『すべての女は美しい(天才アラーキーの「いいオンナ」論)』 荒木経惟 / 大和書房

アラーキーには、撮られたくない。


「私の裸を撮って!」という女が列をなしているそうだ。彼は、全国から送られてくるそんな手紙を毎日読み、体調がよくない日もあって大変ではあるけれど「できるだけ期待に応えたい」という。

ノンフィクションライターの与那原恵は、「モデルの時間―荒木経惟と過ごした冬の日の午後」<「物語の海、揺れる島」(小学館)に収録> で、荒木との濃密な時間を写真とともに記録している。彼を駅まで迎えにいき、ワインを買い、部屋へ向かい、2人の関係ができ、脱ぎ、吹き出てくるような「女」を止められなくなリ、涙まで流すという・・・。だけど、彼女の場合、やはりどことなく「取材」の色が濃い。表現の主導権は彼女にあるのだ。

写真を撮ること自体が「相手におイタをすること」だと荒木はいう。だから、触ったり話したりセックスしたりしながら撮る。 「人に頼まれてヘアヌード撮ってもしょうがないんだよ。自分がほれ込んだ女のヘアや女陰を撮らないとダメ。写真家と相手との私的関係なんだよ」。

だが、「私を撮って!」と頼んできた女を短時間で撮影する日々というのは、一体どうなんだ? ときには白い目で見られながら、拝み倒して好みの女を撮っていた若いころと比べると、まるで慈善事業のようではないか。アラーキーは、今や、女たちにとって、列をなすほど安心のブランドになってしまったのだ。

荒木に撮られたい女は、彼の写真が好きという以上に、アラーキーという商品に興味があるのだろう。「噂のテクニックでその気にさせてほしい」もしくは「記念に抱いてください」っていうノリ。サイン会でキスをせがむファンに彼がディープキスをサービスしたところ、それ以降のファンは次々にキスをせがんだそうである。 アラーキーとは動物園のパンダみたいな存在なのか? みんながよく知っていて、61歳の可愛いおじさんで、檻の中にいるから安全で、でも、もともとは野生動物なんだよ、というような。

「撮ってほしいってくる女との関係性ってのも、ストレートにはいかなくなってきたね。ただ単に、オレにヌードを撮ってほしいっていうのじゃなくって、自分を女として認めてほしいとか、なんだか屈折したものがあったりすることが多くなってきた」と彼はいう。

女にしてみれば、「みんなと同じように撮ってほしい」では決してなく、「私を特別に撮ってほしい」なんだろうな。その場で擬似恋愛に陥って、言葉で自信をつけてもらって、写真という証明書までもらって・・・ほとんどセラピーの領域である。

電通のカメラマン時代、いつも変な格好をしていたため正面玄関から入ることさえ許されず、おそらく眉をしかめられながらスタジオで生身の女を撮り、下町のいきいきとした子供を撮り、妻の死写真を撮り、と次々に新しいことをやり続けてきた彼の過激さは、失われてしまったのか?

写真というのは、未練だと彼はいう。女々しい作業なんだという。妻が死んだ哀しみは、ずっと長持ちさせたいっていう。その気持ち、かなりわかる。未解決の問題をだらだらひきずっていたり、傷ついたときのヒリヒリするような痛みを自分の中にキープしておくことの甘美な罪悪感。それがなくなると、生きてる意味ないっていうか。

でも、そういう泣きの部分はあんまり表に出さずに、むしろ、皆が眉をひそめるようなことを、がんがんやってほしいです。アラーキーに撮られて非常に不快な思いをしたぜっていうルポが読みたいな。 ほんとうは自分が書きたいところだけど、やっぱ、列に並ぶのは趣味じゃない。 彼にもうひと花咲かせたかったら、女たちよ、気軽に絶賛したり、並んだりしちゃだめだ。
2001-08-21

『レクイエム・フォー・ドリーム』 ダーレン・アロノフスキー(監督) /

恋愛は、クスリより輝けるか?


いい映画は、体に刻まれた記憶のようだ。
まるで自分の体験みたいに、懐かしく思い返すことができる。

「レクイエム・フォー・ドリーム」を見終わった後、頭が痛くなった。ヒップホップ・モンタージュと名づけられた神経症的な薬物使用シーンが何度も繰り返されるせいか、自分までヤク中にさせられちゃったような気分になるのだ。

主人公のハリー(ジャレッド・レト)と、彼の恋人マリオン(ジェニファー・コネリ)、彼の母親サラ(エレン・バースティン)、彼の友人タイロン(マーロン・ウェイアンズ)の4人が際限なく墜ちていく様子が描かれる。クスリに依存すれば、ここまで悲惨なことになるのだということを徹底して追及した作品。彼らが依存しているのは表面上はクスリだが、実は愛情だったりするものだから、その根は深い。

