『クレーヴの奥方』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

不倫とは、罪悪感のこと。


成人男女の約半数が「不倫を許容している」と元旦付けの朝日新聞が発表したのは98年のこと。今は一体どうなっているんだろう? お正月の紙面をにぎわすポピュラー感と「不倫」という言葉の間には、深い深い溝があるように感じたものだが、この映画を見て、今さらのように私は膝をたたいた。クレーヴの奥方のような生き方を不倫というのだ、と。私たちの周囲に満ちあふれている不倫は、その内容がいかにヘビーであろうとも、「遊び」とか「浮気」とか「本気」とか「家庭外恋愛」とか「たまたま結婚してるだけ」とか・・・とにかくそういう軽い感じの言葉が似合う。

17世紀のフランス文学を映画化した作品だが、宮廷世界を現代の上流階級に置きかえたところが面白い。オリヴェイラ監督は92歳にして挑戦的。 単なる古典的な映画ではないのだ。

キアラ・マストロヤンニ(カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェッロ・マストロヤンニの娘)演じる「クレーヴの奥方」が恋する相手はロック・スター(ペドロ・アブルニョーザというポルトガルの現役ロック・アーティスト)。 二人が惹かれ合っているのは明らかだが、彼女は彼を避け続ける。 「人気スターならもうちょっとましなアプローチの方法があるんじゃないの?少なくともサングラスは外さなくちゃ。ちょっと笑わせてみせるとかさー」。 そんな客席の感慨をよそに、彼女の美しい表情はくずされぬまま、指一本ふれない恋愛が展開されていく。しかし、このもどかしさこそが重要で、ああ、これがまさしく不倫なのだと私は理解した。何もしていないのに罪悪感にさいなまれるほど、情熱を燃やすってこと。心の中であっさり許容、妥協してしまうような行為は、不倫とはいえないのかもしれない。

こんな思いを妻に打ち明けられたクレーヴ氏は病んでしまい、「そこら辺の男みたいに、だまされていたかった」みたいなことまで言う。それはそうだろう。行動的には彼女は潔白であり、「あなたよりも好きな人がいるけど何もしてない」と正直に告げただけなのだから、だまって浮気しちゃう女よりも、ある意味で残酷。夫は立派すぎる妻に苦悩するのだ。さらに、当のロック歌手や元恋人まで苦しめてしまうのだから、クレーヴの奥方は罪な女だ。

しかし、たとえ何人の男を犠牲にしようとも、二人の間に障害がなくなろうとも、過激なまでに自分の道を貫く彼女。傷ついたり、情熱的な愛が失われてしまうのを恐れているのである。もしも私が彼女の友達だったら、「好きになった人を追いかけないでどうすんのよ?」と肩を揺さぶっちゃうところだが、幸いなことに、彼女が唯一心を打ち明ける幼友達は、温厚な修道女。最初から火に油を注ぐような悪友はいないのである。

偶然が多く、死が多く、設定は不自然だし、ロック・スターもちょっと変。なのに、ため息が出るほど洗練された作品だ。ライブ・シーンを見て、ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズを撮った「ストップ・メイキング・センス」を思い出した。あの映画のすごさは、ステージのすべてを撮り、それ以外を撮らなかったことにあると思うが、「クレーヴの奥方」は、主役ではない彼のステージで始まり、彼のステージで終わる。余計な説明や後日談がないところが、かっこいい。

ストーリーや時間の経過は字幕で流し、必要なシーンだけをていねいに描いていく手法。 印象的なカメラワーク、緩急のリズム感、軽快さと重厚さの絶妙なバランスが心地よく、熟成したビンテージ ポートワインのように味わった。

*1999年 ポルトガル=フランス=スペイン合作/銀座テアトルシネマで上映中
2001-06-19

『電車で殴り殺されないために』 花村萬月・大和田伸也・鬼澤慶一 / 「文芸春秋」7月号

戦闘教育が、必要なの?


理不尽な事件が多く、暗澹たる気分の時に「文芸春秋」のこんな見出しが目にとびこんだ。 「電車で殴り殺されないために ― 奴らの『狂気』は体験した者でないとわからない」。 理不尽な暴力の体験者である三人、花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一の対談である。

芸能レポーターの鬼澤氏は、昨年夏、電車の中で若者2人に「お願いをした」ところ壮絶な暴力行為を受け、今も右手中指の機能が失われ、体のあちこちが痛むという。俳優の大和田氏も若者に殴られた経験があり、水戸黄門の印籠を出すこともできずに血を流す。作家の花村氏は「被害者というより実は加害者」だったという話。何に腹がたち、どちらが先に手を出すかといった問題はきわめて微妙で、誰もが被害者にも加害者にもなりうるのだという事実を示唆する興味深い発言だ。 考え方、感じ方の尺度が異なる二人が接触し、火花が散ったなら、どちらに落ち度があるかなんて、もはや誰にも判断できないほど価値観は多様化しているのかもしれない。少なくとも、加害者を一方的に責めるのはナンセンスで、身を守ることが先決という段階に私たちは直面していると思う。

