マーキュリーは、エイズが原因で45歳で亡くなったが、彼の母は2016年、94歳まで生きた。温かく献身的で、息子の死後もクイーンのメンバーらと交流があったという。エリック・クラプトンも、実の母がこういう人なら、もっと早く幸せになれただろうか?いずれにしても、かつて幼い彼を拒絶した母だって、同じ日のライヴエイドで『いとしのレイラ』をかっこよく歌い、ギターを弾く息子の姿をテレビで見て、フレディ・マーキュリーの母と同じような表情をしていたに違いないと思うのだ。


2018-11-28

『ナラタージュ』 行定勲 (監督)
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』 大根仁 (監督)

ふりまわされた恋愛の記憶。





『ナラタージュ』と『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』。
対照的な映画だと思う。

『ナラタージュ』の原作は島本理生の長編小説で、『奥田民生〜』の原作は渋谷直角の長編漫画。前者は過去に置き忘れたものを集めたような物語で、後者は今の気分を凝縮したような物語。前者は笑えないが、後者は笑える。前者は重く、後者は軽い。前者はコミュニケーションに時間がかかりすぎるのが難点で、後者はあまりに簡単に何度もキスしすぎるのが難点だ。

『ナラタージュ』のヒロインを演じたのは有村架純で、『奥田民生〜』のヒロインを演じたのは水原希子。前者は壊れるくらい相手を好きになってしまう垢抜けない真面目ガールで、後者は出会う男をすべて狂わせてしまうコンサバビッチなおしゃれガール。前者は「コワイくらい男にふりまわされる女」で、後者は「コワイくらい男をふりまわす女」だ。

しかし、映画の本当の主人公は、ふりまわされる側である。『ナラタージュ』の主人公は、男(松本潤)にふりまわされる女(有村架純)だが、『奥田民生〜』の主人公は、女(水原希子)にふりまわされる男(妻夫木聡)のほうなのだ。ふりまわす側には、まるで中身がなく、罪の意識も痛みもないようにみえる。

そのことを補うかのように、二つの映画には、主人公を別の意味でふりまわすけれど実体のある「痛い名脇役」が存在する。
有村架純の脇には、坂口健太郎が。
妻夫木聡の脇には、安藤サクラが。
このふたりの意外性に満ちた存在感と熱量が、二つの映画に生命を吹き込んだ。

主人公は、やがて、ふりまわされた過去を懐かしく思い出す。どちらの主人公も、不幸になったりしない。強靱である。仕事の夢だってちゃんと叶っているし。この二つの映画は、恋愛にふりまわされる一時期の苦悩を描いているが、それを傷とはせず、幸せな記憶にするための方法がきっちり描かれていて、とても勉強になるのである。

2017-10-7

『パターソン』ジム・ジャームッシュ(監督)

戦闘服をぬがせる太陽のように。





『パターソン』は、ひっそりとした物語で、主人公たちにドラマチックな緊張感らしき出来事は一切ない。物語の構造はシンプルであり、彼らの人生における7日間を追うだけだ。『パターソン』はディテールやバリエーション、日々のやりとりに内在する詩を讃美し、ダークでやたらとドラマチックな映画、あるいはアクション志向の作品に対する一種の解毒剤となることを意図している。
--- ジム・ジャームッシュ

監督は25年位前、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩「パターソン」に興味を持ち、ニューヨークから1時間位で行けるパターソンを訪れ、街を見て歩いた。いつかここで映画を撮りたいと思い「パターソンという男がパターソンに住んでおり、彼はバスの運転手であり詩人でもある」という設定をすぐに思いついたという。

あらすじは、詩が生まれる町における夫婦と愛犬の1週間。平和過ぎて退屈そう。もちろん小さなできごとは無数にあるけれど、この映画は、その小さなきっかけを大きな事件に広げようとせず、逆に収束させてしまうのだ。

普通の映画なら、何でもない会話はケンカになり、ケンカは決闘になる。ちょっとしたバスの故障が事故につながり、死者が出る。可愛い犬は連れ去られ、美しい詩は誰かに悪用されるはず。そうならないことのほうを「つまらないな」と感じてしまう思考習慣ってどうなのか。現実の悪い事件のほとんども、たくさんの人々の妄想が生み出しているんじゃないかとすら思う。何か悪いことが起きるかもという恐怖の想像は、何か悪いことが起きても仕方ないという諦念にとても近い。

映画上のこの街で1週間を過ごしていると、それほど悪いことは起こらないことが、だんだんわかってくる。そういう安心感をとりもどす解毒体験は貴重だし、同じような毎日の、小さな差異が見えてくるのは嬉しい。ドラマチックな日々は、人を興奮させる代わりに、細部を見えなくしてしまうから。

人々の会話からも風景からも、景気があまりよくない感じが伝わってくるけれど、とりあえず、じゃあまた明日、という日々の繰り返しが生むポジティブな力。前に進まなくても、明日になればまた、今日とは違う風景が見えてくるのだから、同じことを繰り返して生きていくって強いなと思う。パターソンが夕食後、犬の散歩の途中でビールを1杯飲むために立ち寄るバーが、見ている側にとっても、ものすごく楽しみになってくる。