図らずも、数日後に私が思い返したのは、美しいシーンばかりだった。ストーリーの枠組みを超える俳優たちの存在は大きい。彼らは苦しみ、狂気に陥り、本当にやつれたりするが、それでもなお魅力的だ。最もインパクトのあるのは後半の母親で、最も身につまされるのは、ごく普通の恋人どうしである前半のハリーとマリオン。恋愛は退屈な日常をドラスチックに変え、しらふの2人を昂揚させる。一緒にいれば何とかなるんじゃないかという甘い期待に依存しあう無力な2人。恋愛の初期スパートは、それだけで薬物と同様の効果をもつのだ。

それでは、恋愛の純粋な昂揚感は、一体いつ失われるのだろう。相手を知り、慣れ親しむことがなぜ、エゴをむきだしにしたり嘘をついたり倦怠を感じたりすることにつながるのだろう。どこで何が狂うのか。

そんな不安を先延ばしにしてくれるのがクスリだ。永遠に続くかと思われる昂揚感。全能感。幻覚。幻聴。それは、自分の限界を認めることへのささやかな抵抗であり、普通だったらあきらめるような事柄に根拠のない自信を抱くための手段である。しかし、ダメなものはダメで、かような恋愛はいずれ破綻へと向かうはずなのだが、この映画は、恋愛のラスト・スパートとでもいうべき可能性の片鱗を見せてくれる。

ハリーからの最後の長距離電話に「今日、帰ってきて」というマリオン。「きっと帰る」とこたえるハリー。2人とも、無理だとわかっているのに交わすウソの会話。だが、2人の言葉は圧倒的に真実だ。だって、恋愛において重要なのは、今すぐ会う、ということに尽きるのだもの。たとえ会えなくても、そういうシンプルな気持ちを表現すること。それ以外に恋人どうしが伝え合うべきことなんてあるのだろうか?

もちろんハリーは帰れず、2人はさらなる地獄を見ることになるのだけれど、魂を射貫くような電話のシーンのおかげで、彼らはこのままでは終わらない、と信じたくなった。

*2000年アメリカ映画/北海道・東京・愛知・京都・兵庫・広島・福岡で上映中
2001-08-17

『文学2001』 多和田葉子ほか / 講談社

21人の作家を比べ読み。


日本文藝家協会が編んだ21の短編集。この手のアンソロジーは、ふだん手に取らないような作家の作品が、ついでに読めてしまうのが楽しい。

石原慎太郎、佐伯一麦、高井有一、多和田葉子、津島佑子、三浦哲郎、吉村昭、田久保英夫、大道珠貴、ピスケン、赤坂真理、古山高麗雄、佐藤洋二郎、堀江敏幸、森内敏雄、川上弘美、林京子、夫馬基彦、司修、岩橋邦江、日野啓三というラインナップ。2000年の文芸誌に掲載された「名人芸」が一作ずつ披露される。

家族の話が多いが、ワンパターンというわけでもない。幽霊、舅、死んだ妻、死んだ子供、死んだ父、戦死した夫、苦悩する母、死んだ友人、原爆、ウーマンリブ、病気の恋人、冷たい母・・・大雑把にいえば、こんなテーマやアイテムが並び、いずれの作品においても、人生における静かな葛藤や憂鬱や喜びが独自の視点からあざやかに切り取られている。 短編小説のネタというのは永遠に尽きないのだろうと信じられるほどに。

ただ、年配の作家によって語られる家族の話の多くは、見知らぬ親戚が集まる盆暮れのような独特の匂いに満ちており、まとめて読むと、すこし保守的な気分になってくる。
(純文学を読んで保守的になる? そんな馬鹿な!)

ベスト3を選んでみた。 小説としての面白さや完成度の高さとはほとんど関係なく、強いて言うなら「すごく気になる部分があったベスト3」。 私は結局のところ、小説に驚きや意外性のみを求めているのだ。

<3位> 日野啓三「『ふたつの千年紀(ミレニアム)の狭間(はざま)で』落葉」
病人の話なのに明るく、しかもそれが、ごく普通のテンションであることが面白い。老境の身軽さとでもいうべきものなのか? クモ膜下出血で病院に行く夫を「笑って」見送る妻。そして、この小説のキモとなる医師。病気の憂鬱さや現代医療が抱える問題点とはまったく無縁の会話が、奇妙に素敵。
タイトルの仰々しさと、ミレニアムを考察した導入&結末は不要だと思う。たった3ページの作品だが、それでも説明的で長すぎる。

<2位> 田久保英夫「白蝋」
「隼人はまた、洗剤入りのコーヒーを飲まされた」という書き出し。女は、男を帰したくないがために、このような行為をしでかす。 こんな女の話は読みたくないし、男もバカなんじゃないの?とうんざりしたが、後半、私は、この女の魅力を生理的に理解できてしまうのである。彼がなぜ、彼女に惹かれているのかということを。
全体のトーンはやや紋切り型であるにもかかわらず、実験的な香りのする作品。