私は、夜道でいきなり男に飛びかかられ、唇を奪われたことがある。叫んだ瞬間に男は逃げたものの、後ろからタッタッタッと足音が次第に早くなり、ふりむきざまに襲われた恐怖は数年たった今も忘れない。 殺される、と思ったのだ。しばらくは、自分の背後を誰かが横切るだけで叫びそうになったし、今も足音が近づけば昼間でも心臓が音をたてる。 私に落ち度はなかったか? 服装は真冬の完全防寒体制だったし、比較的明るい道をわざわざ選んでもいた。 だが、一人で夜道を歩いていたこと自体が落ち度かもしれないし、足音が近づいた時点で即座に逃げるべきだったのかもしれない。 そもそも、そこに住んでいたことが間違いだったのかも。

この対談では、「成功したおやじ」からみた「何ももたない若者」、つまり世代間のギャップに着目しており、花村萬月氏は最後にこう結ぶ。 「これからは自分の身を守るためには、相手が銃を持っていると仮定しちゃった方が早いんじゃないか。いまの日本は共通言語をもたぬ世代間の内戦状態なんですから」。 三人は、ちやほやされているばかりで強制的な枠組みをもたない世代を憂い、彼らを軍隊のような「システム」に強制的に参加させてはどうかなどと提案している。

1968年に制作され、今年1月に日本初公開された「北緯17度」(ヨリス・イヴェンス監督・フランス映画)というドキュメンタリー映画がある。戦時下の北ヴェトナムの生活を記録したフィルムだが、ここに描かれている死と隣あわせの人々の生き生きとした暮らしぶりは驚異的。おそらく、闘うべき相手ややるべきことが明確だからだろう。今の私たちを取り巻く状況とは対照的だ。戦闘教育を受けた幼い子供たちは、小さな体で誰を守り、どこで誰と闘えばいいのかがわかっており、緊急時の祖母の助け方や武器の扱い方を饒舌に語る。 そこには何の迷いもなく甘えもない。 実際は、迷ったり甘えたりする余裕がないだけなのだろうが、そんな子供たちの姿は、痛ましいというよりは頼もしく見えた。

現代の日本において、何の前触れもなく、理不尽な暴力を目のあたりにした子供たちの未来はどうだろう。体験したことのない大人には、彼らの心を理解することなどできるはずがない。彼らは、実に大きなものを「学んでしまった」のだ。ならば、力強い未来を祈りたい。電車で殴り殺されないために、これからどうしたらいいのかは、より危機に直面しつつある子供たちのほうが、はるかによくわかるはずなのだ。
2001-06-12

『結婚願望』 山本文緒 / 三笠書房

つまんないけど、かっこいい。


つまんなかった。一流のエンタテインメント小説を書く彼女のエッセイが、なぜ、面白くないのだろうか。

「よほどの覚悟と意志がないかぎり『結婚して家族の新メンバーを増やす』という全人類的な普通を撥ねつけることは難しいと思う」「長い人生、何をしていいやら分からないから、人はとりあえず結婚でもして子供でも生むのではないだろうか」
山本文緒の体温は、全体的に低い。離婚経験のある彼女は、離婚したあとも心のどこかで結婚願望を捨てきれずにいるが、とりあえずは生涯独身の覚悟を決めたという。独身を貫くというのは保守的な生き方ではないものの、彼女の考え方は実に堅実。 結婚を否定しているわけではなく、要するに、結婚に頼らない生き方を選んだのだ。

まじめすぎる。驚きがない。笑いがない。しかし、一方で、エッセイというのは笑わせたり驚かせたりするネタさえ盛り込まれていればいいってもんでもないだろう、と思った。この本は、確かに面白くない。なぜ彼女が離婚したのかという具体的な話すらも出てこないし。だけど、それって、いけないことなのか?

この本と対照的な日記がある。「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載中、板倉雄一郎の「懲りないくん」だ。彼は自分が設立したインターネットベンチャーを倒産させてしまうまでの一部始終を「社長失格」という本にまとめ、失敗経験をベースに企業コンサルティングをしている。先日の日記では「複数の異性との交際」と「複数恋愛主義」の違いについて書いていた。
「複数の異性との交際」が、相手によって自分のキャラを変え、嘘もつき、他の女性との交際については語らないのに対し、「複数恋愛主義」とは、そのことをディスクローズし、それでも良いという相手と付き合うことだそう。 「他の女性とのことを言わないなんて無理」という彼は、もちろん後者であり、さまざまな女性と出会ったり遊んだりデートしたりふられたりの過程を日記に書く。すべてを公開する姿勢は仕事と同様であり、ディスクローズこそが彼のスタイルなのだ。

今は、どちらかというと、このようなディスクローズな表現が主流である。悲惨な体験を笑いに転換したり、自らの性を赤裸々に語ったりした文章ばかりが目につく感がある。 「普通の話はつまらない」という強迫観念。傷ついた自分自身さえも「ネタ」にし、そこに「ツクリ」を加え、「オチ」をつけなければいけないという予定調和の風潮。