もうひとつの楽しみは詩だ。パターソンは、オチもクライマックスもない日常の中で、幸せな詩を書いている。彼はそれをひけらかさないが、内面の豊かさは伝わる。この映画は、あまり外交的ではない静かで受け身な男の魅力を描くことに成功している。

エキセントリックな妻が素敵に見えるのも、パターソンが彼女を肯定しているから。いくつかのことを多少我慢しながらも、その肯定感がぶれないのは愛のせい? それとも彼女を怒らせないため? いや、実は彼女のほうこそ、彼を気遣っていることがわかる。これは、争いのない関係の成立をめぐる、とても繊細で生々しい映画なのだ。

パターソンが大切な詩のノートを損なったとき、彼の詩を読みたくてたまらない妻は心配し「復元する」とまで言った。彼女はアーティストだから、独自の方法でアレンジして、詩の言葉が断片的に読めるような白黒のアートに仕立ててしまうかもしれない。

詩が好きな人に出会うと、詩の話をするパターソン。その一人は素晴らしい詩を書く少女で、もう一人は、25年前の監督のように、ウィリアムズの詩に興味をもち、この街にやってくる日本人だ。その役を永瀬正敏が演じている。おしゃれでかっこいいアメリカの映画に、日本人が理想的な形で登場するのだから、たまりません。

2017-9-1

『ラ・ラ・ランド』 デイミアン・チャゼル(監督) 『幽体の囁き』 落合陽一

ラ・ラ・ランドとは、現実逃避の世界のこと。





ハリウッドを舞台に、過去へのオマージュを盛りこんだ恋愛ミュージカル映画。主人公はセブ(ライアン・ゴズリング)とミア(エマ・ストーン)。50年代風エッセンスの効いたファッションの数々に加え、セブは古いジャズを愛し、自国の古いオープンカーに乗っている。だけど、ハリウッド女優を目指しながらカフェで働くミアの愛車は、プリウスだ。奇しくもトヨタは今月、ハイブリッド車の世界販売台数が1000万台を超えたというニュースを発信したばかり。パーティで運命的に再会した二人は、帰り道、悪態をつきながらも、たくさんのプリウスからミアのプリウスを探す過程で接近していくのだから、まるでトヨタのCMみたい。

女優になりたいがオーディションに落ち続けるうちに自信を失っていくミアと、ジャズを自由に演奏できる店を持ちたいが資金稼ぎを続けるうちに信念を曲げていくセブ。好きな道をきわめたいというピュアな夢が、才能やお金の問題に阻まれる話だ。彼らは夢の途中にあり、ミアのダンスもセブのピアノも、完璧ではないからこそ心に響く。俳優たちが、映画のために時間をかけて何かを練習したという事実が、ストーリーに重なるからだ。夢を追うことについての家族からの現実的な苦言や、二人の痴話ゲンカのしょぼさも、プリウス登場の喜びとともに、日本人のやわな心を直撃する。

叶いそうにない夢も、強い思いがあれば叶うし、できそうにないことも、強い技術があればできる。それがハリウッド映画のセオリーだ。スマホ時代に突入し、私たちは、できそうもなかった多くのことができるようになった世界に生きている。だが、中には不可能なこともある。それは、過去に戻ることだ。これまでも、過去を書き換えるべく奔走するたくさんの映画がつくられてきたけれど、最近、そのジャンルは再び加速している。『君の名は。』や『君と100回目の恋』はもちろん、『ラ・ラ・ランド』にまで、タイムスリップの要素が入っているなんて。今、人間にとって、叶わぬロマンチックな夢といったら、もはや時間を巻き戻すことだけなのかもしれない。

過去に戻ることって、本当にできないのだろうか? 六本木ヒルズの東京シティビューで開催中のメディアアート展「Media Ambition Tokyo 2017」で、時間に関する展示をふたつ見つけた。ひとつは後藤映則氏の『toki- series_♯01』。人体の動きの変化を時間の流れとして立体化し、3Dプリンターで出力したオブジェだ。時間の端と端をつないで光を当て、動きを無限ループさせた美しい作品で、多くの人の目を引きつけていた。

もうひとつは、落合陽一氏の『幽体の囁き』。何もない空間に過去の気配を蘇らせる作品だ。超指向性スピーカーを使った空間音響技術で、カプセルに入るのでもなく、ヘッドホンを装着するのでもなく、開かれた空間の中で、身体が「気配」に包まれる。廃校となった中学校の校庭に展示された作品らしく、テーマが「教室の気配」だったから、まさにタイムスリップ。森タワー52階の夜景には、いかにも先鋭的なテクノロジーアートが似合うと思いきや、ふいにパーソナルでノスタルジックな気配に包まれる体験には、予想外のインパクトがあった。

自分が生きてきた感覚のすべてを、体内に埋め込んだ装置で記録できれば、いつでも過去の好きな時間の気配に戻れるようになるかもしれない。やり直したい瞬間に戻れば、時間の経過とともにふくらませてしまったネガティブな妄想を軌道修正できるかもしれない。もっと踏み込んで、自由に過去を編集しちゃってもいいのかもしれない。何より、好みの気配にいつも包まれている感覚は、香りや化粧品、ランジェリーの世界に近くていいなと思う。ヘッドホンもメガネも、重すぎるからつけたくない。こんな柔らかな現実逃避の世界(=la-la-land)が手に入る日は、いつになるだろう?

2017-2-28