<1位> 多和田葉子「ころびねこ」
軽やかで芯のない会話から浮かびあがるホモセクシャルのナイーブさ。 言葉からの発想はこの作家の真骨頂だが、ジェンダーの曖昧さを浮き彫りにした、小説ならではのテクニックは素晴らしい。数人の会話によって成り立っている小説だが、各々の性別が不明であることに読み終わってから気付く。「僕」「あたし」「おまえ」などの文字面は、何の手がかりにもならないのである。
多和田葉子の小説は、私たちを、保守的な気分とは対極の場所に連れ出してくれる。

100%のホモセクシャルや100%のヘテロセクシャルというのは、どこか嘘っぽい。現実には、多くの人々が、性別の不確定さに揺らいでいるのではないだろうか。規範から自由になればなるほど、家族以前のあやふやな人間関係が、面白くなってくる。
2001-08-07

『婉という女・正妻』 大原富枝 / 講談社文庫

作家は顔で選べ!


CDをジャケ買いしたり、ワインをラベル買いしたり、外見で人を好きになったりといった行為を、私は正しいと思う。ひとめ見て好きだと思えた人やモノは、ずっと好きでいられるような気がする。

だが、ひとめ見て「いい顔だな」と思える大人の女性は少ない。若いうちは皆きれいだけど、年齢を重ねるほどに外見がよくなっていく女なんて皆無といっていい。歳をとるのが楽しみになるような、お手本的な女性はどこかにいないものだろうかとため息をついていたら、吉本隆明が「僕ならこう考える」(青春出版社)の中でこんなことを書いていた。

「女流の文学者で、この人はいい顔してるなあっていうのは、たった一人、その作家は好きですけど、大原富枝さん。ちっとも美人でもなんでもないんです。ただのおばさんていえばただのおばさんていう顔で、そのとおりなんだけど、なんともいえない、ただのおばさんの顔に一種なんか味みたいのがあって、この人はなかなかいい顔だって思います。魅力的だと思う」

この一文で私は大原富枝に興味をもち、「息にわがする」という魅惑的なタイトルの随筆集を読んでみたのだが、文章といい感性といい実に素晴らしく、いきなりファンになってしまった。吉本隆明も指摘しているように、彼女のルックスは、いかにも女史といった偉そうな顔つきとは異なり、力みやストレスが感じられず幸せそうだ。(ここだけの話だけど…吉本隆明に似ている!)

彼女の代表作は、1960年に発表された「婉という女」。父の失脚のため、母や兄弟たちと共に40年間の幽閉生活を強いられた土佐藩の家老の娘、野中婉の生涯を描いた小説だ。40年間、身内以外の他者と出会うことがなかった婉が突然赦免され、自由の身になるという設定には本当にワクワクしてしまう。43になっても男を知らず、眉を剃らず、歯を染めず、娘時代のままの振袖姿でいる婉は、見世物の女を見るような残酷な視線を浴びるのだが、生きたい、恋したいという心身の叫びは切実である。

「四十年の幽獄に耐えた代償にそれがゆるされるなら、わたくしは先生の剛毅な精神と弾七の若く逞しい肉体を欲しい、といおう。二つながらに欲しい、といおう。男たちが幾人もの妻妾をもつように、わたくしも二人の男が欲しいと―」
幽閉生活の中、文通をとおして長年思いを寄せていた先生には、実は妻子があり、歳をとっており、肉体は小柄で貧弱だったのである。若い百姓である弾七の肉体に興味をもつのも無理はない。

私が最も心を打たれたのは、結婚して子を産む機会を与えようという政治的な情けを、婉が拒否するくだりだ。いわば女としての最後のチャンスを自ら封じるのである。精神は先生を愛し、肉体は弾七にひかれ、しかし現実にはどちらと結ばれることもなく、だからといって精神も肉体もなんのゆかりもない旧家臣の男との結婚に甘んじたりしない・・・・・このまっとうさ! 現代の小説にはなかなか見出せない潔さだ。

婉は、肉体の現実より精神の自由を選ぶのである。身内が次々と亡くなり、時代が変わり、61になっても婉は生きてゆく。先生の死後は、何事にも心動くことはないけれど、それでも婉は生きてゆく。表面的には何も起こらないからこそ、内面の強靭さが浮かびあがってくる。

この小説には、18歳で結核にかかり10年近い闘病生活を余儀なくされた大原富枝自身の人生が投影されている。大原富枝は87歳まで生き、昨年亡くなった。人生のある期間の輝きが失われようとも十分に取り戻せるのだと、彼女は身をもって教えてくれる。女が美しく生きてゆくために必要なのは、不屈の精神をもち続けることなのだ。
2001-08-03