周囲を見回すと、「タレント並みの素人」や「コワレてる人」「不思議ちゃん」たちであふれ、仕事の電話ひとつとっても、ハイテンションな暴露話やギャグの応酬。そんな日常の中では、ちょっとやそっとの「ウソみたいな話」には誰も驚かない。今や山本文緒のような体温の低い人、普通のことを普通に考える人のほうが珍しいのだ。彼女はエンタテインメント飽食時代におけるマイノリティだからこそ、個性的なエンタテインメント小説が書けるのではないだろうか。エッセイだからといって、タレント本のように個人的な離婚の経緯をおもしろおかしく語ったりする必要はないわけで、それを物足りなく感じている自分のほうこそが、メディアに毒されたつまらない人間なのかもしれない。

彼女は、結婚という壁に何度もぶつかり、思い悩み、満身創痍の身であるという。そして、「いつもはそれを小説という形で婉曲に表現している」という。彼女の仕事は小説を書くことなのだ。講演やエッセイで羽目を外して笑いをとるような作家も魅力的だが、そうでない作家のほうが、スタイルとしては職人タイプでかっこいい。山本文緒には、趣味がないそうだ。
2001-05-30

『ベレジーナ』 ダニエル・シュミット(監督) /

負けるな!高級コールガール。


耽美的な作品という予想を軽やかに裏切るオープニングだった。 だって、いきなり主演女優らしき女性が銃殺され、シーンは一転。個人的に最もかっこいいと思う映画のひとつ、トリュフォーの「柔らかい肌」のラストを思わせる歯切れのよさだ。つかみはオッケー。

ダニエル・シュミットの近作は、舞踏家の大野一雄を密着撮影した「ダニエル・シュミットの大野一雄」(95)と坂東玉三郎が主役の「書かれた顔」(95)。 日本を舞台にした、えもいわれぬ映像の美しさに衝撃を受けた。 今回の「ベレジーナ」は、スイス人の彼が自国と正面から向き合った作品だが「スイスってこんな国なの?」という驚きがあり、心地よく混乱した。スイスに関する知識がないと、一体どこまでが本当なのかまるでわからない。もしかして冗談?と気付くまでに時間がかかった。そう、この映画は、正統派ブラック・コメディなのだ。

それでも私は、最後までマジメに見た。冗談だとしてもパロディだとしても、それらを含めた「本当のスイス」が描かれていると感じられたから。 笑えるシーンはたくさんあるが、何よりも圧倒的に感動した。スイス人が愛を込めてスイスを撮る。皮肉や批判もすべて撮る。そのシンプルな姿勢が、永世中立国の光と影を浮き彫りにしている。かなり過激な問題作だが、観光ガイド的な撮られ方ではない、リアルな息遣いの作品だからこそ、スイスの魅力を肌で感じることができたのだと思う。

ロシアからきた「スイス好きの高級コールガール」を主役にした点が秀逸。彼女の魅力は本当に素晴らしい。コールガールという職業をこれほど肯定し、魅力的に描いた作品があるだろうか。スキャンダルにまみれた政財界の要人たちが彼女のもとへ通い、つかのまの変態プレイ(レザープレイ、首締めプレイ、女装プレイ、戦争ごっこなど)を楽しむ。スイスを愛し、伝統的な民族衣装が似合う彼女を、愛国主義の元陸軍少尉は「可愛いスイス娘」と呼び、地下に張りめぐらされた国家機密基地にまで案内しちゃうのだが、このセットで繰り広げられる幻想的なシーンには泣けてしまう。

彼女は、パトロンたちを「お友達」と呼び、皆がよくしてくれて私は幸せです、と故郷に手紙を書く。スイス国籍を取得して家族を呼び寄せたいと願う彼女は、少しずつ夢に近づいていくのである。故郷では母親らしき女性が大家族の中心に立ち、彼女の手紙を読み上げるが、これはもう、笑いながら泣いちゃうっていう領域。

無垢で世間知らずなコールガールが、体目当ての男たちに騙されている―という典型的な構図ではあるのだけれど、パトロンたちが彼女にひかれ、彼女とすごす時間は嘘ではない。そう思える。政治的な世界を生きる彼らは、彼女との約束を結局は守れなかったりするが、そのことがそれほどひどい仕打ちとも思えないのは、描き方のベースに愛があるからだ。これは女性賛美の映画だろうか。それとも、監督のスイスへの思いがそう見せるのだろうか。 死を決意した彼女が軍帽をかぶり、ある命令をくだすシーンは、めちゃくちゃかっこよくて惚れた。忘れられない。

正統派コメディの本質は、愛なんだと思う。だから、ラストもぶっ飛んでいて、いい。スイスに一度も行ったこともない私を、たった1本の想像力にあふれた映画が「スイス好き」にしてくれた。

*ユーロスペースにて上映中/1999年 スイス・オーストリア・ドイツ合作
2001-05-24