『ザ・メキシカン』 ゴア・ヴァービンスキー(監督) /

求む! 正しいB級映画。


伝説の拳銃をめぐり、ロス、ベガス、メキシコを駆け抜けるロードムービー・・・・・・
それだけの予備知識でこの映画を見に行ってしまったのは、同じくメキシコを舞台にしたサム・ペキンパーのB級ロードムービー「ガルシアの首」を思い出したからだった。リスペクトするロードムービーへの連想は、いったん走り出すととまらない。シンプルでシニカルで馬鹿みたいにかっこいいモンテ・ヘルマンの「断絶」をはじめ、ポップなパロディが嘘みたいに新しいJ.L.ゴダールの「勝手にしやがれ」や「はなればなれに」などを今すぐスクリーンで目撃し直したいという狂おしい欲求は、「ザ・メキシカン」を見て2日たった今も、高まるばかり。

早い話がこの映画、かなり物足りなかったのだ。製作者たちは当初、あまり有名でない俳優を起用し、地味な映画をつくるつもりだったらしい。だが、人気絶頂の二人(ブラッド・ピット&ジュリア・ロバーツ)がたまたま脚本を気に入り、出演が決まったことで製作状況は一変したという。

「二大スター夢の初共演」は、この映画にどんな効能をもたらしたのだろう。少なくとも公開初日のレイトショーの客席はがらがらだった。予算をそれほどかけられないのなら、単純軽快なB級映画に徹すればよかったのに、メジャー指向のキャスティングが裏目に出て、中途半端なA級ハリウッド映画になっちゃったのが残念だ。とりわけヒロインは、先の読めない無名の女優のほうがよかったな。恋人の言動にいちいちキレちゃう女の子という役柄をジュリアのようなトウのたったベテラン女優が演じると、なんというか「そのまんま」なのである。夢をかなえるために一人でベガスにいくという無謀さも、30すぎた大女優のジュリアでは、いまひとつリアリティに欠ける・・・。

全体のストーリーにもディティールにも、21世紀的な新しさは感じられなかった。だとすれば少なくとも、伝説のギター職人を探すロバート・フランクの「キャンディ・マウンテン」、あるいはロマン・ポランスキーの「水の中のナイフ」のような男の子の成長物語になっていてほしかったのだけど・・・・・ブラピも今年で38だしなあ。

とはいえ、メキシコの信号機はとってもリリカルだし、メキシカンなポンコツ車が狂犬をのせて走るシーンなどは、やっぱり楽しい。昔のロードムービーを見直してみたいという気持ちになれたのも思いがけない効能だ。ラブストーリーとしては、「愛しあっている二人がうまくいかなくなったとき、本当の別れはいつくるか?」という問いの答えがなかなか素敵。単純だけど希望がもてたぜ。

周囲に何人かいたアメリカ人のおかげで、ずいぶん楽しい気分になれた。彼らは、ちょっとした設定やジョークにも激しくウケまくるのである。しかも日本人とは笑いのポイントがちょっと違う。この映画、ビデオで見たとしたら、つまんなかっただろうなー。

*ロードショー上映中 / 2001年アメリカ映画
2001-04-23

『ラブ ゴーゴー』 室井佑月 / 文春ネスコ

可愛い女は、ゲームの途中。


室井佑月。ミスコン荒らしとして知られ、レースクイーン、売れないタレント、銀座ホステス等を経て、現在は小説家。高橋源一郎と不倫の末、彼の4番目の妻になった女。愛嬌のある美人で、胸には200ccくらいの生理食塩水が入っている・・・

作家である前に女であり、文才よりも前にキャラがきわだつノリノリエッセイ集。客を自分のファンにすべく奮闘したホステス時代の話や、陰毛で始まり陰毛に終わったというレースクイーン時代の話、二人目の子づくりのためにどんなふうにセックスしているのかという現在進行形の話まで、まさに、あけっぴろげのネタ人生。不倫からスタートし、「妻」となり「作家」となり「母」となった女の、絵に描いたような一発逆転劇だが、彼女はそれらの肩書きに安住していない。見栄や妥協を指向しない彼女にとって、人生は、いつまでもゲームの途中。女を売りにしているというよりは、天真爛漫な性格がむきだしになっているというニュアンスが強く、何を書いても嫌味がない。

たとえば男の浮気に対して、彼女はたいそう厳しい。「あたしとセックスしてそのことを『浮気』という言葉で片づける男がいたら、あたしはその男を殺す」とタンカを切り、「浮気を悟ったら、やっぱり別れる。女を磨いて出直す方が早いもの」と潔い。腹いせに別の男と遊んだりしてますますドツボにはまってしまうようなナイーブな女たちは、「室井流恋愛指南」を読んで元気を出すべきだろう。彼女は決して二股をかけたりしない。好きな男がいれば、そいつを完璧に振り向かせるために捨て身でがんばり、だめなら次へいく。実にシンプルで正しい。

コンプレックス抜きに、女の舞台裏をあっけらかんと語れる才能は、デフレの世の中に活力と希望をもたらすにちがいない(ほんとか?)。陰鬱な読み物が面白くないという意味では全くないけれど、現実の女として魅力的なのは、やっぱりこういうヤツなんだろうなーって、おやじみたいな感想をつぶやいてしまうわけです。

最後のエッセイ(「婦人公論」掲載)は、かなりマジ入ってる。出産した彼女は、田舎にいる母と行方不明だった父を自宅に呼び寄せ、笑いいっぱいの5人家族となる。赤ん坊のおかげで両親まで幸せになっちゃうのだ。しかし、この幸せは、不倫からはじまり、たくさんの人に迷惑をかけた結果であることを彼女は忘れない。だからこそ、馬鹿みたいに明るい家庭が必要なのだという。何人も子供をつくって、もっと笑いたいという。結婚前は、互いの寂しさを埋めるためのセックスだったのが、今は毎日をもっと楽しくするためのセックスなのだという。

ものすごく健全だ。いい話だ。よかったじゃないか。でも、そこまでにしておいて。結論は出さないで。お願い! 彼女には、いつまでも、ラブゴーゴーな可愛い女でいてほしいから。説教くさいおばさんにだけは、なってほしくないと思うから。
2001-04-20

『ゲルハルト・リヒター展「ATLAS」』 川村記念美術館

顔のないポートレート。


オープンカーの屋根を開け、千葉県佐倉の川村記念美術館へ行った。東京から2時間かけて、ドイツの代表的な現代美術に会いにいくなんて、わくわくするようなシチュエーションだ。散策路に続く水辺のレストランではドイツフェアを開催中。クルマとワインは何といってもイタリアだけど、現代美術とビールはドイツかも!

リヒターといえば「ベティ」を思い出す。彼の娘ベティ・リヒターのポートレートだが、後方を振り返る彼女の顔は見えず、おまけにちょっとピンボケ。その上、よく見ると写真ではなく絵画なのだ。まさに何重にも人をくったような作品である。後ろ姿でピンボケの写真絵画が、どんなポートレートにも負けない魅力をたたえているのはなぜだろう。

今回の展示のメインは、655枚のパネル上に構成された4500点もの写真やスケッチの集合体である「ATLAS」。リヒターの創作の原点(モトネタ)であると同時に、これ自体がライフワークというべき膨大な作品群だ。新聞の切り抜き、家族のスナップ、強制収容所の死体、ポルノ、風景、カラーチャート、ロウソクの炎、精密なスケッチ、絵の具のうねり…そのすべてに番号がふられ、几帳面に整理されている。

「ベティ」のもとになったスナップ写真を探すのは簡単なことだった。モトネタと作品はそっくりなのだから。だが、絵画のほうが明らかに普遍的な美しさを獲得している。「後ろ姿のスナップ写真」というだけでも十分に普遍的(没個性)だが、リヒターはそれをもう一度描き直し、さらにピンボケにすることによって、「ベティ」を比類ないポートレートに仕立てたのである。

「ATLAS」の中には、病気のベティを撮った写真などもあり、リヒターには、娘の元気な笑顔を正面からばっちりピンを合わせてとろうなどという凡庸な意志がないことがわかる。いや、「ピンのあった正面笑顔写真」こそが特殊なのだろう。リヒターの作品は、それほどまでに自然で、目立つことや意表をつくことを目的としていない。対象の個性を削ぎ落とし、普遍化させてゆくプロセスは、まるで自らの固定観念や虚栄を脱ぎ捨てる作業のようだ。彼は、人物の顔をちゃんと描かないことで、逆に、その人物の「純粋な印象や気配」を描くことに成功している。

会場には、「ATLAS」をもとにした10点の作品も展示されていた。「48の肖像」は、百科辞典に登場する偉人たちの写真を肖像画に仕立て、もう一度写真に撮ったもの。写真、絵画、写真というプロセスを経た48人分のポートレートは、最初の百科辞典の切り抜きと比べると、権威や時代性が排除され、全員が同じスタジオで均一に撮影されたように見える。

これらをまた絵画にし、写真に撮り…と繰り返していくと、どうなるのだろう。偉人であれ凡人であれ、皆、同じ顔になってしまうのか。最後には顔ですらなくなり、つるつるのグレーのボードになるのかな。「鏡(グレー)」というガラス板にグレーのシートを貼っただけの作品を見て、そう思った。この鏡には、すべてのものがうっすらと、灰色に映り込む。これこそが、リヒターの究極の美のイメージかもしれない。

「ATLAS」の中から、彼に選ばれた幸福な断片のみが、美しい抽象化への道を歩みはじめる。「数えきれないほどの風景を見るが、写真に撮るのは 10万分の1であり、作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。つまり、はっきり特定のものを探しているのである」とリヒターは言っている。「見るものすべての本当の姿は別なのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです」

*川村記念美術館で5月27日まで開催中
2001-04-17

『ブラックボード ―背負う人―』 サミラ・マフマルバフ(監督) /

テアトル池袋は、飲食店になっちゃうのか?


黒板を背負い、イランの険しい山道を歩く教師たち。学校が爆撃されたため、彼らは生徒を求め、読み書きや算数を教えるべく教師のいない村を回っている―
宣教師のような男たちの姿が絵になりすぎており、当初はいささか鼻についた。 イランには実際にそんな教師がいるのだろうか? 生徒がたくさんいるわけでもないのに一人ずつが重い黒板を背負う必要があるだろうか? と。

教師の一人は、密輸物質を背負う「運び屋」の少年たちと出会うが(彼らの表情はとても魅力的だ)、「勉強なんて必要ない」「早く道をあけてくれ」と拒否される。一緒に歩くうちに「読み書きを教えてくれ」という少年が出てくるものの、自分の名を黒板に書けるようになった瞬間、少年は銃弾に倒れてしまう。

もう一人の教師は、イラクに帰る途中のクルド人の集団と出会う。子連れの未亡人に惹かれた教師は、路上で結婚式をあげてもらうが、彼女は勉強しようとせず、夫となった教師を無視するのである(この女性の不思議な雰囲気も妙に気になる)。国境で二人は離婚し、彼女は黒板を「物」として受け取って歩き出す。そこには、彼が伝えようとした愛のメッセージが書かれているが、彼女は永遠に読むことができないだろう。

どちらの結末も救いがない。黒板は生活の小道具、すなわち映画的な小道具として役立つばかりだ。だが、この映画は黒板という「絵になるシンボル」のあざとさによってフィクション性を強調しているのだと考えると、解釈は少し変わってくる。集団の状況を象徴するメッセージボードとしての黒板は、学ぼうとする者がいる時には意味のある文字が書かれ、そうでない時には文字は消され、非常事態には単なる板として役立つ―

読むことのできない愛のメッセージを背負う女のうしろ姿は、「学ぶことは拒否したが、気持ちは受け取った」ということなのだ。黒板を背負った時点で、彼女はその意味を背負い、多くの人がその文字を見るだろう。愛を意味する美しい文字は、そうやって広まっていく。意味がわからぬままメッセージは受け継がれていくのである。

同じことが、自分の名を書いた瞬間に死んでしまう少年にもいえる。少年の渾身の筆跡を、多くの別の少年たちが目にするだろう。

息子からの手紙を読んでくれと老人に頼まれ、教師が読んでやるシーンがある。何語かもわからないのに、教師は適当に意味を伝え、老人を安心させるのである。「ひどい」ともいえるし、「そんなもんだ」とも思えるが、老人が息子からの手紙を大事にもっているというだけで、手紙の役割は半分くらい果たされているといっていい。メッセージとは、「意味」よりも前に「気持ち」なのだと信じたい。別れも死もムダにならないほど、読み書きという行為は重要なのだ。

いい映画を見たんだな、と数日後にようやく思えた。この手の映画は、地味だけど長く記憶に残り、熟成し、数年後に必ずまた見たくなる。この映画はイランの20歳の女性が撮った作品だが、そのころ彼女はどんな映画を撮っているだろう。

アジア系の映画を中心に公開しているテアトル池袋での単館上映。カンヌ映画祭で審査員賞を受賞し、オフィス北野も出資している作品だが、客席はガラガラだった。西武系資本のテアトル池袋は、このままでは近日中に飲食店になってしまうという噂だ。いい映画館なのになあ。2年前には正面にセゾン美術館があったっけなあ・・・・・。

てっとり早く楽しめる映画や、てっとり早く稼げるビジネスばかりが生き残っていく状況は、ちょっとつらい。

*2000年 イラン映画/テアトル池袋で公開中
2001-04-10